12話 出発
―楽しげな小鳥のさえずり、暖かな日差しと穏やかなそよ風。
寝ころんでいる柔らかい新緑のベッドが心地良い。
ここは、どこだろうか。
ひどく疲れているが…私は何かをしていたはず。
…そうだ。
同胞たちを喰われ、挙句に故郷を追われて彷徨っていたのだったな。
しかしこれは…この心地よさはいったい?
…ああ、なるほど。
きっと今まで見ていたものは、悪い夢だったのだ。
目を覚ませば、きっと元通りだ。
燃え盛る家々も、忌々しい怪物らに踏み潰されていく同胞たちも。
力なき侍女たちが頭から貪り食われ、それでも私を守るため恐怖を抑えた表情で怪物らに立ち向かっていたことも。
父様の立派な翼が折れて真っ赤に染まった背中も、母様の美しい顔が苦しみに歪んだことも。
そうだ。
あれは、悪夢だ。
目を覚ませば元通りだ。
爺に勉強を教えてもらい、母様の焼いた甘い菓子を食べ、いつものように剣技の訓練をする。
早く起きよう。
鈴のように響く母様の声が聞こえる。
薄く目を開けると、優しく笑う母様が私の頬を撫で、口を開いて―…。
「おーい、クロ。いつまで寝てんだよ?朝飯、食うだろー?」
しかし聞こえたのは、懐かしい母の声ではなく最近仲間となったタケの声だった。
クロがハッとして目を覚ますと、目に入ったのは薄くぼんやりと赤みがかった空と、灰色と深緑が混ざったような葉を携えた木々。
少しだけ冷たさを感じるそよ風が、夢で見た母の代わりにクロの頬を撫でた。
「…ふっ…。どうやら…母様は、私を見守ってくれているらしい…」
そう呟くと、下を向いて苦しそうに顔を歪めた。
懐かしさや愛しさ、悲しみで思わず涙が零れそうになる。
(涙を流すのは、今ではないだろう!…もはや私の道は、前に進むことしか出来ないのだ…!)
袖で乱暴に目の周りを拭い、頬をぴしゃりと叩く。
気持ちを切り替え、タケの方を向くとのんびりと朝食を作ってくれていたようだ。
タケは少し遠くから声をかけたようで、消え入りそうなクロの声は幸か不幸か、タケには届いていなかった。
「起こしてくれてありがとう、タケ」
「朝寝坊もするんだな」
焚き火の前に座ると、ニヤニヤと笑うタケが目に入る。
クロはそれに苦笑し、「どうやら緊張の糸が解けたようだ」と肩を竦めて返した。
「んで、昨日は南に行くと言ってたけどよ、その具体的な場所は分かってるのか?」
朝食分に切り分けておいたモルモルのモモ肉がこんがりと焼かれていた。
タケは肉をクロに手渡しながら問うた。
「うむ。目当ての緋色の剣は、南にある『紅蓮之宮』という地域にあるという事までは聞いているが、更に詳しい情報は私も知るところではないな」
「ぐれんのみや…?」
タケはもごもごと肉を頬張りながら数回呟いた。
暫く記憶を辿っていたが、知らない地名だと諦めた。
「まあ、そもそも俺は北の『鹿ヶ國』生まれだからな。東と南の方は全く関わりがねえんだ。力になれなくて悪いな」
「いや、良いのだ。それにしても…オオミタマ誠国の発音は少し難しいものが多くないか?文字に至っては、他のと全く異なるものも多い」
「そうなのか?俺は文字は書けないし、他のから来たやつだってお前しか見たことがないから何とも言えないけど…、クロがそう言うならそうなんだろうな」
そこではて、と疑問が浮かんだ。
確かにそうだ。
師匠から聞いていた名は、タケからしてみると不思議な呼び名に聞こえる。
どこか発音しづらいというか…。
でもクロと話す言葉に違和感はない。
気になるとすれば、所々の単語くらいで会話に支障は全くない。
その事をクロに問いかけると、なんとも魔神らしい回答を貰う。
「ああ、それは私たちが言語を統一したからだ。会話できなければ何かと不便だろう?」
「あっそ…」
さも当たり前だろうという顔がより一層タケを腹立だしくさせる。
驚きや苛立ちを通り越して、もはや呆れだ。
この世の不可思議な出来事はすべてこいつらが正体なのではないか、などと頓珍漢な考えに行きついてしまった。
