ニューヨーク・ラブストーリー(Guess How Much I Love You!)
ニューヨーク・ラブストーリー/エピソード24:禁じられた恋(Forbidden Love)
こちらは〈一話完結のシリーズ物〉につき、エピソード第1話からお読み頂けると分かり易いと思います。
連載はまだまだ続きますが、本作品においては完結しています。
(今回は“特別編”で、ポール視点のストーリーになっています)
夏の恋はビーチで始まる。
───なんて、誰が言ったんだっけ?
きっとこれは新しいカクテルジュースか何かのキャッチコピー。でなけりゃ、好奇心旺盛で分別のない、夢見がちな若者たち。彼らが進んで過ちを犯すときに、使われる言葉なのだろう。
そもそもビーチで始まるのは恋ばかりとは限らない。ラブストーリーを望むなら、それらしい役者が必要で、若い独身の男女がビーチのコテージに詰まっていても、何も起こらない場合だってある。
マンハッタンから二時間ほどで着くファイヤ島は、ニューヨーカーお気に入りのリゾート地だ。ビーチのコテージにいるのは、五人の男女。男性のうち二人はゲイで、ひとりはストレート。ぼくはどこに属しているかというと“ゲイ”のほう。そしてもうひとりのゲイは親友のローマン。彼はスーパーモデル級のハンサムだけど、ぼくとは普通の友人同士で、恋愛沙汰に発展することは、たとえ無人島で二人きりになったとしても絶対にあり得ない。
「ポール、ちょっと! ね、ドア押さえてて! ドア!」
ローマンが外から戻ってきた。両手に刈り取った草をいっぱい持っている。
「なにそれ?」
「ハーブよ。スペアミント。裏庭に生えてたの」
彼が部屋に入ると、部屋中に爽やかな香りが広がった。
「タンブルウィードみたいに絡まって丸まってたから、少し刈ったの。これは風通しよくしないと駄目になるのよ。ああ、汗かいちゃった」
「暑いのに大変だったね。これは料理に使うの?」
ぼくの質問にローマンが答える前に、「いい香りだな」と声がした。空気を嗅ぐようにして二階から降りてきたのは、比較的新しい友達のディーン。彼もとびきり魅力的なルックスをしているけれど、性癖は根っからのストレート。彼がゲイだったらいいのにと思ったこともあったけど、それは『ユアン・マクレガーがゲイだったらいいのに』って願うのと同じくらい虚しい話だ。
階段を降りてくるディーンに、ローマンは「あら、あなたいたのね」と言う。「ビーチにいるんだとばかり思ってたわ」
「ずいぶん前に戻って昼寝してたんだ。それは何? 草?」
ぼくは答える。「ハーブだって」
ディーンは葉っぱをつまみ、香りを確かめ、「こんなにあるなら何杯もモヒートが楽しめそうだ」と白い歯を見せた。
「ミントティもミントジュレップもね」とローマンが補足する。「ディーンはモヒートが好きなの? だったらとびきりのを作ってあげるわ」
ハンサムの前ではロコツに態度が変わるローマン。でもちっとも憎めない。明るく正直な彼は誰からも好かれる人気者だ。
「どうしたの? この部屋、草の香りがする」
「ほんと、いい匂い」
ビーチから戻ってきたのは二人の女性。エマとブリジットだ。エマは茶色のロングヘアで、ブリジットはベリーショートをトウガラシみたいな色に染めている。どちらも恋人募集中のチャーミングな女の子で、エマは異性愛者、ブリジットはバイセクシャル。彼女たちもまた、互いに恋愛には発展しない間柄。ここにいる全員がパートナーを募集しているけど、このメンバーでは、どうやって組み合わせるべきか、恋のキューピッドだって頭を悩ませることだろう。
ぼくたちがいるコテージは、典型的なアーリーアメリカンのスタイルで、外壁はかわいいミントグリーン。家のまわりをぐるりとポーチが一周していて、玄関の脇には二人乗りのブランコが設えてある。生まれてこのかた、こんな家に住んだことのないぼくでさえ、どこか懐かしみを覚える雰囲気だ。ここは友達うちの貸別荘のようなもので、予約はネットからのみ受け付けている。誰かの持ち物らしいけど、その“誰か”には一度も会ったことはない。ベッドルームは二階に三つあり、部屋割りは、ぼくとディーン。エマとブリジット。ローマンは二人部屋をひとりで使っている。本来だったら、彼はここにボーイフレンドと来ていたはずなのだが、直前になって別れたとかで、一時は申し込みを取り消していた。後日ひとりで予約を取り直していたので、不思議に思ったのだが、その謎の行動については、ちゃんと理由があった。
「ちょっと、あんたよくやってくれたわね! あたしのためにカレを連れてきてくれたんでしょ?」
“カレ”とは誰のことか。聞くまでもなく、すぐにわかった。ローマンは大げさにぼくを抱きしめ、「なんて友達思い! 今年の夏は楽しくなりそうだわ〜」と、ゆさぶった。
ぼくは抱かれながら、「別にきみのためってわけじゃないよ」と答える。「強いて言えばディーンのため? 彼、忙しくて夏の予定を何も立ててないって言うから。近場でよければって誘ったまでさ」
「この際なんでもいいわよ! この機会に一気に距離を詰めるわ!」
やれやれ、この“カレ”はまったく人の話を聞いてないらしい。
「あのさ、前にも言ったと思うけど、ディーンはストレートだからね?」
「ええ、そうよね。だから何?」
「無駄な恋に頑張っても、失恋の傷は癒えないと思うけど」
「“無駄”とか失礼ね。どうしてあたしが失敗すると決めつけるわけ?」
ローマンはいつも自信満々。そしてディーンのことが好きみたいだ。
「だいたい、あたしに“失恋の傷”なんてついてません。あいつとはもう別れるつもりだったんだから。ちょうどよかったってなモンよ。むしろあんたでしょ、“失恋の傷”。ラルフのことはどうなったわけ?」
そうだった。ぼくも少し前に彼氏と別れたばかりなんだ。でもそれによって“失恋の傷”はついていただろうか? ひとつの期間を終えたばかりだが、あれが恋だったかと聞かれると、返答に自信がなくなってくる。
ラルフはぼくよりずっと年上で、そのせいか、一緒に居ると安心感があった。ゲイバーで声をかけられ、酒を奢ってもらい、次に会ったときにはベッドイン。可もなく不可もなく始まったお付き合いは、それなりに楽しかったが、彼が「一緒に暮らそう」と言い出したあたりで、楽しさは失われた。「それはできない」と断わったことから、別れに発展したが、ラルフのことを嫌いになったわけではなかった。嫌いでないのに破局したのだから、さぞや悲しいだろうと、周囲の友達は慰めてくれたが、自分ではどうもピンとこなかった。「そんなに悲しくないよ」と友達に話すと、「大人だね」と言われもした。失っても悲しくないというのは、ぼくが大人だからだろうか。
それでもラルフを必要としていたのは間違いない。ぼくを抱きしめて、可愛いと言ってくれるボーイフレンドを、何より必要としていた。
彼に恋をしていると思った。ディナーとベッドを共にしているのだから、恋をしているはずだと。本当のところはどうだったのか、いまもって分からない。
この件について、コテージに来た初日の夜に、ディーンと話をした。寝室はベッドサイドランプのわずかな明かりだけで、終わった恋愛の話をするには丁度良い暗さだった。
ディーンはベッドに横たわり「そういうのはおれも覚えがあるよ」と言う。「気に入ったからと言って、即、恋に発展するってわけじゃないし、それはたとえ寝たとしてもさ」
恋の前にまずセックスありき。そういう話をさらりとするディーン。聞いたことはないけれど、彼はプレイボーイなのだとぼくは推測している
「明確に『これは恋だ!』なんて始まることはめったにないし。迷いはあって当然さ」
「でもぼくは最後まで迷ってた。で、ラルフと別れた後もまだ分からないんだ。なんだかヘンな感じだよ」
「時間が解決するって場合もある。今すぐには分からなくても、ずっと後になってから『あれはこういうことだったんだな』と思うかもしれない」
「“ずっと後になってから”じゃないといいけど。このままだと気持ちがスッキリしない」
「そうだな」ここで彼は黙り、それから少しして、くすりと笑った。笑うようなところではなかったので、ぼくは「何?」と聞いてみる。
「いや、なに、まるで女の子みたいだって思ったんだ。ベッドに寝転がって恋の話をするなんて」
「“男の子”だって恋の話くらいするよ。別におかしなことじゃないと思うけど」
「だな。性別がどうのってのは、あまり関係なかったな」
そうは言っても、ディーンはこの手のことを気にするタイプだ。彼だけでなく、たいがいのストレートの男性は、“女っぽい”ということに敏感で、『あまり関係なかったな』とディーンがつけ加えたのは、ゲイであるぼくに対する気遣いなんだろう。
ビーチに来た初日から、こんな風に彼と話すことができたのは、ぼくにとって収穫だった。ディーンとはまだ付き合いが浅いし、これまであまりプライベートな会話をすることもなかった。“単に楽しい知り合い”から、“本当の友人”になるまでには、おしゃべりなゲイ人種だって、いくらか時間を要するものだ。
『今年の夏は楽しくなりそう』とローマンは言ったが、実のところぼくも思っていた。そう、ある事件が起きるまでは。
島では泳ぐことと、寝ることと、お喋りをすることが主な活動。労働の類いはほとんどなしで、せいぜい料理をするくらい。今も皆で昼食の支度をしているけど、冷凍のハッシュドブラウンと、これまた冷凍のキッシュを温めるだけ。スープはインスタントだし、手軽なものだ。
ダイニングにはぼくとブリジット、そしてエマ。ディーンは二階で眠っていて、ローマンが階段を降りてきた。
「ディーンはまだ?」と聞くと、「寝てたわよぅ。もうグッスリ」と答える。
ブリジットが「起こしてあげた方がいいんじゃない?」と言うと、エマは「お昼ご飯、食べるかどうか聞いてくるわ」と二階に上がって行った。
ディーンは昼まで寝ているわけではなく、朝に一度起きているのだ。ここに来てからというもの、彼は朝早に海で泳ぎ、それから戻って朝食を食べ、午前中に寝るというパターンを繰り返している。
ブリジットがオーブンの様子を見に行き、ぼくはローマンに何気なく「ディーンを起こして来てくれればよかったのに」と言った。
すると彼は「あら、そんなもったいないこと」と答える。「ディーンの寝顔、とってもかわいいのよ。起こすのがもったいないくらい」
「それで黙って降りてきたってわけ? そうであっても、“ごはんよ”くらい言ってあげてもいいんじゃない? 起こすのがもったいないからって、お昼抜きは気の毒だ」
「ちょっと声かけたくらいじゃ起きないわよ。まるで睡眠薬でも盛られたみたいに眠ってるんだから。でも、おかげでいい思いさせてもらったわ」
「いい思い?」
ローマンはウフフと含み笑いをして、「びっくりよ。カレったらすごく大きいの」と、耳元にささやいた。
「ローマン!? きみはディーンにいったい何を…!」とんでもない告白に驚き、ぼくは声を上げる。
「しーっ! おっきな声ださないの! たいしたことじゃないのよ。ちょっとツバつけただけ。彼が眠ってる間にね」
「なんてことを……ディーンはぼくの友達なんだよ?」
「しってるわよ。それが何か?」
ローマンは涼しい顔で聞き返す。悪気なんてこれっぽっちもないという態度だ。
「もしディーンがきみがしたことに気がついていたとしたら、気分を害すに違いないよ。彼はストレートだし、そういうことをされたら困るんだ。おかしなことをされるためにここに誘ったんじゃないのに、変に誤解されるじゃないか」
「おかしなことかどうかはあなたじゃなくて、彼本人が決めることでしょ。それに、気がついてたかどうかについては大丈夫。完全に熟睡してたから。ちなみに下着のブランドは……」
「もういい、やめて」
「〈アンドリュー・クリスチャン〉を着用。もう、なんで彼ったらゲイじゃないのかしら。理解に苦しむわ」
「理解に苦しむのはこっちだよ」
わかってる。ローマンには何を言っても無駄。そうなんだ。彼はいつも欲しいものに対して明確で、そこに迷いは一切ない。常識を無視した潔さ。ときどき羨ましく思うほどだ。
