・お願い、助けて!(専務の声)
事務所に徹也を連れて帰ってくると、カンナ副社長が珍しくデスクワークをしていた。
「副社長。ただいま帰りました」
「うん。ご苦労様」
「カンナ副社長。相変わらず順調な売り上げで、感謝いたします」
徹也も一緒に並んで、カンナ副社長に向かう。
今日もするんとした光沢があるシックなデザインのブラウスに、初秋に相応しいカラーのスカーフをしているパンツスタイルのカンナ副社長。若い頃からずっとハンサムウーマンだったとのこと。
白い髪はいつも綺麗にひっつめて、フランス製のバレッタでまとめている。そしてグラスコードがついた眼鏡で書類を眺めたりする。どうみても初老なのに、どこもくたびれていなくて、頬がいつもピンク色で生き生きしていて、なんといっても目力なら誰にも負けない輝きがある。
その目で、彼女が徹也を下からぐっと見上げる。それだけなのに睨まれたように見えるので、慣れている眞子でもびくりと固まるし、徹也に至っては構えて緊張をしている。
「古郡君、来月のディスプレイの提案はできてる? 見せて欲しいんだけれど」
「申し訳ありません。あと少しなのですが、いまここでまとめさせて頂ければ帰るまでにお渡しいたします」
「そうして。こちらの希望を明確に伝えておきたいから。眞子も提案したんだろ」
「はい……」
自信のない反応をしてしまう。麗奈の『クラシックコーデ』に流されてしまっていたからだ。眞子はスタイリッシュなクラシックで決めるより、親近感あるオフィススタイルを提案しようと思っていたのに。
「古郡君、よろしく。今日の遅い便で横浜に帰るんだよね。頼んだよ。眞子、空いているデスクを貸してあげな」
「かしこまりました」
彼を応接ソファーがあるテーブルへと案内する。彼がすぐにタブレットをモニターにして、キーボードをセットして颯爽と文字を打ち込みはじめる。その集中している横顔に、眞子はついつい惚れ惚れしてしまう。
そうだ。彼に珈琲をいれてあげよう!
「古郡さん、外回りお疲れ様でした。こちらどうぞ」
彼に見とれていた眞子の後ろから、麗奈が現れる。眞子の横をすっと通って、タブレットモニターに向かっている徹也の目の前に、珈琲カップをことりと置いた。
素早い。目ざとい。抜け目ない。彼女がいつもそう。眞子がうっかりぼんやりしている間に抜け目なく手を打ってくる。
彼に見とれていたばかりに……と思いたいが、きっと眞子と徹也が帰ってきた瞬間にはもう、麗奈は珈琲をいれる準備をしていたに違いない。
またやられた……。
昨夜だって、いつのまにか彼と二人きりになっているし……。
また胸に重たいものがのしかかってくる。
そんな気持ちを引きずりながら、自分のデスクに戻ろうとしたけれど、がっくりしている眞子の目の前で、専務が手招きしている姿を見つけてしまう。
しかも事務室の外にある通路から、ちらっと眼鏡の顔だけ覗かせて、眞子を呼んでいる。
もう、めんどくさいな……。ただでさえ、気持ちが沈んでいる時に。
だけれど、上司でもある彼に呼ばれたら眞子は行くしかない。
事務室の外の通路へと眞子も出る。
「なんですか、専務」
またいつも以上にボサボサになった髪に、不精ヒゲ、分厚いレンズの古くさい眼鏡の顔で、彼がことのなげに言う。
「お願い。俺の髪、洗ってくれる」
「またですか」
ボサボサの髪が油っぽくなっている。それにお酒臭い……。
昨日、ビシッと決めて夕方、百貨店の幹部と出かけたはず。きっとまた、男同士、気が済むまで大騒ぎで飲んできたのだろうと眞子は思った。
「寝ちゃったんだよ。起きたらベッドの上で、スーツ着たままでさ。時計が八時回っていたんだよ。ヤバイだろ、ヤバかったんだよ。カンナの雷はさすがに甥っ子の俺でも危ないからさ」
もうスーツもシャツもしわくちゃだった! と、専務がわざとらしく目元を覆って項垂れた。
そのしわくちゃになったシャツは私がアイロンをかけたのに――。とがっかりしてしまう。
「今からご自宅にお帰りになって、シャワーでも浴びられないのですか」
「それが、これからまた丸島屋百貨店の会議に参加しなくちゃいけなんだよ。行って帰ってくる時間がないんだ」
「え! 丸島屋に行かれるんですか」
それはまずい。こんな不摂生な雰囲気をした彼を行かせたら、マグノリアのイメージがおかしくなってしまう。
モデル並みの専務がビシッと上等のスーツを着こなして歩いているから『さすがマグノリアの専務、あそこの幹部はセンスがいい』と見てもらえる。いわば専務が歩くことは、それだけで営業であって、マグノリアの広告塔。
「本田さんも聞いているでしょう。今度、プレタポルテのフロアが改装すること。そこの場所取りと改装の予算を決める会議なんだよね。ライバルブランドに奪われないようにするのが、俺の今の使命ね。失敗するとオヤジとカンナにこの会社から追放されてしまうからさ、正念場なんだよ」
