第一話 幽谷の野生児
「――はっ……」
腹の底に響くような地鳴りが、夢の殻を破った。
「地揺れ!?」
少年――千里は、身を弾ませて跳ね起きた。
心臓が早鐘を打っている。
びっしょりと背中を濡らした寝汗が、急速に冷えていく。
視界が明滅する。
また、いつもの夢だ。
息を整えようとするが、地面の震えが止まらない。
大地そのものが「痛い」と悲鳴を上げているような嫌な音が、起き抜けの頭に響いてくる。
「……最近、よく揺れるんだよな」
ひとりごち、のろりと寝台から降りて千里は部屋の隅にある水瓶へと歩み寄った。柄杓ですくった水は、氷のように冷たい。両手で抱えて一気に飲み干すと、ようやく身体の芯に残っていた夢の熱が冷めていく。
瓶の波紋が静まると、水面に幼い少年の顔が浮かび上がった。
日焼けとも汚れともつかぬ、浅黒い肌。伸び放題の黒髪は頭の後ろで無造作に結ばれて、頭頂部や前髪が鳥の巣のように跳ねている。
それでも顔だけは子ども特有の丸い肉がついていて、爛々《らんらん》と光る幼獣のような瞳もともなって、幼く見えた。
千里はしばらく水鏡の中の自分を睨みつけ、乱暴に口元を拭い、室内を見渡した。
岩穴を利用して作られた粗末な小屋の中、壁には乾燥させた獣の皮や、煎じて薬にするための草の根が無造作に吊るされている。
床には、変わった形をした石ころや、小動物の骨、泥で描かれた地図のようなものが散らかっていて、足の踏み場もない。
かつて千里を拾ってくれた老夫婦は、もういない。
流行り病であっけなく逝ってしまった。
十歳の千里に残されたのは、粗末な森の小屋と、山で生き抜くための知恵だけ。
*
瑞華国、北玄道の冬は長い。
鉛色の空から絶え間なく落ちる雪が、山肌を厚い灰白で塗り固めている。
千里は寝起きの麻衣の上から、熊の毛皮から作られた分厚い胴着を頭からすっぽりと被った。獣の脂の匂いが染み付いたそれは、死んだじい様が残してくれた唯一の防寒具だ。身の丈に合わず裾を引きずりそうになるが、腰紐をきつく縛れば冷気は入ってこない。
凍りついた扉を蹴り開け、外へ出る。
鼻孔を突き刺す鋭い冷気。吐く息が瞬時に白く輝いた。
膝まで埋まる雪をものともせず、千里は慣れた足取りで斜面を駆け上がる。
小屋から少し森へ入ったところに、木々が開けた広場があった。
一面が新雪に覆われている。
手前で立ち止まり、深く息を吸い込む。
ぐっと丹田に力を込めた。
――流れが、視える。
白い雪原が透き通り、その下を走る青白い光の線が浮かび上がった。
線は、根や葉脈のように複雑に絡み合い、太くなったり細くなったりしながら脈動している。
「……あった」
無数に走る線の中で、光が一際明るい箇所を見つけた。
その一点を狙って雪と土を掘り返す。
顔を出したのは、ひっそりと春を待つフキノトウの芽だ。
「こいつは、刻んで味噌と練る」
泥を払いながら、千里は誰に聞かせるでもなく呟いた。
拾ってくれた老婆の、癖でもある。
フキノトウを焼き石の上で炙って焦がしてやれば、保存食になる。
苦味が凍えた身体には薬になるのだ。
喉を鳴らし、摘み取った腰の袋へ放り込む。
この作業を繰り返せば、獲物の少ない冬でも食いっぱぐれることはない。
次に、千里は山を少し下った。
雪上の獣道を見つけ、再び意識を集中する。
斜面を流れる青く清浄な線の中に、異質な色が混じっていた。
流れることなく、一箇所に留まる赤黒い点。
「……かかってるな」
澱みを目指して雪を滑り降りると、灌木の陰に、罠にかかって事切れた野兎が転がっていた。麓の村の狩人が仕掛けたものだ。千里は躊躇なく罠を外し、まだ温かい獲物を無造作に掴み上げた。
「こら、またお前か!」
下の方から、怒声が響いた。
枯れ木の間から、毛皮を着込んだ村の男たちが指差して喚いているのが見える。
「この泥棒猿め!」
「山の恵みは早い者勝ちだ!」
