第八話 太学への道
雪に埋もれた街道の果てを、千里は何度目かの溜息とともに見つめていた。
「……遅えな」
指折り数えて、もう十と二回目の朝を迎えている。
約束の旬日(十日)はとっくに過ぎた。
「あいつ、どっかでぶっ倒れてんじゃねえのか」
山で出会った時――雪に埋もれて行き倒れていたように。
「心配ない」
悪態をつく千里の頭上から、紅英の暢気な声が降ってきた。
「殿下のことだ、どうせまたあちこち寄り道をなさっているのさ。いつものことだよ」
紅英は、手入れを終えた愛刀の切っ先を雪にかざしながら、けらけらと笑っている。
「村々を巡った際もそうだった。民の歎きや暮らしの綻びを目にすれば、決して素通りなどできぬ性分なのだ」
ゆえに旅程などあってなきが如し、という訳だ。
「痩せた田畑の土塊、山川の地勢に至るまで。幽谷州の長へ名乗りをあげたからには、己が守ると決めた地だ。その眼に入る全てを知悉せねばお気が済まぬのさ。……あの方は、誠に、そういうお方なのだよ」
「……まあ、あいつ頑丈だから心配とかしてないけどよ……」
拍子抜けした千里は、唇を尖らせて雪を蹴り上げた。
朗月らが旅立ってからの間、湿地の村では槌音が時を刻む様に響き続けていた。
紅英が近隣の集落から引っ張ってきた鍛冶職人たちが、火花を散らして鉄を打ち、格子状の籠を作り上げていく。拾い集めた結晶石を収めるための即席の炉――龍気灯である。
出来上がった鉄籠は、泥濘むあぜ道や、澱んだ川の岸辺など、千里が指定した「龍穴」――龍脈の気が漏れ出す地点――へと次々に設置されていった。
「わぁ、点いた!」
千里の真似をして村の子どもが籠の中に黒い石を放り込むと、ボッ、と音を立てて青白い炎が揺らめいた。
宵闇が迫ると、湿地帯のあちこちに青い灯火が点在し、まるで地上に星空が降りたように幻想的な光景を作り出す。
「あいつに見せたら、びっくりするかな」
千里は、青い光の湖を見つめ、小さく独りごちた。
朗月の澄ました顔が、驚きで口を開ける様を見てみたい。
想像するだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
千里は夜の寒さも忘れるほどに、心を躍らせていた。
*
ある日の川辺では、千里、渓舟、そして紅英の三人が腰をかがめ、石拾いに興じていた。
紅英の手には、棒提灯が握られている。
鍛冶屋が鉄を打ち直した「携帯型の龍気灯」だ。
籠の中で揺れる青白い炎が、顔を突き合わせる千里と渓舟の手元を照らし出している。
「おれ、山じゃこれで水もきれいにしてたんだ」
千里は、穴だらけの鉱石を拾い上げ、泥を払った。
「軽石か?」
受け取った石を、渓舟はしげしげと観察する。
「これをさ、光が気が漏れてるところにしばらく置いとくんだ。そうすると石が気を吸って、泥水に沈めた時に汚れをぐんぐん吸い込んで、水が飲めるくらいきれいになるんだぜ」
「ほう……多孔質の岩石に龍気が作用して、吸着力を高めたということか」
渓舟は唸り、千里の手から石を受け取ってまじまじと観察した。
技術屋の脳裏で、新たな設計図が組み上がっていく。
「濾過装置に応用できるな。浄水龍石とでも名付けるか」
「分かりやすくて、良き名だ」
頭上で龍気灯を掲げる紅英の、明るい声が降ってきた。
「甕と砂と浄水龍石を層にして……」
渓舟は雪の上にさらさらと構造図を描き始めた。
「いいかボウズ、こうやって水を通す順序を整えてやれば、効率は倍になる」
「コウリツ?」
「きれいな水を、一気にたくさん作れるようになるってこった。井戸に仕掛けたら村中で綺麗な水が飲めるようになるぞ」
「そんなに?!」
千里は、無精髭に覆われた渓舟の横顔を覗き込んだ。
山で自分一人が生き延びるために使っていた何気ない知恵が、渓舟の手にかかると、「みんなが使える道具」の設計図へと姿を変える。
そして紅英が動き回り、必要な人材や環境を用意する。
最後に、技を持つ職人たちが作り上げる。
千里の小さな思いつきが形を持って広がり、最後は誰かの喉を潤し、暖め、夜を照らすのだ。
「こういう……こと、か」
立ち昇る白い息の中に、千里は朗月の面影を見た気がした。
民を救いたい。
千里にとって他人事としか思えなかった、朗月の意志。
けれど今、ただ己の喉を潤し、腹を満たすだけの生存本能とは違う、胸の内側が芯から熱くなるような震えを、千里は初めて知った。
これが、あの皇子が求めていた「悦び」なのかもしれない。
「なあ、おっちゃん」
千里は、半紙に設計案を書き殴っている渓舟の袖を引いた。
「こういうのって、どうやったら書けるようになるんだ?」
渓舟の手が止まる。顔を上げ、千里の異能の瞳、今は好奇心に煌めく幼な子の輝きを、じっと覗き込んだ。
「……お前は、都の太学で学んだ方がいいかもしれんな」
「たいがく?」
渓舟は、南の空、遥か彼方にある帝都の方角へ視線を投げた。
