モン転女は死にたがりに懐かれる
この小説はR15です。
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突然だが、異世界にモンスターとして転生してしまった。
前世、日本で広く浅くオタク文化に浸かっていたせいか、覚醒当時の状況把握と混乱からの回復、理不尽な現実への諦念はそれなりに早かったと思う。
ちなみに過去の記憶は自分が出てきた卵の殻を食べている最中に蘇った。
黒く淀んだ霧が常に立ち込める、深く暗い森の中に産まれ、ずっとそこで生活している。
湖などで確認した今の見た目は、虫の怪人といったところか。
濃い緑に黒色のまだら模様が走る厚い外殻に覆われた体、焦げ茶と橙色のワラをきつく編み込んだような胸と腹。
頭部には触覚の名残りか、あるいは角か、小さな突起が二つあった。
その下で光る宝石の如き黄の眼は大きく、三百六十度とはいかないが、かなりの広範囲を一度に見渡すことができる。
鳥のクチバシに似た薄茶の堅い口元は、しかし、上下ではなく左右に開き、中には紫色の針じみた鋭い舌があった。
その舌は、実際に数メートル先まで射出可能で、獲物を刺し殺したり、巻き付けて引き寄せたりといった使われ方をする。
怪人と評したのは、シルエットが完全に人のソレだったからだ。
指こそ四本だが、頭は一つで目が二つ、凹凸のない小さな穴だけの鼻と耳もあり、腕と足はそれぞれ二本一対。
尾や羽や鎌などといったオプションは存在しない。
ただ、手の指先、硬い爪の中には猛毒が含まれており、己の意思で分泌させることが出来た。
性別は女からメスと変化ないが、正直、ここまで別の生物になってしまった時点でそんなものは些事でしかないだろう。
記憶はあるが人間としての意識はやや薄く、本能に従いつつも理性あるモンスターとして、小賢しく立ち回っていた。
森の生物の強さを十段階に分割するなら、私は七か八といったそれなりに上位の種族にあたる。
勝手に森を表層、上層、中層、下層、深層と五つに区分けしているのだが、私は同種に倣って下層に居を構えていた。
と言っても、太い木の幹の高い位置に、丸めた体が入る程度の穴を開けた、本当に寝るためだけの場所でしかないのだけれど。
人間と違って生活に必要な道具も何もないし、暑さ寒さや濡れにも強ければ、飲料水や食事も近場でいくらでも確保可能であり、とどのつまり、現状の己には本格的な住居など無用の長物だったのだ。
むしろ、緊急時に即座に放棄できるものの方が都合が良い。
上には上が、まだいくらでも存在しているのだから。
とはいえ、成虫となった今の私ならば、余程バカな真似をしない限り、そうそう命の危機に瀕することもないだろうが。
季節の巡りを数えるに生まれて十五年は経っていると思うけれど、その間、一度も森から出たことがないので、この世界の文明がどう展開されているのかは全くもって不明だ。
あぁ、人間の存在は確認している。
黒霧の薄い表層で時折見かけるからだ。
そして、私の目には、彼らは中層のモンスターですら倒せそうにない、弱い生き物と映った。
少し寂しくもあるが、おそらく今世で彼らと関わる日は来ないだろう。
黒霧の濃い土地の方が身体の調子は良いのだが、表層は植生が豊かなので、定期的に果物や蜂型モンスターの蜜などを採取に行っている。
下層や深層は、まさに魑魅魍魎の跋扈する魔の森といった雰囲気で、木々や草花も巨大で毒々しかったりトゲトゲしかったりして、食べられる種類のものも美味しいものもほとんど存在しないのだ。
だからといって、同種で私のように表層まで出向く者はいない。
基本的には肉食で、同じ下層のモンスターを狩って食べていれば事足りるからだ。
嗜好品を求めるのは自分が元人間だからで、知識も欲求も薄い彼らは、表層の恵みを口に入れたことすらないだろう。
まぁ、群れを作るタイプじゃないから、同種とはいえ生態に関しては不明瞭で、ほとんど勝手な推測でしかないのだけれど。
一応、成虫したメスなので、たまに出会ったオスにアプローチをかけられる時もあった。
とはいえ、こればかりは人間の意識が邪魔をしてしまって、誰も受け入れたことはない。
だから、一生このまま独りで、気ままな森暮らしをして、寿命か、その前に捕食されるかして死んでいくのだろうと、そう思っていた。
彼に出会うまでは。
ある日、いつものように美味を求めて森の表層を散策していた時のことだ。
ふと、人間の呟きらしき音を耳穴が拾った。
この森で人と遭遇することはかなり珍しいので、娯楽代わりに遠目で観察してやろうと、私はいそいそ体の向きを変える。
声を追ってたどり着いた先で、木々の隙間からチョイと覗き見れば、表層にしては大きな木の根元に二十歳前後と思わしき茶髪の青年が立っていた。
森に侵入してくるのは基本的に狩りの装備を整えたむさ苦しい男たちばかりだが、彼は荒事に無関係な町民や農民がふらっと立ち寄ったような恰好をしている。
前世でいえば、富士山にスカートとハイヒールで来る女性ぐらい場違いだ。
異世界の言語など学ぶ機会もなかったので、独り言の意味は分からなかったけれど、過去の記憶から、男の目的は即座に理解した。
太い木の枝には一本の縄が結ばれ、垂れる先にはちょうど人の頭部ほどの輪が作られている。
そして、私が物見遊山している前で、青年は地上に盛り上がる立派な根を踏み台にして、輪を掴み、自身の顔をゆっくりソレに近付けて……。
「……おじい様、おばあ様、先立つ不孝をお許しください」
「キシャーーーーッ!(ちょっと待ったあーーーー)」
「ぃやああああああぅわぁ!?」
反射的に飛び出して、すれ違いざまに爪で縄の半ばを切る。
