序章 記憶
月の帝、北天に降り立つ。
万里侯、その影となりて、万世の安寧を拓くものとす。
――『瑞華正史』 巻九 朗月帝本紀 序文より
*
熱気。
何かが焦げ付く不快な臭い。
世界は、すべてを焼き尽くす紅蓮の炎に埋め尽くされていた。
その只中を、小さな命を抱いた影が駆けていく。
早鐘のように打つ心臓の音が、腕の中の幼子へと伝播する。
壊れたふいごのような喘鳴は、呼吸すらままならぬ苦しさを訴えていた。
降り注ぐ火の粉と炎の波が、逃げ惑う背中を容赦なく炙っていく。
「あっちだ! 逃がすな!」
「男とガキは殺せ! 女は生け捕りにしろ!」
怒号。
悲鳴。
肉を切り裂く鈍い音。
獲物を追い立てる飢えた獣のような殺気が、すぐ背後にまで迫っていた。
幼子を抱く腕に、悲痛な力が籠もる。
影は炎を抜け、森を抜け、開けた場所へと飛び出した。
行き止まりだった。
足元には、大地が裂けた巨大な谷が口を開けている。
底の見えぬ深淵からは、青白い光の濁流が、地鳴りのように吹き上がっていた。
追っ手の足音が止まる。
行き場を失った獲物をあざ笑う気配が、背中に迫る。
だが――その「誰か」は、迷わなかった。
震える唇を、幼子の額に押し当てる。
ふわりと、一瞬の浮遊感。
影は幼子を抱いたまま、空っぽの宙へと身を投げた。
天地がひっくり返るような衝撃と、鼓膜を圧する轟音。
谷底を流れる青い光の奔流が、二人を飲み込んだ。
熱いのか、冷たいのかも分からぬ混沌。
人智を超えた力が、柔らかな身体を押し潰そうと迫り来る。
「――生きて」
光の渦の中で、その声だけがはっきりと響いた。
「愛しい子……」
幼子を抱きしめていた腕が、ほどける。
視界いっぱいに広がる青白い光の中で、その人の姿は、水に落ちた雪のように溶け、奔流の一部となって消えていった。
残されたのは、柔らかな光の膜に繭のように包まれた、幼い命だけ。
光は濁流に揉まれながら、地の底深くへと流されていく。
深く、遠く。
命は青い闇へと呑まれていった。
*
やがて、どこからともなく鳥の声がした。
轟音も、焼けつくような熱さも、無い。
土と、枯れ葉と、干し草の匂い。
ザッ、ザッ、と草を踏む音が近づいた。
「……ここだ、光ったのは」
「おやまあ……こりゃあ」
しわがれた声が、二つ。
驚きと、困惑と、そして深い慈愛を含んだ響き。
「赤子じゃないか」
「なんと……山神様の落とし子かねえ」
節くれだった、しわくちゃの手が、幼子をそっと抱き上げる。
薄暗い森の冷たい空気が、火がついたように泣き出した赤子の声を、木々の隙間から空へと吸い上げていった。




