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龍脈の子  作者: キタノユ


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最終話 龍脈の子(前)

 千里が都での生活を始めてから、それは旬日(十日)目の朝だった。

 都全体が、早朝から張り詰めた空気に包まれていた。

 心なしか、聚星坊も珍しく静かだ。いつもの奇声が聞こえてこない。


「本日は、朗月殿下の正式な冊立さくりつの儀が宮中で行われます」

 懐安が朝食の席で、告げた。主に千里のために、即席の講義が開かれている。


「殿下は宗廟そうびょうに参拝し、天壇にて天龍に誓いを立て、陛下より太子の印璽いんじと冠を受けられます。これをもって、正式に皇太子となられるのです」

「それって、見られんの?」

「宮中の儀式ですから、民が目にすることはできません」

「なーんだ」


 千里は箸を止め、窓の外に目を向けた。

 宮城の方角に、屋根が連なっている。


 あの向こうで、これから、朗月が本当に皇太子――未来の皇帝――に、なろうとしている。


「……!」

 足の裏に、微かな震えが伝わった。

 地中を走る龍脈が、ひときわ大きく波打ったような感覚だった。


 懐の奥で、玉佩が熱を灯す。

 何かが、始まる。


「……朗月……」

 気がついたら、千里は聚星坊しゅうせいぼうを飛び出していた。


「千里、どこへ行くのです!」

 遠ざかる懐安と食堂のざわめきを背中に浴びながら、千里は門を抜けた。


 裏路地を抜け、市場の脇をすり抜け、祝いの飾りを潜り、荷車の間を縫って大通りを横切る。


 都の東端を過ぎると家並みが途切れ、雑草の生い茂る坂道に変わる。

 人の足が遠のいた先に、その丘はあった。


 石段を一段飛ばしで駆け上がり、最後の斜面を這うように登りきった時には、喉の奥が焼けるように熱かった。両手を膝につき、肩で息をする。


「なまっちまったかなー」

 都にきてから座学ばかりの日々だ。


 顔を上げると、眼下に都の全景が広がっていた。

 朝靄の彼方に、宮城が見える。

 幾重にも連なる楼閣の屋根が、連峰のようだ。


「見えるわけ、ないけどさ……」

 千里は草の上に座り込んだ。


 間も無く朝靄が薄れ、陽が東の山際を離れた。

 屋根の影が西へ伸び、縮む。


 大路を行き交う豆粒の人影が蠢く様子を眺めていると、急に、空気が震えた。


「!?」

 腹の底を揺さぶる鐘の音が、宮城の方角から響いた。

 千里は立ち上がる。


 一つ、二つ、三つ――鐘は鳴り止まなかった。

 都中の寺院がそれに応えるように次々と鐘を鳴らし始め、重奏が都の空気を埋め尽くしていく。


 慶賀の鐘か、天龍への報せか。

 冊立が、成ったのだ。


 その瞬間、千里の目は捉えた。

 地の底から、光が走った。


 都の地下を縦横に巡る龍脈が、一斉に脈動する。

 千里の足元から宮城へ向かって伸びる太い幹脈が青白い輝きを増し、眩いほどに明滅していた。


 光は枝脈から枝脈へと伝わり、都全体の龍脈がぶつかり合って波打つ。

 宮城の奥で、青い光の線が跳ねた。


 一本、二本、三本――七本。

 光の筋が幾重にも空へ躍り上がり、交差し、絡み合い、弾ける。

 龍たちが宮城の上空で鐘の音に合わせ、舞い踊っている。


「龍が喜んでる!」

 千里は蒼天を仰いだ。

 瑞華の龍達が、朗月を祝っている。


 鐘の音に呼ばれたように、あちこちから人の歓声が上がった。

 灯籠に一斉に火が灯り、爆竹の音が弾ける。

 眼下の大通りで人々が走り回り、手を叩き合い、笑っている。


 皆が、朗月を祝っている。


「朗月……」

 丘の上まで流れてくる祝いの音と匂いと、青い光の残照が、千里に軽い酔いをもたらした。


