訪れた危機/響平
そして始まる平日。
俺は会社に行き、光ちゃんもただのサラリーマンになる。
普通の暮らしが一日、二日と過ぎて、早くも休日を懐かしみ恋しく思う俺がいた。
帰宅ラッシュで混み合うホーム。わざわざ一本電車を見送り、先頭に並んで確保した座席。なのに俺の肩にもたれてくるのはバーコード頭。電車の揺れにそよぐ細く繊細な髪がふよふよと頬にあたり、手で払いのける勇気もなく反対側へ頭を傾けた。足を踏まれないよう、つま先を立ててこじんまり座る。しがないサラリーマンな自分に嫌気を覚えつつ、電車を降りた。
会社から家へ帰宅途中、前から若い男が歩いてくる。
ダメージジーンズに黒いパーカー。耳にいくつも光るピアス。ボサボサの黒髪。あまり近づきたくない雰囲気を漂わせてる。その男とすれ違った時、背筋がピンと伸びた。
こないだの原付の時と同じ嫌な匂い。
パッと振り返ったら、その男も俺のことを見ていた。ギョッとして慌てて顔を戻し、足を速める。
え……ちょっと待って? 今のはなに? なんであっちが振り返るんだよ。
ドクドクと血が駆け巡る。加速する焦り。なにかに急かされるように足を前へ前へと動かす。バクバクバクバク歩く速度より速く伸縮する心臓。
おかしい。もう、かなり離れたはずなのに、いつまでたっても男の匂いが離れない。まるで付き纏ってるように……まさか?
視線を左右に振りなんとなく背後を確認しながら、俺はさらに大股で歩いた。
がっつり振り返ればまた視線が合ってしまうかもしれない。でも確かめなきゃ。
ビビりながら、もう一度少しだけ顔を向け後方を確認する。
うしろに人影はなかった。
いない……?
ちゃんと振り返りさらに確認したけれど、やっぱり誰もいなかった。
でも、すえた匂いはまだ残ってる。
俺は手の甲で鼻を拭い、親指と人差し指で香りを引き剥がすように摘みとった。そんなのは気休めだと分かってるけど、やらずにいられなかった。
臭い……まだ匂いがする。匂いがするような……気がするだけ……?
クンクンと鼻を鳴らす。
やっぱり匂う。でも、どこから? 分からない。自信がなくなってくる。本当に匂いがしているのか、していないのか。
両手でゴシゴシと顔を擦った。
なんなんだこれ。俺どうしちゃったんだ。早く。早く家に隠れたいっ!
やっと見えてきたアパートにホッと息を吐く。
建物の前で、俺は再び辺りを見回した。
……人影はない。大丈夫。
自分に言い聞かせながら、逃げ込むように階段を駆け上がった。
夢から覚めて朝になっても、昨晩のことが頭から離れなかった。
通勤中も、ランチ中も、仕事中も。匂いはもうなくなっていたけど、不安で不安でたまらなかった。胸のところがモヤモヤする。
こんなにモヤモヤするのは、光ちゃんの癒しがないからだ。そうだよ。あの甘い香りを嗅げば……香りに包まれれば、きっとこのモヤモヤは消滅する。
その考えに支配される。それが正解だと、それしかないと思った。
すぐ傍に光ちゃんがいない事実に、ジリジリと焦りが募っていく。
いつもと同じ帰宅ラッシュ。疲れてはいるけど、座るよりも一刻も早く帰りたい。
つり革をしっかり掴み、憂鬱な気持ちで遠くの空を眺めた。もうとっくに夕暮れは終わり、空は夜の色だ。
不安を抱えながら電車を降り、改札を抜けてじっくり辺りを見回す。昨日のような悪臭は感じない。俺は顔を伏せ、足早にアパートを目指した。いつもの道が長く遠く感じる。何度も背後を確認しながらせかせかと足を動かした。
大丈夫。昨日のヤツはいない。大丈夫だ。
何度も自分に言い聞かせる。
「はぁ、はぁ……」
やっと部屋に辿り着き、鍵とチェーンをかける。靴を脱ぎながら携帯を出し、画面をタップして指先が止まった。
……光ちゃんにも、生活がある。
毎週末付き合ってもらっている。今日はまだ平日だ……。平日まで呼び出したらさすがに負担に思われるかもしれない。いつでも駆け付けるとは言ってくれたけど……俺が元気になってよかったってあんなに喜んでくれたのに。また、心配させてしまう。
ダメだ。せめて、せめて金曜日まで我慢しよう。明日は水曜日。もう折り返し地点まできている。
俺は自分に言い聞かせ、携帯をポケットに突っ込んだ。
翌日、一日の仕事も終え、帰宅するため電車に乗る。
薄暗い不安はすっかり心に染み付いてしまった。
駅を降り、改札口を抜け、辺りに神経を張り巡らせる。
……大丈夫。臭いはしない。なにも起きない。大丈夫だよ。
頷いて足を踏み出す。周りを気にしながらアパートへ向かい歩いていると、前方から近づいてくる原付のヘッドライトが目に入った。
嫌な予感が膨らみ、同時に鼓動が速まる。
ヘッドライトが徐々に大きくなり、シルエットが見えてくる。運転するライダーのうしろに見えるもうひとつの頭。
二人乗り────。
冷や汗がドッと噴き出す。俺は俯きギュッと目を瞑った。
違う、考えすぎ。たまたま二人乗りなだけだよ!