「しかし名は我々魔神が決めたわけではない。私の故郷、ゴアレド王国でさえもな。どうやら、一番大きい国だったジョルニア凍国の連中が、代表者のような立ち位置にいるものと交渉し、名前を決定したとは聞いている。まあ、呼び名があった方が便利だからな。賢い行動だ、だから我が祖先も承諾したのだろう」
「ふーん…。んじゃあ昔、オオミタマのこんなでかい土地を、一人が治めてたってことか?」
「そうとは一概に言えないのではないか?地域という言葉もあるくらいだしな。各地域の長が集まり、の代表者を決めて決定したのかもしれんぞ」
「長の長?…あー、頭が痛くなってきたぜ。面倒くさい、この話はやめよう」
「そちらから話を振ったのではないか…」
クロお得意の有難く長い説明になりそうだと感じたので、話を切ろうとしたが失敗に終わった。
伝説的な存在である魔神サマは、どうやらそれよりもオオミタマ誠国の文字が気になるらしい。
「一般に使う単語や言葉づかいなどは、我々が統一した発音や文字のまま使われているようだが、オオミタマの一部の地域名などは全く変わっているな。タケの故郷の名も、私にとっては不思議に聞こえる」
クロの話は、最早独り言に近いものとなっていく。
顎に指を添えて、完全に考え込んでしまったようだ。
「どこから、いつの時代から文化が変化してきたのか、非常に興味をそそられる。そもそも“オオミタマ”という発音自体も聞き慣れぬものだ。今となっては馴染みがあるが、私の祖先はどう感じていたのやら…。ということは言語を統一する前から独自の文化を持っていたという事か?そう考えると、非常に知能の高い種族が最初に住み着いたという事に…」
「おい!確かに俺から話は振ったけどな、それはお前の悪い癖だぞ!」
耐えかねたタケが悲鳴のような声を上げた。
いい加減にしてくれ、とうんざりした様に肩を落として頭を抱える。
その声にクロは我に返り、赤面しながら申し訳なさそうに笑った。
「ああ…すまない、少し我を忘れていたようだ。どうも知的好奇心を刺激される話になると見境がなくなるようなのだ、許せ」
「少しどころじゃなかったけどな…」
タケはそう言うと大きなため息を吐いて、今後の心配を憂うのであった。
その後は朝食を食べ終え、荷物の点検を行っていると、タケが少し物寂しそうに洞穴を見つめているのがクロの目に入った。
その気持ちもよくわかる。
自分が長年過ごしていた場所を離れるのは寂しいものだ。
クロはわざとゆっくりと準備していた。
すると、その空気を察してか否かタケが語り始める。
「俺がここを離れなかったのは、師匠とここでずっと過ごしていたからなんだ。逃がしてもらったあと、またここに戻ってよ。いつ師匠が帰ってきてもすぐに傷を癒せるように」
そういうとクロに向き直りほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「ま、いらねぇ心配だったな」
クロは困った顔をして言い淀みながらもそれに言葉を返す。
「う、…そ、その…スサノオ殿は…少々…意地悪、だな…?」
「ブッ…」
吹き出すタケを見て、何事かと驚くクロ。
その後もひとしきり腹を抱えて笑うと、やっと落ち着いたのか涙を拭いながらクロの肩を叩いた。
「くくくッ…、そうだな、あのクソジジィは何にも変わってねぇよ。俺は大丈夫だ、クロ。元々、俺は物に執着したりしねえんだ。それに、ここには帰ってくるんだろ?」
「あ、あぁ…帰ってくるつもりではあるが」
タケはふぅ、と一息吐くと背伸びした。
そして自分の両頬を軽く叩くと、気持ちよく笑う。
「ならなおさら問題はねぇ!さあ、行こうぜ!」
そういうとクロの背中を少し強めに叩く。
おっと、とクロは少しよろめき、やれやれと眉を下げて笑った。
「君が最初の仲間で心底良かったよ」
◇ ◇ ◇
森を抜けたとき、タケが後ろを振り向いてあの大きな樹を見た。
ずっと、タケがスサノオを待っていた場所だ。
見つめるタケの顔は晴れやかだ。
「はっ、清々したぜ!やっとあそこから離れる事が出来るなんてな」