すると、突如現れたモンスターに驚き悲鳴を上げた青年は、張りを失った輪を握ったまま足を滑らせ、尻から地面に落ちていった。
「ひっ、い、いやだっ、痛いのはっ、生きたまま食べられるのは嫌だぁ!」
何事か叫びながら、彼は強かに打って痛むであろう臀部が擦れるにも構わず、必死に腕と足を動かし、少しでも私という化け物から遠ざからんと後ずさっている。
ドッキリ企画なら滑稽であろうが、現実にはひたすら憐れでしかない。
……私はなにをやっているんだろう。
これまで、森で死にゆく人間を助けてやったことなど、一度たりとてなかったのに。
モンスターの蔓延る危険な場所に、それと承知で入ってきたのであれば、命を失ったところで自業自得、自然の摂理だ。
彼らの死にいちいち心を痛めたこともない。
この場違いな青年だって、表層のモンスターに襲われているのなら、おそらく手は出さなかっただろう。
なのに、首をくくろうとしているという状況に変わっただけで、思わず体が動いてしまった。
なんの意味もない、無駄で不毛な行いだ。
縄ひとつ切った程度で、青年をここまで追い詰めた元凶も、彼に巣食う死を望むほどの絶望も、変わるものではないだろうに。
どうせ、どこか他の場所で同じことを繰り返すだけだ。
あぁ、馬鹿な真似をした。
ただ、まぁ、やってしまったものは仕方がない。
つかず離れずでこのまま誘導して、今回だけは五体満足で森の外へ出て行ってもらおう。
「シャッ!(はい、そこ右)」
「ひぃぃ!」
「シャギッ!(もうちょい左)」
「ひゃああ!」
腰でも抜けているのか混乱しているせいなのか、青年は立ち上がって逃げることをせず、ずっと尻を地面につけたまま後ずさり続けている。
手間のかかる軟弱男め。
そろそろチミのズボン破けるんじゃあないかね?
それから数分もしない内に、ついに男の指から後生大事に握られていた輪が滑り落ちた。
瞬間、彼はしまったという顔をしたが、私が足を止めなかったので慌ててその場から離れていく。
どうせ意味もないだろうが、私は敢えて彼の縄を拾い、爪でザクザクと細切れにしてやった。
「あぁっ、な、なけなしのロープがっ。
結び直して使おうと思っていたのに……っ」
途端、青年は退く動きを止め、なぜか大きくショックを受けたような表情でこちらを呆然と見つめてくる。
「シ?(なんぞ?)」
「……ぼ、僕、僕はっ、あぁっ、くそっ、この落ちこぼれめ、出来損ないの愚鈍なお荷物め、死ぬことすらマトモに出来ないなんてっ」
やがて、顔面を大きく歪め滂沱の涙に頬を濡らしながら、男は幾度と喉を低く震わせた。
黙って様子を眺めていれば、終いには、どうにでもしてくれとばかりに大の字で地面に寝転がってしまう。
「い、痛いのが嫌だなんて、不相応な我がままだったんだ、僕、僕なんか、最初に、最初から、こうしていれば良かったんだ」
なんやねんな、もぉーっ。
変なスイッチが入ってしまったらしい青年は、もう私が近付こうが軽く指で触れてみようが、頑として動こうとはしなかった。
それならそれで彼の存在を無視して帰っても良かったけれど、一度やると決めたことを半端に放棄するのは気持ちが悪い。
仕方がないので、私は彼を森の外まで運んでやることにした。
脇の下に手を入れて青年を持ち上げ、それから、赤ん坊をゲップさせる時のような形で腕をヤワな背と尻に回し抱きかかえる。
どうしてこの体勢なのかというと、前世、年が十以上離れた妹をよくこうして抱きあやしていたので、つい癖で、といったところだ。
私の胸にギリギリ届かないぐらいの背丈である男だが、この身は虫系モンスターらしく怪力なので、彼程度の重さならばどう運ぼうが何の負担にもならない。
ちなみに、彼の身長が低いのではなく、モンスターである私がデカいのである。
ほとんど無意識に男の背をポンポン叩きながら速足で歩いていると、やがて彼は泣き疲れた幼児のように、あっさり私の腕の中で眠りについてしまった。
私、下層に住む激ヤバ肉食モンスターなんですけどねぇ。
まったく、人生の迷子は手がかかるったら。
自分で死ぬにしろ殺されるにしろ、続きは私の見えないところでやってちょうだいよ。
表層の中でも軟弱な青年が生きて紛れ込める程度のごく浅い位置だったので、目的地にたどり着くまでそう時は要さなかった。
むくつけき漢たちが森への出入りによく利用している獣道のあるポイントだ。
狂暴な人間がウロついているから、この近辺には動物もモンスターもあまり寄り付かない。
適当に転がしておけば、よほど運が悪くない限り五体満足で人里まで帰れるだろう。
ということで、木の幹に背を寄りかからせる姿勢で、青年を地面へ降ろしてやる。
すると、その際の振動で目が覚めてしまったらしい彼が、夢うつつに私の姿を視界に入れ、次の瞬間には、絹を引き裂くような甲高い悲鳴を上げた。
「っきゃああああああああ!」
叫び声がいちいち女々しいんだよなぁ。
心に乙女でも飼っているのかい?
しかし、もう一度怯えてくれるのなら、ちょうどいい。
先ほどのようなヤケッパチの無反応状態になる前に、家に逃げ帰ってもらおう。
私は、男へ不快や警戒の仕草……ギチギチと軽く歯音を立てて、視線を外さずに後ろ歩きで傍から離れていく。
が、フェードアウト失敗。
そこから十歩もしない内に、青年はハッと正気に返ったような顔をして、慌てて身を起こし、なにをどうトチ狂ったのか、私の足にダイブで縋り付いてきた。
「待って、行かないで!」
「ギィッ(はぁ?)」
「ぼ、僕、あんな風に優しく抱いてもらったのは初めてで……っ!
貴女は魔物で、僕がずっと夢に見ていたような温もりも柔らかさもなかったけれど、それでも、僕は嬉しかった、幸せだと思えた!
