10
『本当にいいのか?』
兄、グレイドの声が彼の執務室の中で静かに響く。
『……もう、この苦しみから逃れたいの。このままではどんどん嫌いな自分になっていってしまうから……』
『ハルクを愛してるんだろう?だからこそ苦しいんだろう……』
『そうよ。だから耐えられないの。このままでは彼を憎むようになってしまう、だからそうなる前に離れたいの。勝手なのはわかってる。騎士の妻ならどんな状況においても夫を信じ支えなければならないのに、私にはそれができない。だから彼の妻としての立場を、もっと彼に相応しい人に譲りたいの……』
『ハルクがお前以外を望むとは思えないがな』
『そんなことはないわよ。別れてしまえば、きっと私のことなんてすぐに忘れるわ』
などとやさぐれて、心にもないことを言ってしまう。
だけど本当に忘れてしまってくれていい。
こんな身勝手な女のことなど。
カレンはそう思い、力なく笑う。
憔悴した妹の姿を見てグレイドは『……わかった』と一言だけ答えた。
そして重く浅い嘆息を漏らし、グレイドは言う。
『……今思えば、ハルクがこんなにも諜報員として裏で暗躍するようになったのは、彼の兄が隣国で行方不明になったからじゃないのかな……?』
『ハルクのお兄さまが?』
結婚式で顔を合わせたハルクの二人の兄。
長兄は子爵家の跡を継いで王都から離れた領地を治めいて、次兄は他国で働いているために仕事の都合ですぐに戻らなくてはならないと言って紹介された。
そんな忙しい中でも式に参列してくれたことに礼を言った覚えがあるが……。
行方不明になったのはその次兄の方なのだろうか。
『行方がわからなくなったのはハルクのすぐ上の兄、マクレガー家の次男だと騎士団時代の友人から聞いたよ。つい最近聞いた話だから、いつ行方知れずになったのかまではわからないが……』
『そう……そうなの……』
一瞬でも結婚式には顔を出したのだから、行方知れずになったのはその後と考えられる。
だけどそんな大切な話すらして貰えない。
ハルクの兄ということはカレンにとっても家族であるというのに。
そんな思いをカレンの表情から読み取ったのか、慰めるようにグレイドが言う。
『ハルクがそれを話さなかったのはお前を信用していないとかじゃないと思うぞ。守秘義務があるから騎士団内のことは部外者には話せない。それに……諜報員であるならきっと、ハルクは数々の誓約の下に置かれているはずだ……』
『そうね……でももうそれも私には関係がなくなる話だわ……』
寂しげに笑うカレンに、兄はもう何も言わなかった。
ただ、『離婚については、すべてこちらに任せなさい』とだけ告げたのであった。
そしてハルクが不在のまま、カレンはメイドと下男に家のことを託し、短い結婚生活の中のほとんどの時間をひとりで過ごした家を後にした。
カレンが離婚を希望していることは、兄を通してハルクに伝えてもらった。
カレンからの一方的な離婚の申し立てなので、慰謝料は亡き両親が遺してくれたカレンの個人資産から支払うつもりだ。
足りない分はグレイドが出すと言ってくれたが。
そうして離婚申し立てを受けたハルクが血相を変えて生家に戻ったカレンに会いにきたのだった。
離婚に関する手続きは全て兄に頼んだが、このままハルクと顔を合わせずに済むとはカレンも思ってはいなかったので話し合いに応じる。
応接室へ入ったカレンを見て、ハルクは焦燥感を露わにして詰め寄った。
『カレンっ……!いきなりどうして離婚したいなど……』
だけど憔悴しきったカレンの様子を見て、その言葉は尻窄みに消えていく。
ただ、カレンの両肩に置いた大きな手にぎゅっと力が込められた。
カレンは力なくハルクに告げる。
『とりあえず、座りましょう……』
カレンに促され、ハルクは大人しく従った。
応接室のソファーに対面して座る。
隣どうしではなくローテブルを挟んで座ることが、二人の関係が変わったことを示している。
そのことがさらにハルクの表情が堅くさせた。
そんなハルクを見ながらカレンは重い口を開く。
「……お勤めで忙しいのにこんな申し出をしてごめんなさい……でも私にはもう、あなたの妻でいられる自信がないの」
