第二十六話 旅立ち
旬日はあまりにも、短かった。
出立の日。
最後に立ち寄った黒泥村は、朝から総出で道に並んだ。
「千坊! 達者でな!」
「都の飯が口に合わねぇ時は、いつでも戻ってきなさいよ!」
千里は、あっという間に人の波に呑み込まれた。
人夫や村の女房たちが先を争うように手を伸ばし、涙ぐんだ眼差しで千里の頬や髪を撫でさすった。
「むきゅぅ〜〜〜っ!」
千里は頭上から降り注ぐ無数の手と声に、しばらく揉みくちゃにされていた。
愛情の洗礼からようやく抜け出した千里の前に、力強い土と鉄の香りが近づく。
「ボウズ」
ひび割れた渓舟の手が、千里の両肩をがっしりと掴んだ。
「おっちゃん!」
「いいか。よく聞いておけ。都にはな、底知れねぇ化け物たちが集まってくる」
「ば、バケモノ!? どんなやつだ!?」
渓舟が苦笑して、身を乗り出した千里の頭を小突く。
「皇帝陛下のお膝元はな、瑞華全土から選び抜かれた『一番』の連中だけが、『人材』としてかき集められるんだ」
「一番……だけ」
「己の道は、己の知恵と技で切り拓け。重ねた努力の量が、お前と、お前が守りたい誰かを救う盾と矛の強さになる」
言葉と手のひらに籠る痛いほどの熱は、渓舟自身の泥を啜る経験から沸き立つものだった。
「おっちゃん……」
千里は真っ直ぐに渓舟の目を見上げた。
胸の底が、熱く灯る。
「おれ、負けねぇ」
渓舟の言葉が種火のように心臓の真ん中に落ちて、赤々と燃え広がっていくのを感じた。
「おっちゃんが教えてくれたこと、全部持っていく。で、もっとでかくなって帰ってくる!」
「俺が爺にならんうちに、頼むぜ」
渓舟が目を細めた。
「おっちゃんって、翠蓮と同じこと言うよなー……」
「ん?」
「なんでも!」
渓舟はふっと息を吐き出す。
名残惜しさを断ち切るように千里の肩から手を離し、頭をもう一度だけ乱暴に撫でて、背を向けた。
そして、朗月の前に進み出る。
両拳を地につき、叩頭。
中央官吏時代に培った、一分の隙もない礼だった。
「渓舟殿、面を上げてくれ」
朗月が、自ら手を差し伸べた。
渓舟の腕を取り、立ち上がらせる。
「無官にて何の力も持たぬ私と、共に泥を踏んでくれたこと。深く、感謝している」
「殿下。約束を、覚えていらっしゃいますか」
渓舟は顔を上げ、朗月の目を真っ直ぐに見た。
翔鸞衛の武官が「控えよ、無礼な――」と前のめりになるも、燎駿の手が、無言でその肩を制した。
「約束?」
「はい。復活した農地で初めて採れた米を、召し上がった時に」
湿地に幹線水路が掘り上げられ、石積みの堤が築かれた後のことだ。
次の再開拓計画を語りながら、共に米を食べた飯場にて。
――その時はぜひ、この渓舟めに治水のご下命を。
――そうだな。もちろん、頼りにしている。
「ああ、あの時の。もちろん覚えている」
朗月は目元を和らげ、さらに一歩、渓舟に近づいた。
「其方の力を借りる時は、必ず訪れる。瑞華の水路が隅々にまで及ぶ日を、私は必ず実現しよう。その時は改めて、其方に託したい」
「身に余る光栄にございます!」
渓舟は深く頭を垂れた。
「その日まで、腕を磨いてお待ちしております」
顔を上げた渓舟の口元に、いつもの皮肉な笑みが乗っている。
目には、燃え続ける龍気灯ごとく、尽きせぬ滾る炎が宿っていた。
「お時間でございます」
燎駿の声が、出発の刻を告げる。
街道の脇に、一台の馬車が停められていた。
窓には薄い帳が垂れている。
千里は落ち着きなく、馬車に近づいた。
「これに乗るのか?」
車輪の太さ、車体の木組み、扉の蝶番。
物珍しそうにしゃがみ込んであちこちを覗き、車軸の仕組みに感心して指で触れようとしたところを、翔鸞衛の武官に「お手を」と止められた。
朗月が先に乗り込み、千里の手を引き上げる。
隊列の後方では、白葉、蒼嶽、紅英たちが馬に跨っていた。
そこへ燎駿が馬を寄せる。
「其方たちは後尾、翔鸞衛二騎の後ろにつけ。馬車との間隔は十馬身。それより前に出ることが無いよう」
「ずいぶんと後ろだな、燎駿」
紅英が唇を尖らせた。
「……」
燎駿の目がほんの一瞬だけ振れるも、すぐに表情が引き締められる。
燎駿はそっけなく馬首を返し、隊列の先頭へ戻っていった。
「出立!」
燎駿の号令が隊列の先頭から発せられた。