だから、どうせ殺されるのなら、貴女がいい!
貴女に殺されて、そして、可能なら、食べられたい、貴女の糧になりたいんだ!」
彼が放つ言葉の意味は分からないが、必死に引き止められているのは間違いない。
人間の若い男が、モンスターである私を、だ。
……どうも、酷く面倒な事態に陥っている気がする。
「シャア!(離せっ)」
「っひ、ぃや、す、凄まれたって、諦めないぞ!
怒って攻撃してくれるまで、ずっとこうしててやるんだから!
貴女が僕なんかに優しくしたのがいけないんだ!」
威嚇したら、更に強くしがみ付かれてしまった。
いや、マジでコレどういう状況?
うーーーーん。
こんなヤバい森に首をくくりに来るぐらいだから、人間社会で相当厳しい扱いを受けていたのかもしれないけれど。
だからって、死ぬのを邪魔してここまで運んでやっただけで懐くとか、有り得るかぁ?
美女っぽい見た目をしてる種族ならまだしも、クッソ気持ち悪い虫怪人やぞ、私。
「お、お願い、どうか、どうか」
ねぇ。悪いけど、私の住処は人間を飼えるような環境じゃないのよ、諦めてちょうだい。
もちろん、私が人里に赴いて君を助けることだって出来はしないし。
ていうか、いい大人なんだから自分のことぐらい自分でなんとかしてくれる?
意思疎通も不可能な異種族から頼られたところで困るだけなの、お分かり?
さ、坊やは良い子でお家に帰りなさい。
「ギッ、ギィッ(おらっ、力で敵うと思うてか)」
「あっあっやだやだやだ剥がさないで」
足と青年の間に腕を突っ込んで無理やり手を離させれば、今度はその腕の方を懸命に掴んで来る始末。
「やだぁ行かないで殺してぇっ」
「グギギッ(人の言葉なんか分かんないってばっ)」
もぉーーっ、本当に何がしたいのよ、この人間はぁーーーっ。
いい加減にイラついて、私は右手首に青年をぶら下げたまま踵を返し、己の巣がある方向へと足を進めた。
下層までそれなりに遠い。
弱い人間でしかない男は、引きずっている内に疲れて自然と落ちてくれるだろう。
そうしたら、あとは適当なモンスターに襲われてジ・エンドだ。
彼の手を丸ごと切断なりすれば早々に終わる話だけれど、自死の邪魔をしてしまった身としては今さら傷付けるのも気が引ける。
……ということで。
ふんっ、もう勝手にしなさいっ。
この先どうなっても、お母さん知りませんからねっ。
あ、これはギャグ的表現であって、私はこの男の母親ではありませんよ。
近頃の世の中は狂ってるから、こう言っておかないと本気にする人が出ちゃうからね。
世知辛いね。
なーんて。
フザケていられたのもそこまでだった。
現実というものは、本当に不条理で、只人の想像など簡単に裏切ってくれる。
まったくもって理屈が分からないけれど、森の中を引きずり回してやった青年は、下層に到着した今も無傷で私の腕にぶら下がっていた。
なんなら、最初の頃よりも力強いし、深度が進むにつれて元気になっていったような印象さえある。
……まさか、モンスターの血でも混じっている、とか?
いやでも、表層のモンスターなんかは黒霧の濃い場所に連れてくると辛そうにしているというか、普通に弱ってやがて死に至るぐらいだから、ちょっと血が混じっている程度じゃ言わずもがなだと思うのだけれど。
例えるなら、種族ごとに適した酸素濃度ってものがあって、薄すぎても濃すぎても苦しくなる、みたいな。
ある程度までは大丈夫だけど、適応範囲から極端に離れすぎると普通に逝けるよねっていう。
実際、黒霧は酸素より多種多様な機能が顕著に低下するし。
だから、私みたいにデバフを気にせず表層まで出てくるような下層モンスターっていうのは基本的にいないわけで。
「ぼ、僕、どうしちゃったんだろう。
体が軽くて、全然疲れない、呼吸がすごく楽だ。
あぁ、目もよく見える、耳も、鼻も……すごいっ。
こんな、全身に力が漲っているような、何でも出来るような気持ち、生まれて初めてだ」
男は自身の変化に戸惑いつつも、隠しきれぬ喜びに頬を赤らめている。
変だ、おかしい。
彼が正真正銘ただの人間であるならば、絶対にあり得ないことだ。
取り返しのつかないフラグを立ててしまったような、妙な焦りを感じずにはいられない。
私、もしかして、何かとんでもない生物を覚醒させてしまったのでは……?
「あの、ありがとう。
ここまで連れてきてくれて。
僕、この場所でなら、やっと人らしく暮らせる、自由に生きられる気がする」
「キキッ(めっちゃキラキラした目で見てくるやん)」
寝床の大木を前に立ち止まると、青年は私の前方にそそくさと回り込んで来て、両手でこちらの左手を包み込んでから、晴れやかな笑みで何事かを語りかけてきた。
当然、意味は分からないが、雰囲気から察するに、おそらく感謝されているのだろう。
しかし、自分が冷静でいられたのもそこまでだった。
「……あぁ、僕の運命の天使。
これまでの苦労は、きっと今日という日のための、全ては貴女と出会うための試練だったんだね」
「ギシッ!?(なんかこの人、急にとろけ顔になってるんですけどぉ!?)」
ヤダこわいっ!
コイツ、私を恋愛対象として見てる!?
人間のくせに虫怪人相手に発情してるの!?
嘘でしょ!?
わ、私、もしかして、何かとんでもない性癖を覚醒させてしまったのでは……!?
ひぃっ、手の甲をじっとり撫でまわさないでっ!