ニシシ、と子供っぽく笑うとクロに顔を向けた。
「道案内はクロに任せる、頼んだぜ」
「ああ、任せてくれたまえ」
ふふ、と嬉しそうに笑うクロ。
ここからは一人旅でなくなることの喜びからだった。
だが彼らと対照的に、進む道のりに華はなかった。
相変わらずの砂地に、たまに吹き荒ぶ風がクロ達の髪を遊ばせる。
「そういえば距離の話は聞いてなかったな…どんくらいの場所を目指してるんだ?」
「ここから大分遠い。入念に準備はしたが、それが底をつく前にたどり着きたい」
「じゃ、ちんたらしてる場合じゃねえな。さっさと進もうぜ、体力なら自信がある」
クロはそれが嘘ではないことを知った。
しかも、休憩はクロから申し出ることのほうが圧倒的に多かった。
タケは嫌な顔せず毎回の休憩に付き合っており、その顔に疲れは見えない。
「凄いな君は…。全く疲れていないのか?私も一人旅で鍛えられたかと自負していたが、それは気のせいだと感じさせるよ」
「お?なんだ、お前より1つ勝っているところを見つけられたな!」
ニシシ、と嬉しそうに笑うタケを見てクロは素直に称賛の視線をおくる。
「うむ…まさかここまでとは思わなんだ。自然治癒能力もそうだが、君は努力家なんだな」
「おい、やめろって。さぶいぼが立つ…」
褒められ慣れていないのか、タケは赤くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。
「…俺は小さい頃から帯電体質なんだ。そのおかげで筋肉かなんかが発達してんだよ。まあ、全部師匠の受け売りだけどな」
「なるほど…」
帯電…とその後もなにかブツブツ呟いていたクロだったが、何かを諦めたように頭を振った。
「駄目だな、魔力効率が悪すぎる」
「お前なぁ…そうやってすぐ人の技を盗もうとするのは…」
「ぬ、盗むとは人聞きの悪い!研究と言ってくれ」
「はいはい…」
大方、クロ自身も帯電状態にして筋肉の状態を維持しようとしたんだろう。
だが、その為にはずっと魔力と集中力を維持しなくてはならないから効率が悪いという結論に至ったのだ。
タケは呆れたように小さくため息を吐いた。
「…この先苦労しそうだぜ…」
「し、仕方ないだろう…休憩させてもらっているのは私なのだ」
「なら飛んでいけばいいんじゃねぇのか?あの時翼を出してただろ」
手も足も出ずに負けた時の、と付け加えて鼻を鳴らす。
「なんなら俺を運べるくらいの筋力はあるだろ?」
「ああ…いや、あれは…」
もごもごと口ごもるクロ。
それから暫くして、意を決したように口を開いた。
「あれは体力を物凄く使うのだ…。ずっと使用し続けていると、その場で気絶して眠ってしまう…」
「あ…そうなの」
何かを思い出したかのように顔を覆うクロ。
…もしかしたら彼の触れて欲しくない黒歴史の扉を叩いたのかもしれない。
そう思ってタケはそれ以上追求せず、話を切り上げた。
「じゃ、まあ、歩くしかねぇな?」
「あぁ…そういうことになるのだ…」
はあ、と今度はクロが大きくため息を吐いた。
「全く不甲斐ない、初日から君に迷惑をかけるとは」
「はは、いいって。これも旅の思い出だ…」
—ドクン。
「ろ…」
—ドクン。
大きく鼓動がうなり、思わずタケは心臓を抑える。
「クロ、…ダメだ、ちかよ…」
—ドクン!
そして耐えきれず膝をつき、苦しそうに呻き始めた。
「どうした?タケ…」
急なタケの行動を心配したクロが肩に手を置こうとした。
その瞬間、タケの体中からバチバチと火花が散って、手を伸ばしたクロの指先に当たる。
「な…?!」
「ぐっ、ぅ…!」
反射的に引っ込めたおかげで、タケの放電に当たることはなかった。
が、タケはなおも苦しそうに呻いている。
「うぁ、ああ…ッ!なん、だ、これ…!」
「タケ!…な、こ、これは…なんだ…?どういう…!」
倒れる体を支えるために拳を地面に振り下ろすと、拳と地面の間で激しく放電され地面を黒く焦がした。
あり得ない量の魔力が、タケの中に流れ込んでいたことを、クロはそこでやっと気づいたのだった。




