第四話 龍の呪縛
麓の村の長から提供された客間で、朗月は眠れぬ夜を過ごしていた。
窓枠に腰掛け、玻璃ごしに、闇夜を斑らに染める雪を見つめる。
――おまえが皇帝になれば、民たちみんなが、助かる
昼間、千里に言われた言葉が、呪詛のように耳にこびりついて離れない。
十歳の子供の曇りのない瞳が、朗月が蓋をしてきた泥のような記憶を、抉り出した。
*
瑞華国はかつて、大陸中央に位置する「瑞龍湖」の畔にひっそりと咲く、美しい花のような小国だった。
安寧は、三代前の「龍」の目覚めによって破られた。
曽祖父である初代皇帝が、大陸全土を飲み込む覇道を歩み始めた。
続く祖父は、逆らう者を根絶やしにする焦土作戦で版図を数倍に広げた。
そして父である現皇帝は、恐怖と法による徹底した管理で、帝国を盤石なものとした。
わずか百年足らず。湖のさざ波は、またたく間に大陸全土を血の荒波で飲み込んだ。
朗月が生まれ育った帝都の後宮は、蠱毒の壺だった。
正室である皇后、そして側室たちは、我が子を次なる皇帝の座につけるべく、微笑みの裏で猛毒を盛り合った。
昨日まで遊び相手だった異母弟や親類が池に浮いていたり、「流行病」で冷たくなっていたことなど、一度や二度ではない。そんな修羅の庭で、朗月は「出来損ない」として生を受けた。
「よく見よ。これも『国を護る』ということだ」
七歳の時だった。父王に連れられ、兄弟たちと城壁の上に立った記憶が蘇る。
眼下広場には、謀反を企てたという地方豪族とその一族郎党、その手引きをした親族――朗月が見知った顔も――数百人の首が、赤い果実のように晒されていた。
鉄の臭いが、鼻孔と思考を詰まらせる。
隣に立っていた父――皇帝の横顔は、笑ってはいなかった。
数百の死を前にしても揺らがぬ、凍てついた覚悟だけがあった。
父の向こうに立っていた長兄――第一皇子は、恍惚とした表情で並ぶ首たちを見下ろしていた。
『美しいですね、父上。逆賊の血こそ、瑞華の大地を堅める最良の肥料』
首筋には、興奮に合わせて赤い龍の痣が脈打っていた。
長兄の言葉を聞いた父帝や他の兄弟たちの表情がどうであったかは、今も思い出すことができない。覚えているのは、朗月はその場で蹲って嘔吐し、震え、涙を流したことだけ。
『……軟弱者』
誰かがそう、吐き捨てた。
聡明な兄姉たちは皆、その身に龍の祝福(印)を授かっていた。
力への渇望、万骨を枯らす冷徹さ、老獪な知略――兄姉たちがそれぞれ持って生まれた性質を、龍は是とした。
一方で、朗月には何もなかった。
肌は白磁のようで、印どころか一つの瑕瑾さえない。
血を忌み、争いを恐れるその優しい心を、龍は認めてくれなかったのだ。
(私は、逃げたのだ)
後継者争いという名の、殺し合いから。
兄弟たちの嘲笑から。
血で血を洗う「龍の血脈」そのものから。
誰も欲しがらぬ北の最果て、幽谷州への赴任を願い出た時、後宮の者たちが浮かべた憐憫と安堵が入り混じった顔は、よく覚えている。
『負け犬皇子』
そう呼ばれることは、朗月にとって安らぎでさえあった。
少なくとも自分だけは、民を傷つけなくて済む。
血の臭いに怯えなくて済むのだから。
「……買い被りだ、千里」
闇の中庭を映す玻璃に、自嘲の呟きが曇りとなって溶けていく。
朗月は窓に映る、ひどく頼りない自分の顔へ苦笑を向けた。
窓から離れ、朗月は寝台の脇の文机へ移動する。
卓上には、州侯から閲覧を許された膨大な資料を元に、朗月が自らの手で書き写した覚え書きが、束になって置かれていた。