「シャゲェエエエエッ!(寄るな触るなあっち行けぇええええ)」
「わっ」
男が私の突然の雄叫びに驚いた隙に掴まれていた手を振り払い、高さ十八メートルはあろう巨木を登って素早く狭い巣穴に潜り込む。
それから、万一にも外から私が見えないように、横になって胎児の如く体を丸めた。
……足場になる枝や凹凸もない木だ、さすがに人間はここまで来れまい。
ううー、怖かった。
でも、次に外出する時までずっと下で待機されていたらと思うとゾッとしちゃう。
「……あぁ、なんだ。眠たかったんだね、邪魔してごめん」
「ギッ!(ひぇっ)」
やだぁああああぁいるぅうううううう!?
こっちを覗き込んで笑ってるぅぅううううう!
子猫を見るような慈愛に満ちた目を向けられてるぅぅうううう!
やだぁああああぁなんでぇええええええ!?
「おやすみ、愛しい人。
願わくば、僕の夢を見てくれますように」
ぎぇえええええ手を取られて爪先にキッスされたぁあああああ!
やだぁああああぁ…………あ、いなくなった。
な、なな、なんだってのよぉ。
本気で泣きそうなんですけど。
突然のホラー展開やめろっ。
ふぇぇ、不可抗力とはいえ、あんな人間連れて来るんじゃなかった。
同種のオスたちは断ったらすぐに諦めてくれるのに。
そんな無遠慮に巣穴まで覗き込んできたりしないのにぃっ。
下層やら深層のモンスターの誰か、お願いだから彼を狩り殺してぇぇ。
でも、どうしてか元気溌剌でストーカーされる未来像しか浮かばない。
ひーん、人生……じゃない、虫生お先真っ暗だよぉ。
死にゆかんとする若人を助けて、なにゆえ震えて眠る破目に陥らなければならないのか。
よもや前世の業とでも言うつもりか。
天は我を見放したのかっ。
いいや、納得いかないね、異議を申し立てまつるっ。
ひたすら悲観に暮れながらも、精神的な疲れからか、やがて私は寝落ちしてしまった。
そして、明くる日の早朝。
恐る恐る穴から外を覗けば、木の根元にモンスターの死骸が幾重にも積み重なっているという異常な光景が目に入る。
……ぜ、絶対にあの男の仕業だ。
間違いない、私には分かる。
貢ぎ物のつもり、なのだろうか。
動物のオスが意中のメスに甲斐性アピールとして持ってくるやつ。
自分の種族は、爪や舌の鋭さとか毒の強さとかを見せつけて、オッケーなら即合体って感じだし、アプローチ方法としては間違っていますよ。
いや、私に限っては人間準拠の意識を有しているから、そっちも効果としては微妙なところだけど。
ゼロではないのは、まぁ、本能というものがね、一応ね。
しかし、希死念慮に囚われていた軟弱な人間が、昨日の今日でこんな成果……あり得ないでしょう、常識的に考えて。
肉の山の中に十段階中の九と判断したクソ強モンスターが混じっているように見えるのは、私の目の錯覚だと信じたい。
ねぇ、いったい何が起こっているの?
教えて、偉い人。この際、エロい人でもいい。
心の底から説明が欲しい。
……が、現実は無常である。
「おはよう、愛しい人。
昨夜はよく眠れたかな」
ででで、出たっ。
なぜか一晩で体つきが絶妙に逞しくなっているけど、あの男だ。
彼は、大きな目玉のモンスターを小脇に抱えて、木々の隙間から颯爽と姿を現した。
なんだか自信満々といった風体で、首をくくろうとしていた時の陰鬱さはどこにもない。
最早よく似た別人と言われた方がしっくりくるレベルだ。
青年は目玉を抱えたまま木の幹に足をかけ、トットットッとリズミカルに跳び登ってくる。
彼の人間の限界を遥か超えた動きに、私は軽く眩暈を覚えた。
「やぁ、下のお肉は見てくれた?
貴女が何を好きか分からなかったから、目についた魔物を手当たり次第に獲ってきたんだ。
気に入るものがあれば嬉しいな」
巣穴のふちに手をかけて、はにかみ笑顔で話しかけてくる男。
私が虫系のモンスターでさえなければ、ドン引きの表情を見せてやれたのに。
「あ、この目玉の魔物はね、火おこしに使えないかと思って持って来たんだよ。
ガラスっぽい部分を切り出して、上手く太陽光を集められれば、貴女に焼いたお肉を食べさせてあげられるんじゃないかなって」
言葉なんか通じるわけがないのに、百も承知でしゃべり続ける様は空恐ろしい。
「もし気に入ってくれたら、また同じものを食べるために僕を頼ってくれるようになるんじゃ、なんて下心もちょっぴりあったりするんだけれど…………わっ」
心の中の怯えを理性で抑えて、まだ口を動かしている青年を手で横に押し退かし、穴から一気に飛び降りる。
虫である私の脚のバネは優秀なので、この程度の衝撃は軽く吸収してくれるのだ。
それから、私はそびえる肉の山の前に立った。
広い視野の隅で、自分に続いて青年が幹をサーフィンのようなポーズで滑り降り、根元に着地した姿が映る。
今後はこうしてゲームの仲間よろしく、傍にずっと付きまとわれる状態が日常になるのだろうか。
前世、オープンワールド系のゲームで勝手に寄ってきて勝手に仲間に入ってくるキャラクターが苦手だったけれど、現実で同じことをされる気持ち悪さといったらその比じゃあない。
さておき、男の用意した死骸に手を付けるか否か。
しばらく迷った挙句、全て食べてやることにした。
とはいえ、一度で消費可能な量ではないので、氷のある洞穴で保管したり干し肉にしたりといった工夫が必要だろう。
これは、彼を喜ばせようとか、受け入れたとかじゃなく、前世日本人としての魂が命を粗末にするのを拒否したからだ。
私がこの肉に見向きもしなかったとして、青年本人が自身の腹に収めるとは考えにくい。
仮に森のどこかへ捨てたとしても、他のモンスターの食糧になったり、肥料になったりして、完全に無駄にはならないかもしれないが、命を奪ったくせに無責任に放置して腐らせるなんていうのは、私には冒涜的だと感じてしまう。
野生動物は必要最低限しか狩りをしないというのに、これだから人間はいけない。
青年が背後で期待するような目を向けてきているが、一切をスルーして両手を合わせ、軽く頭を下げる。
「え?」
南無、成仏っと……ううむ、自己満足の極み。
いつもはこんな殊勝な真似しないけど、さすがにこの数は、ね。