 丘を降りた千里は、祝いに沸く都の中を歩き回った。

 大通りでは辻々でまだ爆竹が鳴っていて、物売りが祝いの餅や飴を声を張り上げて商っている。


 茶楼の軒先で碁盤を囲みながら口々に瑞華の未来を語り合う人や、橋の上では楽師たちが即興の祝い曲を奏でている光景。


 どこを向いても人、人、人。

 都がまるごと祭りのようだった。


 でも誰も、本当の朗月を知らない。

 泥の中で笑った顔も、震える手で金冊を受けた姿も、民のための皇帝になると誓った決意も、何も知らない。


 人々が朗月の噂をする様子が嬉しかったり、腹立たしかったり。

 不思議な気持ちに胸を高ならせながら、千里は広い都の隅々を彷徨った。


 いつの間にか陽が落ちていた。

 通りの灯籠に明かりが点き、人々の顔が橙色に染まっている。


 門限はとうに、過ぎていた。



 聚星坊しゅうせいぼうの門は、閉まっていなかった。

 千里は懐安の叱責を覚悟して、まだ明かりがついている食堂の戸を恐る恐る開けた。


 片隅の卓に、懐安が座っていた。

 卓の上に茶碗が一つ。湯気はもう立っていない。


 千里の前の席に、夕餉ゆうげの膳が一人分、ふたをされて置いてあった。

 懐安は千里を一瞥したが、ただ茶碗に口をつけ、静かに啜った。


「毒見は必要ないでしょう。安心してお食べなさい」

 千里は一瞬きょとんとして、それから、小さく笑った。

 途端、腹が鳴る。


 蓋を取ると、まだ温もりの残る汁物と、麦飯と、青菜の炒め物が並んでいた。

 しばらく、勢いよく箸が碗に当たる音だけが響く。


「丘まで、鐘が聞こえた」

 千里が、飯を頬張りながら呟いた。

 今日は懐安から「口につめこみすぎない!」との注意は飛んでこなかった。


「そうですか」

 懐安の声は平坦だった。


「みんな、朗月のことを祝ってた!」

 興奮が醒めきれない様子の千里を見て、懐安は茶碗を卓に置いた。

 老爺ろうやの瞳が、遠くの光を映している。


「……朗月殿下は、幼い頃から、その優しさ故に、お辛い思いをされてきたお方です」

 千里の箸も、止まった。


「御兄弟の中で唯一、龍のお印をお持ちでなかった。宮中どころか都中で、国中で、陰で何と囁かれていたか。それでも殿下は一度として、他者を恨むお言葉を口にされなかった」


 懐安は茶碗の縁を指先で辿りながら、続けた。


「あの御方は、静かに耐えることを幼くして覚えてしまわれた。それが良いことかどうか。ですが……」

 茶碗に落とされていた老爺の視線が静かに上がり、千里の顔を捉えた。


「あなたをはじめ、聚星坊の皆が、あのように殿下のなされてきたことを正しく評価し、心から慕ってくださっている……。私にとって、これほど嬉しく、報われる思いのすることはございません」


 言葉の端に滲んだ震えを誤魔化すように、懐安はこほんと咳払いを一つした。

 すっと背筋を正し、いつもの隙のない「礼儀作法説教じいさん(千里・談)」な管理人の顔に戻る。


「早くお休みなさい。明日は鹵簿ろぼです。見たいでしょう」

「ロバ?」

「ろぼ、です。皇太子殿下が東宮にお入りになる際の御行列が大路を通るのです。殿下がお通りになる様子が、ご覧になれるかもしれません」

「見、見に行っていいのか!?」

「遠く離れた丘の上からなら、誰にも咎められませんでしょう。ただし、御顔を見ることは叶いませんよ」


 懐安はそれだけ言って、千里の前の膳に目を落とした。


「冷めないうちにお食べなさい。残すことは許しません」

「うん!」


 千里は慌てて箸を取り直し、汁物をかき込んだ。

 青菜を頬張り、麦飯を口に押し込む。


 懐安は新しい茶を淹れて、千里の前に置く。

 飯が詰まった紅い頬が懸命に動く様子を、老爺は静かに見守り続けた。

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