エマとディーンが何やら話しながら降りてくる。いくらか時間を要したので、ローマンは「すぐに起きなかったでしょ?」とエマに言った。
彼女は「いえ、そうじゃないの」とディーンを見てニッコリとし、「ちょっと話をしてて」と答える。
「彼の髪を切ってあげる話してたの。ちょっと伸びてるから」
ぼくには伸びてるようには思えなかった。そもそもここに来る少し前に、ぼくがカットしてあげたばかりだ。
「それはいいけど、道具はどうするの?」とローマン。「キッチンばさみとナイフならあるけど、それじゃあね」
「わたし、美容バサミと櫛のセットはいつも持ち歩いてるの。もちろんここにも持って来たわ」
「へえ、それはさすが。感心ね」
エマはぼくの店の後輩で、とても熱心な美容師だ。彼女は店から奨学金を受け、来月からパリに研修に行く。このコテージに誘ったのはぼくで、海外赴任する前にビーチでのびのびするのは、我ながらいい提案だと思ったからだ。
「ちょっと」とブリジットがキッチンから顔を出す。「なんだって台所にあたししかいないの? おしゃべりしてないで誰か手伝ってよ。エマ、あなたサラダを盛りつけてる途中でしょ」
「そうだった。忘れてたわ」エマは舌を出し、キッチンに入って行った。
エマとブリジットとは、ここへ来て初めて出会ったのだが、まるで昔からの友達のように仲良くしている。そのことだけでも、ぼくは自分の提案が功を奏したのだと、得意な気持ちになっていた。
「おれも何か手伝うことあるかな」とディーンが聞くと、ローマンは「あら、あなた料理なんかできるの?」と聞き返す。
「まあ、多少は。そんなに嫌いじゃないよ。得意ってほどでもないが」
「へぇ〜」
ローマンの目がキラリと光る。彼は“いろいろなことができる男”が好きなのだ。『今どき料理もできない男とはお付き合いできないわ』と、よく言っている。ディーンの発言は、ローマンにとって高ポイントのようだ。
「何かを作る作業は元から好きなんだ」とディーンは言う。「昔、絵を描いてたからかな。料理と絵画制作はどこか共通点がある」
「絵を描くのが好きなの?」とローマン。
「昔のことさ。もう何年も絵筆を持ってない」
「あなたの作品、ぜひ拝見したいわ」
料理に絵画。ディーンは“いろいろなことができる男”。ローマンはますます気に入ったとみえ、「今度おうちに遊びに行かせて」と、すり寄っている。
一緒に過ごす時間が長いと、相手の情報がこんなにも多く手に入る。ディーンは料理することを好み、そして絵を描いていた。そんなこと、ぼくはまったく知らなかった。
ぼくたちは温かい食事を食べ、午後は各自、思い思いに過ごす。ブリジットはポーチのブランコで読書。ローマンは果物でジャムを作っていて、ディーンはエマに髪を切ってもらっている。ぼくは特にやることがなく、ソファに座ってぼーっとしていた。こうして何もせずに過ごすのは、そんなに嫌いじゃない。前のボーイフレンドは『時間を無駄にしている』と苦言したが、リラックスして休むことは、決して無駄なことじゃないはずだ。
エマがケープを払う音が聞こえた。ソファの背越しに振り向くと、手鏡を持たされたディーンがいる。
「どうかしら? 気に入った?」
「もちろん、ありがとう」
エマは会心の笑みを見せた。カットはかなり短く仕上がっていたが、出来はなかなかのもの。彼女は若手では一番実力がある。ただぼくの好みからいえば、もう少し全体的に長めのほうがいいんだけど。
「泳ぎに行く」とディーンが言うので、ぼくもついて行くことにした。浜辺でスプレータイプの日焼けどめを身体に吹き付けながら「いくら塗ってもおいつかないな」とディーンがぼやく。彼はきれいに日焼けしていて、それは引き締まった身体を、より魅力的にみせていた。
ぼくは笑って「毎年ここに来てるけど、こんなに泳ぐ人、初めて見たよ」と言った。
「そうか? じゃあみんな何しにここへ?」
「そうだね、だいたい昼寝したり、読書したりしてるかな。子供を連れてくる人は毎日ビーチに行くけど。マリンスポーツが好きな人もそうだね。サーフィンとかボディボードとか。ナンパを好む人もいるみたい」
「きみはどのアクティビティに興味があるんだ?」
ゴーグル越しに彼がニヤつくのがわかった。たぶん“ナンパ”というキーワードに興味を持ったのだろう。
「ぼくは別に。ただくつろいでるだけ。泳ぐにしても、きみみたいにシャカリキにはやらないよ。ただ海に浮かんでいるのが好きなんだ」
「楽しみ方は人それぞれ。おれは“シャカリキ”だ」シュノーケルを装備し、ディーンは海に入って行った。
ぼくはナンパには興味がないけど、マン・ウォッチングは割と好きだ。ハンサムな男は見てて飽きない。しかもほぼ裸に近い状態なら尚のこと。ディーンは子供みたいに海に夢中で、彼もまた“ナンパには興味がない”と言っているようだった。
浮いたり潜ったりして遊んでいると、急に風が冷たく感じられた。晴れ渡っていた空にはいつの間にか雲が出て、陽が陰っている。そろそろ戻ろうと、サンダルをつっかけると、「帰るのか」と声がした。見ると、ディーンが海から上がってくるところ。片手に巨大な海藻のかたまりを引きずっている。ああ、嫌な予感がするぞ……。
思った通り、彼はそれをぼくに投げつけてきた。素早くよけたが、そこでバトルが終わるはずもない。ぼくはバスタオルを盾にしたが、敵は容赦なく向かってくる。しかも笑いながら。
しばらくふざけあっていたが、最初にへばったのは彼の方だった。身体が砂まみれになるのも厭わず寝転がり、「わかった。おれが悪かった」と謝罪した。はあはあと息をつき、腹筋を上下させている。
ちょっと動いたくらいで息が上がっているのは、さんざん泳いだ後だから。海水浴はすごく体力を奪う。ぼくも疲れを感じ、彼の横に座り込んだ。
互いが黙ると波の音が大きく感じられる。風が出てきたが、どちらも帰ろうとは言わなかった。
潮風を感じていると、ディーンが不意に「これ」と言う。ぼくの手に渡したもの。それはカラカラに乾燥したヒトデだった。
「へえ……きれいだ」
ヒトデは真っ白で、どこも欠けておらず、きれいな星形を保っている。
「海藻とどっちがいい?」と聞くので、ぼくは笑ってしまう。
「そんなの聞くまでもないと思うけどなぁ」
「そうか、じゃあ海藻を……」
「ああ、もういいったら」
それで何となくそのヒトデはぼくのものになった。はじめてディーンから貰ったプレゼント。厳密には海藻のかたまりの方だけど、あまりロマンチックじゃないので、それは却下しておこう。
夜はバーベキューなどで栄養補給をしているが、朝はシリアル、昼は冷凍食品と、あまりパッとしないメニューが続く。ビーチではちっちゃなムール貝をふたつ見つけたけど、パエリアには全然足りないし。
そこでぼくは卵を買いに行くことにした。歩いて行ける距離にマーケットはないので、近くの『キャット・ファーム』から購入する。キャット・ファーム(猫農場)と言っても、猫を売っているわけではなく、農園ですらない。野菜と卵を販売している民家で、おばあさんが猫を飼っているため、その呼び名がついたのだ。
キャット・ファームには無人の販売所があり、それは鶏小屋と繋がっている。藁の上には新鮮な卵がたくさん産み落とされていて、お客は好きな数だけ紙パックに入れ、お金を置いていくというシステム。こんな状態じゃ泥棒のし放題だと思うけど、不思議にそういうことは起きていないようだ。
このあたりのコテージの人々は皆、この新鮮な卵を狙っていて、朝も八時を過ぎるとすべて売り切れという繁盛ぶり。マンハッタンで人気のブーランジェリーよりも競争率が高い卵を確実に手に入れるには、もちろん早起きしかない。
時間は午前五時。太陽はまだ姿を現さず、夜と朝との境目にある。少し肌寒いけど、幻想的な紫色で覆われた浜辺を散歩するのは、ずいぶん気持ちがよかった。慌てて穴に逃げ込むカニを見つけたり、早起きの魚が海面にジャンプするのを眺めたりしているだけで楽しめる。
今朝のキャット・ファームにはいくつも卵があり、どうやらぼくが一番乗りのようだ。コーヒー豆の空き缶にお金を入れ、必要分をパックに詰める。些細な仕事だが満足度は大きい。ここでは卵が宝石のような価値を持っている。
首尾よく目的を達すことができたので、帰りはゆっくり遠回りすることにした。誰もいないビーチを歩いていると、世界にひとりきりになったような気がしてくる。これが孤独というものなら、ひとりぼっちも悪くないかも。都会でひとりでいると悲しい気持になるのに、ここでの孤独は歓迎されるなんて。でもまた街に帰れば『ひとりは嫌だ、彼氏が欲しい』と思うようになるんだろう。
ぼくはこのとき本当にぼんやり歩いていて、岩場に人影があることに、少しも気づいていなかった。そしてそれに気づいたときの驚きといったら……。大事に持ってきた卵を落とさなかったのは奇跡に近い。背丈ほどもある岩の影で、ひと組のカップルが裸で愛し合っているのを目の当たりにするのは、もちろん驚くべきこと。しかもそれが見知った相手なら尚更だ。エマは砂浜に四つん這いになっていて、その後ろからディーンが彼女を貫いている。ああ、神様。何て場面に遭遇してしまったんだ。
生い茂る浜草は古いホウキをいくつも立てかけたよう。ぼくの姿を隠すに適しているが、それでも完全に見えなくなっているわけではない。彼らがこちらに気づかないのは、互いに夢中になっているからだ。特にエマは行為に没頭しているようで、やたらと声を張り上げている。ディーンは膝で立っていて、声はまったく聞こえてこない。二人の全身は濡れていて、泳いだ直後であることを物語っていた。
ようやく登り始めた太陽が、ディーンの引き締まった身体を照らし出す。とてつもなく淫らな場面なはずなのに、少しも厭らしさは感じられなかった。ブルース・ウェバーの写真のように、ただただ魅惑的で美しい。
ディーンは少し動きを緩やかにし、エマの髪を片手で束ねて、彼女の背中に流してあげた。そうか、女の子とするときは、こういう風にするものなのか。ぼくは自分が長髪だったこともないし、長髪の男と付き合ったこともない。ディーンがエマにした気遣いは、ぼくにとって新鮮な挙動に写った。
ここでぼくは自分の行いを否定するのを完全に忘れていた。きっと彼らの姿があまりに美しかったためだろう。冷静に考えれば、これはれっきとした覗き行為で、意図せず居合わせたとはいえ、認められることではない。見つかる前に退散すべきだったのだが、あろうことかディーンは覗き魔の存在に気づいてしまった。こちらを見る彼に、ぼくは我に返る。姿を隠すには遅すぎるし、言い訳するには遠すぎる。逃げ出したくなったところで、ディーンはこちらに視線を向けたまま───微笑んだ。
それは何というか、『やあ、見られちゃったな』みたいな顔。あまりに意外な彼の表情に、ぼくの頭はまたしてもショートする。立ち去ることも忘れていると、エマがひときわ大きく叫びを上げた。それを合図にディーンは引き抜き、エマの背にしぶきを振りまく。エマは崩れ落ち、ディーンが気遣っていた彼女の髪は砂にまみれてめちゃくちゃになってしまった。気絶したようになっている彼女に、ディーンが何やらささやきかける。エマはうつ伏せになったまま、細い腕をゆるやかに伸ばし、ディーンの背に回して引き寄せた。愛し合う二人。誰に見られてもはばからず、ビーチはふたりだけのもの。
ぼくは数歩あとずさり、そして駆け出した。コテージに着くまでは、一度も後ろを振り返らなかった。
卵をボウルに割り、寝ぼけ顔のローマンがキッチンに顔を出した数分後に、エマとディーンが戻ってきた。水着のエマは砂だらけ。「ビーチで転んじゃったの」とは彼女の弁だ。
「サンダルが片方、流されちゃって。ディーンが探してくれたけど、見つからなかったわ」
そう言って、手にした白いサンダルをぼくらに見せる。本当に片方しかないので、この話は嘘じゃなさそうだ。偽装工作に新品のサンダルを犠牲にするなんて馬鹿げてる。
ディーンは唇の端を上げ、ぼくを見た。目配せこそしなかったが、そこには共犯の香りがする。彼はぼくに近づき、顔の横で「鹿を見かけた」と言う。『どこで?』と聞き返すより早く、エマが「そうなの、鹿がいたの」と話題を横取りした。