なぜか困惑している男を尻目に、軽く黙とうを済ませた。
次いで、目についた手ごろなサイズの死骸を引っ張り出してから、その場に胡坐をかいて座る。
全く気は進まないが、それでも食べねば仕方がないのでノロノロと爪で肉をこそぎ横開きのクチバシへ運んだ。
まぁ、不味くも美味しくもない、いつもの肉である。
飲み込んで、変わり果てた日常の憂鬱さに深くため息を吐いた。
続けて二口目を削り取っている時、ふと、後方に立っていた青年が青褪めた顔で体を小刻みに震わせているのに気が付く。
か細い呟き声が漏れているようだが、やはり意味は分からない。
貢ぎ物を食べてやっているというのに、何をそんなにショックを受けることがあるのか。
「あ、あぁ……そうか、同族だけは避けたけど、違う、そうじゃ、ないんだ、別の種族だって、仲の良い友達がいたのかもしれないのに、それなのに、僕は、そんな彼女の友達を、こ、殺し……ぐっ、ぉえっ」
「シギッ?(え、吐いた?)」
思わず振り向いて、男の様子を確認した。
彼は小さく蹲り、自身の吐しゃ物の上で涎を垂らしながら、いかにもな悲壮感を漂わせつつ喘いでいる。
「ぐぅっ、こ、こんな、力があったって、僕、僕はやっぱり出来損ない、なんだ。
誰かを不幸にするしか、能のない、穢れた人間なんだ。
ぁ、あぁ、うぅ……ぅぁっ、あああああああああ!」
「シャッ!?(はぁ!?)」
唐突に発狂し、膝立ちの姿勢になった青年は、自分で自分の首を掴み強く絞め始めた。
驚愕した私は、咄嗟に彼の元へ駆け寄り、一回り小さな手を握って血の気の失せた首から力任せに引きはがす。
「シャァーーーッ!(何をしてるだぁーーーーッ!)」
さすがに、己の十倍以上も重いものを持ち上げられる虫の超パワーには、今の彼も勝てないらしい。
ちょっとホッとした。
「っごほ! っごほ!
ど、どうしてっ、止め、るのっ」
苦しそうに咳き込みながらも、男が問うような目で私を見上げてくる。
「ギィ! シャギギッ!(ちょっと! 死ぬのは勝手だけど、私の知覚範囲内では止めてくれませんかねぇ!?)」
通じないとは理解しつつも、私は焦りと苛立ちの感情に任せて彼への文句を吐き散らかした。
すると、それをどう受け取ったのか、青年は信じられないといったような顔をして、小さく声を震わせる。
「まさか、い、生きろ、と?
貴女の大事な友を、こ、この手にかけた、僕を、仇を、許そうというの?」
何かを尋ねられているようだが、やはり微塵も分からない。
ただ、またすぐに同じことを繰り返しそうな雰囲気ではなくなったので、恐る恐るだが彼から手を離してみた。
「キィッ(とにかく早まらないでよ)」
ゆっくり二歩ほど後退してみるも、大きな反応はない。
波は去ったのだろうか?
まぁ、急に覚醒し変貌したとはいえ、元々彼は深い希死念慮の持ち主だ。
昨日の今日と考えれば、揺り返し的な症状が出たとしても、別段おかしくはないだろう。
いずれにせよ赤の他虫の私にとっては、ただただ迷惑でしかないが。
「っあぁ、なんという慈愛、なんという……ぼ、僕の、僕だけの、運命の女神」
「キシシッ(こわっ急に涙ながらに祈りを捧げられてるんですけどコイツ情緒どうなってんの)」
妙に恍惚とした目で見られて、居心地が悪いったらない。
こういうの、躁鬱が激しいって言うのかな……いや、違うか。
しかし、怖い。
色んな意味で得体の知れない男に執着されるなんて、もう少し人間としての意識が強かったら耐えられなかった。
「僕、僕は、一生をかけてでも償いを、きっと、貴女に恥じない男になってみせる、ち、誓うよ」
「……ギギッ(とりま、思い直したんなら何でも良いか)」
私の前世、結構面食いだったし、せめて、漫画のように見た目だけでもハンサムだったら、もう少し色々違ったんだけどな。
いっそ、キモいと叫んで毒爪を突き立てられれば、どんなに楽かしら。
こんな時ばかりは前世から継いだ倫理観が憎らしい。
今からでも昨日に戻って、全部なかったことになればいいのに。
ため息を吐いてから、落ち着いたらしい青年の左腕を取って引っ張る。
それから、驚きつつも黙ってされるがままになっている彼を、住処から五十メートルほど進んだ先の小さな湧き水の場所まで連れて行って、マヌケ面を指さし洗うよう促した。
一度ゲロってて汚いし、気分を改めるためにもやっておきなさい。
歯医者のうがいコーナーぐらい、ささやかな所だけれど、透明度が段違いで、ここならば人間が飲んでも腹を壊さない……んじゃないかな、知らんけど。
水場と私とを交互に見た男が、間もなく意図を察したのか一つ頷く。
彼が背を傾けて湧き水に手を伸ばしたのを確認してから、己は独り巣穴の巨木へと踵を返した。
続けて、寝床の直下で異臭を放つ迷惑千万な嘔吐物へ土をかけスッカリ埋めたところで、青年が戻って来る。
そして、すぐに状況を理解して、彼は申し訳なさそうに俯いた。
いや、言葉も発していたので、実際に謝罪していたのかもしれない。
こちらとしては、だからなんだ、としか思わないけれど。
発言こそ少なくなったが、そんな出来事の後も、青年はさも当然のように私につきまとってきた。
食事を再開した時も、残った肉を解体し、取り分けて、枝に干したり氷の洞穴へ運搬したり、肉以外を洗ったり加工したり埋めたりする間も、ずっとだ。
彼からの物理的な接触はなく、常に二メートルほど離れた位置で私という虫怪人を熱心に見つめていた。
お前のせいで苦労してるんだから、少しは手伝えよ。
という思いもなくはなかったが、現実に近寄られたら全力威嚇する確信もあったので、これで正しいのだと考え直す。
相手はストーカーなのだ、共同作業など距離の縮まりかねない行為は可能な限り回避すべきである。
しかし、仮にもアプローチをかけているメスが完全に無視を決め込んでいるというのに、こちらの塩対応に堪える様子がカケラもない。
……不気味だ。
人間もどきめ、その黒い瞳孔の奥でいったい何を考えているのやら。
そんなこんなで、夕方。
ようやく諸々の処理を終えて、私は近場の湖へ汚れた体を洗いに行った。
「わぁっ!
