雪の布
市場の立つ広場の隅っこの、いつもはそんなところに店の立たない場所に、その怪しげな店はその日だけ開いていた。
母の言いつけでこまごまとした日用品を買いに来たエルナは、必要な買い物を終えて自分のわずかなお小遣いで買えそうなものを探しているときに、その店を見付けた。
敷き布の上に広げられた品物の数々は、どれも一見してがらくたのようにしか見えなかったが、中年の店主は自信満々だった。
「こんな場末の市場でこれだけの品物が見られることは滅多にないよ」
店主はそう言ってエルナに手招きした。
「ほら、お嬢さん。これはどうだ。ジェバの山の最も深いところで採れた水を結晶にした、青の精霊石」
だがエルナの目には、それはただの青みがかった石ころにしか見えない。
「値段はたったのこれだけだ」
店主の告げたその値段はとてもエルナの手に届くものではなくて、彼女はびっくりして首を振る。
「そんなにお金持ってないわ」
「ああ、そうかい。ちょっとお嬢さんには高すぎたか」
店主はそう言うと、ええと、と言いながらがらくたを引っかきまわす。
「それならこれでどうだ」
店主が差し出したのは、真っ黒い布切れだった。
「ちょっと持ってごらん」
言われるがままにエルナが布を手に取ると、店主は、それを摘まんで振ってみろ、と言った。
エルナが恐る恐る布切れを振ると、そこからふわりと一粒の白いものが零れ落ちた。
「えっ?」
それはふわふわと揺れながら地面に落ちると、すぐにただの染みになって消えてしまった。
「今のは?」
「もう一度やってみな」
店主に言われ、エルナは再び布切れを振る。また一粒、白いものがふわりと零れる。
「ほら、手ですくって」
店主が言う。
エルナはとっさにそれの落ちていく先に自分の手を差し出した。
白いものは、音もなくエルナの手の平に着地した。
重さは全くなかった。
灰のようで、けれどひやりとした冷たさがあった。
エルナの見つめる前で、それは形を崩し、溶けて水になった。
「これは」
「雪さ」
店主の答えに、エルナは目を見張る。
「これが、雪」
聞いたことがあった。北の寒い地方では、冬になると雪というものがたくさん空から降ってくるのだと。
「南では雪は降らないからな。珍しいだろう」
店主はそう言って笑う。
「その布も雪の布っていうきちんとした魔法具さ。お嬢さんにだって扱える」
「これ、いくらですか」
店主の提示した値段は、エルナにも手が届くものだった。
「買います」
思わずエルナはそう言っていた。
「また、エルナがつまらないものを買ってきた」
案の定、家族の反応は散々だった。
「そんな、何の役にも立たないものを買って来て」
「どうせなら食べ物を出せる布でも買ってこいよ」
食べ物が出せる布なんて、エルナのお金で買えるわけがない。
それに、役に立たないからこそいいのだ、とエルナは思った。
その日からエルナは時々、人目のないところでこっそりと布を振った。
そこからひらりと舞い落ちてくる冷たい結晶を手に取るだけで、心がぎゅっとなって、幸せな気持ちになる。
こんな気持ち、家族には絶対に分からないだろう。
雪を見て、遥か北の知らない国のことを想う。
それはエルナのひそやかな楽しみになった。
ある日、エルナが人気のない街外れの路地で一人、布を手にぼんやりとしている時だった。
「珍しいものを持っているね」
急に、見知らぬ男に声を掛けられた。
父よりも年下の、けれど一番上の兄よりも年上くらいの年齢の、痩せた男だった。
その男の着ている特徴的な長衣を見て、エルナにも分かった。
この人、魔術師だ。
「雪を出せる布か」
男はそう言うと、人のよさそうな笑顔で手を差し出してきた。
「ちょっと私にも見せてもらえるかい」
エルナがおずおずと布を差し出すと、男はそれを振って出てきた雪に目を細めた。
「なるほど。これはなんともささやかな……」
そう言いかけた後で、エルナの表情に気付き、笑顔で首を振る。
「いや、決してこれをばかにしているわけじゃない。これはこれで素晴らしいものだ」
そう言うと、エルナの顔を覗き込む。
「でも、雪が一粒では寂しいだろう」
「え?」
「もう少しだけ、出せるようにしてあげよう」
男は布の端に指を走らせる。指の動きに合わせて、金色の光がエルナの知らない文字の綴りとなって布の上に浮かび上がった。
「珍しいものを見せてくれたお礼だ」
男は微笑んでエルナに布を返す。
「さあ、振ってみるといい」
言われるがまま、エルナは布をいつも通り持ち上げて、振った。
「わあ」
思わず感嘆の声が出る。
布から、こぼれるように無数の雪が降ってきたのだ。
「すごい。こんなにたくさん」
雪は後から後から降ってきて、とどまるところを知らない。たちまちエルナの足元が白く変わり始める。
「これ、ここに積もるの」
