・魔女の激怒、アシスタント降格
眞子は神妙に、カンナ副社長のデスクの前へと行く。真っ正面に来たら、カンナ副社長が席を立った。
「おいで」
「はい」
もの凄い鬼気迫る視線が突き刺さる。眞子はすでに冷や汗を滲ませている。
事務所のデスクから、社長室へと連れられていく。つまり事務所の面々には言いにくいことを怒られるのだと悟った。
カンナ副社長が社長室のドアを開けると、いつもそこで経理のまとめをしている社長は不在で、そのかわり、どうしてか徹也と麗奈がいた。彼と彼女も沈痛な面持ちで俯いている。
いつも社長が座っている立派な皮椅子に、妹のカンナ副社長は遠慮もなく腰をかけてしまう。そういうところ威風堂々としていて、社長と遜色ない、兄の社長の代理も務まると思わせる風格は抜群。だからこそ、余計に畏れ多くなる。
そのカンナ副社長が、徹也と麗奈、そして隣に来た眞子へとひとつの企画書を社長デスクの上へと放り投げた。
「これ。さっき古郡くんが提出してくれたディスプレイのコンセプトだけれど、これ、あんたたちで話し合って決まったということでいいんだね」
徹也が青ざめていた。先ほどの『冬物コートをクラシカルスタイルで行こう』と話し合ったばかりのものだった。
つまりカンナ副社長としては、徹也がまとめた案では納得していないと言うことになる。
そして徹也も何も言わない……。
「眞子、あんたもこれでいいと承諾して話をまとめたってことでいいね」
眞子は戸惑った。本当は『身近なオフィススタイル』が眞子の提案だったのに、ちょっとした女の気持ちに揺さぶられて、その意見を貫き通せなかったから。それでも、賛成したのは覆せない。
「はい、そうです」
すると、カンナ副社長はもう一度、徹也が提出した企画書を手に取ると、ぎゅっと無惨に握りしめ眞子へと投げつけてきた。
「眞子! あんた何年、うちで勤めてんの! 何年、私のアシスタントをしてきたんだよ!」
彼女が白雪から魔女に変貌した。久しぶりに彼女に吼えられ、眞子は震え上がった。
それは徹也も麗奈も同じだった。特に麗奈。自分が『クラシカルスタイルでどうでしょう。私の意見もお願いします』と甘えるようにして徹也に提案していたから、彼女も青ざめている。それに易々乗った徹也も同じく――。
でもいま副社長が責めているのはどうしてか眞子だった。
「こんな客の気持ちもわからないのが私のアシスタントだなんて呆れた。しかも、今の今まで事務所を出てどこにいた?」
専務のお世話をしていました。そう言えたらいいのだけれど……。確かに業務外のことに時間を割いていたことになる。
黙っていると、カンナ副社長が社長デスクの電話受話器を手にして、内線をしている。
「慎之介、おいで」
見透かされたように、先程まで一緒にいた甥っ子の専務が呼ばれる。
社長室のドアにノックの音。ドアが開くとそこには、もう立派に凛々しくスーツ姿になったモデルのように変身した専務が現れる。
「どうかしましたか、副社長」
「慎之介も、そこに並ぶ」
専務も室内の空気をすぐに読みとったのか、大人しい顔で眞子の隣に並んだ。
「慎之介、あんた、眞子を使いすぎ」
「申し訳ありません。彼女、仕事も速いし先へ先へと読みとってくれるものですから、つい……」
「そんなに使い勝手がいいなら、あんたにあげるよ。アシスタント欲しがっていただろ」
「はい?」
さすがに専務も面食らった顔になった。そして、眞子はさっと血の気が引いた。
ウソ、やっとこの畏れられている副社長のアシスタントとして慣れてきたのに? ウソ、専務のアシスタントに降格? 専務の面倒を見すぎたから? それとも、仕事の中に女の気持ちを挟んでしまってきちんとした自分を通せなかったから?
