第二十五話 準備
出立は、旬日(十日)後と決まった。
黒泥沼の集会場には、見慣れた顔と、新しい顔が並んでいた。
「この場を設えてくれたことに、礼を言う」
朗月が卓の端に立ち、四人に向けて微笑みを見せるところから、引き継ぎの議事が始まる。
列席するのは渓舟と、その隣に助手の若い男。
反対側には、新たに着任した幽谷州侯が腰を据えている。
豚侯と呼ばれていた前任者と異なり、よく雪焼けした、やる気に満ちた偉丈夫だ。
隣に並ぶのは、朗月が治水計画の折衝で顔を合わせた北玄道の総督である。
今も変わらぬ力強い眼光を湛えていた。
隅では、護衛の燎駿が存在を消して佇む。
朗月から「この場の私は皇太子ではない。そのように見守ってほしい」と強く頼まれている。
燎駿はそれを、黙って受け入れていた。
「治水と農地復興の計画の全容は、こちらに」
朗月が新州侯に、書類の束を差し出す。
一つ一つを紐解きながら、工事の進捗を説明していった。
「現場のことは渓舟がすべて掌握している。専門の判断は彼に任せておけば、間違いはない」
「残る課題は、何かございますでしょうか」
新州侯は、盛んなる意欲を滾らせ、朗月や渓舟へ矢継ぎ早に問いを投げかける。
気骨ある後任者の姿に、朗月は知らず、張り詰めていた肩の力を抜いた。
一刻あまりをかけて、引き継ぎは終わりを迎えた。
朗月は資料の一式を重ね改めて後任者の前へ差し出すと、静かに立ち上がった。
卓を囲む全員の顔を、一人ずつ見渡す。
「何の官職も権限も持たぬままやってきた私に、皆が力を尽くしてくれた。深く、感謝する」
卓を囲む者たちが、椅子を引いて立ち上がった。
示し合わせたように朗月の前に、深く腰を落とす。
「殿下の御前途に、光あらんことを」
朗月は卓上に残る図面の端を、名残を惜しむようにいつまでも見つめていた。
*
青林村の塾は、その日、いつもと少し違う匂いがした。
老教師が特別に許した菓子や干し果物が卓の上に並び、子どもたちが車座になって騒いでいる。
その真ん中に、千里がいた。
「都かー。いいなあ!」
「遠いんでしょ? 馬でどのくらい?」
涙はなく、むしろ誰もが目を輝かせて千里を質問攻めにしている。
「千里、都ではどんな学校に通うの?」
鈴が干し杏を頬張りながら尋ねた。
「えっと……四方学林ってところ、らしい」
「千里なら都でも絶対に大丈夫だよ。うちの塾で一番なんだから」
「最初は名前も書けなかったくせにね!」
「今は建国七英傑の難しい名前だって、ぜんぶ書けるんだぜ!」
教室がまた笑いに包まれた。
その輪から少し離れた教壇の傍で、老教師はにこやかに子どもたちを見つめていた。
四方学林。
老教師にはその門がどれほど高いか、よく分かっていた。
都の太学の付属塾にして、瑞華でも指折りの学び舎だ。
入学が許されるのは、高位の貴族や高官の子女、各地から選抜された神童、あるいは皇族や重臣の推薦を得た特別枠の者のみ。
山から下りてきた子猿であった千里が、今や村塾で一番の秀才と、成長著しい。
物事を疑える頭と、無知を恥じずに問える素直さがある。
どうか大きな挫折と、良からぬ思惑に潰されぬまま、育ってほしい。
笑い声の絶えない輪の中心にいる千里を、老教師は感慨深く見つめた。
「老師も、お菓子をどうぞ!」
鈴の声が飛んできて、老教師は「ああ」と短く応え、教壇を離れた。
*
一通りの別れの挨拶を済ませた千里は、山道を一人で登った。
護衛だといって付きまとう武官をふりきって撒いて、養父母と過ごした小屋へ辿り着く。
久しぶりに帰ってきた。
戸を押し開けると、埃と、乾いた木の匂いがした。
見慣れたはずの狭い屋内が、やけに広く感じる。
千里は寝台に腰を下ろし、ぐるりと室内を見回した。
壁に掛けた罠、箱いっぱいに集めた石、天井から吊るした薬草の束や獣の骨。
「……あれ」
胸のどこかが、きゅっと縮んだ。
外から気配が近づいて、戸口に影が差す。
「千里」
柔らかい呼びかけは、朗月だった。
背後に燎駿と武官の姿が見えたが、朗月が振り返って一言告げると、護衛たちは小屋の外で足を止めた。
「入るよ」
朗月は身を屈めて戸口を潜り、千里の隣に腰を下ろした。
「荷造りか」
「うん……でも何を持ってけばいいか、分かんなくて」
千里は落ち着きなく、寝台周辺を見渡す。
「千里」
朗月が静かに切り出した。
「父上も、君にたくさん勉強して、この国のために成長してほしいと思っておられるのだ。君には、その眼を活かせるだけの賢さがある。初めて君と出会った時に私が感じた予感は……正しかった」
千里は朗月へ顔を向け、にかっと笑ってみせた。
「おれさ、楽しみなこともあるんだ」
千里は立ち上がり、棚の上から石や木片が詰め込まれた箱を引っ張り出した。
「これ、山で初めて見つけた龍気石。もう、気は抜けちまってるけど。こっちは、おれが考えた魚をとる仕掛けと、干し肉を作る箱。中に龍気石を入れると、すぐできるんだぜ」
次々と手に取っては朗月に見せる。
目が、少しずつ輝きを取り戻していく。
「四方学林ってすげぇとこなんだろ? おっちゃんみたいになって、もっといいもん作れるようになりたいんだ」
千里は喋りながら、また別の箱を取り出す。
蓋を開けた瞬間、手が止まった。
中に、麻の上衣が畳んで入っていた。
裾が少し擦り切れているが、千里の体に合わせて何度も直された跡があった。
その下には、鹿の角で作った小刀と、木を削って作った匙。
青林村の老夫婦が、千里のために拵えてくれたものだった。
箱の中から、閉じ込められていた思い出の気配が立ち昇る。
老夫婦と過ごした囲炉裏の煙と、干し草と、ともに啜った獣汁の匂い。
「……全部は、持ってけないな」
千里の声が、震えた。指先が上衣の縫い目をなぞる。
堪えようとして、唇を噛んだ。
だが、一度こぼれ始めた涙は止まらなかった。
「っ……ぅううぇ……」
ぼろぼろと、熱い雫が頬を伝って落ちていく。
袖で拭った端から新しい涙が溢れた。
「千里」
朗月の温かな手が伸びて、肩を引き寄せた。
千里は朗月の胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。
朗月は何も言わなかった。
震える小さな体を袖で包みこんだまま、いつまでもそうしていた。
小屋の外では翔鸞衛の武官たちが、辛抱強く待ち続けていた。




