正義の偽善者たち
『……ちゃん』『……ちゃん』『……ない』
その声は鈴音のように高く透き通っていて、春風がやってきたかと、幻想させるようなものだった。
明るい桃色の髪に触れれば絹糸のように、さらり、と指の関節の隙間を通って流れてゆく。
自分を好きだった彼女に、自分が好きだった彼女に、もう会うことはない。
どれだけ手を伸ばしても彼女に届くことはなかった。桃の髪にもう一度触れることもできず、彼女の頬を伝う煌めきにさえも、届かなかった。
「……いつになったら許される」
少年は夢から覚醒すると、天井に突き出された自分の腕を瞬かせながら見つめていた。
その腕は、何を掴もうと掲げられたものなのか。
青年は、掛け布団を雑に脚で蹴り上げると、きしきしと唸りを上げる木製のベッドから起き上がる。
全身鏡を深蒼の瞳に見据えながら、跳ねた漆黒の黒髪を整えると、黒い戦闘正装へとさっと着替える。
見た目自体はスーツのようなものだが、重量も殆ど無に等しく、なおかつ外からの物理的衝撃に強く、いわゆる──殺し合いに向いた作りだ。
服の上からでも分かる隆々とした身体つきは、青年の美貌からは想像し難い。
部屋から出ると、石造りの階段を登っていく。
行先を照らす光は、壁に所々据えられた蛍光灯のみ。日光というものはここでは一切目にすることはない。
なにせ、ここは地上よりも下にある、地下施設だからだ。窓がなければ鮮度の高い新鮮な外気は通らない。重量を感じるようなひんやりとした空気が身体を包み込む。
青年は階段の先にある一室の扉に手をかけると、ゆっくりと開扉する。
キィーと叫び声のような音を立てながら開かれた扉の先では、所々ささくれ立った木製の長机があり、椅子が八つズラリと並べられているだけという質素な部屋に迎えられる。
その八つの椅子の内、三つはすでに見慣れた顔で埋まっていた。
「よぉ起きたか、ラフィ」
寝起きから鼓膜に響く渋い大声量をあげ、愉快そうな金髪髭男が手を掲げてみせると、ラフィと呼ばれた黒髪の少年は視線すら向けずに答えた。
「うるせぇよクソジジイ」
だが、そんな態度を向けられても日常茶飯事だと言わんばかりに笑い飛ばす。
「おは」
「ラフィ!おはよ〜っ」
「ああ、おはよう。サリア、リーシャ」
次いで声をかけてくる二人の女性へとラフィは軽快に挨拶を返していく。
うちの一人は、愛らしい整った顔立ちにもかかわらず無表情を貫く、手入れの行き届いた赤髪が特徴的なサリアと呼ばれた女性だ。二十歳を過ぎた年の頃なのだが、その体型から顔立ちまでの全てが実年齢より幼く見える。
そしてもう一人は、煌びやかな黄金の髪を右頭部に赤いリボンで纏めた、リーシャと呼ばれた少女。大草原を連想させる宝石のような鮮緑の双眸には一切の淀みがなく、瞳の中に無邪気さを秘めている。
華奢な体つきに粉雪のような白い肌、誰もが目を引かれてしまいそうなその美貌を持つリーシャの存在は、異色の雰囲気を漂わせる面々の中でかなり映えていた。
そして、明らかな対応の差にクソジジイと呼ばれた男は眉根をを下げ、額にしわを寄せる。
「おいおい。さすがにガレイさん傷つきますぜ? 俺にも挨拶してくれよなぁ? クソガキぃ」
「黙れ」
ガレイと名乗った男は、仕返しと言わんばかりにラフィを挑発するも、ラフィは道端に唾でも吐き捨てるかのように言い捨てた。
ガレイはあんぐりと口を開けて、ショックを受けているという様子が見て取れる。だが、ラフィはもちろんそんなこと気にもかけない。
ガレイ、サリアが並んで座り、サリアの対面へとリーシャが腰掛ける中、ラフィはガラガラ、と、椅子を床へと雑に引っ張って滑らせると、リーシャの隣へと腰をかけた。
先まで腑抜けた面構えだったガレイの表情は真摯なものへと早変わりする。胸元のポケット手を入れると、三つに折りたたまれた紙を広げてみせる。
各々を見渡すと、一つ咳払いを入れて気持ちを切り替える。
「じゃあ今回の任務を伝える。まず、ひとつめがこれだ」
滑るようにしてガレイの手から一枚の用紙が机上へと置かれる。
「グレーシア女学院での連続殺傷事件の犯人を見つけ出し早急に暗殺?……待て。何でこれが俺たち裏の仕事に回ってくる?こんなもの表のギルドが片付ければ良いだろう」
怪訝に眉をひそめるラフィ。
そもそもギルドというのは様々な事件に立ち回っていくための特務機関のようなものだ。
その殆どが覚醒者と呼ばれる、人間の限界を超えた力を手にした人外の身体能力を使える者たちで構成されている。