記されているのは、近年の天候不順による凶作、治水工事の嘆願、疫病の流行――幽谷州が抱える窮状の数々。
朗月はこの資料を抱えて、州のあちこちを従者たちと共に視察していたのだ。
誰にも顧みられず、棄てられた土地を。
「線、か……」
朗月は、指先を慰めるように頁をめくった。
文字を目で追ってはいるが、今、脳裏を占めるのは千里のことだ。
(千里が言う『線』……水脈でも風脈でもない……あれは間違いなく『龍脈』のことだ)
白葉のような術者は、龍脈から溢れ出る気――龍気を感じ取り、練り上げ、操る。
故にその才もまた、龍に認められた証の一つだとされていた。
確かに術者も貴重な存在であるが、千里のように龍脈そのものを明確に「視」ることができる者に、朗月は出会ったことがない。
白葉に聞いたことがある。一流の術者であっても、龍脈はあくまで肌で「感じる」ものであり、物理的に視認できるわけではないのだと。
「……よし」
何かを思い立って、朗月は改めて手元の資料へ意識を向け直した。
指先が、ある報告書の一節で止まる。
「紅英」
「は。ここに」
間髪入れず、控えていた従者が音もなく室内へ身を滑り込ませた。
長い足を窮屈そうに折りたたみ、恭しく跪いた。文官の衣を纏ってはいるが、所作は洗練された武人のように無駄がなく、四肢にはしなやかな筋肉が秘められている。
「明日、訪ねたい場所がある。また雪中行軍になるから、皆にも伝えて準備をしてくれるか」
「――あ〜……」
紅英は一瞬、視線を天井へ泳がせたが、すぐに主へ戻して口の端をニッと吊り上げた。
「承知いたしました。実は、そうなるのではと、皆と話していたところです」
*
翌日。
千里はいつものように、山小屋で朝を迎えた。
獣皮の上衣の靴紐を結んでいると、不意に小屋の戸を外側から叩く音がした。
「……?」
老夫婦が亡くなってから、ここを尋ねる人間などいない。
慎重に戸を開けると軒の向こうに、朝日の逆光を浴びて、きらびやかな一団が待ち構えていた。
「おはよう、千里」
先頭に立つ朗月の暢気な笑顔が、出迎える。
「意外と寝坊助なのだな。昨日、私などの世話を焼いたせいで疲れさせてしまったか」
「え、あ……なんで?」
千里は鳩が豆をぶつけられたような顔で、朗月と、その背後の従者たち、そして見覚えのある顔――麓の村の猟師の男を交互に見比べた。猟師は千里と目が合うと、少し気まずそうに、しかし親しげに片手を挙げてみせた。
「なんで、ここが……」
「麓の村の長に場所を聞いたのだ。案内役も、彼が快く引き受けてくれてね」
千里は眉を寄せ、警戒心を露わにした。
「ここを知ってる奴なんているはず――」
「そんな訳が、ないであろう」
朗月の声音は、諭すように優しかった。
村の人間は皆、知っていた。
村外れの変わり者の老夫婦が山で奇妙な赤子を拾い、実の孫のように慈しんで育てていたことを。
『自分たちが逝ったあと、あの子を、どうか遠くからでいい、見守ってやってくれ』
と、村長や顔役たちに頭を下げて回っていたことも。
罠にかかった獲物の失敬もそうだ。
猟師たちは、「山の子猿への分け前だ」と黙認し、叱りはすれど、あえて見逃してやっていたに過ぎない。
「う……」
千里は、さっと顔を赤らめた。
「……何の用だよ」
バツが悪くなった千里は、照れ隠しに顔をぐしゃりとしかめた。
そんな幼子の心中を知ってか知らずか、朗月は微笑ましそうに目元を緩めた。
そして春風のように爽やかに、耳を疑う言葉を切り出した。
「千里、力を貸してくれないか。川の流れを、変えたいのだ」