ともかく。そういうことだと眞子は思い至る。
「いや、あのカンナ……、いえ副社長。話が見えないんですけれど」
「最近、眞子はまったく冴えない。だから、使いたくないと言っているんだよ。要らないよ」
「いやいや、ちょっと待ってよ、カンナ。困るよ。俺、アシスタントが欲しいとは言ったけれど! 本田さんがいいだなんて言っていない。そういうカンナは、本田さんじゃないとだめなんじゃないのか」
「カンナと呼ぶな。副社長だと言っているだろ!」
声は女性でも、彼女が男みたいな言い方をするとものすごい威圧感。甥っ子の専務ですら、恐れおののいて黙り込んだ。
「とにかく。いまの眞子は要らない。いますぐ連れて出て行って」
「あの、副社長。私……」
本当はオフィススタイルを提案しようとしたんです。そこだけでも理解してもらおうとしたが……。眞子は言い淀んで告げることができなかった。言えば『だったら、どうしてその意見を貫かなかったのか。その気持ちを答えよ』と突きつけられたら、そこにある本当の理由を明かさなくてはならなくなる。徹也が決めた方針に従いたかった、意見して嫌われたくなかったなんて、言えるわけがない。
「なんだ、眞子。言い訳があるなら聞いてやるよ」
「いいえ。ありません……」
「納得しているんだね。わかったなら、これからは慎之介の指示に従って」
「承知いたしました――」
眞子が一礼すると、隣にいた専務が叔母の副社長へと立ちはだかった。
「それでいいんだな。カンナ。返さないからな」
「いいよ。鍛え直してあげな」
「鍛え直すって……」
専務が呆れた顔で、自分より小柄な叔母を見下ろしている。
「カンナにこんだけ鍛えられた子、他にいなかっただろうに」
「はいはい。使えない子は要らないから、連れて行って」
もう眞子は泣きそうだった。とにかく彼女は厳しくて、すぐに怒るし、側にいるには苦労する上司だった。
それでも彼女の元にいれば成長できるのは確実で、眞子はここ二年で副社長と一緒にいられるアシスタントは本田眞子しかいないと言われるまでになっていた。なのに、急にこんなことを告げられるだなんて。
「麗奈、いまから私のアシスタントだよ。わかったね」
さらなる告知に、眞子は打ちのめされる。
どうして? 彼女が、副社長が気に入らなかったクラシカルスタイルを、徹也に甘えて提案したのに? なのに? ただ同意しただけの眞子がアシスタントを降格されて、眞子の後釜を狙っていた麗奈がついに眞子のポジションをゲットしてしまった?
「はい! ありがとうございます。副社長。私、頑張ります!」
そのために私は呼ばれたのかとばかりに、不安から解放された麗奈の笑顔が輝いた。
「古郡君もどうしたの。こんな『ありきたりな案』なんか出さないでくれる。麗奈ともう一度詰め直して。北国の人が着たがるスタイルにしてちょうだい」
「申し訳ありませんでした。帰るまでに至急やりなおします」
「古郡さん、急ぎましょう」
麗奈と彼の目線が合い、ふたりがこれからの共同作業に一致団結しようと頷きあう。
いままで、そこにいたのは、その仕事をしていたのは、私なのに!
「失礼します」
ついに耐えきれなくなり、眞子は社長室から飛び出していた。
事務室も横切って、ビルの通路へと駆ける。
涙が溢れて止まらない。副社長のアシスタントというポジションも、メーカー本社営業の憧れの彼との仕事も失った! それがやりがいだったのに!!! どうして? 急に? クラシカルスタイルは私が出した提案ではないのに!
しかも、警戒していた後輩の麗奈にそのポジション全てを奪われた!
「本田さん――!」
専務の声、後ろから聞こえる。でも眞子は階段を下りて街中へと飛び出そうとしていた。
「待って!」
事務所ビルの一階、ざわめく通りへと飛び出す自動ドアの手前で専務に捕まってしまう。
「……離して、くだ、さい……」
腕を掴まれ、眞子はそれでも外へと身体を出そうとしている。でも、専務の長い腕がぐっと捕まえ、中へと引き戻そうとしている。
「駄目だ。まだ勤務時間内だ。上司命令だ。出て行くな」
「うっ……、なにが起きたんですか……」
「俺だってわからない。でも、カンナが言いだしたらきかないことは、本田さんがいちばん良く知っているだろう。とにかく、俺も驚いたけれど、いまはカンナの言うとおりにするしかない」
そうして専務も、真上からカンナ社長並みの険しい視線を眞子へと落としてきた。
「事務所に戻って、俺のデスクにある在庫リスト。それを応接室に持っていってアイテム別に分けておいて」
それでも眞子はまだ、専務の腕を振り払おうとしていた。