バイクがゆっくり横を通り過ぎた刹那、ハッとした。
────あいつの臭いだ。
パッと振り返ると、通り過ぎていった原付が五十メートルくらい先でゆっくりUターンしてきた。
目を見開いた先に見えたのは、うしろに乗ってる奴の振り上げられた腕。その手に握られたナイフが鈍い光を放ってた。
俺は慌ててダッシュし、細い角を曲がった。
どこかに逃げこまなきゃ!
ピンク色のネオンが光る店を見つけた途端、扉を開けてそこへ飛び込んだ。
「いらっしゃあ~い」
扉が閉まると同時にハスキーな声。顔を上げるとピンク色の店内におねぇ系の女性……らしき人が微笑んでる。
「あらぁ〜、いい男ーっ! どうぞどうぞ、カウンターに座ってぇ~ん」
「あ……えっ」
圧倒的なキャラにたじろぐ。オネェさんはカウンターから出てきて、俺の腕に腕を絡ませると「さぁさぁ、遠慮しないでぇ」とカウンターへぐいぐい誘導した。抵抗できずストンと座る。オネェさんはカウンターの中に入り、パチパチまばたきしながらトークを開始した。
「いらっしゃい。どうぞお。おしぼり。お冷いる? お酒がいいかしら?」
「えっと、あ、じゃ、お水を。すみません」
「いいのよお〜。いい男ならなんでも許しちゃう! おほほほほ」
オネェさんはテンションノリノリという様子でグラスに水と枝豆を出してくれた。
出されたお水を掴み一気喉に流す。
「お兄さん、こういうお店は初めてなの? 大丈夫よ? いきなり取って食ったりしないからぁ」
「……あ、ハハ、はぁ」
「これがドリンクのメニューで、こっちがフード系ね? なにか欲しい物があったら言ってちょうだい」
そういうと大量のつけまつげをバタバタと動かしてみせた。
「じゃ、じゃあ、ビールを」
「はぁ〜い。ジョッキでいい?」
「はい。あ、あの……トイレ、お借りしてもいいですか?」
「どうぞどうぞ。あのドアね」
ペコッと頭を下げ席を立ち、オネェさんが指さした奥にある白いドアへ向かった。
背中で閉めた扉に身を預け、やっと一息付いた。でも、次の瞬間ゾゾッと背筋に冷気を感じる。
バイクのアイツら、完全に俺を狙っていた。きっと一昨日の臭いだって、俺の気のせいなんかじゃなかったんだ。
アパートまでずっとついてきた臭い……ということは……。
震える体を自分で抱き「落ち着け」と唱える。
もう生活が……なんて言ってられる状況じゃない。
俺はポケットから携帯を出し光ちゃんへ電話をかけた。
光ちゃんはワンコールで出てくれた。
『もしもし? 響平?』
耳元で聞こえる声にホッと緊張が解ける。
光ちゃんに状況を説明すると「すぐに迎えに行く」と言ってくれた。現在地をメールで送る。
あいつら、俺がこの店に入ったの見てないよな? もしかして……、いやいや、オネェさんがいるんだ。店で手荒なことはできないはず。でも、客のフリして店に入って来ていたら?
恐怖が全身を駆け巡る。俺はトイレのドアに頭をつけ、外の音に耳を澄ました。
聞こえる音は店内に流れているBGMだけだった。
慎重にドアを開け、店内を見回すけど、いるのはオネェさんだけ。
よかった。ここに逃げ込んだこと、気付かれていないのかもしれない。
ほっとして、ドアを開ける。オネェさんがおいでおいでと手招きし、頼んでいないジョッキのビールを出してくれた。
誰かといるだけで心強い。
オネェさんと乾杯し恐怖をビールで流そうとした。無口な俺に何かを察したのか、オネェさんが気を遣って次から次へと面白おかしい話題を披露してくれる。正直、話の半分も耳に入ってこないけど、少し気が紛れた。
しばらくして携帯が鳴った。光ちゃんだ。オネェさんに会釈して電話に出る。
『今、駅のロータリーまで来てる。そいつらが店の前で張ってるかもしれないから、どうにかバレないようにこっそり出てこられるかな? 出られそうなら連絡がほしい』
「うん。わかった。じゃあ、あとで」
電話を切るとオネェさんがつまらなそうな顔で俺を見ていた。
「やだぁ、だれぇ〜? もうイイ人いるのぉ?」
「あぁ、いやぁ……あの、実は……」