第二話 朗月という男
煤けた岩天井を、朱色の影が舐めるように揺らめいている。青年が身じろぎし、絹擦れの音をさせて上体を起こした。
「……君が、助けてくれたのか」
声は思いのほか深く、そして柔らかかった。
麓の猟師たちの、がなり立てるような声とは違う。
「死んでたら身ぐるみ剥ごうと思ってたんだけどな」
千里は火に枯れ枝を放り込みながら、ぶっきらぼうに言った。
「生きてるから、そうはいかないだろ。おれは千里。おまえは?」
「……そうか。世話をかけたな、千里」
青年は咎める様子もなく、朱に照らされた端正な顔をほころばせた。
「私は、朗月という」
微笑むと、薄暗かった洞穴に明かりが差したような錯覚を覚える。
身につけている衣はあちこち裂け、泥に塗れているというのに、背筋は若竹のように凛としていた。
ぐう。
朗月の腹から、間の抜けた音が鳴った。
「……面目ない」
朗月が苦笑して、腹を押さえる。
「待ってろ」
千里は立ち上がると、岩場を出たすぐ近くの灌木の茂みへと向かう。
雪に埋もれた枝の先を睨み、ぐっと目に力を込めた。
雪の下、枯れ木の中に微かに脈打つ、青い光の玉を見つけた。
千里は迷わず手を突っ込み、雪を払う。
現れたのは、枝にしがみついたまま凍りついた、数房の山葡萄だった。
「食う?」
戻ってきた千里が放り投げたそれを、朗月は両手で受け止めた。
「これは……」
凍った果実を口に含み、目を細める。
「甘い。氷菓子のようだ」
「だろ」
氷菓子が何かを千里は知らないが、冷えた山葡萄が美味いことは知っていた。
種を吐き出しながら、朗月は不思議そうに千里を見つめた。
「千里。君は、どうやってこれを見つけたのだ? 雪の下に埋もれていたというのに、まるで迷いがなかった」
「……見えるんだ」
千里は火のそばに座り直し、膝を抱えた。
「おれには、地面や木の中を走る『線』が見える。その光が集まってるところには、こういう食い物や、生き物がいるんだ」
信じてもらえるとは思っていない。
村の連中は「嘘つき」か「気味が悪い」と顔をしかめる。
朗月は違った。
「ほう……」
疑うどころか、興味深そうに身を乗り出してきたのだ。
「それは素晴らしい。だから、この厳しい冬山でも飢えることがないのだな」
「まあな」
千里がそっけなく答えると、朗月はふと視線を外し、眼下に広がる景色へと目を向けた。木々の隙間から、遠く麓の村や、平野を流れる川が小さく見える。
「……その力で、もっと多くの民たちが飢えないようにすることは、できないだろうか」
乾いた風に、独り言が流れてきた。
千里は眉を顰め、即座に言い返す。
「何言ってんだよ」
呆れたように、朗月を睨む。
「おれが見つけて、おれが獲った獲物は、おれのものだ。山じゃあ、自分の力で食って当たり前だ」
千里の剣呑な言葉に、朗月は一瞬、ぽかんと目を丸くした。
そして、目端を下げて頷く。
「……そうだな。君の言う通りだ。このように厳しい環境では、自分の命をつなげぬ者に、他者を救うことなどできようはずもない」
朗月は穏やかな瞳で、真っ直ぐに千里を見据えた。
「すまない。私が浅はかだった。君は、この山で生きる術をよく知る、賢い子だ」
「……」
千里は不意を突かれ、言葉を詰まらせた。なんだか、調子が狂う。
気まずさを紛らわせるように、千里は火に手をかざした。
ふと、奇妙な感覚に気づく。
暖かい。
手のひらに伝わる、火の熱さだけではない。
日向ぼっこをしているような、あるいは山の湯に浸かっているような、体の芯から末端まで心地よさが広がっていく。
「……」
千里はちらりと朗月を見た。
ぐっと丹田に力を入れる。
やはり、見える。
朗月の身体に、青白い光の尾が優しくまとわりついているのが。
(……こいつが何か、特別なのか?)
