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その後の記憶はカレンも知るところの多い、婚約期間と新婚時代であった。
結婚前、そして結婚後も任務に飛び回るハルクであったが、後になって思えば最初はそれほど酷いものではなかった。
帰宅が深夜というのは多々あったがちゃんと家に帰ってきていたし、不規則だが休日もあった。
だがそれもある事がきっかけでカレンとハルクの生活は徐々に変わっていったのだ。
当初は隣国との間に不穏な空気が流れ始めたことが原因だと思っていたが、ハルクの記憶の中でそれだけではなかったとカレンは知った。
そういえば兄グレイドも言っていた。
ハルクのすぐ上の兄が行方不明になったと。
それを聞いたとき、カレンは離婚を決めた後であったし、心身ともに疲弊していたので気にかけるゆとりがなかった。
だけどハルクの記憶を通して見てみると、かなりマクレガー家にとって危機的な状況であったと理解する。
ハルクの兄は隣国で消息を断った。
諜報として潜伏していた隣国で、私情に流され行動したために他国の者であると露見し、そこから運悪くズルズルと身バレをしたそうなのだ。
その私情に走った原因というのが、拠点としていた娼館の娼婦と情が通じ、彼女を身請けするためにかなり無茶な金策をしたという。
大きな金子が動く場合、当然それを動かす人間の身元が注視される。
諜報員ならそのようなことは百も承知であるはずなのに、ハルクの兄は娼婦への恋情で盲目となり迂闊を踏んだ。
そして隣国の暗部に追われる身となり、逃げ回るうちに行方知れずとなってしまったのであった。
その報せを受け、王太子側の側近の中からはハルクの兄が裏切り、寝返ったのではないかという声が上がった。
騎士団上層部、諜報員、そして高等官吏の裏切り寝返りは重罪とされる。
離反した本人の消息が知れない場合はその一族が連座となり罪に問われる。
マクレガー家の者を見せしめとして刑に処すべきだという意見が出る中で、それを抑えたのは第二王子であった。
『まだ裏切ったという確証も得ない内から連座で罪を問うとはなんと浅はかな。それに、なんのための誓約魔法だと思っておるのだ。このようなときのため、機密漏洩の危険を防ぐために、魔法で縛っておきながら簡単に済まそうとするな』
第二王子のその言により、王太子は弟王子にこの件を一任した。
消息を断った諜報員の弟が第二王子の配下であることもその要因であろう。
責任を取らせるつもりかハルクも裏切ると疑い、泳がせるつもりか。
なんにせよ、第二王子の執り成しによりマクレガー家の連座は《《とりあえず》》免れた。
だがこのまま何も解決せぬままではいずれは再び罪を問われることになる。
それは第二王子も理解しているため、彼はハルクに告げた。
『こうなっては一日も早く、失踪した兄を探し出し国に連れ帰るんだ。間違っても先に隣国に捕えさせてはならない。キミの兄を引き合いに出されて、隣国の有利な状況に運ばれては難儀になる』
『わかっております』
『もしそうなればもう庇い立てができない。いいねマクレガー……妻を、親兄弟や甥や姪の命運はキミに掛かっているんだ。新婚早々気の毒ではあるが、こればかりは仕方ない』
『はい……』
そう答えたハルクの脳裏にカレンの面影が浮かんだのを感じた。
カレンは自らの知らないあの時の事情を目の当たりにし、複雑な思いを抱く。
(こんな事情があったなんて……。それじゃあハルクは私や家族を守るために、一人で駆け回っていたのね……)
それからは次々とハルクの記憶が流れていく。
兄を探すために隣国に潜入し、情報を集めるハルク。
これでは家に戻れないはずだ。
その中でカレンは自分が高熱を出したあの日、潜伏先で王宮からの火急の知らせを受けたハルクが、転移魔道具を用いて無理やり帰国したことを知った。
事情を話せず、カレンに我慢を強いて不安を与えている自分を忸怩たる思いで責めているハルクの心情がカレンに伝わってくる。
そして熱が下がり眠るカレンを後ろ髪が引かれる思いで残していく辛さも、カレンは感じ取った。
その後もハルクの奔走は続き、任務をこなすうちにハルクの心は疲弊し摩耗していくのを、カレンはただ黙って見ていることしかできない。
だけどその中でもやはりカレンの存在だけがハルクの中では色を持ち、温かな光をまとっている。
(ハルク……)
自分という人間がハルクの中でどれほど救いになっていたのか、それをカレンははじめて知ったのだ。