「ディーンは目がいいのね。背の高い枯草が一面に生えているところで、“ほら、見て、鹿がいる”って。わたし、最初はちっともわからなくって。“どこ? どこにいるの?”ってずっと聞いてたわ」
うふふと笑ってディーンを見るエマ。その眼差しは昨日までとは違う。ある種の自信と信頼が、彼女の目と態度に現れている。ぼくにはそれが不快だった。
エマはぼくの持っているボウルに目を向け、「朝食は卵なのね」と言う。
「悪いけどわたしは遠慮しておくわね。卵アレルギーなの」そして足取りも軽くシャワー室に向かう。
ぼくは女性をやみくもに憎むような性格じゃない。それでもこのときは、妙に性差別的な考えが、頭に浮かんで仕方なかった。
ここには食器洗い機の類いは設置されておらず、昔ながらの方法で片付けるしかない。ぼくが皿を洗っていると、ディーンが横に立ち、ペーパータオルで食器を拭き出した。
こちらを見ずに「オムレツ、うまかったよ」とコメントを述べる。「ローマンから聞いた。わざわざみんなのために早起きしてくれたんだって?」
ぼくは皿に視線を据えたまま「“わざわざ”とかじゃない」と応えた。「ぼくは好きでやってるんだから」
「明日はおれが行くよ」
「でもきみ、キャットファームがどこにあるか知らないだろ?」
「教えてくれれば買いに行ける」
「ちょっとわかりにくいところにあるから、説明しにくいな」
「地図を描いてもらえたら…」
「そんなに気を遣わなくていいよ」
遮るように言うと、会話は途切れた。食器を洗い終わり、ぼくはキッチンを出ていく。ディーンはまだ皿を拭いていた。この件に関して、ぼくは何も悪くない。それでもなぜか胸が痛む。いつも通り優しいディーン。彼の気遣いがぼくには辛かった。
若い独身の男女がビーチのコテージに詰まっていても、何も起こらない場合だってある。それは数日前のぼくの意見で、今となってはやたら呑気な考えだったと認めざるを得ない。ブリジットは当初の予定を切り上げて、明日マンハッタンへ帰るという。仕事でも入ったのかと訊ねると、「そうね、そういうことにしておいてもらおうかしら」という謎の返答。
「本音を言うと、エマと同室でいたくないの」パソコンの液晶を見つめながら、彼女はそう言った。
「エマと何かあったの?」
「何も。ただ面白くなくって」帰りのフェリーを予約するサイトを開き、ブリジットは説明を続ける。
「エマとわたし、あなたたちが来るまでは、なかなかいいムードだったのよ。彼女、“同性愛に嫌悪感はない”とか言って、わたしがせまっても、まんざらでもなさそうな顔して。ボディタッチに軽いキスまでさせたんだから。それがディーンが来た途端、さっと鞍替えするんだもの、あきれたわ。やっぱりヘテロは駄目ね。いくらいい雰囲気になっても、異性が来ればそっちを選ぶのよ」
ぼくはブリジットの話を聞きながら、やけに切ない気持ちになっていた。何に対してそんな風に感じたのかはわからない。エマの身勝手さに失望したのか、それともブリジットに同情したのか。
「午前中のフェリーで帰るわ。みんなには“急な仕事”ってことで」ブリジットはそう言って、ブラウザを閉じた。
結局のところ、若い独身の男女がビーチのコテージに詰まっていて、“何も起きずに平和的に”とはいかなかったわけで、彼女には気の毒な結果になってしまった。その思いが表情に表れたらしく、ブリジットは「いやだ、ポール。そんな顔しないで」と言う。
「わたしは平気よ。誤解しないで欲しいんだけど、これは何も“振られて落ち込んでる”とかいう話じゃないんだから。ただわたし、何ていうか、切り替えが早いのよね。見込みのないところにいつまでもいられないっていうか……。ね、今夜のディナー、楽しみましょう」
笑顔を見せるブリジット。彼女の発言に嘘はない。でもぼくの気持ちは晴れないままだ。できればこの休暇中、“何も起きずに平和的に”やっていきたかった。誰が悪いわけでもない。これはただ、『世の中にはうまくいくことと、いかないことがある』ってだけの話だ。
夕食はパスタとサラダ。ジンが切れたので、ワインに氷を入れて飲んでいる。
「ジントニックが飲みたいな」とディーンが漏らしたのを皮切りに、各自、希望するカクテルの名を上げ始める。
「キューバ・リバーを一杯ちょうだい」ローマンが空のグラスを掲げると、「わたしはテキーラ・サンライズがいいわ」とエマが続けた。クールなブリジットは「トム・コリンズがあれば言う事無しね」と、吐息をつく。
「ぼくはセックス・オン・ザ・ビーチ」
エマとディーンが同時にこちらを見た。口に出したら思ったよりも嫌味な感じになったようだ。席を立ち、「もう部屋に行くよ」と皆に告げて部屋に戻る。ひとりでベッドに突っ伏していると、ローマンがやってきて、「さっきのあれ、何なの?」と聞いてきた。そこでぼくは今朝の顛末を話して聞かせる。
彼はひどく気落ちするだろうと思われたが、意外や反応は薄く、さして驚きもせずに「エマもなかなかやるわねぇ」と賞賛ともとれる表現をした。
「残念じゃないの?」と聞くと、「まあ、そうね、ちょっとは」と肩をすくめる。
「でもあたしは構やしない。ディーンが誰と寝ようと、これから巻き返せばいいだけだもの」
「それはどうだろ」
「あら? どういう意味?」
「だって“巻き返す”って、どうやって? きみは自分の寝技に自信があるようだけど、こういうことはテクニック云々の話じゃない。心の問題だよ。きみは女とは寝られないだろ? その女性がいくらセックスがうまくても、きみには無理だ。つまり、ディーンは男とはあり得ないよ」
ぼくの持論にローマンは怯むでもなく、「さあ、どうかしら。あの子は流されやすいタイプよ」と目を輝かせる。
「グレーゾーンにいるストレートってのは、けっこう少なくないんだから。あたしがどれだけヘテロの男を寝返らせたかって、あなた、知らないわけじゃないでしょ?」
「どれだけ捨てられたかも記憶してるよ」
「捨てられたんじゃないの。捨てたの」
「ひどい自信過剰だな」
そう言いながら、ぼくは何だか笑ってしまう。状況がどうあれ、ローマンは自分がしたいと思うことを、自分のしたいように表現する。彼はぼくやブリジットのように、相手の反応によって、何かを諦めたり、信念を曲げたりすることはない。そうした強さはぼくにはないものだ。だからこそローマンは“どれだけヘテロの男を寝返らせたか”という輝かしい記録を持つに至ったのだ。
「きみがどれだけの実力を有しているか、ぼくは黙って見学させてもらうことにするよ。もしうまくいかなくても笑ったりしないから安心して」
「うまくいかなかったときのことなんて考えなくていいのよ。そんな心配は女にでも任せておけば。ディーンだって無邪気にスイミングとセックスを楽しんでるくらいなんだから、あんたももっとエンジョイしなさい。子供みたいに天真爛漫にね」
子供が浜辺でセックスをエンジョイするかどうかはともかく、ローマンの言うことは一理ある。ここには青い海があって、白い砂浜があるだけ。人間関係で思い悩むなんて馬鹿らしいことだ。
気がついてみれば、さきほどまでの気の重さは消えていた。友達はいつもぼくを救ってくれる。ぼくもローマンやディーンにとって、そういう相手でありたいと、心から思った。
ブリジットは午前中のフェリーで島を離れた。ディーンはおそらくエマの部屋に移るのだろう。眠たくなるまで彼とおしゃべりできなくなるのは残念だけど、クローゼットを占領できるのは少し嬉しいかも。
そんなことを考えていたので、ディーンがいつも通り、隣のベッドに潜り込むのを見たとき、ぼくは妙に拍子抜けしてしまった。かと言って、こっちから『エマの部屋に移らなくてもいいの?』と聞くことでもない。
エマは相変わらず熱い視線をディーンに送っていて、自分の感情を隠す気はないようだ。それはローマンも同じで、ディーンを楽しませようと、おもしろい話をいくつも聞かせる。食卓に笑いが絶えることはなかったが、ぼくは心から笑えているとは言い難い。
気になるのはディーンの態度だ。何がおかしいというわけではない。彼は海で泳ぎ、料理の手伝いをし、食後には皿も拭いてくれる。よく笑い、優しく、それはまったくいつも通り。でも彼女との間に起きたことは?
『ポール、おれはエマと付き合ってるんだ』『彼女のことを好きになってしまった』
そういう類いの話を振ってくるだろうと思っていたのに、エマの名前は話題の隅にも上らなかった。
ぼくらは部屋を共していて、寝る前にはおしゃべりだってする。それなのに現在進行しているらしき恋愛の話は一切ない。ぼくは元カレの話をしたのに、彼女との間に起きたことを打ち明けてもくれないなんて。これがヘテロの友情ってやつ? “いつも通り優しい”っていうのは、営業マンのスタイルなんだろうか。
ディーンはぼくのすぐ隣のベッドで寝息を立てている。こんなに近くにいるのに、なんて遠いんだろう。
せっかくのバケーション、人間関係で思い悩むなんて馬鹿らしいとはわかってる。それでも感情は止められない。先に帰ったブリジットは正しかった。ぼくはどうして今でもここに留まっているのか。自分でもさっぱりわからなかった。
この日はちょっと面白い地殻変動があった。なんとローマンとエマが同室になったのだ。恋人同士でもない男女が同室というのは、クリスチャン的に見たら、とんでもない話だろう。でもエマもローマンもそのあたりはサッパリしていて、「(ゲイと)(ヘテロと)同室でも全然気にしない」と言う。自分たちの間には、いかなる種類の間違いも起きないということを、二人はよく心得ているのだ。
部屋をひとつ空けたのは、新しいゲストを迎えるため。ギリシャ人の美女が、子供を連れてやってきた。彼女はシングルマザーで、娘はどのスーパーモデルよりも輝いている。
三歳のゼフィラは家の中でもビーチでも、むやみやたらに走り回り、大人の人間関係に疲れたぼくにとって、彼女の存在は癒しになった。エネルギーいっぱいの子供は眺めているだけで楽しい。ディーンに関しては“見ているだけ”とはいかず、走る彼女を追いかけ回し、奇声を上げさせることに余念がない。意外なことに彼は子供好きだ。ガールフレンドよりも、ゼフィラに執心しているくらいで、エマはなんだか面白くなさそう。それでもゼフィラのために、クッキーやカップケーキなどを作っているところを見ると、彼女も子供が好きなのかもしれない。
けたたましい叫びに振り向くと、ディーンがゼフィラの両足首を持って、彼女を逆さ吊りにしているところだった。髪の毛で床を掃いて「ほうきだ!」なんて言っている。この遊びはさすがに過激に思えたが、母親はニコニコとそれを見ていて、注意しようとはしない。
ゼフィラが昼寝し、ディーンがビールの缶を開けたところで、ぼくは「あんな風にして大丈夫なの?」と聞いてみた。「足の関節が抜けたりしない?」
彼は国産のビールに口を付け、「もちろん気をつけてはいるさ」と答えた。「それに彼女、ああされるのが好きなんだ。“ディーン、逆さまにして!”って、しつこいの何の。二十年後も同じ性癖を持ってたらヤバいが、今は問題ない」
「本当にきみは子供が好きなんだね」
「だからといって、家庭的だなんて思わないでくれよ。おれが子供を構うのは、犬と遊ぶのと同じさ。深い意味はない」
「別に家庭的だとか言ってないよ」
「そうか、そうだな」苦笑するディーン。「エマがそう言うもんだから、つい」
その言葉にどきりとする。あのことがあって以来、初めて彼の口からエマの名が出た。この流れで『エマとはどうなってるの?』と切り出してみようか。でも、そんなことを聞いたら詮索好きだと思われるかも。あれこれ考えていると、ディーンは「おれは“子供好き”なんじゃなくて、“ゼフィラが好き”なんだ」と言った。
「チビだけど、すこぶる美人だしな。唇は赤くて、付け睫毛でもしてるような目を持ってる。名前も最高。“ゼフィラ”。神の名みたいだ。美しいよ」
「“エマ”だって美しい名前だろ」