つられて千里も、果てしない青を仰いだ。
「国中から物知りたちが集まる場所だ。そこなら、お前のその眼に映る不思議を解き明かし、民を救う力に変えることができる」
「その太学ってところは、どうやって行くんだ?」
千里は無邪気に尋ねた。山で獣道を尋ねるのと同じ、軽い調子だった。
「うぅむ……」
渓舟は、言葉に詰まって唸る。
「……ボウズ。太学は、ただ足で歩いて辿り着ける場所じゃない」
渓舟は、焚き火の煙を払うように手を振った。
「まず、お前のような童が学ぶための幼学か、あるいは町にある私塾に入らねばならん。そこで六典八索、三経五論を諳んじるほどに叩き込み、選抜試験を勝ち抜いて、ようやく太学の受験資格が得られる」
「はっさく……ごろん……??」
「すっげえ分厚い本の山だ。それを丸暗記するんだよ」
「うげぇ」
千里の顔に、苦瓜を齧った子猿のようなシワが寄る。
「んで、何をするにも金が要る。推薦状もな」
渓舟は、理解できない語彙の連続に首をひねる、目の前の野生児を見つめた。
顔は煤だらけ、髪は鳥の巣、礼儀作法など欠片もない。
北の辺境で育った原石を、どう磨けば中央の絢爛たる学府へ送り込めるというのか。
無責任な言葉を零してしまったことを、後悔しはじめる。
渓舟もまた、名もなき地方の寒村に生まれ落ちた。
幼き日より「神童」と持て囃され、親兄弟はおろか、親戚一同、果ては村中の期待と銭を背負って帝都へ送り出されたのだ。そんな神童にとっても、太学の門は、狭く、険しいものだった。
太学への道筋が修羅であることを、骨身に沁みて知っている。
(だが、どうにも勿体無ぇ……)
渓舟の脳裏に、未だ帰らぬ朗月の顔が浮かんだ。
「……ま、今は考えるな。まずは字だ。字が読めねば、地図も引けぬし、知も広がらん」
「おっちゃんが教えてくれんのか!?」
「また俺か。まあいい。お前の主人が帰ってくるまでだぞ?」
「あいつは主人じゃないよ」
そんなやりとりをしていた、時だった。
ざわり、と風向きが変わったかのように、村の向こうが騒がしくなった。
鳥たちが一斉に飛び立ち、人のざわめきが土手の向こうから聞こえてくる。
「け、渓舟! 紅英様!」
村の男が一人、転がるように川原へ駆け込んできた。
「み、みや、都の、……!」
「お、戻ってきたか」
「あいつか!?」
朗月の帰還か、と三人は同時に腰をあげる。
じっとしていられず、千里は駆け出した。
雪に足を取られる大人たちを尻目に、獣のような身軽さで先頭を切って土手を駆け上がる。
「おーい! 遅かったじゃねえ……か……?」
千里の足が止まる。
村の出口には、鉛色の空と雪原にはあまりに不釣り合いな、威圧的な色彩が鎮座していた。
見えてきたのは、一糸乱れぬ隊列を組んだ、黒の騎馬。
毛並みは絹の如く艶めき、鞍には銀の飾り鋲、手綱には鮮やかな組紐があしらわれている。
重厚な革の音と、鼻を鳴らす馬の噴気が、出迎えた人々を圧倒していた。
先頭の馬に跨る人物、中央府の龍紋を胸に掲げた官吏は、泥を嫌うように馬上から出迎えの村人たちを見下ろしている。
「――っ!」
渓舟と紅英は、弾かれたようにその場へ膝を折った。
泥水に額を擦り付けるほどの、深い平伏である。
それを見た村の大人たちも、悲鳴を押し殺して一斉に地面へひれ伏した。
子供たちも訳も分からぬまま、親の見よう見まねで雪の上に這いつくばる。
「え、なに……?」
一人、棒立ちになった千里の腕を、紅英が強引に引いた。
「しーっ、いいから、アタシのマネをするんだよ」
「うわっ」
千里は紅英に抱き込まれるようにして、雪の中へ押さえつけられた。
静まり返った村に、馬の鼻息だけが白く響く。
やがて、官服の男が懐から書状を取り出し、朗々とした声を張り上げた。
「中央府よりの御沙汰である! 黒泥村の治水師・渓舟はおるか!」
よく通る声が、清廉な冬の空気に凛と響いた。
名を呼ばれた渓舟が、強張った脚を叱咤して立ち上がり、進み出る。
「はっ、わたくしが、渓舟にございます」
一歩前へ出て、改めて深く頭を下げる。
官吏は馬上から書状を読み上げた。
「緑沢県、湿地帯の治水工事の件――これを受理し、着工を許可する!」
「――な、っ……!?」
渓舟が息を呑み、顔を上げた。
背後に並ぶ村人たちからも、さざ波のような動揺が広がる。
驚愕に揺れる民をよそに、官吏は事務的に、厳然と言い渡した。
「追って、北玄道総督府を通じて詳細な通達がある。ただちに人足と資材の手配を整え、万全の準備を進めよ!」
紅英の腕に肩を抱えられたままの千里には、何が起きているのか、さっぱり見えなかった。
それでも、頭上から押さえつけるような厳格な声、隣で地に頭を伏する渓舟が息を呑む音や、紅英の身体が微かに強張る気配が、ただごとでない事態を告げている。
(何か、すごいことが、起きてる……?)
大きく何かが流れ始める――そんな予感が、千里の背筋を震わせていた。




