8
茶会に招かれた客用の休憩室。
その中に設えてあるレストルームで身を潜めるカレンの耳に、後から入室してきた男女二人の声が届く。
『夜会でもないのに真昼間から休憩室に連れ込むだなんて、悪い人ね』
鼻に抜けるような笑い声を女が漏らす。
それに続くように男が言った。
『人聞きの悪いことを言わないでほしいな』
『“二人きりになれるところへ行きたい”だなんて言って、私をこの部屋へ連れて来たんだから人聞きも何もないでしょう?』
衣擦れの音が静かな室内に響く。
女が男に身を近付けたのが気配でわかった。
『ああ、キミに色々と教えてもらいたいことがあってね』
『ふふ。色々と……教えてもらいたい、ねぇ。いいわよ。私もそのつもりだったんだから。でもそんなに長くは楽しめないわ。じつはね、大使館は私の職場なのよ。私は大使の公設秘書なの。だから休憩の間しか時間がないのよ』
『知ってるよ』
『え?』
『知っているから、キミをここに誘ったんだ。ああ、悪いがそれ以上は近寄らないでくれ』
『は?あなた、何をっ……言っ……あ?あ…?あるぁ……?』
突然、女の呂律が回らなくなったと思った次の瞬間、ドサリッと床の上に何かが落ちる音がした。
おそらく女が倒れたのだろう。
途端に静かになる室内に、男の大きなため息が落ちる。
そして男はぽつりと
『気持ち悪い……』とつぶやいた。
そして徐にドアが開く音がする。
誰か、第三者が入室してきたようだ。
重みのある足音から男性であることが窺えた。
部屋に入ってきた男が呆れたように言う。
『あーあ……もったいねぇなぁ。せっかくだから楽しんだら良かったのに。上には黙っててやったし、それがハニトラの醍醐味じゃねぇか』
『完璧に任務を遂行すれば、余計なことをする必要はない』
『余計なコトって……変わってるねぇ。まぁいいけどさ。じゃあ早速、この女の頭の中から情報を抜き取りますか……いやでもイイ女じゃないか。前から思ってたけどお前もしかして不能……』
『早くしろ』
『おー怖っ。へいへい、わかりましたよ』
そこまで聞こえて、カレンは迷った。
スキルを使って気配は消している。
だけど物理的に姿を消すことは不可能なのだ。
ここまま男二人が立ち去るまでここで身を潜めてやりすごすべきか。
だけどもし二人のうちどちらかがレストルームに入ってきたら?
彼らに見つかったら隠れていたとバレてしまう。
何も聞いていない、たまたまレストルームを使用していただけだと偶然を装っても信じてもらえないだろう。
ならば自分から堂々と出て行くほうがいいのではないか……?
男二人のうち一人は彼であるのだから、そのまま見逃してもらえるはずである。
(……よし)
カレンは腹を括り、震える自分に喝を入れた。
そして水洗トイレの水を勢いよく流す。
水音がレストルームと休憩室に響いた。
男二人の息を呑む声が聞こえたが、カレンは構わずレストルームを出た。
そして渾身の演技をぶちかます。
『え?人がいたの?ずっと個室に篭っていたから気付かなかったわ……いやだわ、休憩室の鍵をかけ忘れていたのかしら?恥ずかしい……』
レストルームから出てきたカレンを凝視する男二人を尻目にカレンはそう言った。
ちらりと視線を向けると女は既に椅子に座らされている。
やはり意識を失っているようだ。
知らんぷりをするのも不自然だと思い、カレンは声を掛ける。
『あらそちらの女性、具合が?大丈夫ですか?誰か人を呼んできましょうか?』
カレンがそう言うと、元から部屋にいた男……金髪碧眼の男が返事をした。
『……いや。貧血で倒れただけですから。少し休めば大丈夫でしょう』
『そうですか。それなら……私はこれで失礼しますわ』
立ち去ろうとするカレンにもう一人の男が行く手を遮るように立ち、尋ねてきた。
『失礼。レストルームで何か聞きましたか?』