直後、ディーンの顔から表情が失われた。自分が馬鹿なことを口走ったのはすぐにわかったが、胸元がざわついていて、『ごめん』と言うことができない。ディーンはすぐに笑みを取り戻し、「そうだな。“エマ”もいい名だ」と言った。
ほんとにぼくは馬鹿だ。どうしてこんなことを言っちゃうんだろう。
彼は話題を続け「“ポール”も、“ディーン”も悪くない」と微笑む。「もっとも“ローマン・ディスティニー”には敵わないけど。彼の本名は何て言うんだろうな?」
ディーンは怒らない。彼はいつも通り優しい。そのことがなぜこんなに苦しいのか。
ぼくは愚かで、それに見合った愚かな発言しかできない。ディーンはぼくを気遣ってる。意地悪なことばかり言うぼくを。
海と空の間で、日はのろのろと過ぎ、時間はマンハッタンにいるときの十倍にも感じられる。贅沢なことだが、ぼつぼつこの環境にも飽きがきた。でも都会に戻れば、またすぐビーチが恋しくなるに決まってる。
長く共に居過ぎた恋人同士のように、ぼくは状況を持て余し始めた。それをローマンに言うと「持て余してるのは状況じゃなくて、自分自身でしょ」という深い答え。
「エマはお菓子作りに目覚めたし、ディーンは子守り。あんたは何もやってないんだもの。そりゃ、退屈にもなるわよ」
「何もやってないなんて失礼だな。ぼくだって家事を手伝ってる。昨日だって買い物に片道三十分以上歩いたんだ」
「それは義務でしょ。あたしが言ってるのは、それ以外のことよ」
「ああそう、じゃあ自分はどうなの?」
「あたしはイケメンを飽かず眺めることを趣味としているわ。その結果わかったんだけど、ディーンの二の腕は完璧にあたし好みね。あの腕に抱かれたら、それだけで昇天しちゃいそう」
「双眼鏡でも持ってきたらよかったのに。そしたらディーンの毛穴も見えるよ」
「毛穴は近いうち、肉眼で確認するからご心配なく。おしりにホクロを見つけたらご報告致しますわ」
ローマンは常に人生に目標を持っていて、それは『ディーンの知られざるホクロを見つける』ということも含まれる。一方ぼくは、その手のことにあまり興味がない。だいたいにおいて、“物事はなるようになる”という考え方なため、能動的に働きかけるということが少ないのだ。
そしてここには、ローマン以外にも“ハンター”がいるようだ。エマがこれほどまでに積極的な女の子だということ、ここに来るまでちっとも知らなかった。彼女は子供が好きなのだとぼくは思ったが、しばらく様子を見ているうち、それはそうでもないらしいことに気がついた。エマがやっているのは“アピール”だ。“自分は母性的である”という主張に余念がなく、それはディーンに対してのこと。好きになった相手によく思われたい気持ちは理解できるが、子供をダシにするというのは、個人的に受け入れ難い。エマの作るお菓子はおいしいけど、これもディーンに好かれるべくのアイテムかと思うと、カップケーキも喉に詰まる。そしてディーンは心底、子供が好きらしい。ゼフィラへの接し方を見てればわかる。彼が“子供好き”のレッテルを貼られることを嫌がろうとも、それは単なる事実なのだ。きっとディーンはいい父親になるに違いない。
薄曇りの午後。リビングには珍しく誰もおらず、室内は静まり返っていた。昼過ぎに起き出したぼくは、冬眠から醒めた熊のように食べ物をあさる。固くなったマフィンを水で流し込んでいると、カウチがぎしりと音を立てた。そこにはディーンが、カウチと一体になったような感じで横になっている。人がいないと思っていたので少し驚き「誰もいないと思ってた」と言うと、返事がない。近づき、よく見ると彼は眠っていた。ディーンの寝姿について、ローマンは“まるで睡眠薬でも盛られたみたい”と言っていたが、これは見るだにそんな感じだ。誰もいないと信じ込むほど気配を消してしまうのは、死体か、もしくは今のディーンくらいのもの。毎日あれだけ泳いで、子供と走り回っていれば、疲れ果てるのも無理はない。それにしても寝息ひとつ立ててないって、まさか本当に死んでたりする?
床に腰を下ろし、耳を近づけると、かろうじて息は確認できた。赤ん坊みたいに眠るディーンは、ローマンの言う通り、本当にかわいい。この距離なら双眼鏡がなくても、毛穴くらい容易く見えそうだ。無遠慮に眺めていると、彼の耳のすぐ下、首筋に小さなホクロを見つけた。このこと、ローマンに報告してやろうか。
そんなことを考えていると突然、視界が暗くなり、気がつくと、ぼくはディーンの胸に抱かれていた。いったい何が起きたのかと戸惑っていると、彼はかすれ声で「愛してる……」と囁いた。
一瞬、鳥肌が立つほどの幸福を覚えたが、次の言葉は心底ぼくを失望させた。
「ごめん……間違えた」
ディーンはぼくから離れ、バツが悪そうに「ほんとに済まない。うっかり……」と言いよどむ。
申し訳なさげな彼に、ぼくは答えた。「いいんだ。気にしないで」
気にすることはない。本当に気にすることはない。彼はただ間違えただけ。よくある勘違い。こんなことを気にするなんて、おかしなことだ。それなのにぼくの心臓は、やたらスピードを増している。
その音を聞かれる前に、ぼくは素早く立ち上がり「お昼ごはんは?」と彼に聞く。
「いや、まだ食べてない」
「何か作ろうか。誰もいないみたいだから適当でいいよね」
逃げるようにキッチンに走り込む。ディーンはついてこなかった。今はそれがありがたい。顔が赤くなっていることについて、馬鹿な言い訳をしないで済んだから。
ぼくたちの部屋は海に面した二階にあって、窓からは北大西洋がよく見渡せた。夜には丸い月が海に浮かび、その明るいことといったら、影ができるほど。薄いレースのカーテンは、蒼い月明かりを簡単に通してしまう。その光が今日に限ってやたら目につき、なんだかちっとも寝付かれない。
何度か寝返りをうち、隣のベッドを見ると、ディーンはぐっすり眠っているようだ。あれだけ昼寝しておいて、まだ眠れるってどういうことだろう。一緒の部屋になってわかったのは、ディーンは横を向いて寝る人だということ。横向きは片方の肩に負担がかかるから、あまりよくないんだけど、彼はそういうの気にしないみたいだ。
左肩を下にし、顔をこっちに向け、右腕はシーツの上に出している。艶やかな肩の筋肉。すらりとした長い腕。ローマンはディーンの二の腕が好みだと言っていたけど、確かにこれは吸い寄せられるものがある。
じっと見ているうち、昼間の出来事を思い出す。ぼくはこの腕に抱かれたんだ。優しくもしっかりとした抱擁。冷たい海で泳いだせいか、彼の胸は熱っぽくて、風邪をひいている人みたいだった。
そして今ここにあるのは、月の光に照らされた寝顔。認めるしかないけど、本当に彼はかっこいい。そう思った途端、足の間がうずくのを感じた。
エマとディーンのセックスシーンが脳裏にフラッシュバックする。髪を振り乱して叫ぶエマ。ディーンは彼女の腰を押さえ、ガンガン突き上げていた。そしてエクスタシーの瞬間───。
彼のもっともプライベートな場面をぼくは見たんだ。あのときは単に奇麗だと感じただけだったけど、今になって急にいやらしいものとして蘇ってくる。もしぼくがディーンからあんな風にされたらどうだろう。あんなふうに後ろから貫かれたら───。
「ポール、起きてるか?」
いきなり声をかけられ、ぼくは飛び上がりそうなくらい驚いた。セクシーな夢想から一転、現実に引き戻されたショックで、すぐに声が出てこない。寝たふりをしようかと考えもしたが、ぼくは「うん」と返事をした。「うん、起きてる」
ディーンは目を開け、「呼吸が浅い」と言った。「熱があるんじゃ?」
眉根を寄せる彼に、何と返答したものか。自分の息が浅くなってたなんて、ちっとも気付かなかった。興奮を指摘され、猛烈に恥ずかしくなったぼくは「熱なんてない」とぶっきらぼうに答える。
「本当に?」
「うん」
ディーンはベッドから降り、「自分じゃわからないってこともある」と、ぼくのベッドに腰かけた。
額に手を置き、ややあって「大丈夫みたいだな」と診断を下す。そして窓の方へと歩き、「少し空気を入れ替えても?」と聞いた。いいよと言うと、彼は窓を開ける。途端に気持ちのいい風が部屋に入り、カーテンをふわりと揺らした。
ディーンは下着にTシャツという格好で、窓枠に手をつき、外を眺めている。ローライズのボクサーパンツ。ブランドは〈アンドリュー・クリスチャン〉だっけ?
ぼくも起き出し、彼の隣に並ぶ。海は紺色で、月は白。光が海面に反射し、きらきらと輝いている。
ディーンは海を見つめながら「ああ、帰りたくない……」と、つぶやいた。
それを聞き、ぼくは嬉しい気持ちになった。彼はこの滞在を喜ばしいものと思い、ゲイの友人と同室であることについても、苦がないとわかったからだ。
彼の本音に「ぼくも」と心情を口にする。
「ぼくもずっとここに居たいな」
きみと一緒に。ずっとこの部屋で───。
でもそれは無理な相談。エマとディーンは休暇を使い切った。二人とも、明日はマンハッタンへ帰る予定だ。
目を覚ますとディーンはもう起きていて、ちょうど荷造りを終えたところだった。早いねと言おうとしたが、時計を見ると十時を過ぎている。昨晩、あまりよく眠れなかったぼくは、すっかり寝過ごしてしまったようだ。
全身を鏡に映す彼の後ろ姿を見ながら、昨夜のことを反省した。自分は潔癖ではないし、情欲的な想像だってする。でも“ディーンを想って”というのは、本当に行き過ぎた行為だった。同じ部屋にいて、彼とのセックスをイメージするなんて、本当に恥ずかしい。『おかしなことをされるためにここに誘ったんじゃないのに』とローマンに苦言したけど、これじゃ彼のこと言えやしない。もしディーンがぼくがしていたことに気がついたとしたら、ぜったいに気分を害すに違いないんだ。
ボストンバッグを肩にかつぐディーンに、ベッドから「忘れ物はない?」と聞くと、「おれの心を」というキザな答えが返ってきた。「魂はここに置いておく。抜け殻だけがコンクリート・ジャングルに帰るんだ」そして、ニヤリと笑って見せる。彼は本気でキザを言ってるんじゃなくて、これはただの冗談。不敵な笑いがその証拠だけど、あんまりハンサムなので、本当に格好つけているように見えてしまうのが難点だ。
ぼくは枕に頬杖をつき、「一緒に居られて楽しかったよ」と言った。「おれも」と軽く同意するディーン。「いいリフレッシュになった」という彼に「ぼくも」と同意する。
「癒されたか?」
「なにが?」
「失恋の傷。初日に言ってただろ?」
「ああ」
そういえばそんなこと話したな。少し前に彼氏と別れたことについて、『このままだと気持ちがスッキリしない』とか何とか。なんだかずいぶん昔のことのようだ。
ディーンは肩から荷物を下ろし、「ラルフとのことが恋だったかどうか──」と、ベッドサイドにやってきた。
「コインで決めよう」
「コインで?」ぼくは頬杖から頭を離す。
「スッキリさせたいだろ?」
ディーンはクウォーター(25¢)を取り出し、「裏なら、きみは彼に恋してなかった。表なら、あれは恋だった。それでいいか?」と訊ねる。
気持ちのことをコインで決める? 男の子っぽい提案にぼくは笑ってしまう。このアイディア、ぼくやローマンには十年かかっても思いつかないことだろう。
「いいよ、やってみよう」
ぼくが承諾すると、ディーンは親指でコインを弾いた。空中で回転するそれを、手の平と甲で挟んで受け止める。そっと開き……「……裏だ」とディーンは言った。
「そういうわけで、あれは恋じゃなかった。きみの一時の気の迷い。これで決まりだ」
「覆せない?」横たわったまま、未練たらしく言うぼくに、ディーンは「もちろん」と笑う。
「もう決定しちまった。ってことは、二度とこの件で悩めないだろ?」
そこで気付いた。ディーンはぼくの心から重荷を取り去ってくれようとしたのだ。これ以上、過去の亡霊に悩まされないで済むように。コインでも何でも、カタをつけてしまおうという話だ。
最後の日にこんな粋な計らいをやってのける。これだからこの人はモテるんだろう。ルックスがいいだけじゃない。ディーンはこういうところ、何と言ったらいいか、本当に“うまい”んだ。