ご、ごめん、貴女の水浴びを覗くつもりじゃあなかったんだ!」
腰近くまで浸水して、まず手から清め始めると、遅まきながら目的を把握した男が顔面を真っ赤に染め、慌てて木の裏に隠れる。
普段から全裸状態の虫モンスターの沐浴で何を動揺することがあるんですかね。
このド変態め。
「でも、そうか。魔物だけれど、貴女は綺麗好きなんだ。
僕も不潔にしないよう気を付けないと、嫌われたくはないものね」
幹の陰で何やらブツブツ言っているが、よもや下ネタで盛り上がっているのではあるまいな?
まぁ、でも、しょせん虫だからって、平然とオカズにして目の前でシコる暴挙に出られなくて良かったわ。
そんなことをされたら、さしもの私も即斬せざるをえなかった。
初心で命拾いしたな性癖倒錯野郎、無事でいたけりゃ、そのまま紳士でいたまえよっ!
ざっと全身の血や泥を落としたら、すぐ帰路につく。
仮にも弱肉強食の地に住まう野生のモンスターだ、のんびり長風呂になど浸かれるはずもない。
身を拭く道具も当然ありはしないので、軽く手足を震わせたら、あとは自然乾燥にお任せだ。
戻ったら、夕飯用に取り分けておいた肉を食べて、太陽が隠れきる前に寝床へと入った。
夜目が利かない、ということもないが、深層の怪物は夜行性が多いので、危機管理的な意味でも暗い間は大人しくしているに限る。
昨日と違い、青年は巣穴までついてくることも、無断で手の爪に口づける狼藉を働くこともなかった。
就寝のために幹へ向かった私の背へ、挨拶らしき短い言葉を発っして、穴にたどり着いたのを見届けたら、そのまま森の闇の中へと消えていったのだ。
どういう心境の変化かは分からないが、好き勝手ベタベタされるよりはずっと良い。
いや、あくまで比較の問題であって、最上は、一秒でも早く私から興味をなくして、どこぞへ去ってくれることなんだけど……。
翌日、起床した時には、もう男は木の下に立って待機していた。
やはりストーカーはされるらしい。
ただ、さすがにやり過ぎを反省したのか、肉の貢ぎ物はなかった。
……安心した。
せめて在庫を消費するまでは、自重を継続して欲しいものである。
青年は昨日と同じく、常に絶妙に離れた位置から私に熱視線を浴びせていた。
時折、口元に手を当てて呟きを零しているが、こちらに話しかけては来ない。
……明らかに観察されている。
種族の違いに気付き独善的なアプローチを止めて、まず生態を知ろうとでもしているのだろうか?
視界の隅に人間の姿が映り続けて、野生のモンスターとしては落ち着かない。
二度ほど彼を撒けないかと立体軌道で高速移動してみたが、息の一つも切らさず距離を保持していた。
こぉの、人間もどきめ……。
そうして、私は連日ストーカー男につきまとわれた。
行動を遮られないせいか、日増しに彼の存在は風景の一部として、己の意識下から外れていってしまう。
良くない傾向だとは思うが、相手に敵意がない分、警戒が続き難いのだ。
自死を妨害した当日の如く、無遠慮に触れてくるならば話は違うのだけれど、さりとて、そうされたいかと問われれば、絶対嫌、が答えなワケで……。
前世ならメンタルを病んでおかしくない状況でも、虫怪人の体だと感情が希薄化しがちというか、雑にまとめると、色々鈍感になってしまっていた。
思考や本能をバリバリ働かせても、この身の精神への影響は案外少なく済んでしまう。
頭で警戒を促しても、発情しつつも襲ってくる気配のない人間に対して、心が無害と処理してしまうのだ。
まったく参ったものである。
新たな暮らし向きに更に変化が加わったのは、約一月ほど経った頃合だった。
予告も前兆もなく、突然、青年が終日、一度も姿を見せなかったのだ。
ほんの数時間前、晩の別れ際の表情も相変わらず気持ち悪かったので、醒めただの諦めただのとは考えにくい。
では、ついに狩られたのだろうか?