聞いたことがある。北の冬は、目に映る一面すべてが雪の白に染まるのだと。
雪がどんどん積もってくる。すでに、エルナの膝くらいまでの高さに達している。
「とりあえず、これくらいでいいかな」
エルナは布を振った。けれど、雪は止まらなかった。
布の中から無限に湧きだすかのように、雪が落ちてくる。
「えっ」
エルナはもう一度布を振った。けれど、雪は止まらない。
「これ、止め方は」
そう言って顔を上げて、エルナは愕然とする。
もう魔術師の男はいなかった。
慌てて辺りを見回すが、周囲には人影はない。
雪の勢いが増していた。
腰くらいの高さになった雪が、ぐらりと崩れた。
「きゃあ」
雪がかかったエルナは、しりもちをついて布から手を離す。
地面に落ちた布からは、なおもとめどなく雪が溢れ出してくる。
どうしよう。
エルナは青ざめた。
雪はまるで止まる様子もない。
このままじゃ、街が雪に埋まっちゃう。
もう一度布を掴み上げ、狂ったように振り回す。けれど、自分の頭に雪をかぶっただけで、雪は止まらなかった。むしろ、ますます勢いを増しているようにも思える。
「誰か」
思わずエルナは叫んだ。
「誰か、助けて」
けれど、こんな誰もいない街外れでそんなことを言ったところで、聞いてくれる人もいない。
それが分かっていても、エルナは叫ばずにいられなかった。
「助けて、この雪を止めて」
それは無駄な叫びのはずだった。けれど、少し離れたところの木の根元の、ぼろ布のかたまりのようだったものが、突然むくりと起き上がった。
「どうしたんだい」
「きゃあ」
エルナは悲鳴を上げた。
「ぼろきれが喋った」
「ぼろきれじゃないよ。寝てたんだ」
それは、少し困ったようにそう言った。
「何が起きてるんだい」
そう言いながら歩いてくるのは、確かに人間だった。長い棒のようなものを持ち、物乞いのようなぼろ布をまとっているが、それでも人であることに間違いはないようだった。
「雪が」
エルナは叫んだ。
得体の知れない人間であれ、今のエルナには他に頼れる人はいなかった。
「雪が、止まらないの」
「雪か」
そう言って目を見張ったのは、大人ではなかった。
少年。
エルナよりもさらに年下のように見えた。
「こんな暖かいところで雪を見るとは思わなかった」
少年はエルナの持つ布に目を凝らすと、ふうん、と頷く。
「これを止めればいいんだね」
「できるの?」
「多分ね」
エルナは、少年が手に持っている長い棒のようなものが、子供にはまるでそぐわない長剣であることに気付く。
「貸して」
少年は手を伸ばして布を掴むと、たちまちにその腕が白く染まるのも構わず、剣を抜いた。
「どうするの」
「君も、そっちの端を持って」
そう言って少年が布をエルナの方に差し出す。エルナが布の端を掴むと、少年はもう一端を持ったまま一歩離れた。
布が、ぴん、と張る。
「そのまま持っていて。動かないで」
「どうするの」
「いいから」
そう言った次の瞬間、少年の剣が一閃した。まるで光のような速さだった。
思わずエルナは目を閉じた。
「ほら」
少年の穏やかな声に目を開ける。
「止まったよ」
その言葉通り、布から湧き出していた雪は、嘘のように止まっていた。
「ああ」
エルナは大きく息を吐く。
「よかった、止まった」
エルナは自分の手に残った布を見た。
少年の持つほうの布の端が、きれいに切り取られていた。そこに、あの魔術師の書いた金の文字が光っている。
と思う間に、崩れるようにしてその文字は消えた。
「父さんが言っていたんだ」
少年はその端布を自分の手でもう一度半分に裂いて、風に舞わせる。
「剣が届くなら斬れ。たいていの魔法は、斬れば何とかなるって」
それから、呆然としたエルナの手から、残りの布を受け取る。
それを少年が振ろうとしたので、エルナは慌てて声を上げた。
「あ、だめ!」
また雪が止まらなくなる。
そう思ったが、少年の振った布から出てきたのは、一粒の小さな雪だった。
「よかった」
エルナは胸をなでおろした。
「元に戻ったんだ」
「これで大丈夫そうだね」
少年は微笑んで、布をエルナに返す。
「珍しい魔法具だね」
「市場のお店で買ったの」
「こっちは本当に魔法が進んでいるね。街の市場で、こんなすごい魔法具が買えるなんて」
少年の言葉に、エルナはその顔を見た。
「あなたは」
こっちの生まれじゃないの。
そう尋ねようとした。けれど、少年はもうエルナではなく地面に積もった雪を見つめていた。
その表情があまりに優しくて、けれどどこか寂しそうで、エルナにもこの少年がどこからやって来たのか、もう聞かなくても分かる気がした。
「本当に、雪が見られるとは思わなかった」
少年はぽつりと言った。
「ありがとう」
「そんな、お礼は私の方が」
エルナが慌てて手を振ると、一緒に振られた布から一粒の雪がふわりとこぼれ、二人の間に優しく舞い降りた。