「不在ばかりのために不自由で寂しい思いをさせて申し訳ないとは思っている。だけどもう少し、本当にもう少しで片がつきそうなんだ。そうしたらこの任務からは……「寂しさから別れたいと言っているんじゃないの」
カレンはハルクの言葉を遮ってそう告げた。
そしてアメジストの瞳をじっとハルクに向ける。
「私ね、スキル持ちなのよ」
「えっ……え?」
「黙っていてごめんなさい。でも夫婦であってもスキルの有無と内容は明かさないのがルールのようなものでしょう?……貴方も私に明かさなかったのだし……」
「な、何を言って……なぜ……」
「なぜ、私が貴方もスキル持ちだとわかったのかって……?……実際に目の当たりにしたからよ」
「な……何、を……?」
「その前に私のスキルを明かすべきよね。……私のスキルは他者の魔力を匂いとして感じ取り、個人の特定と識別ができること。そして自分の魔力と気配を無にすることができることよ」
カレンがそこまで言うとハルクは察したようだ。
途端に血の気を失ったように顔色が悪くなる。
そしてつぶやくように「魔力の……特定……識別……」とカレンの言葉を繰り返した。
そんなハルクを見て、カレンは務めて冷静な口調で言う。
「街中の劇場前で一度。お茶会の休憩室でもう一度、貴方が別の人間の姿で他の女性と共に居るのを見たわ」
「待ってくれカレンっ……あれは任務中だったんだっ……あの女性とはキミが思うような関係ではっ……!」
「わかっているわ。あの女性とは、何もなかったのよね」
「違うっ……!頼む信じてくれっ、俺は過去も現在も、そしてこれからもキミを裏切るようなことは絶対にしていないしするつもりもないっ!」
必死になって言い募るハルクの言葉を、カレンはどこか遠くに感じていた。
「……裏切り、って……どこからを指すのでしょうね……」
「え……?」
「相手に対し、本気にならなければ?肉体的な関係を持たなければ?」
「カレン……?」
「憶測ではあるけれどちゃんとわかっているの、貴方の行動は全て国から命じられたものだということを。……でもね、わかっていても私には耐えられないのよ」
「カレンっ……」
「一緒に居られない貴方を……帰らない貴方を妻の勤めと信じて待つ。私にはそれができそうもない……だから別れたいと思ったの。貴方の妻でなければ、いつかは貴方に裏切られるのではないかと怯えなくてもいいのだもの……だからといって辛くないわけではないけれど……」
力なくそう言うカレン。
ハルクは勢いよく立ち上がり、そしてカレンの元に膝をついて詰め寄った。
「カレンっ、カレンっ……ごめんっ…この期に及んでも、キミを失いかけているこの局面でも俺には何も話すことができない、話せないんだ……だけどこの状況には訳があって……!俺は、俺はっ……キミを失いたくない、別れたくないんだっ……」
「ハルク……」
「何も話せないくせに勝手なことを言っているのは重々承知しているっ……だけどっ……」
「勝手なのはお互い様よ。だから貴方は気にしなくていいわ。……でももう私は嫌なの、猜疑心と嫉妬の塊になって一人で待つのは……」
「カレンっ……!」
「お願い。このままではいつか貴方のことを憎むようになってしまう。そうなってしまう前に別れたいのっ……あなたを、嫌いになりたくないっ……!」
「カレン!」
愛するがゆえに別れたい妻と愛するがゆえに別れたくない夫。
両者とも必死であった。
その後も話し合いは平行線で、その日の内に決着を着けることはできなかった。
そしてその後すぐに、隣国との国境線で軍事衝突が発生したと報じられた。
ハルクは当然、任務に駆り出されているのだろう。
兄が騎士団内の友人に聞いたところによるとハルクが公に所属している連隊が前線に派兵されたらしい。
そしてそれを知らされてすぐに、カレンの元にハルクからの手紙が届いた。
手紙には、
カレンを傷付けてすまなかったという謝罪と短い結婚生活への感謝の言葉とそして、離婚に応ずると綴られていた。
それがまるで遺書のようでカレンは後ろ髪を引かれる思いがしたが、自分が言い出したことだと自らに言い聞かせた。
そしてハルクの手紙に同封されていた離婚届けにサインをし、提出したのであった。
ハルクの手紙の最後には、
『いつか、いつか生きて自由を得たら、もう一度キミに会いたい』
と書かれていた。