第二十八話 瑞華の未来
聚星坊の門を出て、路地を南へ下ること四半刻。
大通りを一本越えた先に、帝都の東市が広がっていた。
この日、千里は白葉、紅英、蒼嶽の三人と、買い物に繰り出していた。
荷物が少ないまま村を出た千里の日用品の買い物と、人手が多いこともあって、懐安から預かった買い物の書き付けもある。
「うわ……」
千里は、足を止めた。
市場はそれだけで、一つの街だった。
碁盤の目に区切られた通りが幾筋も走り、両脇にぎっしりと店が並んでいる。
青林村の市とは比べものにならない。
黒田郷の飯場の何十倍、何百倍、もしかして何千倍もの人間が、ひしめき合って蠢いていた。
一歩近づくごとに、匂いが強くなる。
炭火で炙られる羊肉の脂、蒸籠から立ち上る小麦粉の甘い湯気、香辛料の鋭い刺激。それらが入り混じって、市場全体を靄のように覆っている。
「しっかりつかまってなさい、はぐれるよ!」
紅英に手を引かれ、千里は人波の中に踏み出した。
最初の通りは菜蔬の並ぶ一角だった。葱、韮、蕪、冬瓜、牛蒡。荷車から降ろされたばかりの泥つきの大根が山と積まれ、水を打った蓮根の断面が白く光っている。青林村では見たことのない、破裂しそうに膨らんだ茄子や、掌ほどもある椎茸が笊に盛られていた。
「この茄子、でっけぇ……」
「南方から運ばれてくるんだ」
店主の説明に耳を傾けながら、千里は色とりどりの商品へ目を奪われていた。
笊の上に、鮮やかな朱色の棗と、黄金色の枇杷と、葡萄が並んでいる。秋の名残の果物だ。
どれもが黒田郷で見たものより一回りも二回りも大きく、色艶が良い。
しかもこれが毎朝、途切れることなく並ぶのだという。
「朗月が言ってたのは、こういうことなんだな」
「……千里」
白葉が足を止め、千里を振り返る。
「あの治水も、堤も、水路も、全部……こういうのが採れるようにしたかったんだ」
黒田郷の農地再開発は、ようやく初めての米が採れたばかり。
朗月が目指していたのは、この景色なのだ。
瑞華のどの村でも、どの市場でも、これだけの実りが当たり前に並ぶ国。
それが、朗月の作りたい瑞華の未来。
豊かなのは、農作物ばかりではない。
通りを一本越えると、空気が一変する。肉市だ。
豚の半身が鉤に吊るされ、鶏が脚を縛られたまま籠の中で鳴いている。
鹿肉、兎肉、雉の丸焼き。川魚を売る店では、生きた鯉が桶の中で跳ね、飛沫が石畳を濡らしていた。
「千ぼう、鯉を眺めるのは後にしろ」
蒼嶽が千里の襟を掴んで引き戻す。
千里は名残惜しそうに魚屋を振り返りつつ、三人の後を追った。
乾物を商う通りでは、干し海老、干し貝柱、乾燥きくらげ、干し筍が麻袋から溢れんばかりに積まれていた。
その隣に香辛料の店があり、花椒、桂皮、八角、丁子、乾姜が、それぞれ小さな壺に分けられて並んでいる。
花椒の壺の前を通った瞬間、千里は鼻の奥に痺れるような刺激を感じて、盛大にくしゃみをした。
「山椒より強烈だろう。都の料理には欠かせないんだ」
白葉が書き付けを確認しながら、店主に花椒と桂皮を注文している。
手慣れた様子だった。
紅英は紅英で、布地を扱う店の前で足を止めていた。
反物が天井から何十本も吊るされ、絹、麻、綿、葛布が色とりどりに揺れている。
「千里、あんた下着足りてる?」
「おれの下着の心配はいらねぇよ!」
千里が耳を赤くしている間に、紅英は手早く肌着用の麻布と、綿入れに使う厚手の綿布を選んでいた。
さらに奥に進むと、雑貨を商う一角に出た。
