第七一八話、バルチック艦隊、運河通過を阻まれる
日本でバルチック艦隊と言えば、東郷 平八郎率いる連合艦隊との日本海海戦が、つとに有名である。
日露戦争におけるバルチック艦隊は、ロシア太平洋艦隊の増援として、遥々日本へ来航したのだが、そもそものバルチック艦隊は、バルト海を拠点とする艦隊であり、意味合いならばバルト海艦隊である。
T艦隊側からバルチック艦隊と呼称された異世界帝国艦隊は、目下、キール軍港を目指していたが、悲報が飛び込んできた。
「キール運河、通行不可。……やはり仕掛けてきたか」
バルチック艦隊司令長官、ストコノ中将は冷静に事態を受け止めた。
艦隊戦力は以下の通り。
●バルチック艦隊(レニングラード艦隊):司令長官、ストコノ中将
戦艦:「ソビエツキー・ソユーズ」「ガングート」「マラート」「ポルタヴァ」
重巡洋艦:「クロンシュタット」
軽巡洋艦:「チャパエフ」「チカロフ」「レーニン」「ジェルジンスキー」「ジェレズニャコフ」「アウローラ」「キーロフ」「マクシム・ゴーリキー」
駆逐艦:14
「我が艦隊は北海、そして大西洋に出て、北米侵攻作戦に加わらねばならない」
参謀たちは首肯する。参謀長を務めるガモヅ少将は、わずかに首をかたむけた。
「地中海、黒海、南米アマゾン……主力に合流するはずの戦力が、ことごとく敵の妨害でそれが果たされておりません」
「キール運河の封鎖も、その一環だろうな」
ストコノ中将は、その端正な顔立ちのまま、涼やかに告げた。しかし目はこれ以上ないほど真剣であった。
「我々は、ユトランド半島を迂回する。……こちらも転移があれば楽なのだがな」
冗談のつもりはなかったが、参謀たちは小さく笑った。
「参謀長」
「はっ。我が艦隊が、カテガット、そしてスカラゲク海峡を越えて北海に出るために通過するルートは、大まかに三つのルートがあります」
海図を前に、ガモヅ参謀長は説明した。
「もっとも東であるエーレスンド海峡ルート。中央、フェールマン海峡を通って、キール湾に入り、大ベルト海峡を抜けるルート。もっとも西の小ベルト海峡は……艦隊が通るには狭すぎるので論外でしょう」
小ベルト海峡は、一番狭い場所で幅800メートル、最大は28キロメートル。海峡の長さはおよそ50キロメートルである。
「となると残るは2つか」
ストコノが顎の手を当て、海図を睨む。
「一番近いのは、東のエーレスンド海峡か」
「ここも比較的狭い海域ではあります。一番狭い場所でも7キロはありますが」
今の季節は大丈夫であるが、冬になると凍って徒歩で海峡が渡れてしまうという。それを聞き、ストコノは皮肉げな顔になった。
「通過中に氷で身動きとれなくなるのは嫌ではある」
もっとも今はシーズンではないので、凍ることはない。
「迂回をさせられる以上、日程が遅れるわけですから、主力との合流も考えますと、エーレスンド海峡が一番早く通過できるのですが」
航海参謀が発言した。
「中央の大ベルト海峡が主要航路となりますが、通常ルートですとキール湾を横切ることになり、日程的にロスが増えます。キール運河を利用できるなら、間違いなく、湾へ直進なのですが」
「すでに遅れることが確定している以上、最短ルートで通過したいものだが……。これ、待ち伏せされているだろうな」
「おそらく」
参謀たちは同意した。
狭い海域に潜水艦なり伏兵を忍ばせているというのは、よくあることだ。潜水艦ならば、近隣航空隊の対潜哨戒機で見張ることもできるが、問題は、バルチック艦隊の前にいるだろう敵は、転移による奇襲を得意としていることだった。いるのは潜水艦だけではあるまい。
「どちらのルートを選んでも、待ち伏せされていると考えて進むべきではあるが……諸君らはどのルートを選ぶかな?」
狭いが日程が短いルートか。遅延は承知だが、比較的幅が広く、艦隊航行がしやすいルートか。前者はスウェーデン、後者はドイツの飛行場からの航空支援がつく。
「私はエーレスンド海峡ルートを選ぶべきと考えます」
航海参謀が発言した。
「キール軍港が使えない以上、ただでさえ味方との合流が遅れます。どのルートも待ち伏せが警戒されるのなら、最短ルートを選ぶべきです」
「航海参謀に同意致します」
航空参謀が続いた。
「エーレスンド海峡側なら、スウェーデンの各航空基地からの支援が望めます。中央大ベルト海峡側は、ドイツ側飛行場の支援が少々怪しくあります。航空支援を頼りに、活路を見いだすべきでしょう」
キール軍港への攻撃で近隣飛行場も攻撃されており、確かに航空機のエアカバーに、些か不安である。他の参謀たちも、最短ルートがよいとそれぞれ意見を述べた。
「よろしい。では、エーレスンド海峡を通過する!」
ストコノは、決断した。
バルチック艦隊は、最短ルートを選択した。
・ ・ ・
艦隊の動きは、彩雲改二偵察機によって筒抜けであった。
『バルチック艦隊はバルト海を北上!』
キール湾にはこない。つまり、敵艦隊はエーレスンド海峡を通るのだ。
作戦全体を俯瞰していたT艦隊司令部は、ただちに特封鎖戦隊による待ち伏せを発令した。
異世界帝国北欧艦隊が整備していた海防戦艦を、魔核による短期再改装で復活させ、編成されたのが、特封鎖戦隊である。
これらは遮蔽装置を用いて、すでに予想されるルート上に分散して配置されていたが、エーレスンド海峡に確定した段階で、転移中継装置を用いて、同ルート上に移動。それぞれ待ち伏せポイントに配置につく。
T艦隊司令部で、藤島航空参謀は引きつった笑みを浮かべる。
「しかし、いくら遮蔽があるとはいえ、こんなに敵航空隊が目を光らせていたら、待ち伏せるほうも生きた心地がしないでしょうな」
「せめて天候が悪くなれば……」
田之上首席参謀はそう言ったものの、すぐに首をひねる。
「そう都合よくはいかないか」
「何事も、思った通りになれば苦労しませんぜ」
「敵は夜になる前に通過すると思われます」
白城情報参謀が、海図を見下ろした。
「この狭く、短い海峡で、何回仕掛けられるか、ですね」