そうしてようやく、ハルクは隣国の片田舎で兄を見つけた。
身請けした娼婦は逃亡生活の中で病となり、医師に診せることもできないまま儚くなったそうだ。
絶望により抜け殻のようになってしまった兄をハルクは苦労して国に連れ帰る。
ハルクの兄はすぐに牢に繋がれ、取り調べを受けた。
一旦誓約魔法を解除し、自白魔法を掛け直す。
(誓約魔法は術を施した術者のみが解除することができる)
しかし元々心神耗弱していたところへの自白魔法と再び誓約魔法を掛けられたことによりハルクの兄の精神は完全に壊れてしまった。
自白魔法により国を売ってはいないと無実の証明はできたが、私情に走り途中で任務を放棄した罪は消えない。
もはや廃人と変わり果てても、その罪は償わなくてはならなかった。
こればかりはハルクにはどうすることもできない。
せめて実質終身刑と変わらない扱いとなる北の収容所だけは容赦してほしいと願ったが、それと引き換えだと言って王太子側からの仕事を押し付けられる羽目となった。
しかしそれを引き受けなければ兄は北の大地の厳しさに耐えられずすぐに命を落とすだろう。
ハルクは悔しさで歯噛みしながらも王太子の指示に従うこととなった。
第二王子が自分の配下の者だと主張し、兄王子が自分の部下を使う期限を明確にしてくれたのがせめてもの救いだ。
そしてハルクはスキルを利用され、様々な諜報任務に就かされる。
その中に、カレンが目撃した隣国大使秘書に近付き情報を引き出すというものがあったのだ。
カレンが離婚を決意する決定打となってしまったあの一件。
大使館の茶会で、休憩室のレストルームから出てきたカレンを見たときのハルクの衝撃は凄まじいものだった。
あのとき、無表情を装っていたハルクの心情は驚きと焦り、そして不安で嵐のようになっていたのだ。
その嵐はハルクの中でずっと吹き荒び続けていた。
茶会当日の夜にどうしてもカレンの様子が知りたくて帰宅したが、どうにも胸騒ぎがして心が落ち着かない。
カレンの様子がおかしい。
いつもと変わらず接してくれているようでそうではない。
ハルクの胸の内に冷たい不安が広がっていき、そしてとうとうグレイドからカレンが離婚を望んでいると連絡が入ったのであった。
恐れていたことが、ハルクにとって何よりも辛い事態が起きてしまう。
なんとしてもカレンに許しを乞うて離婚を思い留まってもらいたい。
カレンを、光を失うことだけは絶対に避けたいと思い、任務の途中であったがハルクはカレンの元へと急いだ。
だけどハルクはそこで思いも寄らない事実を知る。
カレンにスキル持ちだと明かされ、そして変身していたハルクを見抜きその上で女性対象者とのやり取りを知られたことを。
あれは仕事だと、カレンが疑うような疚しいことは何一つしていないと説明しても、カレンの心には届かない。
憔悴しきったカレンを見て、自分がここまで追い詰めたのだとわかっていても、それでもカレンと別れたくなかった。
もうすぐ、王太子からの指示を受ける期限さえ終われば……。
だけど時勢はどこまでもハルクに優しくはなかった。
カレンを失いかけている今、なるべく無理にでも時間を捻出してカレンに会いに行きたいと思うのに、隣国との武力衝突が起きてしまう。
諜報員であるハルクに表向き在籍している連隊が前線での任務に就くよう命が下される。
それがなくても第二王子が今回の派兵の総責任者となったために、どの道ハルクも随行せねばならない。
これが自分たち夫婦の運命なのか。
今、この状況になりハルクは思った。
今回の衝突がどれほどの規模となるかは定かではないが、命を失う可能性もある。
もし、自分が死ねばカレンは一生マクレガー家の柵に縛られて生きねばならない。
それなら、カレンが離婚を望むなら、それに応じて自由にしてあげる方がいいのだろうと。
カレンはハルクの光だ。
自分の生でありながら自分のために生きることができずにきたハルクが唯一求めた、生きる意味そのものだった。
そんな大切な彼女をこの手で幸せにする、そう誓ったはずなのに結局はこの体たらく。
ハルクは出兵を前にして心を決め、カレンに手紙を書いた。
謝罪と感謝と、そしてもし、もし生きて帰り自由を得ることができたのなら……そのときはもう一度カレンに会いたい、そんな希望を込めて、
ハルクは離縁状とともにカレンに送った。
──ごめん、ごめんなカレン。
どうしてもキミを諦められないんだ。
だけど今のままではダメだ。
すべてにケリをつけて、誓約に縛られ続けたとしても何者でもないただの一人の男となって再びカレンに会いたい……。