奇妙な酔いを感じて、千里は小さく身震いをした。
*
「供の者たちと、村々を見て回っていたのだ」
朗月は、バツが悪そうに頬をかいた。
「峠からの眺めがあまりに見事でな。絶景に見惚れて、つい一人でふらふらと足を踏み入れた先が……」
崖の吹き溜まりだった、というわけだ。
「おまえ、雪山をナメてんのか」
千里は焚き火の番をしながら、呆れ果てた息をついた。
「雪の下には、深い穴がいくらでも隠れてんだぞ」
雪が積もって橋のようになってる場所でも、踏み込んだ途端に崩落して真っ逆さまだ。千里は指で、ストンと落ちる仕草をして見せる。
「上ばっか見て歩いてると、山に食われるって、じいちゃんも言ってた」
「……返す言葉もない」
朗月はシュンと肩を落とした。
「その通りだ。私は無知で、愚かだった。恥ずかしい限りだ」
「え……えっと」
あまりに素直な反応に、千里はまた返す言葉を失った。
こんな風に、子どもの生意気を怒鳴り返さない大人は初めてだ。
千里はプイと顔を背けた。
「……煙、上げるからな」
千里は横穴から出て、慣れた手つきで枯れ枝や湿った落ち葉をかき集め、火打石で火をつける。
雪に濡れて薪が燻る様子を見て、指先で火打石の端を削り、粉末をパラパラと火種に振りかけた。すると、湿った枝が油を含んだ薪のように、一気に燃え上がった。黒い煙が勢いよく立ち昇り、龍のように空へと伸びていく。
「今のは……?」
朗月の目が見開かれた。
「不思議だな。これほど湿気た枝が、なぜ爆ぜるように燃える?」
「この石のおかげだよ」
千里は、火打石を朗月の眼前に差し出した。
「この山の奥で拾える石だよ。光が溜まってる場所にしばらく埋めとくと、すげえ燃えるようになるんだ」
「それは……」
朗月の面持ちが、切実な色を含む。
「……千里。それは、このあたりの地域ではよく知られた知恵なのか?」
「おれが見つけたんだ」
千里は鼻を鳴らした。
「おれはずっとこの山で、じい様たちとしか暮らしてないから、他は知らないよ」
「そうか……」
朗月は、立ち昇る黒煙を目で追いながら、独りごちた。
「幽谷州の村々をいくつか見て回ったが、冬を迎えるたびに、凍えて命を落とす者が後を絶たない場所もあった」
川の氾濫で湿気が多く、薪も常に湿っているような土地だ。
火を起こすことさえままならないという。
「もし、その村にこの石があれば……多くの命が、冬を越せるかもしれん」
朗月は千里に向き直った。瞳に熱が灯る。
「千里、君はこの品を商うつもりはないのか?」
千里はむっと眉を寄せた。
「金? いらないよ。おれは別に困ってないし、食うもんにも不自由してない」
バカにされたように感じて、千里は声を荒らげた。
朗月は、困ったように眉を下げ、穏やかに微笑んだ。
「金銭の話ではないのだ、千里。私が言いたいのは――」
朗月は、千里の手にある石を、宝物のように見つめた。
「君の知恵や異能は、尊い。多くの命を救う力を持っているのだ」
「……これ、が……?」
千里は、己の小さな掌を眺める。
そこにあるのは、ただの石ころ――誰も見向きもしなかったガラクタ。
青い光が、奥山の断層に埋まる石に集まって、ホタルの尻のように光っていたのを、千里が、たまたま発見したのだ。
ドクン、と心臓が大きく鳴った。
自分が生き延びるためだけの知恵や力を、この男は「尊い」と言った。
千里は喉を詰まらせた。
どう返していいか分からず、照れ隠しのように石を握りしめる。
その時だった。
「――殿下!」
凍てついた空気を、悲鳴にも似た鋭い声が矢のように貫いた。