千里は悪びれもせず言い返すと、獲物を懐にねじ込み、身を翻した。
麓の連中に、追いつけるはずもない。
十歳の体躯は、言葉通り木々の間を飛び回る猿のように軽く、あっという間に白い斜面を駆け上がり、その姿を森の奥深くへと消した。
物心がついた頃から、千里の目には、他人には見えぬ景色が映っていた。
世界には、無数の「線」が走っている。
川や、根とも違う、それは薄闇に浮かぶ蛍火のように青白く発光し、うねりながら、ありとあらゆる場所を貫いている。
分厚い岩盤の下も、凍てつく川の底も、巨木の幹の中も、小屋の下でさえも。
絡み合い、離れ、また交わりながら、尽きることなく脈動を続けているのだ。
干し肉の蓄えをもう少し増やしておきたい。
千里は、さらに深く山を分け入ることにした。
罠にかかった獲物のおこぼれでもいいし、雪の深さに足を奪われ、峠を越えられずに力尽きた獣の屍肉でも構わない。
凍てつく急斜面を這い上がり、峠へと向かう途中、立ち止まって目の奥に力を入れる。
――ドクン
視界の奥で、脈打つ音がした。
「……何だ、あれ」
千里は思わず息を呑んだ。
峠の中腹あたりに、これまで見たこともない凄まじい光の溜まり場が見えたのだ。
地中から噴出した青白い光が池を作っているかのように、濃密な輝きが渦巻いている。
千里は雪を蹴って駆け出した。
途中、足取りを緩める。
もし、あの中に冬眠中の熊のような大物が潜んでいたら――?
恐怖と好奇心に葛藤しながら、千里は足音を殺し、慎重に光の池へと滲り寄る。
光の中心には、新雪がこんもりと、小さなかまくらのように盛り上がっていた。
獣の形ではない。
「……人、か!?」
駆け寄り、雪を払いのけた。
そこに、男が倒れていた。
見上げれば、雪崩れたような痕跡が斜面に残っている。
ずいぶんと高い場所から滑落してきたようだ。
「生きてるか」
死体なら身包みを剥ぐだけだが、生存者なら厄介だ。
脈を見る。
生きている。
それどころか、あちこちの衣が裂けているものの、目立つ外傷は擦り傷程度だ。
これだけの高さから落ちて、五体満足なのが信じられない。
意識はないようだ。
「……ったく」
大人の男を、小屋まで引きずり上げるのは不可能だ。
かといって、このまま雪に埋もれさせるのも寝覚めが悪い。
千里は舌打ちし、青年の襟首を掴むと、どうにか近くの岩場にある風除けの横穴まで引きずっていき、雪のない乾いた地面へと転がした。
「面倒なやつ」
愚痴で息を整えながら、改めて拾った男を見る。
若く、端正な顔立ちをしている。
何より目を引くのはその身なりだ。
破れてはいるが、見たこともないほど上等な衣に包まれている。
濡れたような艶を持つ布地は、おそらく絹だ。
襟元には複雑な模様が光る糸で刺繍されており、その精緻な仕事ぶりは、山育ちの千里でさえも、ただならぬ価値があるものだと理解できた。
「よく生きてるな」
新雪が被るほど長時間倒れていたのなら、一晩は経過しているはずだ。
だけど青年の呼吸は穏やかで、肌に触れても死人のような冷たさがない。
「……あの光の、おかげ?」
千里は眉をひそめ、再び「視」た。
岩場に横たわる青年の身体に、光が集まっていた。
正確には、青白い線が慈しむように手を伸ばし、青年の四肢や胴へと柔らかく絡みついているのだ。青年を凍えさせまいと守り、温めているかのように。
「山神様が、守ってくれてるのか」
千里は、懐から火打ち石を取り出した。
手早く枯れ枝を集めて火を熾し、暖を取らせる。
腰に下げていた竹筒の水筒を焚き火にかざして少し温め、青年の乾いた唇に少しずつ流し込んだ。
「う……」
微かな呻き声と共に、長い睫毛が震えた。
ゆっくりと、瞼が開かれる。
露わになった瞳が、揺れる焚き火の炎と、覗き込む薄汚れた少年――千里を捉えた。
これが、後に帝国の新たな時代の礎を築くことになる二人の、運命の邂逅であった。