『何かとは?個室の造りはしっかりしていると思うのですが……あの、逆にレストルームの音は聞こえましたか……?』
カレンは逆手に取り、恥ずかしくて居た堪れないといった態でそう言った。
『……いえ。盛大な水の音以外は』
そう答えた男に対し、金髪碧眼の男が言う。
『たとえ聞かれていたとしても対したことじゃない。問題はないだろう』
そしてカレンに、
『お引き留めして申し訳なかった』
と言って半ば強引に退室を促したので、カレンは男たちに軽く会釈をして休憩室を出た。
コツコツと廊下を歩く自身の靴音がやけに大きく聞こえる。
今さらながらに鼓動が速まり足が震えてくる。
たった一時間ほど前まで、こんなことになるなんて予想もしていなかったというのに。
◇
(……間違いないわ。あの男性はハルクだわ……)
身重の義姉に代わり、兄の名代として隣国大使が主催するお茶会に出席したカレンは、離れた位置にいる金髪碧眼の美丈夫を見て確信した。
お茶会の会場は大使館自慢の庭園にて立食式で催されている。
屋外で、様々な人間の香水や魔力が“匂う”中で、一際強くハルクの魔力を感知したのはカレンが彼らの風下にいたからだろう。
以前、街中でもあの金髪碧眼の男からハルクの魔力を感じ取った。
その時は動揺もあり確信に至るまでの感知はできなかったが、今日は確実にわかる。
これはハルクの魔力。
接触して移り香のように他者に付着したものではない。
ハルク自身、本人から発せられている魔力だ。
だけどなぜ、彼は別人の姿をしているのだろう。
変装なんてそんなレベルではないと思う。
あれは細胞単位で作り上げられている姿だ。
変身魔法ならそれが可能だが、魔法で姿を変えて個人の魔力の性質が変えられないように瞳の色も変えられないというのに。
あの瞳は深い青で、ハルクの青灰色の瞳とは似ても似つかない。
カレンのスキルがなければ、絶対にわからなかっただろう。
そしてなぜ、その姿で見知らぬ女性をエスコートしているのか。
よく見ればその女性もあの時映画館の前で見た女性であった。
カレンがこのお茶会に代理で出席することになったのは本当に急なことで、仕事で何日も帰らない夫には伝えてはいなかった。
だからハルクはカレンが今、この会場にいることは知らない。
お茶会は宴も酣となっており、カレンはたった今会場入りをしたばかり。
おまけにカレンはハルクからは死角になる位置にいる。
だからこそ、この状況にかち合ったのだろう。
これは……夫の不貞と看做してよいのだろうか。
別人に姿を変えているのは人の目を欺いて堂々と不貞行為を働くためか。
それともこれは夫の任務のひとつなのだろうか。
後者を信じたい気持ちでいっぱいになるのはもちろん彼を愛しているからであるし、ハルクの為人を知っているからでもある。
だからカレンはそれを確かめたくて、真実を知りたくて建物の中に入って行くハルクと女性の後を追ったのだ。
だけど途中で見失ってしまい、乱れた感情と混乱した頭を少し落ち着かせようと入った休憩室に、姿を変えたハルクと女性が入って来た。
カレンは思わず慌ててレストルームへ逃げ込んで、そしてこの状況になったのだが……。
カレンは彼らの前から歩き去る足を必死になって動かした。
動揺を気取られてはいけない。
背後からハルクの視線を感じる。
レストルームから出てきたカレンを見た別人に扮したハルクは、一見して無表情を貫いていた。
だけどカレンはハルクの瞳がわずかに揺れ、魔力が乱れたのを感じた。
魔力保持者は心が乱れると魔力の波長も乱れるのだ。
カレンはその“匂い”を感じ取ったのだ。
カレンの脳裏に先ほどのハルクともう一人の男のやり取りが浮かぶ。
ハルクは一体、第二王子の下で何をやらされているのだろう。
自分の知る夫とはあまりにもかけ離れた姿に愕然としたのは何も見た目だけの問題ではない。
カレンは自分の中で、何かに亀裂が入ったような音を聞いた気がした。