匂い/響平
その夜、俺のアパートで待ち伏せされている可能性を考え、そのまま光ちゃんの家に泊まることになった。
マンションに着くと俺の寝床をせっせと作ってくれた。
光ちゃんのマンションは俺のアパートよりも一つ部屋が多い。客用の布団まであった。部屋はいつ来てもキレイだし、ちゃんと人を招く想定が組み込まれている。昔からキチンとしているところがあったけど、この年齢になって改めて、立派な大人の男だなって思う。さすが光ちゃんだ。
「今日は布団でも大丈夫かな? ベッドの方がいい?」
「うん、布団で大丈夫。ありがと」
「もし、夜中に喉渇いたら、冷蔵庫に色々入ってるから飲んでいいからね」
光ちゃんの気遣いに、素直に頷いた。風呂も先にと勧められ、新品の歯ブラシや新品の下着まで出てきた。なんでもそろってる。本当に完璧だ。そういえば、薬局で再会した時もティッシュやトイレットペーパーをごっそり買ってたっけ。俺とは正反対。光ちゃんて堅実だよなぁ。
風呂のあとは、十二時近くまで一緒にテレビを観た。
襲われたことに関しては二人とも話題に上げなかった。
「そろそろ寝る?」
全然眠気なんてない。でも「そうだね」と答えた。
光ちゃんはテレビを消してリビングを間接照明に切り替えた。ありがたい。これで夜中にトイレやら、キッチンやらに行きたくなっても、暗がりを彷徨い、挙句足の指先をどこぞにぶつけるなんてこともないだろう。
布団に潜り込んで、見慣れない天井を見つめた。
清潔でふかふかの布団。疲れもあるはずなのにちっとも眠くならない。ずっと緊張しっぱなしだったんだから、安心出来る場所にいる今、ホッとしてバタンキューになってもいいだろうに……。
そういうことを考えだすと余計に目が冴えてくる。
携帯をしばらく弄ってたけど、キリがなかった。水でも飲もうとキッチンへ向かう。光ちゃんの言葉を思い出しコップを戻した。冷蔵庫の冷たいミネラルウォーターをいただく。冷たい水が喉を通って気分も幾分かスッキリした。
部屋に戻って、布団を被り目を閉じる。
スッキリしたはずなのに、どうにも落ち着かない。眠気もやってこない。
トイレ、行こうかな……。
特にもよおしてるわけでもないのにトイレへ行った。
リビングの時計を見ると二時半。そろそろ眠気がきてもいいんじゃないのかな。
布団に戻ってもう一度目を瞑る。
「…………」
あー、ダメ。全然眠くない。眠りを誘う方法……羊を数える? ベタな方法。そんなの信じないし、やったこともなかったけど、ちょっと試してみるか……。
やるからにはちゃんと効果を発揮できるようにイメージしよう。
白い柵。風になびく草。青い空。あたたかな陽射し。舞台背景をなるべく明瞭に思い浮かべる。そして軽快に弾む綿雲みたいな羊が一匹……羊が二匹……。羊が、五十……さ……ん……。いける……いけるよ……よ……ん……。
エレベーターが下るように体が沈んでいく感覚がした。
もう大丈夫だと感じた時、暗闇にキラリとちらつく細く小さな鈍い光が見えた。
鼻先に残る嫌な臭い。
「……ぅ……っうわっ!」
勢いよく体が飛び上がった。
クソッ……。
鼻をスンスンと鳴らした。匂いなんてしないのに、さっき確かにあの匂いが蘇っていた。
夢……だよな……。
実際にはもう匂いなんてしてない。でもそれを剥ぎ取りたくて、もう一度布団を抜け出し、洗面所に向かった。
冷たい水で顔を濡らし、石鹸を手に擦りつけ泡だらけにして顔を洗った。特に鼻周りを何度も擦る。もう残ってないのに、石鹸の香りしかしないのにこれでもかと擦り倒した。水で流し顔を上げると鼻が真っ赤になっていた。
「……響平?」
タオルで顔を拭いてるとうしろから声を掛けられ、ビクッと肩が揺れる。
振り返ると光ちゃんが目を擦って立っていた。
手にはペットボトル。眉をひそめ目を細める表情は、眠りを妨げられて不機嫌そうに見えた。
「あ、ごめん。起こしちゃったね」
「…………」
光ちゃんは口にタオルを当てモゴモゴ言う俺の手を掴んだ。グイと無言のまま引っ張られる。
「え、あ……あのっ」
引っ張られた先は光ちゃんの寝室だった。
掴んでた手を離した光ちゃんがボソッと言った。
「……布団、入って」
な、なんか怒ってる? そりゃそうだよね。うるさかったよね。もっと静かに行動すべきだった。
「……あの、ごめんね?」
俺は立ち尽くしたまま、不機嫌そうな光ちゃんに再度謝った。光ちゃんは「ふぁ……」とあくびをしながら俺の肩を押して、ベッドに入れと促す。
素直にベッドへ上がって、布団を被った。光ちゃんは眠いんだから、俺がごちゃごちゃしたら眠れない。光ちゃんだって、仕事上がりで俺に付き合わされてきっとヘトヘトなんだろうし。
「…………」
光ちゃんは無言のまま俺の隣に入ってきた。枕を首の下に入れると俺の頭の下に腕を潜り込ませる。
え……腕枕……?