陶器の碗や匙、竹籠、木桶、蝋燭、油。筆墨紙硯を並べた文房具の店もある。
千里は足を止め、棚に並んだ筆を食い入るように見つめた。
「塾で使ってたのと全然違う」
「兎毫だな。都の書生はみなこれを使う」
白葉が一本手に取り、穂先を検めた。
「四方学林に通うなら、これくらいの筆は要る。買っておけ」
「高いよ」
「祝いに私が買ってやる」
こともなげに、白葉は店主へ大枚を渡す。
「殿下に恥をかかせないように、しっかり学べよ」
「あ、あ、ありがとう!!」
千里は筆を受け取り、穂先の柔らかさに目を見張った。
*
巨漢の蒼嶽が荷物に埋もれて歩く姿を、通りがかりの子どもたちが指差して笑っていった。
買い物を終えた四人は、市場の外れにある小さな食肆(飲食店)に立ち寄った。
湯気の立つ包子と、葱油餅と、酸辣湯を頼み、軒先の狭い卓を囲む。
千里が包子に齧りつくと、肉汁が弾けて顎を伝った。
「っ熱! うめ〜〜!」
「行儀が悪いって、懐安殿に見られたら雷が落ちるよ」
紅英が笑いながら、千里の顎を布で拭いてやった。
そんな時。
大通りの辻で、銅鑼が鳴った。
「お触れだ!」
道行く人々が足を止め、声のする方へ首を巡らせる。
蒼嶽が背を伸ばして人々の頭の上から見通した。
「榜文だ。役人が来ている」
「なになに?」
「大事な知らせが貼り出されるんだ」
残り数口を食べ終えてから、四人は人の流れの最後尾についた。
「何が起きてるんだ」
千里が背伸びをしたが、人垣に阻まれて見えない。
蒼嶽が千里の脇の下に手を入れ、ひょいと持ち上げた。
「見えるか?」
粉壁――白漆喰を塗った掲示用の壁の前に、下役たちが列を成している様子が見えた。糊の入った桶と刷毛を手にした男が、丁寧な手つきで一枚の大きな紙を壁に貼りつけていく。その脇で、もう一人の役人が銅鑼を打ち鳴らし続けている。
読み上げ係の役人が、朗々と声を張り上げる。
「――朕、天命を奉じ、宗廟に告げ、第七皇子朗月を冊して皇太子と為す。天下万民に布告し、ここに周知せしむ――」
辻の喧騒が一瞬、凪いだ。
「皇太子が立ったぞ!」
波紋のように騒ぎが広がる。
道端で荷を担いでいた男が天秤棒を置いて駆けつけ、茶楼の二階から客が身を乗り出した。
識字の商人や書生たちが榜文に群がり、その後ろから文字の読めない民衆が「何と書いてある」「読んでくれ」と口々にせがんでいる。
「七番目の皇子様って……?」
「烈雲殿下ではないのか?!」
あちこちで同時に議論が沸き起こり、辻はたちまち騒然となった。
噂が流れるのは早い。
聚星坊への帰路ですれ違う人々の口からも、判で押したように「皇太子」「第七皇子」の言葉が零れてくる。
「宮中や王府へ出入りしてる商人の噂じゃ、ずいぶん物静かで優しそうなお方だって話じゃないのさ」
「荒地を農地に蘇らせて、治水にも長けていらっしゃるとか」
魚屋の女将が、隣の八百屋の女房と声を弾ませている。
そこへ、通りかかった商人風の男たちが、聞こえよがしに口を挟んだ。
「あの烈雲殿下を差し置いてとはなぁ。連戦連勝の戦上手だというのに」
「なまっちろい皇太子様に、戦の指示が務まるのかね」
女将が振り返って、負けじと言い返す。
「あたしらにとっちゃ、食べることに困らないのが一番大事だよ」
「蛮族が攻めてきた時に、田んぼを耕すしか能のない皇太子で大丈夫かってんだ」
「戦ばっかりで田畑が荒れたらどうすんのさ?」
女房たちと商人たちの舌戦は止まる気配がない。