調子に乗って、私ですら近寄らぬ未知の最深部にまで足を踏み入れて、そして、あっけなく殺された、とか。
であれば、私はようやくあの男から解放されたことになる。
推測が当たっていれば嬉しい限りだが……期待しすぎてガッカリするのも悔しいので、その日はなるべく平常心を保つよう努めた。
そして、それは正しかった。
翌朝、青年は何事もなかったかの如く、また巨木の下で私の起床を待っていたのだから。
死んだと思って、ほんの五パーセントぐらいだけ人懐こい野良犬が保健所に連れて行かれたような寂しさも覚えていたが、そんな甘っちょろい感傷は残らず全て吹き飛んだ。
無駄に損をした気分だ。
しかし、実は彼の変化は一つではなかった。
表層、いつもの散策コースで木に生っている果物に手を伸ばした際、驚いたことに男が真っ赤な顔で距離を詰め、ある物を突き出しながら話しかけて来たのだ。
「あっ、ああの、貴女のために、く、果物を集めるための籠を、あん、編んだんだけど、どっ、どうかな。
もし、気に入ってくれたら、今度は、みつ、蜂の蜜を入れるための、器を焼いてくる、よ」
拙い早口で紡がれる言葉の内容は、もちろん分からない。
分かるのは、青年が酷く緊張している事実と、細かく裂いた木の蔓で編まれた半球状のボウルもどきを差し出されている事実ぐらいだ。
状況から察するに、果物採集に使えということなのだろう。
私の生活ルーティンを把握した上で、彼は新たに貢ぐための品物を考えたらしい。
昨日いなかったのは、おそらくコレを作っていたためだ。
今後も似たようなことが繰り返されそうなので、いちいち解放されたとぬか喜びしないためにも記憶しておこう。
……さて、と。
このプレゼント、どうするかな。
拒否するのは簡単だけれど、また絶望して首を絞めたりしないだろうか。
不安が拭えない。
まぁ、使えば便利なのは知っているし、ここは素直に受け取っておくとしよう。
「ヂッ(よこしな)」
「ひゃっ!」
上からガッとボウルの端を掴んだら、僅かに互いの指が触れ合ったようで、男が小さく悲鳴を上げながら手を引っ込めた。
そこから数歩後退した彼は、目尻を朱色に染め、潤む瞳を落ち着かなげに左右へさまよわせている。
……少女漫画の恋するヒロインか、っての。
そういや、彼女たちもよく意中のヒーローに手作りの弁当やら菓子やら刺繍したハンカチやら渡してたな。
となると、私はさしずめ女嫌いのクール系堅物男子(物理的な意味で)ってか。
ははは……うっせえわ。
「っあ、あぁ、僕のを、持って、つ、使ってる、入れてくれてるぅ」
しかし、青年の感激の眼差しがくっそウザい。
興奮のせいか、独り言も増えているし……不快だから、これ次回があったら試しに断ってみても良いかな。
と、あの時は本気でそう考えていた、のだけれど……。
「っこ、これ、綿毛鹿の毛皮を敷物に加工してみたんだ。
寝床の底に敷いて、つ、使い心地を試してみてくれない、かな」
へぇ、良い手触りじゃん。
サラフカしてて気持ちよく眠れそう。
「前に、前の、アレが、敷物が濡れないように、出入り口用の、巣穴の、雨除けを組んでみたんだけど、せ、設置して、も?」
ほーん、気が利くじゃん。
ついでに外敵からも見つかりにくくなりそう。
「えっと、今度は針猪の毛で、ブラシを作ってみたよ。
良かったら体を洗う時にでも使ってくれたらな、って」
おおっ、便利じゃん。
指が入らない関節の細い隙間の汚れにも届きそう。
「爪用のヤスリ、なんて、興味あるかな。
こ、こうやって磨いて使う物なんだけど。
適当な岩で研いだり爪同士を擦るより、ずっと綺麗になるよ」
うーん、分かってるじゃん。
モンスターとしては鋭さが第一だけど、これなら女としての美しさも追求できそう。
「水がもっと近くで使えたら便利なんじゃないかと思って。
胴連輪虫の骨を繋げて長い管にして、あっちの湧き水をここまで引っ張ってきた」
ええっ、スゴいじゃん。
ちゃんと排水のことまで考えられてそう。
「その、装飾品に興味はあるのかな。
鉱石虎の宝牙を集めて、削って、それで、糸根のツルを通してネックレスにしたんだけど」
ふーん、リッチじゃん。
この程度なら狩りの邪魔にもならなそう。
大体、二十から三十日に一つぐらいのペースで青年は物を作って私に差し出してきた。
説明は理解できずとも、形と彼のジェスチャーを見れば、前世の記憶から用途はすぐに知れる。
そして、それらは何故か、絶妙に琴線に触れる品ばかりだったもので、毎度毎度うっかり受け取り拒否をし損ねてしまっていた。
……いや、正直に言おう。
今の私はもう、彼の持ってくる貢ぎ物を楽しみに待っている、と。
「これは首に飾る物なんだ、僕がつけてあげるね」
「シギギ(苦しゅうない)」
……くっ、こんにゃろめ。
野生のモンスターの生活の質を無駄に爆上げしてくれやがって。
私を元技術大国日本の民と知っての狼藉かっ。
ああーー、失われし文明がっ、いにしえの叡智の幻が私を狂わせるっ。
せっかく虫怪人としてストイックに生きてきたのに、流され俗物に戻っちゃうぅぅ。
タダで非課税の五千兆円が欲しいとか言い出す怠惰なダメ女が復活しちゃうぅぅぅ。
こんなにクリーンヒットなプレゼントばかりくれる人、うっかり好きになっちゃうよぉ。
相手はヤバくてキモいストーカーな人間もどきなのにっ、人間もどきなのにぃぃぃっ。
「クルグルって、知って……るわけないよね。
手遊び用のおもちゃで、暇な時に手に握って指で回すだけなんだけど、意外とハマるんだよ。
良かったら遊んでみて」
ひゃああハンドスピ〇ーだぁぁ、たぁのちぃぃぃっ。
わ、わたしこの人しゅきかもぉぉぉっ。
文化風習も種族も何もかも違う相手なのに、ピンポイントで嬉しい物ばっかりくれるの奇跡でしょっ!?
ついでに、彼は尽くしたい系っぽいし、私は尽くされたい系だし、実のところ相性だって良いと思うのよね!
これだけ色々やってくれてるのに、彼が見返りを求めてきたことって一度もないし!
ストーカーされてるのだって、私のことが大好きだから傍にいたいってだけで、たまにこっちから接触したら真っ赤になっちゃう純情くんで可愛いし!