馬車が、ゆっくりと動き出した。
車輪が地を噛み、揺れが千里の体を小さく跳ねさせる。
千里は帳を捲って、後ろを振り返った。
人々が、街道の両側に並んでいた。
手を振る者、頭を下げる者、泣いている者。
その先頭で、渓舟が腕を組んだまま、微動だにせず立っている。
馬車が速度を上げた。
街道が伸び、人々の姿が小さくなっていく。
渓舟の背丈も、女房たちの色鮮やかな頭巾も、人夫たちの日焼けした腕も、少しずつ霞んでいった。
やがて道が緩やかに曲がり、郷の屋根が山裾の木々の向こうに消えた。
最後まで見えていたのは、集会場の棟木の先端だった。
それも、すぐに消えた。
千里は帳から手を離し、前を向く。
隣に座る朗月は、一度も後ろを振り返らなかった。
膝の上で組んだ指先が、白くなっている。
しばらく千里は、悪路に揺れる朗月の横顔ばかりを見つめていた。
村を出立し、都の方角から吹く南風に向かって進むこと、数刻。
辿り着いた最初の宿場村で、隊列は姿を変えた。
黒金の旗は仕舞い込まれ、翔鸞衛たちは鎧を脱いで地味な護衛の装いに。
朗月と千里も、質素な麻の旅装に着替えさせられた。
「商人みたいなかっこになった」
千里が袖を眺めて首を傾げると、燎駿が短く答えた。
「安全のためだ」
それから二十日あまり、旅は続いた。
かつて都から村へ戻った時と異なる乗り物と道筋で、一行は南下を続ける。
大河では舟に乗り換える。
千里は船縁から身を乗り出して水面に走る龍脈の光を追い、朗月に襟首を掴まれて引き戻された。
南下した対岸で再び馬車に乗り、山越えでは馬に乗り換える。
千里は朗月と一つ鞍にまたがり、燎駿が手綱を引いて山道を歩く。
峠から見下ろす雲海に千里が声を上げると、朗月も少しだけ笑った。
出立の頃は青ざめていた朗月の顔に、旅が進むにつれて少しずつ色が戻っていった。
千里が見るもの全てに目を輝かせ、問いを投げ、驚き、笑う。
朗月もまた景色に目を向け、千里の問いに答え、時には一緒に声を上げて笑った。
楽しい旅だった。
最後の山越えの前夜は、宿場村の庭で焚き火を起こした。
千里が手際よく枯れ枝を組み、火打ち石で火を熾す。
水を汲んだ小さな鍋を火にかけ、茶も淹れた。
「栗、もらってきた!」
千里が懐から転がり出したのは、宿場の女将が分けてくれた山栗だった。
灰の中に埋め、じっくりと火を通す。
「こうやって入れとくと、甘くなるんだ」
「栗は私も大好物だ」
「おれも。山じゃ、毎年やってた」
茶が沸いた。朗月が碗に注ぎ、千里に手渡す。
灰の中で、栗が小さな音を立てて爆ぜた。
「千里」
「ん?」
「覚えているか。初めて会った時のこと」
千里は栗を火箸で転がしながら、顔を上げた。
「忘れねーよ!」
「あの時も、こうして焚き火を囲んだ」
朗月は碗を両手で包み、炎を見つめた。
「凍った山葡萄が、あれほど甘くて美味いとは、知らなかった」
「あれも、おれの好物のおやつなんだぜ」
千里は焼けた栗を灰から掻き出す。
熱さをものともせず、小さな指先で器用に殻を剥いた。
「ほら」
半分に割って、大きい方を朗月に差し出す。
「千里が大きい方をお食べ」
朗月は小さい方へ手を伸ばした。
「……甘いな」
「だろ」
秋夜の冷気に、焼き栗と茶の湯気の香。
商人の旅装に身を包んだ二人は、まるで若い父子か、兄弟のようだった。
穏やかな輪の外、焚き火の明かりが届かない闇の中で、燎駿はじめ翔鸞衛たちが庭の四隅と宿場の入口に立って見張りを続けている。
旅の最後の夜が、静かに更けていく。
やがて千里の瞼が重くなった。
碗を両手で抱えたまま、頭がこくりと傾ぐ。持ち直して、また傾ぐ。
三度目に、碗が危うく膝から滑り落ちかけた。
朗月はそっと千里の手から碗を抜き取り、座る位置を少しずらして体を寄せた。
傾いでくる小さな頭を、膝の上に受け止めてやる。
千里は一度だけ薄く目を開けたが、朗月の温もりを確かめるとすぐに瞼を閉じ、そのまま寝息を立て始めた。
朗月は動かなかった。
千里の頭の重みを乗せたまま、焚き火の向こうの闇を見つめていた。
炎が小さくなり、熾火が赤く脈打つ。
明滅の向こうに、星を遮り闇を渡る黒い稜線が浮かんでいた。
峠の先に、都がある。
穏やかな旅が、終わる。




