第二章:第二の死/響平
「はぁ……」
長い月曜日。やっと一日が終わった。
今朝も起きた途端、頭痛に見舞われた。でも、光一にもらった薬がわりと効いて、なんとか今日をしのぐことはできた。
やっぱり、病院へ行った方がいいのかな。頭痛の原因がなんなのかハッキリさせれば、少しは気が楽になるかも……。
レストランでの出来事を思い出し、憂鬱になる。
共振だと、光一は言ってたっけ。それがもし本当で体調のせいなら、早く治したい。
昨日は家に引きこもった。そうしたら光一から連絡が来た。
よっぽど心配させてしまったんだろう。結局、光一は家まで来てくれた。
光一からもらった薬のおかげかもしれないけど、光一がいる間は不思議と頭痛も気にならなかった。そうはいっても、ずっと引きこもってるわけにはいかない。
そばにいてもらうことだって……。
地下鉄の階段を上る。見えてくる地上の景色。外はすっかり薄暗い。夕焼けもほとんど沈み、頭上には濃く深い青が浸透し街を包み込んでいた。
頭が重い。
トボトボと憂鬱な気分で歩いてると、いつもの踏切が見えてくる。この踏切は電車の本数も多く、今の時間は特に閉まってる時間が長い。
捕まると面倒なんだよな。とはいえ、警報器が鳴り出す前に通り抜けようと急ぐ気力も今の俺にはなかった。
足を運びながら、また光一のことを思い出す。
六年振りの再会だった……。本当は、すぐに光一だとわかったのに、驚きのあまり呆然として誰か覚えていないみたいな返事をしてしまった。でも光一は無邪気に再会を喜んでくれて……。
正直、嬉しかった。
六年前のあの日、俺は光一に酷いことをしてしまった。
高校卒業の日。それはずっと仲良しで三年間毎日顔を突き合わせ一緒に過ごしてきた俺たちの日常からの卒業でもあった。
卒業式を終えたあと、いつものように同級生とワイワイはしゃいでわざわざ私服に着替え、また集まってカラオケして、食事と二次会三次会をして解散したのは夜の十時。
手を振り別れていく友の背中を見送り、最後に残ったのは光一と俺の二人。
二人っきりになった俺たちは顔を見合わせた。
一日中さんざん別れを惜しみ門出を祝い合ったのに、どうにもまだ名残惜しくて、俺は光一へこのままオールしない? と持ちかけた。
突然の泊めてくれ発言は光一の両親にしてみれば、非常識で迷惑極まりない提案。でも、俺が光一の家に泊まるのはしょっちゅうだったから、光一も光一の両親もいつものように快く承諾してくれた。俺の親は呆れてたけど、光一の家の了解が出てるのならとこちらも了承。
光一の家に向かう前にオールの準備にと俺たちはコンビニへ寄って買い出しすることにした。たった二人なのに、ジュースや夜食用のお菓子を大量に購入。いつも以上に買い込んで、近道の公園を突っ切ることにした。光一の家は公園を挟んだ先にある閑静な住宅街の中だ。
公園は綺麗に整備された遊歩道なんかもあって結構な規模。遊歩道の脇はちょっとした林のようになっていた。昼間は犬の散歩やウォーキングを楽しむ人を見かけるけど、こんなに遅くだとさすがに誰も歩いてない。
外灯が道を静かに照らしていた。暗闇に浮かぶタイルで舗装された道はどこまでも続いている様で、本当にずっとこのまま光一と二人で歩いていけたらいいのに。なんてセンチメンタルな事を考えながらも、他愛のない会話をしながら歩いた。その会話が途切れた時だった、林の中からガサッと音がした。ハッキリ聞こえた音に思わず足が止まる。顔を見合わせ「タヌキかな?」「猫じゃね?」と小声で話した。
暗闇の中の突然の物音は、恐怖心や好奇心を煽る。俺たちは息を潜め、暗闇をジッと見つめた。しばらくするとまた落ち葉を踏むような音がして、そのあとにクスクスと密やかに笑う声と囁き声がした。
人だ。
俺は光一の耳元に手を当てて、小さな声で話しかけた。
「ね……今のって、カップルかな?」
「うんうん」
「ちょっと、行ってみる?」
「お、う、うん」
カップルが暗闇の中ですることと言えばひとつしかない。イチャイチャだ。馬鹿な高校生の単純な好奇心だった。
俺たちは足を忍ばせ、カップルを覗こうと茂みへ近づいた。囁くように話す声は少しずつ聞き取れるようになってくる。甘い声と、恥ずかしそうに嬉しそうに笑う小さな声。
見てはいけないものを見るドキドキが俺を高まらせた。
向こうは俺たちに気が付いていないようで、足音をたてないように忍び寄る。暗闇にだんだん目も慣れてくる。話し声の合間に聞こえたのは唇を触れ合わせる音。
キスしてるっ!
