第13話 名を持たないという選択
夜更け、店の裏で帳を下ろす音がした。
最後の客が去り、
通りの喧騒が遠のく。
商人は、いつものように短く言った。
「今日は、ここまでだ」
「はい」
片付けを終え、
私は一歩引いた。
――ここで終わる関係も、あり得る。
それでも、商人は私を呼び止めた。
「一つ、聞いておく」
視線は合わない。
「……名前だ」
空気が、少しだけ変わった。
私は、すぐに答えなかった。
名前を持てば、
それは“戻れる場所”と結びつく。
呼ばれるたび、
思い出す。
令嬢だったこと。
婚約者だったこと。
断罪されたこと。
「今は、名乗りません」
はっきりと言った。
商人は、驚かない。
「理由は?」
「名を出せば、
それで判断されるからです」
王都の人間か。
厄介事を連れているか。
守る価値があるか。
そういうものは、
もう、いらない。
「ここでは、
“できること”だけでいい」
それが、私の答えだった。
商人は、しばらく黙っていた。
「……面倒な生き方だな」
「慣れています」
小さく、笑った。
商人は、それ以上聞かなかった。
「なら、しばらくはそれでいい」
それだけ言って、背を向ける。
名前を求められない。
詮索されない。
それは、
守られているわけではない。
でも――
尊重されている。
宿へ戻る道すがら、
私は立ち止まった。
夜風が、冷たい。
名を捨てたのではない。
奪われたわけでもない。
(今は、持たない)
それを選んだのは、
他でもない、自分だ。
王都には、
もう私の席はない。
でも、ここには、
まだ名前のいらない居場所がある。
婚約破棄の、その後の話は――
戻らない覚悟とともに、
確かに前へ進んでいた。