ほとほと感心していると、トトトンとリズミカルなノックの音がした。ディーンがドアを開けると、キャリーバッグを手にしたエマ。「支度は?」と、奥さんのように訊ねた。
「ああ、できた」
「じゃ、行きましょう。ポール、またね」
「ああ、うん」起き上がろうとすると「寝てていいのよ」と言うので、ぼくは少しムッとし、「見送りくらいさせて」とベッドから出た。急いで服を身につける間、エマはディーンに「お昼はどこで食べる?」なんて聞いている。早くも二人きりになることで頭がいっぱいらしい彼女に、ぼくはおざなりなハグをした。そしてディーンにも。こっちにはもっと心がこもってる。
「じゃあな」とディーン。
「うん。忘れ物があったら後で届けるよ」
「頼んだぜ。おれの、心を───」
胸に手をあて、真面目くさった顔で彼がそう言うので、ぼくは思わず吹きだしてしまった。見かけによらずというか、ディーンは本当にジョークが好きなんだ。
「心って?」不思議そうにつぶやくエマに、ディーンは「別に。行こう」とだけ答える。言葉の意味を彼女に説明しなかったことについて、ぼくは微笑みを押さえきれない。エマを仲間はずれにしたいわけじゃないけど、“男の子だけの秘密”ってものがあるのは愉快なことだから。
ディーンは去ったが、心は残すと言っていた。それは些細な冗談だけど、ぼくの気持ちをずいぶん良くしてくれた。ローマンは「ほーんとつまんない!」と喚いていたけど、こっちは独り部屋になっても孤独を感じなくて済みそうだ。
結論から言うと、ディーンの忘れ物は心だけじゃなかった。置いていったのは杢グレーのTシャツ。ベッドの脇の、ちょうど影になったところに落ちていたので、気がつかなかったみたい。抜け殻だけがコンクリート・ジャングルに帰るとか言っていたけど、実際は“抜け殻”も置き忘れたままだ。
やけに広く感じられるようになった部屋で、ディーンのTシャツを畳んでいると、ふいに寂しさが襲ってきた。
───マンハッタンに戻れば、またすぐ会えるんだ。
ぼくは自分にそう言い聞かせる。寂しさを感じているのは、ここ数日があまりに楽しすぎたせい。彼と同じ部屋で寝起きしていた日々が、どんなに楽しかったか。馬鹿な話だけど、ぼくはたった今、気づいたんだ。
洗濯されていないTシャツから、ディーンのコロンの香りがする。もう駄目だ、と思った。早くも彼が恋しい。恋しくてたまらない。ぼくはディーンのTシャツに顔を押しつけた。次から次へと涙が溢れてくる。
彼と一緒に帰ったエマが羨ましい。彼女は女性というだけで、あんなに堂々とディーンにアプローチすることができる。クッキーを焼いたり、髪を切ってあげたり。ビキニになれば、注意を引くことだって簡単だ。ぼくは彼と同室になっても、何もすることができない。こっそり寝顔を見つめるのが関の山。
ラルフとの間にあったのが恋かどうかはわからない。でもこの瞬間には、はっきり言える。ぼくはディーンに恋をしている。
感情の決壊に身を任せていると、優しい声が頭の上から降り注いだ。
「おばかさん。泣くほど好きなら、どうしてアプローチしないの?」
ぼくはTシャツに顔を埋めたまま、「……彼はストレートなんだ」と答えた。
「だから?」ローマンは涼しい声で聞き返す。ここで“なぜ?”と問われると思っていなかったぼくは顔を上げ、ごくごく当たり前のことを彼に説明し始める。
「ディーンはエマと付き合ってる」
「そんなの。セックスしてただけでしょ。ちょっとハシャいでたのよ」
「彼はエマを愛してるよ」
「そうかしら? だってあの二人、知り合ったばかりじゃない」
「ディーンは“愛してる”って言ったんだ。ぼくとエマを間違えて」
そう言うと、ローマンはさすがに反応を変え、「ちょっと、それ本当?」と聞き返す。
「ほんとさ」ぼくは鼻をすすった。「彼に抱きしめられたよ。そのときはすごく嬉しいと思ったけど、でもそれは勘違いだってわかって……」ベッドサイドからクリネックスを取り、鼻をかんだ。ローマンは「どうやったらあんたとエマを間違えるっていうの?」と疑わしげだ。
「ディーンは寝ぼけたんだよ」ティッシュを丸め、「ぼくは本当に間が悪い」と頭を振る。「なんたって、ディーンとエマがセックスしてるシーンを見ちゃったくらいだし? でもあのときは何とも思わなかった。もちろん驚いたし、ショックも受けたけど、悲しくはないんだ。ディーンがエマに優しくしてる方がこたえたな。それってささいな場面だよ。彼がエマの髪に触れてるときとか、優しい眼差しで見つめているときとか。ぼくはおかしいのかな」
「それはね、あなたが欲しているのが、彼のペニスじゃなくて、優しさだからよ」
言われてみて納得がいった。身体よりも心が欲しいだなんて、どうやらぼくは本当に彼に恋しているらしい。
鼻をかんだティッシュをゴミ箱に投げ、ぼくは言う。
「でも彼のペニスもほしい」
「あっは! そりゃそうよね!」
ローマンは嬉しそうに笑った。
心も欲しい。身体も欲しい。まなざしも、吐息も、心臓の音ですらも。彼のすべてが欲しい。
でもそれは叶わぬ願い。ディーンはエマのことが好きで、それ以前に異性愛者だ。ぼくはいい友達として、身を引くしかない。他に選択肢がないのだから、この恋は早く忘れてしまうに限る。
マンハッタンの自宅に戻って決意を固めた矢先、エマから電話があった。涙声の彼女に「どうしたの?」と聞くと、「ディーンが……」という返事。泣くほどのことが彼に起きたのかと不安になったが、後の言葉で安心させられた。
「ディーンがメールの返事をくれなくなって……」エマは子供のようにしゃくり上げ、「どうしたらいいのかわからない」と言った。
「メールの返事? たまたま忘れたとかじゃなく?」
「そういうんじゃないの。だって何通も出してるのよ。あなたはディーンの友達でしょ? 何か心当たりがないかと思って」
「ぼくにはわからないな。あれから会ってないんだ」
「わたし、彼に本気なの」出し抜けに告白するエマ。「彼と一緒にいられるなら何でもする。パリ行きをやめたっていい」
「パリには技術研修で行くんだろ? やめてどうするの? 職場には何て?」
「わからないけど……でも、どうせ結婚したら仕事はやめるわけだし」
彼女の研修は、学生が受けるインターンシップとはわけが違う。企業が従業員に受けさせる優遇措置で、人材開発のための投資なのだから、そう簡単に覆してもらっては会社としても困る話だ。
「彼に会いたいの。お願いだから取り持って」
エマのわがままな要求に、ぼくはあきれ「自分で言ったら?」と突き放す。
「そうね、そうしたいんだけど……」
「何か問題でも?」
「わたし、彼の電話番号を聞いたんだけど、アドレス登録する前に、メモをなくしちゃって。馬鹿よね」
ほんとかな? ぼくに取り持って欲しくて、彼女は嘘をついてるんじゃないだろうか。
「じゃあ、電話番号がわかれば、自分で連絡する?」
「ええ、それは……するけど、でも彼、わたしと話しをしてくれると思う?」
そんなこと聞かれても、ぼくにはわからないし、だいたいそこまで面倒みきれない。エマの発言が支離滅裂なのは、パニックに陥っているからだと考え直し、ぼくはつとめて穏やかに「それはきみたちの問題だよ」と言った。「きみはパリ行きをやめることさえ考えてる。周囲に迷惑をかけることも辞さない恋なら、少しは自分で頑張ってみたら?」
「そうね。もっともだわ」
ぼくは彼女にディーンの番号を教え、通話を切った。しばらくぼんやりと携帯を見つめ、着歴からボタンをプッシュする。電話に出たローマンは「戻ってから忙しくてまともな料理を食べてないのよ~」と、悲鳴をあげた。「どこのレストランでもいいから、あんたが予約してよ。相談に乗るんだから、それぐらいはね」
彼は完璧な友人だ。ぼくが“困っている”と自覚する前に、“相談に乗る”と言ってくれる。正直、通じすぎてて怖いくらい。ぼくは何件かのレストランを頭に思い描き、ロブスターなど食べるに手間のかかる料理と、給仕係が何度もテーブルにやってくるような店はリストから外した。だって、ぼくは“何かを相談するらしい”から。会話に集中できそうな、静かな店がいい。
「まあ、だからあれでしょ、ようするにエマは振られたんでしょ」
ぼくの説明を聞き終えたローマンは、ラム肉のチョップにかじりついて、そう言った。
「“ビーチの恋は一夜の夢”ってね。よくある話。エマはそこんところ、まだ理解してないのね」澄まし顔で肉を咀嚼するローマン。ぼくはプロシュートの燻製をフォークでつつき、「それって、ディーンが彼女をバケーション用のガールフレンドにしたってこと?」と訊ねる。
「結果的には、そうね」
それを聞いてぼくは興ざめした。ディーンはその手のことをしない人だと思ったのに。
ぼくがそう言うと、ローマンは「あんたったら、ほんとお固い」と顔をしかめた。「五十年代じゃあるまいし。バケーションに色を添えてどこが悪いっての? ディーンもエマも、あのときは楽しんでたじゃない」
「別にひと夏の恋が悪いなんて言ってない。ただディーンには、そういうの似合わないって思ったんだ。それにぼくは自分の想いを断ち切ってまで、彼らを祝福しようと心に決めたのにさ」
「だから何? いずれにしろ、どっちもあんたには関係のないことよ。ヤリ捨て御免が似合わなかろうが、ディーンはディーンのやりたいことをする権利がある。たとえローマ法王から祝福を受けようとも、別れる権利は彼らにある。そうじゃなくて?」ペーパーナプキンで手を拭き、「エマがパリ行きをやめたきゃ、そうすればいいのよ」と突き放すように言う。「仕事にその程度の情熱しか持てないんだったら、他の人に枠を譲ってあげた方がよっぽど親切。ヨーロッパ研修を希望する美容師は、いくらでもいるんだから」
ローマンの言うことはどれももっともだけど、ぼくはそこまでドライになれない。エマほど技術のある人がキャリアアップの機会をフイにするなんて馬鹿げてるし、それがバケーション用の恋人のためだなんて、もっと馬鹿げてる。それに少なくとも、エマはそういうつもりじゃなかったはず。ディーンの“つもり”はわからないけど、エマはこの恋に本気だと言っていた。
「ぼくには彼女の気持ち、わかるような気がするな」
するとローマンは「そりゃあ、あんたら似た者同士だもの」と笑った。
その言い方が気に触り、思わず「誰がだよ!」と声を張り上げる。「ぼくとエマのどこが似てるって? ぼくはあんな風に、男に媚びたりはしてないつもりだけどね」
「そぉねぇ、エマの方が誰かさんより行動力はあるわね。ディーンのためにお菓子を焼いたりして、気を惹く努力はしてるわよね」
「なんなのそれ。きみって誰の味方なわけ?」
「あたしは誰の味方でもないわ。強いて言えば、自分? もしエマが振られたんだったら、このチャンスを逃す手はないわね。あんたがぼさっとしてるんなら、あたしがディーンを頂いちゃうわよ」
「ぼくはエマの友達なんだよ? 彼女が振られたからって、即座に後がまを狙うなんて、ちょっとひどすぎる。とてもそんなことできないな」
「できないなら、しなくて結構。ところでエマはあんたのこと、友達と思っているのかしらね?」
肉を切るぼくの手が止まった。“もろちんさ”。そう言いたかったけれど、言葉が出ない。
「まあ、この件での問題はエマよね。彼女も大人なんだし? 奇麗に身を引くぐらいの分別は持ってほしいけど。振られたのなら尚のこと。一途な思いは場合によっては重たいものよ」
「奇麗に身を引くって何? エマは彼に本気だって言ってた。それをあきらめるのが“奇麗”って話なの?」
こっちはディーンから振られもしていないのに、身を引かなければならない。“ビーチの恋は一夜の夢”。でもぼくは、その“一夜”ですら、手に入れることはできないんだ。
「なんであんたがエマのことでムキになるわけ? あたしは別にエマなんかどうだっていいんだけどね。あきらめたくなきゃ、そうすればいい。ご勝手に。ただ、あんまりスマートじゃないわねって思うだけ」
スマートな恋なんてぼくにはできない。たぶんエマも同じ。ぼくたちは似ている。男の好みまでまったく一緒だ。