動揺したけど、ここで「なんで?」とは言えない。もう光ちゃんの邪魔をしちゃいけない。おとなしくしなきゃ……おとな……っ!
思ってる矢先に光ちゃんのもう片方の腕が俺の体をグイと引き寄せた。光ちゃんの顎がおでこに当たる。背中に回った手が優しく俺の背中を「とんとん」と叩きだした。
「……怖い目に遭ったから、神経が高ぶってんだよ……大丈夫。俺がいる……」
優しく甘い匂いを漂わせながら、まったりと囁くような静かな声が響く。
心地いい。あんなに眠れなかったのに、とろんとしたまどろみがすぐにやってきた。
「……ん。ありがと」
俺はそっと目を閉じ思った。
きっとこれで朝まで眠れるって。
翌朝、あれからグッスリと眠れた俺は朝になり自然と目が覚めた。
気分もすっきりしてる。
これも光ちゃんのおかげだ。
いい年こいて幼児みたいに抱っこしてもらって、情けないけど……心から安らげた。
光ちゃんの車で最寄りの駅まで送ってもらい会社へ向かう。帰りも「電車の到着時刻を教えてくれたら駅まで迎えに行く」と言ってくれた。
車を降りて光ちゃんに手を振り、駅を見た。朝の通勤の時間帯。多くの人が駅に吸い込まれていく。俺は四方の人ごみへ視線を走らせた。
いや、そんなことは無意味だ。あの独特な匂いがしない。いれば匂いがする。わかっているのに、それでも探してしまう。暗闇に光るナイフが脳裏にチラつき、忘れられないんだ。
大きく息を吸い、覚悟を決めて大勢の人でごった返す駅構内へ足を運ぶ。改札を抜け、ホームへ。ホームにも人は溢れかえっている。
今までこんなに人混みを意識したことはなかった。
意識しだすと、行きかう人の音や空気までも感じとれるような気がする。神経が研ぎ澄まされている感じ。ゴクッと唾を飲み込む音が体内で響く。
早く電車が来ないかと気が急く。電光掲示板を見上げ、到着時刻と時計を何度も見返した。
やっと電車がホームに入ってくる。流れのまま、大勢の人と塊になって車内へ。
閉まるドア。隔離された密閉空間。押し込められたように、触れ合う感触。
人肌は好きだけど、こういうのは別だ。不快感しかない。いろんな匂いがする。どんより澱んだ泥のような匂い。鼻を刺すような刺激臭。どれが実際の匂いで、どれが俺の感じてしまう「あの匂い」なのか判断できない。
嫌な臭いばかりではないけど、いろんな匂いが充満し……だんだん気持ちが悪くなってきた。
一気に体力ゲージが下がっていく感覚に鼻を手で覆おうとした時だった。遠くの方からわずかにあの腐敗臭が届いた。
パッと顔を上げそちらを見た。視線を素早く動かし、そいつを探す。
どこだ? 誰だ? あいつなのか? ターゲットは……俺?
むせかえる匂い。目が回る。胸が苦しい、息ができない。光ちゃんっ……!
視界が歪む。携帯のリダイヤルをなんとか押したけど、画面が暗く狭くなっていく。
「え、お、おいあんたっ、ちょ、大丈――」
遠くで誰かの慌てる声がする。そしてその声もどこかへ消え去っていった。