そして、国に認められ活動の出来る組織、それがギルドだ。
ギルドは全てのものが即座に事件に対応出来るようになっている。人が起こした事件、また近年どこからか急激に数を増やした魔物の討伐など。その仕事内容は様々だ。
しかし、そのギルドの中でも特例として裏ギルドと呼ばれるものがある。
公にはあまり知られていない、国の上層階級の者たちは何度か耳にしたことがあるかもしれない程度の認知レベルだ。
完全にその存在を把握しているのは国の幹部とも言える名の知れた凄腕の覚醒者たちだけだろう。
その裏ギルドに渡ってくる任務は、表沙汰にできないことに対応していくための、つまり、その殆どが人殺しの依頼である。
例を挙げるとこの、ラフィが所属するギルドこそが、その裏ギルドなのである。
「──で、だ。ラフィの言うことは筋が通っちゃあいるんだが、それがどうもこの任務はそう簡単なもんじゃねえんだよな」
訝しげな様子のラフィへと、ガレイがぼりぼりと頭をかきながら苦悩の表情を浮かべる。
リーシャもラフィと同じ考えなのだろう、納得がいっていない様子だ。
「リーシャ。覚醒者が誕生しやすい家系といったら、どういった家系かは分かるよな?」
「えっとぉー、貴族の人達でしょ?血筋をそのまま受け継ぐことが多いって聞いたっ」
煙草を咥えながら火をつけるガレイはしっかりと頷いてみせる。
「正解だ。それが今回俺たちの請け負うことになった理由とでも言っておくか」
ふぅー、という吐息と共に、白い煙が部屋の中を立ち込めていく。
そこで、チッと舌打ちが部屋に響く。
ずっと無表情だったサリアがどこかイライラした様子でガレイへと食ってかかったのだ。
「ジジイ。回りくどい。早く説明して」
冷徹な声音で発せられたサリアの意見はもっともだった。
ガレイを除く三人は気怠げに机に肘を乗せて、話を右から左へと通過させるような面持ちである。
全く周りを見てなかったのか、全員の表情をしっかりと確認したガレイは、「おおっと」と呟くと、急かされるようにして説明を始めた。
「つまりだ、この学院には国のお嬢様が大勢いるってわけだ。年齢的にも覚醒者が百人近くはいるんじゃねーかってくらいなんだよな。そして、この事件には手がかりが一つある。それは、敵が覚醒者ってことだ」
そこでようやく納得した様子のラフィたち。
「つまり、暗殺の対象が貴族令嬢である限り、表のやつらは安易に手を出しにくい。そして国の威厳のためにも犯人を公にしたくないから誰にも悟られないように始末ってわけなのか」
「その通りだ。理解が早くて助かるぞクソガキ」
そこで一つ、ラフィの頭には疑問が浮かぶ。
同様に同じ思考回路を辿ったと思われるリーシャが眉をひそめながらラフィより先に質問を飛ばした。
「学院が開校されて生徒たちのいる時間帯は朝から夕方にかけてでしょ? そしたら調査するのすごく難しいんじゃないっ?」
「俺も同意見だ。策はあるのか?」
ガレイは机に置かれた灰皿へと煙草の先をぐりぐりと押し付けると、ラフィとリーシャを交互に見据え、親指を立ててみせた。
「おうよ、すでに策は打ってある」
ラフィはいつもながらこんなことを思う。
このクソジジイが陽気にこんな表情をするときは絶対に良からぬ事を考えてやがる。
俺とリーシャを見てきたってことは、完全に俺たちは被害者になることだろう。
「なーに。そんな怖い顔で睨んでくんなってラフィ。そんな嫌な仕事じゃあねえよ」
「では、その嫌ではないという任務の説明を聞こう」
かっかっと愉快に笑うガレイはラフィとリーシャを指差して、幼稚園児でも答えられるような問いを投げかけた。
「お前ら、今何歳だ?」
二人は、バカにされているのでは?と思ったもの、苛立ちと話の進行、この二つを天秤にかけて話の進行を選択すると、ため息をこぼしながら答えた。
「あたしは十七だけど」
「俺は十八だ」
「その通りだ。つまり、この任務に最適なのはお前ら二人ってわけだ!お前たちにはこれから学院に通いながら調査を進めてもらう」
ラフィとリーシャは二人して椅子を蹴り上げ立ち上がるや、ガレイに詰め寄った。
驚くのも無理はないことだろう。なにせ二人とも、学校なんて通ったことすらないのだから。
「ちょっと待ってよガレイさん!あたし学校なんて行ったことないし、グレーシア女学院って血に濡れた生活を送ってきたあたしでも聞いたことあるお嬢様学校でしょっ⁉︎ そんなの馴染めるわけないって!」
グイグイと詰めかかったリーシャの迫力に若干気圧されながらも心配はいらないと言い再び煙草を咥えるガレイ。