翌々日、エマからまた電話があった。ディーンは電話に出たが、まるっきり話にならなかったそうだ。彼はただ謝るばかりで、パリには行くべきだと諭されたらしい。そして、“できれば泣いてないときに話をしよう”とも。
「もうどうしていいかわからない」
泣きながらそう言うエマに、ぼくは困惑するしかなかった。本人がどうしていいかわからないことについて、何と言ったらいいものか。こういうとき、ローマンだったら的確なアドバイスを与えてあげられるんだろうけど、ぼくには皆目、見当がつかない。
「きみ、今まで男の人と別れたことある?」
「あるわ」エマは涙声で答えた。「どうしてそんなことを聞くの?」
「そのときは、つらかったと思う。でも今は、その人のことで思い悩んではいないわけだし」
「“時間が解決する”。そう言いたいのね?」
「それしか仕方ないよ。だってきみは振られたんだから……」
電話の向こうでエマが息を飲むのがわかった。どうやら彼女、捨てられたという自覚がなかったようだ。
「ここは奇麗に身を引くぐらいの分別でいいと思う。大人なんだし、振られたのなら尚のこと。一途な思いは場合によっては重たいものだからね」
これはぼくの意見じゃない。人が言ったことをまるっきり引用するなんて、ぼくらしくないけど、でも他に言い様がない。ローマンが先日言ったことはかなり的確だったし、同意もできた。彼女もわかってくれるだろう。
「あきらめるなんて無理」エマはまた泣き出した。「彼を誰よりも愛してる。あなたにはわたしの気持ち、わからないのね」
わかるさ。ぼくだってディーンを愛してるんだ。そう怒鳴りつけてやりたかったが、黙って彼女の愚痴を聞き続けた。ぼくにはディーンとエマを引き合わせた責任もある。それに、友達ならこういうときは話を聞いてあげるべきじゃないか、って思うから。
いかにディーンを愛しているかを説明するエマ。それを聞くのは、正直まったくいい気分ではない。そろそろストレスの限界に近づいた頃、ぼくは「あきらめたくなきゃ、そうすればいいよ」と、ローマンの台詞を引用した。「ただ、あんまりスマートじゃないって思うだけ。ディーンに愛されたかったら、もっと彼のことを思い遣るべきじゃない? そんなで彼から好かれようだなんて、ちょっと虫がよすぎるよ」
「なんですって?」
「自分を顧みもせず、人になんとかしてもらおうだなんて、甘えもいいとこだ。どうして彼から振られたか、よく考えてみたらいい」
「な、なによ! あなたに何がわかるって…!」
エマの怒声を最後まで聞かず、ぼくは電話を切った。
まっすぐキッチンに行って、冷蔵庫からビールを出す。冷えたアルコール飲料があってよかった。お酒に頼るのは情けないけど、他に癒しになるようなものが見つけられない。
ぼくはエマのことを嫌いになりかけてる。彼女自身のことではなく、ぼくの嫉妬心によって。あんなにひどい状態でも、エマはディーンに“愛している”と宣言できる。そのことが腹立たしく、そして妬ましい。
ビールを立て続けに飲んで、知らぬうちに眠りに落ちたらしい。明け方、目が醒めてみると、片手に空き缶を持っていて、中味は床にこぼれていた。
ネバつくフローリングを掃除しながら、ぼくは情けない気持ちを噛み締めていた。絵に描いたようなみっともなさ。自分にこんな一面があるなんて、知りたくなかった。
エマに言ったこと、初めこそローマンの台詞を引用していたが、後半は全部ぼくの言葉だ。意地悪とやつあたりがグチャグチャになっていて、発言に何の配慮もしなかった。
ぼくはエマとよく似ている。『ぼくはセックス・オン・ザ・ビーチ』『“エマ”だって美しい名前だろ』。感情が高ぶると、相手のことを思う余裕がなくなり、言いたい事を口にしてしまう。
『一途な思いは場合によっては重たいもの』『スマートじゃない』それはぼくにもあてはまる。ぼくは醜い。エマをディーンから遠ざけたい一心で、彼女につらく当たってしまった。こんなでディーンから好かれようだなんて虫がよすぎる。それでもぼくは彼に連絡を取る決意をした。
ディーンは床から雑誌を拾い上げながら、「散らかってるだろ」と部屋の惨状を描写した。
「旅行から戻ってから、まともに掃除をしてないんだ」と、マガジンラックにそれを放り込む。
「気にしないで」空けてもらったソファに腰を下ろし、ぼくは言った。「休暇の後はみんな忙しいもの。ローマンも戻ってからはマトモに食事してないって言ってたし」
今晩、ぼくがディーンの部屋にいる理由。表向きは『忘れ物のTシャツを届ける』というものだが、本当の意図は別にある。エマから電話があったことを話すと、ディーンは「そうか」と言ったきり、手にしたビール瓶を見つめている。『何て言ってた?』と聞いてこないのは、この件に関心がないからだろうか。話を振った手前、何も言わないでいるのは気持ち悪かったので、ぼくは「彼女、泣いてたよ」と、付け加える。
ディーンはビールを口に含み(それはちっとも美味しそうではなかった)「おれは別に……彼女と付き合ってるつもりはない」と言った。
「そうなんだ」ぼくもビールを口にする。それは苦くて、嫌な味に感じられた。
“ビーチの恋は一夜の夢”。ローマンの言った通りだ。ディーンはエマと寝はしたけど、恋人同士になったわけではなかった。
「でもきみ、彼女のことを愛してるって言ったよね?」
そう聞くと、ディーンは「?」という顔をする。そこでぼくは、コテージでエマとぼくを間違えてハグしたことを思い出させた。すると彼は「ああ、あれか。あれは違うんだ」と、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。
「あれはエマに言ったんじゃない。ただの寝言。夢の続きさ」
「夢の続き?」
「夢で見た相手に言った」
「それって誰? 昔のガールフレンドとか?」
「昔のガールフレンドでも芸能人でもない。誰でもない人。よくわからないけど、ときどき夢に出てくる」
「知ってる女の子じゃないんだ?」
「知ってるどころか、顔も見えない。人間かどうかも怪しいくらいだ」
「それがときどき夢に?」
「おかしいよな。おれはこの夢を見るたびいつも思うんだ。“ああ、この人を知ってる”って……」ディーンは柔らかく目を細めた。声のトーンは、いつもより優しくなっている。「優しくて、美しくて……おれのことを誰より愛してくれる存在。こっちも同じように、相手を愛してる。おれが作り出した理想の相手なのかもな」
ディーンの告白を聞き、ぼくの胸はしめつけられた。彼が理想とし、心から望む相手。それがぼくだったらどんなにいいか。切なさに涙が出そうになったが、続く彼の言葉によって、感傷は吹き飛ばされた。
「でもエマはどうやっておれの電話番号を知ったんだろうな」
「えっ、それって……」
「おれは教えてない」
「ごめん、ぼくだ。彼女が“ディーンの電話番号を控えるのを忘れた”って言うから、教えてしまったんだ」
「そうか、エマはなかなか策略家だな」わずか笑い、そして「“ごめん”はおれの方だ」と、ぼくの顔を見る。
「おれはきみに……謝らないと」
その瞳がやけに熱っぽかったので、ぼくはドギマギしてしまう。ディーンへの恋心を認識してから、初めて二人きりになった。エマのことでぼくに謝るなんて、いったいどういうことだろう。もしかして、ぼくの想い、もう彼にバレているんだろうか。
ディーンはぼくを見据え「本当に済まない。きみの同僚とこんなことになってしまって」と謝罪した。
ぼくはそれを聞き、拍子抜けというか、肩すかしを食らった気持ちになる。ディーンの謝罪は見当外れだ。こっちは二人の関係に焼きもちを焼きこそすれ、同僚としてエマを擁護するつもりは、これっぽっちもなかったのだから。
そんな考えをぼくが持っているとも知らず、ディーンは「彼女を傷つけるつもりはなかった」と続ける。
「エマがきみに何を言ったか知らないが、おれとしては彼女を弄んだつもりはない。むしろあのまま、付き合えたらいいと思っていたくらいだ。でも……」
考え込むような表情をし、唇を引き締めた。その後の台詞は、聞かずともわかった。『でも結局、好きになることはできなかった』だ。
こうして話をしてみてわかったのは、ディーンはこの件で、ぼくに申し訳なく思っていたということ。エマとの間に起きたことを話してもくれないなんてと、ぼくはふて腐れていたが、それは的はずれな感情だった。ディーンは“ポールの友達”と寝たことが気まずかったのだ。話さずに黙っていたのは、彼なりの思いやりだったのかもしれない。
「人を愛するってのは、簡単じゃないな」とディーンが言うので、ぼくは「でもきみは、もう愛してる人がいるじゃない?」と切り返す。キョトンとする彼に、「ほら、夢で見た」と思い出させる。
ディーンは軽く笑い、「そうだな」と言った。「あれがいつか現実に現れるといい」
夢の中の理想の相手。それはぼくだよと彼に言いたい。もしぼくが可愛い女の子だったなら、ディーンはどうしただろう。あのコテージで、それでもエマを選んだだろうか。
人を愛するのは簡単じゃないとディーンは言った。でも今のぼくには簡単だ。目の前にいる彼を愛してる。問題は愛した後のこと。ゲイであることはクリアしたのに、“道ならぬ恋”に身をやつさなきゃいけないなんて、不条理にもほどがある。ビールを不味くする効果まであるんだから最悪だ。
いつの間にか、ぼくは古ぼけた暖炉の前にしゃがんでいた。
なんでこんなところに? ああ、そうだ。この暖炉を掃除しなきゃならないんだった。でもどうして? ここはぼくの家じゃあないんだけど……。
困り果てていると、煙の中からローマンが現れた。
「ひとりぼっちのシンデレラ。泣くのはおよし」
水色のローブを身につけ、先端に星のついたステッキを振り回し、彼は言った。
「今からあたしがとびっきりの魔法をかけてあげますからね」
「シンデレラ? それってぼくのこと?」
「そりゃそうよ。他に誰がいるっての?」
「きみが魔法使いのおばあさんだなんて、変わったおとぎ話だな」
「ちょっと! 誰が“おばあさん”よ! どう見ても“おねえさん”でしょうが!」
わかった、これは夢なんだ。それにしてもこんなふざけたストーリー、子供だって見ないんじゃないかな。
ローマン魔法の杖をひと振りし、「はい! 一丁上がり!」と、呪文もなしにそれを終えた。ぼくは自分の格好を見、「これが“とびっきりの魔法”?」と訊く。ブルボン朝のフランス貴族を思わせる、ベビーピンクのドレス。ジュエリーをちりばめたティアラに、シルク素材の長手袋。足にはもちろんガラスの靴だ。このチョイス、小学生の女の子だったら大喜びかもしれないけど、ぼくはあいにく女装の趣味は持っていない。
「ちょっとひどすぎるよ。こんな衣装、仮装パーティでもやらないのに」
ローマンはぼくの苦言に耳を貸さず、「つべこべ言わないの。お城の舞踏会はもう始まっているのよ」と、二頭立ての馬車を呼び寄せた。
「わかってると思うけど、魔法は深夜0時まで有効よ。時間厳守。それを過ぎると元のあんたに戻っちゃう」
そのあたりはお約束の展開か。でも別に0時までじゃなくていい。もっと早く魔法が解けたっていいくらい。
「さあ、行って! あんたは世界一ビューティフル! そう信じて堂々と振る舞うのよ!」
こんな馬鹿げたコスプレが世界一ビューティフルだなんて、夢の中だとしても信じられない。それにこの靴。ガラスで出来ているなんて、危なくないのかな? 固くて冷たくて、まるっきりダンスには向かないと思うんだけど。
到着してみれば、お城というのは何のことはない。いつもパーティで使う、ミッドタウンのクラブだった。今夜、ここで舞踏会が行われているらしいけど、入る勇気は持ち合わせていない。もし人がぼくの姿を見たら、手抜きのドラァグクイーンだと思うだろうし、ジョークの仮装だとしても笑えないからだ。
ここからどうするべきかと迷っていると、エマがやってきた。彼女はペールグリーンのドレスを着ていて、それはロココ調だけど、とてもよく似合っていた。
「早く入って」と急かすエマ。「あなたがここにいたら、わたし、入場できない」