「俺がいいつける仕事ができないなら、もう今日は帰るんだな。明日来ないならそれでもいい。それが本田さんの答ならね」
帰っていい、俺も要らないよ、そんなアシスタント。そう言われたのと同じだと気が付き、眞子はやっと出て行く力を緩めた。
「みっともなく、取り乱して……、申し訳……」
少し我に返ったけれど、涙がやっぱり止まらない。
するともう眼鏡をかけていない凛々しくなった専務が、スーツのポケットから爽やかなメンズハンカチを取り出して、眞子の目元を優しく拭いてくれる。
「ほんと、カンナにはやられるな。まず、明日から対策を練ろうな。……といっても、俺も手伝って欲しいことはたくさんあるんだ。こんなことを言うのは不謹慎だけれど、本田さんのようなアシスタントがついてくれるだなんてラッキーというか……」
こんなこと言ってごめんね――と、いつものおぼっちゃまの愛嬌で言ったので、眞子は少しだけ微笑んでしまった。
「在庫リストの整理ですね」
「うん、頼んだよ。たぶん、俺は今夜も遅くて事務所には戻れないと思う。定時になったら帰っていいよ」
「はい、専務」
やっといつもの自分に戻れそうだった。なにがなんだか判らないけれど、そう……仕事は投げ出しちゃだめ。なにがあっても。
もう少しで全てを台無しにするところだった。
ふたりでマグノリアの事務所があるフロアに戻る。
専務が優しく付き添うようにして、眞子を事務所ではなく専務の専用室になっている応接室へと連れて行こうとしてくれている。
「本田さん」
事務所の入口を通り過ぎたところで、徹也に呼び止められた。
専務と一緒に振り返る。徹也が眞子へと近づいてきた。
「ごめん、本田さん。俺がクラシカルスタイルを推したんだとカンナ副社長に説明したんだけれど理解してくれなかった」
彼が頭を下げてくれる。突然のことで、社長室では眞子ばかりが責められて徹也も麗奈も経緯については触れてくれなかった。それでも、彼も落ち着いてからカンナ副社長に説明して眞子をかばってくれたと知って、それだけで眞子はまた嬉しくなってしまった。
「もう良いんです。カンナ副社長にもお考えがあるのでしょう」
「それで今、ディスプレイのコンセプトを後藤さんと話し合いしているけれど、本田さんの意見も聞いておこうと思って。本当はクラシカルスタイル以外に、本田さんならダイレクトな案を持っていたんじゃないかな」
そこもきちんと気が付いてくれて……。眞子はさらに嬉しくなって、オフィススタイルですと告げようとしたが、そこで専務が眞子と徹也の間へと入って立ちはだかる。背が高い専務が眞子の前に立つと、もう徹也が見えない……。
「古郡さん。もう本田さんはその件はノータッチだと副社長に言い渡されたんだよ。勝手なことされると、また本田さんが怒られるし、上司になった俺も叔母とはいえあの副社長から大目玉くらうことになるんですよ。ごめんですよ、あの叔母を怒り狂わせると大変だってこと、あなたもご存じでしょう。後藤さんと決めるべきことですよね」
え、なんで。なんで邪魔するの。彼に教えたいのに。どいて! 眞子は専務のかっこいいジャケットの背中を叩きたくなった。
「早くしないと飛行機に乗り遅れますよ。あちら横浜本部のディスプレイチームにも、バイヤー先の意見を持って帰らないとあなたも困るんでしょう。カンナのOKを早く取り付けないと――」
徹也がそこで渋々したようにして、一歩下がった。
「それもそうですね。突然のことだったので、動揺しました。本田さんとは長くやってきたものですから……」
寂しそうな顔を見せてくれた憧れの彼が、ふっと背を向けて事務所に戻っていってしまう。
「あの、私。本当は言いたかったことがあったんです」
でもあの専務が、父親の社長と同じ素っ気ない顔で事務をしている時の険しさをみせた。
「もうそれを言っても言わなくても、本田さんにとっては終わったことなんだよ。あるならどうして、その時に言わなかった」
まさにそれだった。眞子は専務にまで指摘され、項垂れた。
「で、本当は、何を本田さんは提案するつもりだったんだろう」
しばし言いにくくて黙っていたが、専務がいつまでも言い出すまで待っているようだったので、眞子はやっと口を開く。
「身近な、北国のオフィススタイルです」
「ほう~」
モデル並みに変身した専務が、ハンサムなスーツ姿でニヤリと笑っている。
「ど真ん中、だったんじゃないかなあ。惜しい」
そうして専務は、徹也が去っていった事務所へと視線を馳せた。
「ふうん。なーるほどー」
ニンマリニマニマして、専務が次に遠く見つめたのは、事務所のデスクで仕事を始めていた叔母のカンナ副社長だった。