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或る男性の最期の覚書

作者: 蘚鱗苔

 コメディ、世間一般では喜劇なんて言われ方もされていて、皆を笑わせるものを指していると言われている。しかし、本当のところはどうなのだろうか。時の大作家シェイクスピアが存命の頃にできたとも言われている悲劇、それと比べての喜劇というカテゴリ分けというものもできるのかもしれない。よくよく考えてみれば、数多くあるだろう演劇から悲劇を覗けば、ほぼ全てが円満に終わっているものが多いように感じる。だとしたならば、喜劇は悲劇以外の全ての演劇を内包する存在としてみてもいいかもしれない。悲しくならないもの、哀しくならないもの、それが喜劇だろうか。なんとなく違うような気もする。だとするならば、喜劇なんてものは個人の裁量に任される曖昧なものなのかもしれない。それが一番良い落としどころだろうか。


 そうしたらば、この光景は私にとっては悲劇でも、この記録を読んでいる人にとっては一種の喜劇だろうか。目の前には滾々と湧き出る泉が広がっている。ああ、この場合広がっているといういい方は適切でないかもしれない。何故ならば、泉は酷く小さいものなのだから。

 ここは人の気配が薄い山奥、県境でもある山脈の中の小さな山の一つ。転職してから、私の休みは目に見えて減っていった。週二回有った筈の休みは、聳え立つ泰山のように積まれた書類を片付けることに消費されていった。休み、そんな言葉は私の手からするりするりと逃げて行って、だからといって帰ってくることは無かった。そんな日々の中、久々にできた休日。上司は日々の苦労を労い、五日間の休日をくれた。とはいっても、実際は有給をしっかりと消費させられたということであり、これは残念ながらここからの日々においての休日が減っていくということも暗に示している。正直言って、死亡証明書を突き付けられたに等しい。それでも、私はこの休日を謳歌してやろうと考え、旅行の計画を立てた。いや、正確に言えば反骨精神の軽い暴走というところだろうか。だから、軽く後悔をしている。

 今、この記録を書き留めている最中も私の精神は揺れ動いている。泉の前に座り込み、時折空を見上げつつ万年筆を走らせる。はたしてこの選択は正解だったのだろうか。苛立ちと不満をぶつける対象を思いつくことができず、それにすら苛々としていた昨日の私。そんな私の脳内にふと浮かんできたのは、自然に触れるという選択肢だった。あれは神のお告げか、死神の囁きか、今となっては後者のように感じる。自然に触れる、そう考えた私のそこからは早かった。あまり記憶が定かではないが、(これが私がその時を天使か悪魔にでも操られていたんじゃないかと推測する理由である。)自然と言ったら山だろう、と楽観的に決めつけたことだけはしっかりと覚えている。そこからは、使う暇もなく貯まっていた金を引き出し、寝袋と大きめのザック、水筒に食料、小さなテントに洋服、登山靴なんてものを買って行った。それらは今私の横に転がっている。つまり、私は後先考えずに適当な用意をして、適当な心持で登山に向かったというわけだ。

 あまりにも後先を考えない行動に対して冷静になったのは山に登り始めて小一時間もしたころだっただろうか。ただ、それでも私は何か気がふれていたのだろう。いや、もしかしたら山に居る、そういう事実だけで開放的になっていたのかもしれない。私は引き返すという選択をしなかった、そのまま山を登って行ったわけである。小一時間も登ってしまい、道具もしっかりと買い込んでしまった故の諦めという感情があったのかもしれない。道なき道をひたすらに歩き続け、山中で夜を明かし、そこから数時間歩き続けて今に至る。


 ところで、この記録を付けはじめたのは何故だろうか。今はなんとなく惰性に任せ筆を走らせているのだが、一体何が目的で私はこれを書き始めたのだろうか。将来的に、忙しい日々を抜けてある程度自由な時間ができた時に過去を振り返るためだろうか、それともこの山の空気を休みの見えない今年の為に採集しておくためだろうか。だとしたならば、今私がいる場所を事細かに書き記さなければならないだろう。

 私が今いるのは、前述の通り山の中。鬱蒼とした森林、しかしそれでいてジメジメとしてはいない森林の中。しっとりと空気は汗ばみ、清々寥々とした空気が体を抜ける、そんな場所。一体私はどこにいるのか、それはわからないが、鬼謀峠の入り口から丸一日南西に歩き続けた結果辿り着いた少し開けた土地であることは記載しておく。こうすればもしかしたらいつかたどり着けるかもしれない。携帯電話に内蔵されている全地球測位システムがしっかりと動いていれば正確な場所がわかったかもしれないが、どうやら誤作動を起こしているようだ。携帯電話を見ると、スリランカとソマリアの間、アラビア海とインド洋の境目辺りを指している。丁度ソマリアとケニアの国境から東に、パキスタンとインド国境の西端あたりまでいったところだろうか。使えない、故になんとなくの場所を書き記すことしかできない。