茶楼の軒先で茶を啜っていた野次馬たちは、無責任に囃し立てるばかりだ。
「勝手なことばっかり言ってる」
千里は三人の後ろを歩きながら、目を白黒させていた。
知らない人間たちが、会ったこともない朗月のことで唾を飛ばして口論している。
そんな光景が都のあちこちで、同時に沸き起こっていた。
紅英が肩をすくめた。
「皇子様方の品定めは、一種の娯楽なのさ。賭け事のネタになったりね」
聞こえてくるのは、朗月の名だけではない。
「烈雲殿下こそ次の帝にふさわしいのに」
「烈皇――太祖の再来と呼ばれたお方だぞ」
など、どの声にも、武勲で名を上げた第一皇子へ寄せた厚い期待がみてとれた。
むしろ巷では、新皇太子への期待よりも、第一皇子の武威を称賛し落選を惜しむ熱を帯びた声の方が、耳に多く入ってきたほどだ。
無責任な喧噪が、見えない石礫となって千里の胸の奥を容赦なく打ち据えた。
千里は弾かれたように石畳の上で足を止める。
「何だよみんな、朗月の兄ちゃんのことばっかり……」
ひりつくような塊が喉まで込み上げ、すんでのところで腹の底へと呑み込んだ。
千里の記憶に浮かぶ第一皇子は、紅い、血のような気を纏う――むしろ蝕まれているような姿だった。
あれは、死んだ獣に漂う龍気と同じ色だ。毒が盛られた椀も、荒れた瑞龍湖の渦も、そして皇帝も、同じ。
無自覚のうちに、千里の指先は重なる衣の奥へと滑り込んでいた。
肌身離さず忍ばせている玉佩の、滑らかな石の表面をそっと撫でる。
冷ややかであるはずの石肌が指先を通して、千里の不安を溶かしてくれる。
弟の髪留めの珠を引きちぎり、持ち去っていったあの第一皇子もまた、このやわらかな温もりを渇望していたのだろうか。
「どうしたの、ボク」
前を歩く紅英が、歩幅が緩んだ千里を振り返った。
「なあ、朗月は、大丈夫なのか?」
千里は周囲の喧騒から逃げるように、三人へ追い縋る。
「なんか、みんな兄ちゃんの方ばっか褒めてて――おれ、都に来てからずっと、朗月に会えてない、どうやって会えるのかも、わかんねぇし」
「私たちもだ。殿下はもう、お立場が変わられたのだ」
白葉の声は静かだった。
「朗月の味方は誰もいないのかよ!」
千里は顔を青くする。
どこにいるかも分からない場所で、独りきりなのではないか。
「燎駿がいる」
紅英が千里の隣に並んだ。
しばらく歩いて聚星坊へと通じる苔の路地へ足を踏み入れると、大路を埋め尽くしていた喧噪が、薄絹を引いたように遠ざかっていく。
人の気配へ気を配りながら、紅英はぽつりぽつりと口を開いた。
「殿下を含めて五人。アタシたち、宮中や王府でよく一緒に遊んだ仲なのよ」
三人は朗月の側に残り、燎駿は禁軍に入る道を選んだ。
「燎駿は、こうなると信じていたんだ。殿下への忠義を長い間、黙って研ぎ続けてきた」
紅英たち三人が朗月の側仕えでいられたのは、朗月が宮中の権力争いの外にいたから。だが皇太子――いずれ、それ以上ともなれば、身辺を固めるのは禁軍の精鋭に限られる。
「あいつ……朗月の味方になってくれるのか? なんか頭硬そうなやつだけど」
千里の生意気な毒に、紅英は「ふふっ」と吹き出した。
「大丈夫。命を懸けて殿下を守ってくれるよ」
そして、にっと笑う。
布告がなされてからというもの、都はあっという間に姿を変えていく。
大路に旗竿が立てられ、色鮮やかな吹き流しが秋風に翻る。
軒先には紅白の灯籠が吊るされ、商家の店先には祝いの花が飾られた。
人々は着々と、新たな瑞華の未来を祝う準備を、進めていた。