「ぼくはいいよ。お先にどうぞ」
「まあ、嘘でしょ? ここまで来て、参加しないつもり?」目を丸くし、彼女は言った。「あなたって本当に臆病なのね」
カチンときたぼくは、「別に臆病とかじゃないよ」と言い返す。
「あらそう? だったらなぜ、中に入らないの?」
「それは……」
この格好が恥ずかしいし、そもそも舞踏会には来たくて来たんじゃない。そう説明すると、エマは笑って「あなたの格好なんて誰も気にしてないわ」と澄まし顔。「人にどう思われるか心配だなんて、それは臆病っていうんじゃなくて? いいから中に入りましょう。帰るか決めるのは、王子様の顔を見てからでもいいはずよ」
ダンスのパートナーにするように、エマはぼくの腕に腕をからめ、会場の中へ引っぱって行った。ホールにはすでに人がいっぱいいて、馬鹿な仮装をしているのはぼくだけではなかった。誰もが中世ヨーロッパの格好で、あたかもディズニーランドのパレードのよう。このおかしな光景を確認できただけでも、中に入ってよかった。ぼくはテーブルからシャンパンを取り、談笑する人々を眺め回す。
「王子様がいるわ。彼って本当に素敵」
エマの視線の先を見ると、そこにはディーンがいた。仮装した女性たちに囲まれているが、彼の格好はシンプルそのもの。白いシャツに黒のスラックスと、現代的な服装をしている。
「あれが王子?」
「そうよ」とエマ。「王子様はこの舞踏会でパートナーをお選びになるの。誰しもチャンスは平等。あなた、そんなことも知らずにここへ?」
「社交界には興味なくてね。でもあの王子とは顔見知りだ」
言って、ぼくはディーンに近づいた。ピンクのドレスをからかわれるだろうと思ったが、彼から発せられたのは「はじめまして」という、よそよそしい挨拶だった。
「あ……どうも」ぼくは気まずく会釈した。どうしよう、彼はいつものディーンじゃなのかも。
王子はまじまじとぼくを見つめ、「どこかで会ったかな?」と言う。昨日も会ったばかりなのにこの言い草。わかりにくいけど、これは冗談なんだろうか。しかし続く台詞で、そうではないことが判明した。
「でも初対面だよな。きみみたいに可愛い女の子に出会ったら、おれは絶対に忘れないだろうから」
“可愛い女の子”。そうか、ディーンにはぼくが女の子に思えるらしい。この格好で、いったいどのように見えていることやら。ぼくはローマンの『堂々と振る舞う』というアドバイスを思い出し、みっともなくないようにと、背筋を伸ばした。
「でも本当、きみとは初めて会った気がしないんだよな……」不思議がるディーンに、ぼくは「たぶん、夢で会ったのかも」と答えた。
「夢か。そうかもな」はにかんだように笑い、「ときどき夢に出てくるんだ。誰かもわからない美しい人が」と言う。「夢の中の人は、誰かわからない。顔も見えない。人間かどうかも怪しいような、優しくて、美しい存在だ」
うん、その話は知ってる。昨日話してくれたよね。
「夢の中の恋人だね」そうぼくが言うと、ディーンは目を見張ったが、すぐに笑顔になり、「ああ」と頷いた。
「そうさ、夢の中だけに存在する恋人だ。もしかしたら、おれがいつも会っていたのは、きみだったのかもしれない」
そんなことを言われると胸が苦しくなる。夢の中でさえ、彼はピュアで、とても無神経だ。
「あのさ、聞いていい? 夢の中の人が男だったらどうする?」
ぼくの質問にディーンはわずか首をひねり、「それは……考えてもみなかったな」と、つぶやいた。
「もし男だったら……そうだな、きっといい友達になれるんじゃないか? おれのことをよくわかっていてくれて、受け入れてもくれる。打算なしで付き合える、気持ちのいい友達だ」そして肩をすくめ、「まあでも、男じゃないことを祈るね」と願望を口にする。「向こうもガッカリだろ。相手が同性じゃな」
どうやら王子様は、“相手がゲイだったら”とは考えないみたいだ。
ディーンはぼくの手を取り、「なあ、夢でのみ会う恋人が、現実にいたらどう思う?」と顔を覗き込んでくる。「きみはどう? そういう相手が欲しくない?」
「それは……」
戸惑うぼくの顎に手を添えるディーン。ああ、ぼくはキスされるんだ。彼はそれを望んでる。
顎から頬へと、ディーンの手がスムーズに移動する。ぼくは目を閉じた。彼からキスされる。ぼくはそれを望んでる。
唇が触れ合う直前、時計の鐘が0時を告げた。泡が弾けるような音がし、目を開けると、そこには呆然とした表情のディーンがいた。
「……ポール?」
困惑に眉をひそめ、後ずさりするようにぼくから離れる。
「どうしてきみが?」
彼の反応から、ぼくは魔法の終わりを知った。まだダンスも踊ってないし、靴だって脱げてない。今後に有効な展開は何ひとつ残されていないのに、マジックアワーは終了してしまった。
ディーンは切羽詰まったように「おれはきみに……」と言いかけ、口をつぐむ。次に出たのは問いかけだった。
「どうしてすぐに言ってくれなかった? おれをからかってたのか?」
「まさか……そんなつもりは……」
「すぐに気付くべきだった。きみが“夢の中の恋人”と言った時点で。おれは何てマヌケなんだ」
「ねえ、待ってよ。きみがそんな風に思うなんて。これはただの…」
「ただの何だ? 冗談か? おれはきみにキスしかかったんだぞ?」
確かに彼はぼくにキスをしてくれようとした。ほんの数分前まで、ぼくたちは世界を共有していた。それはビーチのエマとディーンのように。
「さぞかし馬鹿みたいに見えたことだろうな。こういう冗談はよくやるのか? きみを口説く様を見て、滑稽だと?」
「そんなこと思ってない! ぼくの言い分も聞かないで、勝手に決めつけないでくれ!」
「じゃあ聞かせてくれ。どうしてこんなことを?」
どうしてこんなことを───。
尋ねられ、心臓を掴まれたような気がした。ぼくはどうしてこんなことをしているんだ? 女の子の格好をしてまで、どうして?
その答えが心に浮かび上がったところで、目が覚めた。泣きながら夢から覚めるなんて、何年振りのことだろう。いい年をして子供みたい。いや、そんなことよりも、恥ずかしいのは夢の内容だ。ドレスまで着て、“どうしてこんなことを?”。情けなさに、ふたたび涙が溢れた。ぼくは好きな人のために、またしても自分じゃない誰かになろうとしていたのだ。
最後は悪夢になったけど、途中までは楽しかった。その話をローマンにしたところ、彼は大いにウケ、「ほんとにそういうパーティやってやろうかしら」と笑った。
「魔法使いのおばあさんから、恋するあなたにプレゼントがあるの」
ダイニングテーブルにカバンを置き、中からプラスチックのケースを取り出す。
「なに? DVD?」
「ポルノよ。あたしが厳選した素敵ムービー。主演男優はディーンに似た感じの子よ。バイセクものだけど、贅沢は言わないわよね?」
現実の世界は、おとぎ話よりも大人向けだ。ポルノムービーを持ってくる魔法使いなんて聞いたこともない。
ぼくはCDを押しやり、「気持ちは有り難いけど、焚き付けないで」と断わった。「ディーンのことはあきらめる方向でいるんだから」
「あきらめる? 夢に見るほど好きなのに?」
不思議顔の彼に、ぼくは何回言ったかわからないであろう台詞を繰り返した。
「ローマン、彼はストレートなんだよ?」
「ああもう、くっだらない。それが何だって言うのよ?」
「ぼくにとっては大きな障害だ」
「あたしだったらまず既成事実を作るわ」
「既成事実? 彼を押し倒すってこと?」
「前に言ったでしょ。あの子は流されやすいタイプだって。お酒でも飲ませてコトを済ませてしまえば、それなりに付き合ってくれるわよ。エマとしたみたいにね」
「そういうのってどうなんだろ。そのときはいいかもしれないけど、いずれ“自分はゲイじゃない”って言い出すと思うな」
「でもそれを言い出すまでは楽しめるでしょ」ローマンはツンと鼻を上に向けた。
「その場かぎり楽しもうなんて、ぼくにはとても出来ないし、やりたくもないな」
「その場かぎりになるかどうかは、実行してみないとわからないでしょ。お尻が開発されて、ゲイの道を歩み出すかもしれないわけだし?」
「思うに、きみは本当に人を好きになったことがないんじゃないかな」
「あらら、言ってくれるじゃない。じゃあ聞くけど、“本当に好き”ってどんな? あんたやエマみたく重っ苦しくしてるのが“本当に好き”ってことなわけ? だったらあたしは一生、人を愛することはできないってことだわ」
「ぼくは重っ苦しくて、うっとうしい奴なんだ」
「あんたの重っ苦しい想いが、いつか彼に通じるといいわ」ローマンはぼくの手の上に、自分の手を重ねた。「心からそう願ってる」優しく言ったその直後、手を力強く掴み、「そのかわり、キッチリ成就させなさいよッ!」と凄みをきかせる。「なんたって泣くほど好きなんだから」
「あのときはたまたま感極まっただけだよ。いつもああってわけじゃないんだから」
「あんたから男を横取りしたら呪われそう。残念だけどディーンのことはあきらめるわ」
「それって負け惜しみじゃなくて?」
「ちょっと、それが友達思いのあたしに言う台詞?」
「友達思いなんだか、起きることを単に楽しんでるんだかわからないね」
「そうね、両方かしら?」
「まったくもう……」
ぼくは笑った。ローマンはめちゃくちゃな子だけど、悪い奴じゃない。人生を楽しんでいて、ただ無邪気に過ごしている。彼のこういう側面、ぼくはいくらか見習ったほうがいいのかもしれない。
ローマンはぱっと手を離し、「コテージであたしがディーンにしたこと、そんな大層な話じゃないのよ」と申述べる。「指にツバつけて先っぽツンしただけ。軽めの間接キスみたいなものね。だから安心して。彼に触れる男はあんたが初めてになるはず」
「だといいけど」
「彼のペニスについての描写、聞きたいでしょ?」
「聞きたいけど、やめて。寝られなくなりそう」
「だからこのムービーがあるんじゃない。独り者の夜は長いわ。ゆっくり楽しんで」
そう言うローマンも独り者だが、毎晩のように街に繰り出しているところを見ると、彼の夜はそう長くもないはずだ。ぼくはといえば、長い夜は嫌いじゃない。それってタップリ時間があるってことだから。
ローマンの親切心はプラスチックケースに入ったまま。願わくば、ディーンの夢を見ませんように……。
関係が終わったと思っているのは、片方だけだとしたら。たとえばそれはエマが泣きながら電話をかけてくるとか、もしくは元の彼氏がアパートのエレベーターホールで待ち伏せしているとか。そういうことが人生には起こりうる。
ラルフとはもうひと月以上、顔を会わせていなかった。ぼくが別れたいと申し出たとき、彼は嫌だと言ったが、最終的には身を引いてくれた。それなのになぜ、この人が今、ここにいるのか。
彼はエレベーターの前で「急に来てすまない」と、まず謝罪を口にした。「だが、どうしても会いたくなって」
聞いてもいないのに説明する。おかげで『なぜここにいるのか』と問いたださずに済んだが、ぼくの方は二度と彼に会いたくなかった。だってそうだろ。ぼくらは別れたんだ。友達としてやり直すには、まだ早すぎるし、正直、それについては望んでもいない。
スーツ姿のラルフは、別れたときと同じ格好をしていた。まるであれから少しも時間が経っていないとでも言うように、「きみに会いたかったんだ」と繰り返す。
「ぼくはもう……あなたとは……」
「話し合う余地がある」
確信的に言う彼に、何と答えたらいいのか。ラルフはぼくに近づき、「一度は愛し合った仲だ」と笑みを浮かべた。
その通り。ぼくたちは一度は愛し合った。でも今となっては、ものすごく遠い存在に思える。本当にぼくはこの人を愛したのだろうか。だとしたら、いったい何を求め、何を与えていたのだろう。
「わたしは今でもきみを愛してる。この一ヶ月間、きみのことを忘れることはできなかった」
ぼくはラルフのことを考えもしなかった。いや、厳密には考えたが、それは彼の言う“忘れることはできなかった”とはまるで違う。だから本当に申し訳ないけど、ラルフの気持ちには応えられない。