 開けた場所、そう、少々不自然に開けた場所に私は座っている。周りには高山植物が生い茂り、まるで囲むように大木が立ち並んでいる、中央には大きな大きな切り株がある畳数畳ほどの小さな空間。そこの切株に座り込み、この記録を書いている。目の前には件の泉、まあ、はたして泉と言っていいのかどうか少々答えに詰まるところがあることは否定できない。よくよく想像する、子供が絵にかくような泉とは完全に姿が違う。開けた場所といっても、そこまで広くはないのだ。そこにある、座るだけの面積のある切株の目の前にある湧水地でしかない。丁度切株の根元から数十寸離れた場所に岩が少しばかり集まっている場所がある。落ち葉が少し積もり、そこの合間から僅かばかりの水分が滲み出てきている。そしてそこから北の方向に水は流れ、数間もせずに小川、いや流し素麺の樋ほどの大きさの流れになり視界の果てへと消えていっている。随分と綺麗な場所だ。周りには鳥の鳴き声が響き、それと同時に葉がざわめく音も聞こえている。だからといって動物の気配が濃いわけでもなく、一方で全く感じないというわけではない。人工的な、がちがちに固められたコンクリートジャングルとは違う、真なる森林の息吹をしっかりと感じ取れる。

 先ほど清流の水を掬って飲んでみた。素晴らしい味だった。水道水のような、味のない只々冷たい水とは完全に対極に位置している。今まで水にしっかりとした味があるなんてことを知らなかった。

まず手に掬った純度からして違う。少しだけ濁りを見せる水、だからと言って汚らしい濁りとは別物だ。濁っているのに、澄んでいる、わかるだろうか。思い返す時の助けになるかどうかわからないが、まるで麦茶を限りなく水で薄めたような、寒天を加え掻き混ぜた後の水のような、そんな濁り方だった。口に含むと目が覚めた。よく水を飲んで目を覚ますという表現であったり、そういった経験であったりを目にするが、それはこのことだったのかと思うような。口に広がる仄かな甘み、舌を刺すような冷たさ、はたして水に酸味があるということを知っているだろうか。ただ、敵意のあるものではなく、あまりの優しさに体が驚いてしまったかのような感触だった。できれば忘れたくはないと思うほどの。

 ふと空を見上げると、淡く七色に染まったように見える一縷の雲が見える。この記憶もいつかに遺しておきたい。すぐに消えてしまい、薄黒くなってしまう雲。なんとなく背筋が震える。ああ、良い物を見た。今まで一度足りとて虹色の雲なんて目にしたことがなかった。カメラを持ってきていなかったことが悔やまれる。凄く眠くなってきた。ここまで一日歩き続けてきたからだろうか、久々の運動だったからだろうか、綾羅錦繍な景色に囲まれているからだろうか。しばし睡眠をして、もう一度この記録を書き続けよう。そして帰ろう、あまりにも美しすぎる。(こういった意識の変遷というものも、書いていたら後々の参考になるだろうか?)


 ぐっすり寝込んでいた。もう夕暮れの頃になってしまった。全く寝心地の良い、落ち葉の上で寝ていただけだというのに芳しい香りに騙されてしまった。それにしても、良くわからない夢を見た。

 夢の中で私はゆっくりと回る回転木馬の中心に蹲っていた。くるくると回る回転木馬、どこかの遊園地を思い出す。但し、回転木馬の馬の部分、そこは全て人間を模した木製の像。それが私の周りを回っていく、まるで囚われたかのような感覚に陥る。回転木馬の中心がここまで心地の悪いものだとは思っていなかった、今思い出すだけでもぞっとする。極めつけは木人(木馬の馬が人になったのだ、そういう造語を使っておくのが最適だろうか?)の上に跨る幾人もの少女。皆が皆まるで日本人形のように白くい肌を持ち、黒い髪を風になびかせ、赤い着物に身を包んでいる。齢十に満たない少女、ただその顔は白粉と紅に彩られ、妖艶な気配を漂わせていた。腰のあたりからは獣の尾がにやにやと伸びていて、皆が皆数本以上は有していた。薄い黄色、どちらかというと淡い黄土色のような毛並み、一筋の黒い毛並み、美しい、何故か体が震えてしまうような、吸い込まれるような美。くるくると回りながら、くすくすと笑う少女たち、そして回転木人の速度は段々と零に近づいていく。ぎしり、ぎしり、そういった音が足元から聞こえてくるような気もしたのを覚えている。幾分かの時間を経て、(夢の中では時間間隔が狂ってしまうのは仕方のないことだろう。)回転木人の動きが完全に止まる。少女たちの目が全て私に集まり、気恥ずかしいような、そして背筋が粟立つような感覚を覚えたのを記載しておく。


 ちぇっくめいと、ですよ


 くすくすと四方八方から笑い声が聞こえてきて、そして視界がだんだんと回っていく。ぐるぐる、ぎしぎし、くすくす、三種類の音が混ざり、どうしようもなく怖気が酷くなる。胃から熱い物が噴き上がってくるのを感じると同時に目が覚めた。そして今に至っている。

 はたしてここまで詳細に書くことが益となるだろうか。ただ、これさえ思い出すことができたならば、もう一度ここに辿り着くことは容易であるような気がした。なぜかはわからないが、これは確信だろう。故にここにしっかりと記載しておく。さて、この時間になってしまったら下手に動くのは危険だろう。ここで野営をして、明日下山としようか。幸いここは開けているし、澄んだ水もある、野営には適しているだろうから。


~鬼謀峠入口にて明け方凍死している姿が発見された男性が残したとみられる覚書より~

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