「世間知らずで敬語の使えないお嬢様だって時にゃあいるさ」
リーシャを言葉巧みに押しとどめたガレイ。そして、次に不満を露わにするのはラフィだ。
ラフィは脳内に浮かんできた未来想像図に絶望を抱く。
「おいクソジジイ……女学院だぞ?分かっているのか?女学院だぞッ⁉︎ 」
声量を上げ、女学院を強調してみせる。
「なーに心配はいらね……」
「──いるだろう!」
気軽に答えようとしたガレイの目の前には淡い光を纏った漆黒の悪魔が映った。
ふざけるのも大概にしろと言わんばかりの殺気を撒き散らしながら、木製机に亀裂が走る。
吸った煙にむせ返りながら床に一つ蹴りを入れると、ガレイは壁際まで椅子を移動させた。
「おいおい待て待てっ!人の話は最後まで聞けってクソガキ」
慌てた中年に宥められると、狂犬の様子だったラフィは大人しく椅子へと腰掛けた。
「お前には学院の講師として潜ってもらう。学院長の方には話つけてっから大丈夫だ」
「ほう。歳も変わらん俺が講師としてやっていけるかは甚だ心配ではあるが、それなら何とかしてみせよう」
「じゃあ、任務は明日からだ。ラフィ、リーシャ、お前ら二人に任せたぞ?」
ガレイへと二人はしっかりと頷いてみせた。
「じゃあもう一つの方は、俺らで当たるぞサリア。まぁ、いつも通りのやつだ」
「ん。分かった」
ミーティングは終わりを迎えると、ラフィはリーシャを招き、慣れた様子で任務の確認を行う。
「取り敢えず、学院内の地図はクソジジイから預かってある。明日までに完全に把握しておくことだ」
「はいはーいっ。やっぱラフィは慣れてんねぇ〜。尊敬するよ」
可愛らしくそんな事を言った無邪気なリーシャの言葉は、ラフィにとって毒でしかなかった。尊敬?そんなものはやめてしまえ。
「リーシャ。どれだけの悪人を殺そうと、それは正義ではない。俺たちのやっている事は結局は人間にとって最底辺の行いでしかないんだ。それはだけは常々心にメモしておけ」
そのときリーシャから見れば、ラフィの面持ちはどこか別の場所でも見ているかの様に見えた。
そういえば、あたしはラフィの過去を何も知らない。
考えることもなかった疑問が突然に脳内へと現れた。
聞いてもいいのだろうか、と思いつつもその問いは喉から漏れていた。
「ラフィはここに来る以前は、何をしていたの?」
学院内の地図を見つめていたラフィは顔を上げて、優しい表情を彼女へと向けた。
「俺の過去を語るのは難しい。なにせ、失ったものが……多すぎる」
「そ……そうなんだ。なんかごめん」
リーシャがラフィと過ごしてきた期間は数えてみると七年間に渡る。ラフィの過去ことについては考えてみると一度も聞いたことがない。
ラフィと二人きりで任務に参加するという機会がほとんど無かったということもあるが、リーシャがこのギルドに来た時からラフィは常に冷静で何も躊躇わない頼れる先輩として見てきた。だから気にすることが無かったのだろう。
「気にすることでもない。俺は、過去を殆ど捨てた」
これ以上リーシャには踏み込める自信がなかった。
殆ど?……では、過去に残したものがあるとでも言うのか。
だが、その疑問は口にすることもできずに、心の中で霧散してしまう。
リーシャの俯いていた顔をラフィが覗き込むと、バッチリと二人は目が合う。
「リーシャ。そんな暗い顔をされては俺が困るだろう? 何か聞きたいことがあるなら答えてやる。──できる範囲でなら」
だが、リーシャは大きく首を横に振った。
黄金のポニーテールが揺れ、風に乗って甘い香りがラフィの鼻腔をくすぐる。
「そうか」
「うんっ!その代わり、任務を成功させるたびに一つずつ昔話を聞かせて?」
子供の様な無邪気な表情に思わずラフィも口元が綻んでしまった。
優しい微笑みで頷くと、リーシャは白い歯を見せて親指を立ててきた。
「約束ねっ?ラフィ先輩っ♪ それと、今日は任務ないんだし今から買い物に付き合ってよ!」
ラフィの瞳には、一つ年下の目の前の少女が、過去の誰かと重なって愛おしく見えた。
ラフィはぎゅっと自身の胸元を強く握る。
何で今更こんなことを思い出す……。結局俺は暗殺者でしかないんだ。
もう一度彼女に会った時に、俺はどんな表情をすればいいのか?どんな態度を取ればいいのか?……分からない──否。そんなものは決まっている、悪人を殺して正義を語る偽善者らしく偽善者として接すればいいのだ。
──全て過去の失敗に、言い訳をしてやればいい。