生のキスシーンなんて初めてで、俄然興味が跳ね上がる。
俺たちは息を潜め、足を慎重に前へ動かした。
そこで見た光景は想像とはまったく違うものだった。
太い木にもたれる重なりあったシルエットは同じくらいの体格。どっちも身丈があり、イチャついているカップルはどう見ても男同士だった。
予想もしなかった光景に、俺は愕然とした。
ドウシテ? その言葉だけが頭の中に響く。
動けなかったはずの体はわずかに後退していたのか、肘が後ろにいた光一にトンと触れ、反射的に振り返った。光一も息を飲んでビックリした表情のままふたりを凝視している。カップルが俺たちの存在も気づかずにイチャイチャ音をたてる中で、光一を見ているとどんどん顔が熱くなるのを感じた。
見てはいけないものを見た。見せてはいけないものを見せてしまった────
なぜそう思ったのかわからなかった。パニック状態の脳がその思考を認識すると、今度はザッと冷たい冷気が体を駆け降りていく。次の瞬間、俺は荷物も放り出し駆け出していた。
林の中にひとり、光一を置き去りにして。
あんな別れ方をしてしまったから、ずっと会いたいと思っていたけど、自分から連絡をとるなんてできるわけがなかったし、顔を合わせる勇気もなかった。
それに……。
なんであんなことをしてしまったのか。俺はそれを認めたくなかった。
そんな情けない俺と違って、昔以上にイケメンになって現れた光一はなにごともなかったように接してくれた。
またあの頃の俺たちに戻れる。
頭痛は辛いけど、光一とのこの再会が俺にとっての唯一の救い。うん。本当に救いだった。
今まで体験したこともない激しい頭痛と耳鳴り。
そして、すぐそばで人が死んだ。
その場に駆けつけた救急隊員や野次馬の様子で、倒れた人が亡くなったのはわかった。同時に脳をつんざくような激しい耳鳴りもパタリとやんでいた。
それはまるで俺があの人の命の叫びを消してしまったかのように感じて……。
怖くて怖くてしかたがなかった。
光一は怯えるだけの俺を「共振」という答えへ導いてくれて、夜まで一緒にいてくれた。
俺はずっと、かけがえのないものを手放していたんだ。
今度こそって思う。だけど……。
この憂鬱さは、この空のせいなのか、一日の疲れのせいなのか、それとも薬の過剰摂取のせいなのか……。
そんなことを考えているうちにカンカンカンという警報器の音が鳴り出した。ゆっくりと落ちてくる遮断機。
あぁ、来てしまった。
「はぁ……」
大きく息を吐き出した途端、こめかみがしくしくと疼きだす。
瞼の上から軽く眼球を押すようにマッサージしていると、どこからかかすかな高音が聞こえてきた。
耳鳴りだ。
たかる虫でも払うように首を振ったけど、嫌な音は消えることなく、少しづつボリュームを増していく。
レストランでの光景が鮮明に蘇り、恐怖に身を竦めた。
……そうだ、薬。
慌ててカバンの中からペットボトルを取り出す。底の方にわずかに残ってるだけの水。
これじゃ足りない。
さっき通り過ぎたばかりのコンビニへ入るため、線路から体を背け、来た道を戻った。
足を前に運ぶたびに耳鳴りが大きくなっていく。
「……っ」
頭にズキンと強い痛みが走った。
その痛みに一瞬目を閉じ、ゆっくり瞼を開けると、前方に黒く長い髪をなびかせた女子高生がいた。俯いていた顔が視線を上げる。