それは大変! さすがに眞子もことの重要さを理解する。
「でも、いつもの床屋さんは」
「それが休みなんだよね。で、困っている……」
しゅんと専務が俯いた。その顔がほんとうに屈託がなくて、『憎めない無垢な顔』、眞子は心の奥で放っておけないウズウズが働きだしてしまう。
「わかりました。いつものシャンプーとトリートメントでいいですよね。おヒゲはご自分でしてくださいよ」
「勿論」
もうしかたがないな……と、眞子は専務が身支度をする部屋へとついていく。
専務がいつも身支度をする応接室。お客様が来た時のためにある部屋だが、いまはあまり使われていない。 昭和の雰囲気が残っているこの部屋は、先代の時代には頻繁に使われていたとのことだった。時代が移り変わって、営業とのコンタクトのやり方も変わってきて、立派な応接室は廃れてしまったようだった。いまは専務がいろいろな目的で使っていて、倉庫のようになっている。
そこにある給湯スペースに椅子を持ってきて、専務に仰向けに座ってもらう。
「お湯が熱かったら言ってくださいね」
「大丈夫。いつも通りだよ」
専務がすっと目を閉じる。そこにお店のようにタオルを乗せて、顔が濡れないようにする。温めのお湯で、ハリのある黒髪を濡らし、いつもそこに置きっぱなしにしているシャンプーを手に取った。
泡立てると、ふわっとシトラスの香りが広がる。
「うーん、いい匂いだ。本田さんが揃えてくれているシャンプー。俺は好きだよ」
「ありがとうございます。サロンで勧められて、男性にも人気のものだと聞いてきっと専務に使えるだろう思って……。オーガニックだから肌にも髪にも優しいですよ」
「ごめんね。いつもそこまでしてくれて」
「いいえ。これを買ってきた時の御礼として、専務からいただいたブラウス。お気に入りです」
「でしょ。それ、俺の唯一得意なことだから」
その人が似合うものを選ぶプロ。専務が御礼にとお返しにくれたブラウスを着ると、誰もが『どうしたの眞子ちゃんらしくないセレクトだけど、すごく似合ってる!』と不思議な感想をもらう。
眞子が自分からは選ばないけれど、でも眞子を引き立ててくれる一着。それは専務からもらったブラウスだけ。
「はあ、気持ちいいなあ……」
油っぽかった髪が、徐々にするするとした気持ちの良い手触りになる。
ツヤツヤしてぴんとしている黒髪。綺麗な黒髪だった。
泡を落としてトリートメントを塗り始めた頃。『ぐごっ』といういびきが聞こえて、眞子ははっとする。
水はね防止のタオルで目隠しをされたせいか、また、香りに癒されてしまったのか、ぬるま湯も気持ちよかったのか。専務がうたた寝をはじめてしまった。
でも。眞子は心の中で『お疲れですよね。お付き合いも大変そう』と呟いて、静かにそのままにしてあげる。
そっとトリートメントを落とし、最後に静かにバスタオルで黒髪を拭こうとしたところで、専務がはっとした様子で、目隠しのタオルを自分で取り払ってしまった。
「うっわ。俺、眠っていたよなっ」
眞子もくすっと笑う。
「お疲れですよね」
「絶対に、いびきしていた!」
「大丈夫ですよ。初めてではありませんから」
「うわーうわー。またやっちゃったよー」
眞子が髪を洗ってあげると、彼がうっかりうたた寝するのも良くあること。小さないびきぐらいなら、たまに。
「はあ、俺って本田さんに甘えてばっかだな」
まあ、その通りなんですけど……と、言えずに眞子はただただにっこりするだけ。
こういうところも、近頃は嫌な自分だなと思っている。
損をするのは、自分のことをきちんと人に伝えられないから。向こうから何か気がついてくれるはずという期待がどこかにあって、それが眞子のズルイところなのかもと、苛むこの頃。
「もういいよ、ありがとう。助かったよ」
いつもの屈託のない笑みを、ふたりきりの時に見せてくれるから、こんなところは専務がズルイ。
自分でドライヤーで乾かして電気カミソリでぞりぞし始める。その間、眞子はスーツを揃えて、昨日一緒にアイロンをかけたシャツを準備した。
「ここまでさせて、ごめん。でもすっごい助かる」
瞬く間に眞子がアイロンをかけたハンサムシャツに着替えて行く。その時も眞子がいるのに平気で素肌になるから困ったもの。でも流石にスラックスを脱いで下着姿を見るのは憚るので、眞子から急いで退室する。
「失礼いたします」
「うん」
シャツのボタンをとめている後ろ姿で答えてくれる。
午後の陽差しが入ってくる窓辺、そこでスタイルが良い男性の後ろ姿。それだけは女としてきゅんとしてしまう麗しさ。
やっと専務のお世話が終わったと、眞子は事務室へ。
「眞子! ちょっとおいで」
眼鏡をかけている彼女が、ぎっと睨み付けている。彼女のアシスタントをしている眞子には直ぐに判った。原因がわからないけれど、彼女の逆鱗に触れたのだ、と!