それにそれにっ、なんだかんだ私より強くて守ってくれそうだしっ!
よぉっし、決めた!
私、この人の番になりまぁす!!
そんなこんなで一年も経たずに青年に陥落したチョロい私は、少しずつ自分から声をかけたり触れたり、逆に触れるのを許したりして、段階を踏みながら彼との距離を縮めていった。
さすがに即合体は、プライド的にも非モテ女な前世的にも選べなかったのだ。
私の種族のアプローチ作法と違うから、そっちの本能も疼かなかったしね。
「あっちじゃ何もかも上手くいかなかったけれど、その分、色んな仕事をたらい回しにされてきたよ。
あぁ、僕のような使えない人間、普通ならまず次の仕事なんて見つからないのが当たり前だろうけれど、僕が生まれたのはちょっとした権力のある家だったから。
でも、そんな家の力があっても庇い切れないくらい僕は無能で、どんな職場も長続きしなくて……。
ただ、今の僕になら、その記憶を、経験を、活用することができるみたいなんだ。
きっと全てが貴女と共に生きるために必要なことだったんだね」
私の隣を歩く男は、相変わらず、通じもしないのに嬉々としてアレコレ語りかけてくる。
ただ、今はもう、彼のそれを怖いとは思わなかった。
とはいえ、うっとり聴ける声質でもないので、作業用BGMとか睡眠導入剤みたいな扱いなのだが。
あちらも本音では伝わらない方が良いと考えているのか、私に言葉を教えるような挙動を見せたことはない。
「両親と弟は僕のせいで死んだんだって、表から陰から言われていたよ。
唯一、おじい様とおばあ様だけは、けっしてそんなことおっしゃらなかったけど。
でもね、聞いてしまったんだ。
せめて生き残ったのが弟の方だったら、って。
この家はもうお終いだ、って、二人揃って嘆いているのを。
だから、思ったんだ。
僕は生きているだけで人を苦しめる存在だから、せめて、この世からいなくなって、二人の重荷になるのを止めよう、って。
そうして、あの日、自室に遺書を置いて、仕事に行くと言って、この森に来た。
ここなら遺体を処分する必要もなくて、迷惑にならないだろうってね。
でも、今、僕は幸せだ。
貴女のそばで、貴女のために生きられて……あぁ、産まれて良かったって、初めて思えたんだよ」
ひと番になっておきながら、未だ名も知らぬ人間もどきは、何かを独白する内に徐々に興奮してしまったようで、近頃よく聞く単語を放ちながら私の左腕に強く抱き着いてきた。
「愛してる……唯一無二の、僕の運命の女神様」
まぁ、好意を持つ者同士である事実だけは間違いないのだ。
共に生きるために大事なのは本来それ一つだけで、きっと他は全て些事でしかないのだろう。
「あぁ、ほら、見えてきた。
あそこが、僕たちの新しい住まいだよ」
「ギキキ(良きに計らえ)」
たとえ両者の見ている方向が異なっていたとしても、我々は互いの隣を歩き続けるのだ。
「楽しみだなぁ」
「ジジジ(夢の食っちゃ寝生活の幕開けよ)」
私たちはそれでいい。
それだけでいい。
勘違いだろうが、俗物的だろうが、そこには確かに愛と呼ばれる感情があるのだから……。
モン転女は死にたがりに懐かれる~完~
おまけの設定メモ
●元日本人女性の虫系モンスター
前世では外面が非常によく、真面目でしっかり者を装っていたが、実際は根っからの俗物で楽な方に流されやすい性格。
また、人間であった頃は虫嫌いだった。
生まれ代わった今では虫としての感覚が追加され、彼らの美醜も判別できるようになったらしい。
彼女は自分のことを同種の中でもイケてる方だと認識している。
心の中は常にうるさいが、頭部は殻に覆われており、更に瞼もないので、それらが表情に出ることはない。
本虫は深層を見てまだまだ上がいると思っているが、実はこの森は世界で一番瘴気の濃い最も危険な場所とされており、中層にすら到達し得ない人間から見れば、彼女もまた最強の一角に他ならない。
●死にたがりの青年
ボサボサ頭に下がり眉が特徴の十九歳の男。
こう見えて正真正銘ただの人間である。
ただし、その魂には魔王の因子が刻まれている。
そこから漏れ出す陰の気が、人間含む弱い生物たちに嫌悪感をもたらしていた。
特に周囲の者を不幸にするなどといった効果はないが、上記の理由から、不運な出来事の原因として糾弾されがち。
彼が絶望と共に没すれば、破壊衝動のみを持った不定形な瘴気の大怪物となって甦るはずだった。
肉体はごく普通の人間のものだが、魂の影響で瘴気を吸収し自らの力とする異能を持つ。
魔王の魂と同時に生まれる英雄の魂の持ち主は、本来、大怪物の出現と共に覚醒するはずだったが、魔王化予定の青年が虫との愛に目覚め幸せになってしまったので、生まれ故郷ののどかな農村で平和に一生を終えた。
●光の神と闇の神
本編には出てこないが、この世界を作った幼い双子神。
生物を誕生させると徐々に闇の方へバランスが偏ってしまい、最終的に世界が崩壊しがちなので、その闇の力を効率よく集めて浄化するために、魔王と英雄という機構を作った。
浄化は千年に一度の間隔で半自動的に行われており、時の長さから、曖昧な神話や伝承はあっても、この機構についての正確な情報を知る人間はいない。
今回、うっかり異物を紛れ込ませてしまったせいで浄化機構が働かなかったが、幼い双子神は、それならまた千年後でいいや、と全く気にしなかった。
A型系の几帳面な神が見ていたら発狂ものである。
でも、案外、ガチガチに管理するより、こういうユルユルに造られた世界の方が繁栄が続いたりもする。
世界の育成は運要素が強く、真面目に面倒を見れば永く安定するということもないので、まともな創世神ほど苦労が尽きないのが常なのだった。