目が合った。
ううん。合った……ような気がした。
視線はぶつかったけど、彼女の目に俺は映ってなかった。
なにも感じていない────。
色のない目。
息が止まる。
女子高生はゆっくりと、動けない俺へ近づいてきた。
擦れ違った瞬間、強烈な痛みと同時に脳がグラグラと揺れた。目が回る。俺は両手で頭を抱えた。
大きく鳴り響く耳鳴りに重なる、遮断機の音。
体のネジがひとつひとつはずれていくように、俺はガクガクと崩れ落ち、うずくまった。
カンカンカンカン……
警報器の音と、甲高い悲鳴のような耳鳴りが脳を揺さぶる。
ざわざわと人の声が波打つ。
「え、あの子なにやってんの?」
「……おい。おい。電車くるぞ。おいっ! ちょ、誰か……非常ボタ……」
電車の近づく重そうな音と共に大勢の叫び声が上がった。
鼓膜に爪を立てるような急ブレーキの音が空気を切り裂く──── 瞬間、気がおかしくなりそうな程鳴り響いていた耳鳴りが、止んだ。
頭を抱えていた腕がだらりと落ちる。
空っぽだった。
頭の中も自分のいる空間もスコンと抜けたよう。
「女の子だ! 女子高生! 誰かっ! 警察!」
悲鳴と怒号。いろんな声がしていたけど、俺の中に入って来た単語はこれだけ。
オンナノコダ オンナノコダ オンナノコダ
遠くで鳴るサイレン。わらわらと集まってくる野次馬たち。
俺は逃げるように地面を蹴った。
ひたすら早足で歩く。どこをどう歩いているのか分からない。どこでもいい。ただ立ち去りたかった。
歩きながら震える手で携帯を取り出す。
光一。光一に。
スリーコールを待たず、耳元の音が途切れる。
『もしもし? 響平?』
温かい。
「こ……俺っ」
なにを言えばいいのかもわからない。声もちゃんと出ない。
『どうした? 大丈夫? 今どこにいるの?』
「ど、しよ……俺、……どしよ」
『……響平、迎えに行くよ。今どこにいるの?』
なにをどう伝えればいい?
ただ携帯を握り締めてもがく俺へ、光一は噛み砕くように言葉を続けた。
光一の声が耳元から体を温めていく。
俺は何度も頷き、カラカラになった口中の唾液を必死で飲み込み、駅名と景色を伝えた。
『分かった。すぐ行くから、そこで待ってて』
しっかりした声のあと電話が切れた。
良かった……。
もう足に力が入らない。俺はその場にへたり込み、アスファルトに尻を着けた。
何も考えたくない。考えたくないのに、思い出してしまう。
静かに近づいてきた耳鳴りと、女子高生の瞳。何も映らない空洞のような目。肩でなびく黒髪。
スローモーションのように通り過ぎていった彼女。
恐怖の瞬間が、何度も繰り返される。
どこかで鳴っている音に、我に返った。
手の中の携帯が振動している。
「……こ、ういち?」
『今、そっちに向かってる。大丈夫だよ。ただ、道が妙に混んでる。必ず行くから待っててね?』
「……っ」
頷きながら、俺は慌てて言葉を付け加えた。
「ふ……踏切事故……っ、迂回……」
『え? マジか……。うーん……と、響平、駅前には線路を渡らないと行けない。駅裏に車を停めるよ。そこまで……歩ける?』
「う、うん。わかった」
通話を終え、その場から逃げ出すように駅裏を目指した。
早く光一に会いたい。
その感情しかない。