「ごめん」ぼくは元カレの目を見て、そう言った。「ぼくの中ではもう終わったことなんだ。話し合う余地はない。ぼくのことは早く忘れて」
エレベーターのボタンを押そうとすると、その手をラルフが掴んだ。
「なぜだ?」切迫した表情で「やり直そう。そうするべきだ」と詰め寄る。
顔を近づけられて解った。彼は酔っぱらっている。アルコールの匂いが鼻をつき、ぼくは顔をしかめた。
「離して」
「いいや、離すものか。二度ときみを離さない」
手首を強く掴まれ、ぼくは痛みに声を上げた。
「ポール、きみを愛してる」
掴んだ腕を引き寄せ、無理やり抱きすくめようとするラルフ。ぼくは抵抗し、彼の身体を押しのける。
「なぜわたしを拒む!? どうしてそんな目で見るんだ!?」
「きみのことを愛してないからさ! もうやめてくれ!」
ラルフはしつこくもぼくを掴もうとし、あきらめるつもりは無いようだ。なんとか逃れようと争っていると、「やめろ!」と誰かが叫んだ。アパートメントの守衛が来てくれたかと思ったが、登場したのは驚くべき人物───。
「ここで何してる? 警察を呼ぶぞ」
ディーンはそう言い、ぼくとラルフを引き離して、間に立った。
ラルフは襟を正し、「痴話喧嘩で警察を呼ばれてはたまらない」と、卑屈な笑みを浮かべる。
「痴話喧嘩?」ぼくを見るディーン。ぼくは首を横に振った。
「ポールはそうじゃないって言ってるぜ」そしてぼくに「彼とは別れたんだろ?」と訊く。
「そうだよ」と、ぼくは答えた。「もう何の関係もない」
冷たいかもしれないけど、他に言い様がない。下手に情を見せて、これ以上しつこくされたくはなかった。
「ああ、ポール……」ラルフは哀れっぽい声を出した。「なぜそんなことを言うんだ。ただわたしはきみと話し合いたいだけなのに」
話し合いたいだけ? それにしてはずいぶん暴力的だった。たぶん彼は、自分が何をしているか、わかっていないのだ。
「もう出て行ってくれ」ぼくが言うべき台詞をディーンが奪った。「これ以上、ここにいると言うのなら、警察を呼ぶ」
するとラルフは突然、破顔し「そんなことはポールがさせやしないさ!」と大きな声で言った。「我々は愛し合った仲だ。わたしを警察に突き出す? 彼はそんなことできる子じゃない」
「ああ、ポールはそうかもな。でもおれは違うぜ」
「さっきから何なんだきみは? 何者なんだ?」
「おれはこいつの恋人だ」言うなり、ディーンはぼくを抱きしめた。「あんたと別れた後、付き合い始めた。今はおれがポールの側にいる。だからつまり……悪いが消えてくれ」
とんでもない嘘に、ぼくの呼吸は止まった。これはもしかして夢の続き? そうだとしたら、何てリアルなんだ。
「きみが彼の恋人だと? 出まかせだ」眉をひそめるラルフに、「ポール、言ってやれよ」とディーンが促す。
ぼくは「うん」と答えた。「本当だよ。ぼくたち、付き合ってる。ディーンとは前から友達だったけど、最近、気付いたんだ。ぼくは彼のことを愛してるんだって……」
いい香り。いつものディーンのフレグランス。背が高い彼に抱かれ、ぼくは胸にすっぽり収まってしまう。
「わたしを警察に突き出すとして、いったい何の罪状なんだ? ここで話し合っていただけだろう?」
ディーンは抱きしめる腕を少しも緩めず、「不法侵入ってだけで警察は動いてくれるさ」と言い放つ。
『ディーンの二の腕は完璧にあたし好み』とローマンは言っていた。『あの腕に抱かれたら、それだけで昇天しちゃいそうだわ』
本当、その言う通りだ。ぎゅっとされて、脳味噌がしびれるほど気持ちいい。ぼくのジーンズの中で、淫らな欲望が頭をもたげ始める。ばか、ポール、こんなときにおかしなことを考えるな。ああ、でも幸福すぎて気絶しそうだ。
低く、凄みのある声で、「10数える間におれの目の前から完全に消えろ」とディーンは言う。「11をカウントした時点で、まだ姿が見えるようだったら警察に電話する。いいか、数えるぜ……ワン・ミシシッピー……ツー・ミシシッピー……」
今ほど彼にキスしたいと思ったことはない。愛してると心から伝えたい。
ラルフは鼻を鳴らし、「馬鹿らしい」と嘲笑った。そして遠ざかる足音。ぼくはもうラルフを見ていない。ディーンの胸に顔を埋め、彼の身体をただ感じている。
「よかった。行っちまった」
言葉と共に、彼が力を抜くのがわかった。どうやらディーンも緊張していたらしい。ぼくが感じていたそれとは違う種類のものだけど。
ぼくは恐る恐る、彼に訊いた。
「どうして……こんな……」
「ん?」
「なんでぼくを庇ったの? 嘘までついて……」
ディーンはぼくをリリースし、「おととい、エマから電話があった」と思いがけない話題を始めた。「彼女、きみに叱られたと言ってたよ。めったに怒らないポールに厳しく言われて、いろいろ考え直したらしい。“パリには行くことにした、迷惑をかけてごめん”と」
何の話だかわからないでいるぼくに、ディーンは「きみはおれを助けてくれた」と言った。「正直、エマから解放されて助かったよ。だから、そのお返しってわけじゃないけど……いや、でもそうじゃないか。さっきみたいな場面を見たら、誰でもああする。怪我はなかったか?」
「うん」
お礼を言うのも忘れ、ぼくは自分のことを恥ずかしく感じていた。“さっきみたいな場面を見たら、誰でもああする”とディーンは言った。彼は素敵だ。人を助けることに躊躇がないんだ。ぼくは違う。エマにキツいことを言ったのは、彼女への思いやりでも、ディーンを助ける目的でもない。あれは嫉妬だ。ディーンに接近するエマ。ぼくは彼女に嫉妬し、苛立ちをぶつけた。ただそれだけのことなんだ。ディーンから感謝される謂れなんてない。
情けなさに涙が出そうになったので、顔を見られまいと背けたが遅かった。ディーンは心配そうに「どうした?」と聞いてくる。「やっぱりどこか……怪我を?」
ぼくは無言で首を横に振った。するとディーンはぼくの肩を抱き、「ラルフのことは、きみが悪いんじゃない」と、見当違いのことを口にした。彼の優しさに、ぼくはますます顔を上げられなくなる。
ぼくはずるい奴だ。自分からは何も働きかけず、状況が動くのを待ってる。ディーンがエマのことを話してくれないと拗ねていたくせ、自分からは何も訊こうとはしない。エマの友達だと言っておきながら、彼女に何ひとつ、本心を言えずにいた。ラルフと付き合い始めたときも、何となく流されただけ。結局、愛し合うことができずに別れ、その結果がさっきの件だ。ぼくはプライドの外に出るのが怖い臆病者。自ら動くことで失敗したり、責任をとらされたりするのが嫌なんだ。
「きみがラルフの気持ちに応えることができないからといって、責任を感じることはないさ」ディーンは穏やかにそう言い、わずかの間をおいて、「これって自分に言ってるんだな」と苦笑する。「おれもエマとは付き合えなかった。いくら彼女がおれのことを想っていてくれてもな」
顔を上げると、ディーンの寂しそうな笑みが、すぐ近くにあった。
「うまくいかないもんだな」と言い、ぼくの肩を男らしくバンと叩いた。
好きになる気持ちは強制できない。ぼくはラルフではなく、ディーンを好きになってしまった。ディーンはエマを愛せたらと思ったが、そうはならなかった。人生、望み通りにいくことはとても少ない。
ぼくはため息と共に、「きみがゲイだったらいいのに」と本音を吐き出した。
ディーンはそれを深い意味には取らず、「まったくだ。そしたら女とモメなくて済む」と両手を広げた。
「“男とモメる”って可能性は考えないわけ? そしたらローマンが放っておかないだろうし」
「それは困るな。きみだったらいいけど」
笑いながらそんなことを言われても返答に困る。これは愛の告白なんだろうか。
ぼくの戸惑いに気づきもせず、ディーンは唐突に「性癖の違いは友情の妨げになるかな?」と聞いてきた。
「おれは男友達が少ないんだ。ほとんど皆無と言っていいくらい。だから……」
向き直った彼の瞳は切なげに揺れている。それを見て、ぼくの胸は高鳴った。
「おれがゲイじゃなくても友達でいてくれるか?」
両想いを期待したぼくは、落胆しつつも微笑ましい気持ちになった。“きみがゲイだったらいいのに”という言葉、どうやら彼は取り違えたようだ。改めて見る彼の顔。それは少し寂しそうに見えた。こんな表情でそんな風に言われたら、誰だってノーとは言えないだろう。
「もちろん。きみはぼくがゲイでも気にしない?」
「当たり前だろ。気にするもんか」
「じゃあ、ぼくも」
思い切り抱きしめてキスをしたい。そうする代わり、ぼくは彼の手を取った。ディーンは少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になり、力強く握り返してくれた。
「あのさ、おれ、きみに言っておきたいことがあるんだ」手を握ったまま、ディーンは言う。「前にラルフとのことをコインで決めただろ。覚えてる?」
「うん」
「“裏なら恋してなかった。表なら恋だった”と。あのとき、“裏だ”とおれは言ったよな。でも本当はコインは表だったんだ」
決まり悪そうな顔をし、「きみにこれ以上、思い悩んでほしくなかった」とつぶやく。
「それでインチキを?」
「ごめん」
ディーンがコインを弾いたあの時点で、ぼくはもうちっともラルフのことでは思い悩んでいなかった。彼とコテージで過ごした日々が、ぼくの心を癒してくれたから。そして今も、ぼくのためにとラルフに立ち向かい、些細なインチキを告白する。こんないい友達が他にいるだろうか。
男友達がほとんど皆無と言うディーン。コテージで、エマとのことをぼくに話してこなかったのは、そういう背景もあるのだろう。ぼくにはローマンがいて、彼がいつも相談に乗ってくれる。でもディーンには、そういう男友達がいないんだ。“これがヘテロの友情ってやつ?”と、あのときは思ったが、それは穿った見方だった。何でも話して構わない、相談してもいいという関係性を、同性と持たないのであれば、あの距離感はやむを得ない。
「気にしないで」とぼくは言った。「コインが裏だと信じられたおかげで、ぼくは楽になれたんだ。だからもう……」
ぼくたちはまだ手を握り合っている。夢見心地でそれを見つめながら、ぼくは言った。
「本当にありがとう。さっきも、助けてくれて」
ディーンは頷き、黙ってエレベーターのボタンを押した。
ストレートとゲイは、恋人同士にはなれないけど、友情を結ぶことは不可能じゃない。ぼくたちはうまくいく。うまくいかせようと、お互いのために努力するだろう。
プレイボーイのディーンに、今後、恋人は何人もできるに違いない。でも彼には親友と呼べる相手はいないんだ。彼の恋人にはなれずとも、友達になることはできる。もしできることなら、ぼくは世界で唯一の、彼の親友になりたい。ディーンが何度、女性と別れようとも、常に側に居られる存在。彼が誰かと結婚した後も、理解ある相手として支えられたら───。
エレベーターに乗り込み、ぼくたちは手を離したが、心は温かいままだった。ぼくが先に降りると、ディーンは「おやすみ」とささやいた。ひとりになっても、まだ温もりを感じる。この瞬間、ぼくは少しも孤独ではなかった。
ディーンと友情を深めるにあたって、いつ理性が吹き飛ぶかわからないという不安はあるけど、それを気にしていたら、何も手に入れることはできない。プライドの外に出るのが怖くないと言えば嘘になるが、リスクは何にでもつきまとうものだ。
もしぼくが我慢できずに彼を押し倒してしまったら? そうなったら、それはそのときに考えればいい。ディーンの言い分もちゃんと聞いて、お互いにとって一番いい道を一緒に模索しよう。友達思いなんだか、起きることを単に楽しんでるんだかわからない。きっとその両方だ。
END
最後までお読み頂きありがとうございました。もしよろしければ、ご感想など頂けると幸いです。
本作の逆視点バージョン(ディーン視点)はこちらです→https://novel18.syosetu.com/n3222br/
本シリーズはエピソード25(https://ncode.syosetu.com/n6798bk/)に続きます。