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あのお茶会の日の夜。
ハルクが久しぶりに帰宅した。
カレンのスキルを知らないハルクは、別人に扮していた自分にカレンが気付いているとは知らないはずだ。
だがあのお茶会に出席したことは知ったわけなのだから、様子を見にわざわざ帰ってきたのだろう。
だからカレンはいつも通りに夫と接する。
そして案の定、ハルクがカレンに尋ねてきた。
『カレン、今日は何をしていたんだ?』
カレンはドキリとしながらも平静を装って答える。
『今日はね、兄の名代で大使館のお茶会に参加したの。妊娠中のお義姉さんが体調を崩して出席できなくなったのよ。兄もどうしても外せない用事があるとかで、それで頼まれたの』
『そうか……なるほど』
『貴方に無断で出席してごめんなさい。でも急なことだったし、夜会ではなくお茶会への参加だからわざわざ王宮に知らせるまでもないと思ったのよ』
カレンがそう言うとハルクは静かに首を振る。
『いや、いいんだ。俺の方こそ家に帰れず、すまない……』
『仕方ないわ。大切なお勤めをされているんだもの』
その大切な勤めのひとつとしてあんなことをしていたなんて。
目的の女性に接触し、誘き寄せて情報を引き出す。
レストルームで聞いた短いやり取りの中でそう推測した。
そしてカレンの心がざわりとする。
『……ああ。……そうだな、でももうすぐ、もう少ししたら状況が安定するはずだ。そしたら……』
まるで自分に言い聞かせるようにそう言ったハルクを、カレンはどこか遠い存在のように感じた。
姿はもうハルクに戻っているのにカレンの知らない人間のような。
あの場面に出会し、彼の違う一面を見たせいなのだろうけど、今までのように純粋な気持ちで夫を信じることは出来ないと思った。
このままではいけない。
カレンは少しでも夫の仕事のことが知りたくて、何をしているのか知りたくて兄の元を訪ねた。
兄も爵位を継ぐ前は騎士団に在籍していて、ハルクとは同期だったのだ。
全てではないにしろ何か知っているのではないか。
カレンはそう思い、兄に直接尋ねた。
『お兄様、夫は……ハルクは本当にただの一介の騎士なの?彼は第二王子の下で何をやらされているの?』
『な、なんだなんだ藪から棒に。び、びっくりするじゃないかっ……どうしてそんな物騒なことを聞くんだ』
いきなり確信に迫る質問を浴びせる妹に、兄のグレイドが目を剥く。
『お兄様が知っている範囲でいいの、彼のことを教えて!』
『おいおいっ……とりあえず落ち着け、一体何があったんだ』
兄にそう宥められ、カレンはハルクの魔力を持つ別人を街中で見た話や茶会での一件を話して聞かせた。
カレンの話を黙って聞いていたグレイドだが、やがてぽつりと『そうか……』とつぶやいた。
そして少し乱暴に頭を搔く。
『お兄様……?』
兄のその様子にカレンは一抹の不安を感じる。
グレイドは逡巡しながらもカレンに告げた。
『おそらく……第二王子からの重用は、諜報員としてだったんだろうな』
『諜報員……?』
『王国に仕える騎士の中で、特別な能力を持った者がその能力を活かし様々な諜報活動をするんだ』
『諜報活動……特別な能力……?』
『ハルクは俺が騎士団にいた頃から、時々別の任務だといって隊を離れていた。騎士団の中でも諜報活動にあたる者の名は秘されているから確定はできないが、今思えばアイツは入団時から諜報員としての任務にも就いていたんだろうな……』
『ちょっと待って、それじゃあハルクはスキル持ちだと言うの?』
『諜報員として活動しているのならその可能性は高い』
『そ、そんなの知らなかったわっ……』
『お前だって自分のスキルを夫であるハルクにも打ち明けていないんだろう?向こうだって、ましてや任務に携わる者なら尚のこと言えないだろう』
『そうね……』
『お前が大使館の休憩室で見た光景も、諜報活動のひとつだったんだろうな。国が欲する情報を持つ人間に近付き、その者から情報を引き出す。その他にも様々な任務をこなしているんだろうが……』
カレンは休憩室で聞いた女性の甘く艶やかな声を思い出し、ぎゅっと目をつぶった。
姿形はハルクではなかったとしても、女性に甘やかな声で言い寄られていたのは紛れもなくハルクなのだ。
他にもあのようなことをしているのだと思うと、カレンの心は鉛を飲んだように重くなる。
グレイドがカレンに言う。
『ハルクが全くの別人に姿を変えていたと言ったな?おそらくはそれがハルクのスキルなんだろうな』
『……え?』
『普通の変身魔法では瞳の色までは変えられない。だけどギフトとして持って生まれた特別なスキルであれば、それが可能なのかもしれない』
『たしかに……そう考えるのが一番辻褄が合うわ……』
兄の言葉を頭の中で反芻して思案を続けるカレンに、グレイドが言った。
『カレン。辛いとは思うが今はこの情勢だ。我が国としてはなんとしても無用な衝突は避けたいという方針だと聞いている。そのために様々な方面で沢山の人間が水面下で動いているだろう。お前の夫もそのひとりなんだ。今はただ、ハルクを信じて待つしかないんじゃないか……?』
『わかっているわ。私だって夫を信じたい……』
だけど、街中で見たあの光景が、大使館で耳にしたあの会話が、カレンの頭の中から消えてはくれない。
ハルクが誠実な人間であるというのは結婚生活を通してよくわかっている。
任務のために近付く人間が女性ばかりだとは限らないし、そんな任務ばかりではないとも憶測の範囲内だが理解しているつもりだ。
でも、だからといって不安にならないというのは別問題だ。
カレンは自分が独占欲が強く悋気が強いタイプであると、結婚してから知った。
ハルクと二人で出掛けた時や、夜会に参加した時に見目の良い夫が他の女性に秋波を送られている。
それを見ただけで腹の底がカッと熱くなるような怒りが込み上げるのだ。
ではどうすればいい。
どうすればその悋気を抑え、ただ夫を信じて大人しく家で待つ恭順な妻になれる?
……そんな妻には、自分はなれそうもないと自嘲した。
だけどハルクと別れたくはない。
彼を本当に愛しているから。
ずっと一緒にいると、二人で子を生み育て共に笑い共に苦しみも悲しみも分かちあい、そうやって人生の終焉を迎えるまで一緒に生きていくのだと誓ったのに。
今やその誓いは遠い過去のことのように思える。
そうして一度心に生まれた綻びは日を追う毎にどんどん大きくなっていく。
不信感と猜疑心に苛まれて、カレンの心は苦しくなっていった。
なのに夫は帰らない。
今こうしてカレンが家で彼の帰りを待つ間も、任務のために別の女性と一緒に居るのかもしれないのだ。
そんな考えばかりが頭の中を占め、カレンは自分の心が醜く汚く変質していくのを感じた。
ダメだ。
このままではきっと、日常に起きるささやかな出来事に喜びや幸せを感じることのできない人間になってしまうだろう。
ハルクが一度でも家に帰ってくれたなら。
きっと何もかもぶちまけて思いを受け止めてもらえて、カレンもハルクの言い分を聞いて、そして何かが変わったのかもしれない。
だけどハルクは帰らない。
カレンはもう、それが自分たち夫婦の運命だったのだと心が決まってしまった。
ひとりで勝手に疲れ果て、ひとりで勝手に答えを出してしまったのだ。
身勝手で我儘で最低な妻だとわかっている。
だけど、このままでは自分が壊れてしまう……。
そして憔悴しきったカレンは、ハルクとの離婚を望むと兄に告げた。