あの時、ハルクはそう思っていたのだ。
そしてカレンを幸せにできなかった悔しさを抱えながら、ハルクは前線へと向かった。
そこから先はカレンにはとても正視できるものではなかった。
もともとモノトーンであった世界がさらに昏く、冷たいものになっていく。
感情を殺して任務をこなすハルク。
だけどカレンを思い出すときだけは、彼の心に明かりが灯るのが感じられるのだ。
昏い世界の中で、ハルクが思い浮かべるカレンだけが鮮やかで温かい色彩を放ち存在する。
彼の中ではカレンはいつも笑っていた。
それに手を差し伸べて、だけど宙を彷徨うだけの手を力なく下ろすハルクを見て、カレンの瞳から涙が堰を切って溢れ出た。
その後、隣国との和平が成立し、ハルクが抱えていた任務もひと段落ついた。
ハルクは第二王子に辞職を願い出る。
だが、兄が犯罪者として収監されている身としてはそれは難しいと難色を示された。
ハルクが諜報員として国のために働いているからこそ罪人を排出したマクレガー家はその責を負わされずに済んでいるのだと。
ここで辞めてしまっては、マクレガー家の現当主である長兄にしわ寄せが出るだろうと告げられる。
確かに家族の中に罪人を出した家の者に世間は厳しい。
貴族社会であるなら尚更だ。
マクレガー家か手掛けている事業にも影響を及ぼすであろう。
そうなれば、実直で不器用な兄やそれを支える慎ましい義姉や甥や姪たちが路頭に迷うかもしれない。
それを考えるハルクの耳に、続きを話し出した第二王子の声が届く。
『と、いうのは口実で、国は優秀で希少なスキルを持つキミを手放すつもりがないのが本当の理由さ。ごめんねマクレガー……僕が第二子なばかりに、王太子が決めたことには従わないといけない。そうでないと僕を世継ぎに担ぎ上げようとする一派が勢いをつけ、要らぬ諍いが生まれてしまうんだ。だから……辞職を報奨として獲られる、大きな功績を上げればいいんだ。マクレガー家の次男として功績を立て、罪人を排出した家ではなく優秀な騎士を排出した家として世間に周知させるんだ』
とそう言って、王子はハルクに新たな任務を課した。
それを遂行し、目的通りに手柄を立てて辞職か叶うまでに二年の歳月を要したのだ。
ようやく辞職が叶い、ハルクは自由の身となった。
辞職するにあたり新たな誓約魔法を施されたが、とりあえずは自由なのだ。
そうしてハルクはカレンに会いにきた。
本当は改めて謝罪し、カレンの許しを乞い、その上でカレンが真実を知りたいと願うなら命を差し出して誓約を破ってもよいと思っていたのだ。
だけどカレンの顔を見た途端に、ハルクは感情の箍が外れた。
つい思わず、感極まって復縁を申し出てしまったのだ。
ハルク自身も今さら復縁を迫るなどどうかしているとは思った。
だけどこれこそが本当に自分が望むことだとわかっているからこそ、止められなかったのだ。
ハルクが欲しいのはカレンだけだ。
富も名声も自分の命すら要らない。
カレンの傍にいたい、ただその思いだけで必死だった。
そして記憶の中で土下座をするハルクを見て、カレンの涙はますます止まらなくなる。
事情を知らなかったとはいえ、カレンはそんなハルクから逃げ出したのだ。
ハルクへの想いが苦しくなって、ハルクの心がいつしか離れていくのが怖くて逃げ出した。
そして逃げ出した先でカレンは空虚な寂しさを感じながらもルイザの元で安寧に暮らしてきた。
だけどハルクはたった一人で自分を責めながら、もがき続けてきたのだ。
生きて、生き残って、唯一の生きる意味であるカレンにもう一度会いたい。
もし、もう一度会えたなら、そのときはもう絶対に傍を離れない。
そんな思いだけを糧として日々を過ごしてきたのだ。
それを知り、カレンは憐憫と後悔で胸が押し潰されそうになる。
ハルク。
ハルク、ごめんなさい。
あなたを一人にしてしまった。
信じてあげられなかった。
傍にいることが叶わなくても、せめて心の支えとなってあげるべきだったのに。
カレンは涙を流し続けた。
悲しくて悲しくてたまらない。
どうしたら、どうしたらいいの?
カレンはとうとう、子どものように声を出して泣いた。
そのとき、
「カレンっ!?どうしたんだっ、いきなり泣き出してっ……!」
現実の声がカレンの耳に届き、
確かな手の温もりがカレンの両腕を包む。
その感覚に導かれ、カレンは泣きながら意識を現実に戻す。
そして目の前には、ルイザの書斎で突然泣き出したカレンを案じ、焦燥感を露わにするハルクがいた。
記憶を辿る旅はこれにて終了です。
次回、最終話です。