・眞子さんでも、怒るんだ?
応接室に戻ってくると、ソファーに寝かせていたはずの専務が座った姿でうつむいていた。
ネクタイはもうほどけていて、シャツのボタンも開けられていて。いつもの凛とした彼の姿ではない荒れようだった。
「専務。お水どうぞ」
「ありがとう」
もう落ち着いているようでホッとする。専務も静かにペットボトルを受け取り、キャップを開け、自分で飲んでいる。
シャツの袖口でも構わず、専務が濡れた口元を拭った。
いい場所ではなかったのですね――。そう問いかけたいができず、眞子も床に正座したままうつむいていた。
そんな眞子がおなじソファーに座ろうともせず、そうして尽くす部下のように冷たい床で待っていたせいか……。やっと、専務が申し訳なさそうな目を向けてくれる。
「眞子さん、ここ座って」
専務が自分の隣を少し空けて奥に移動した。落ち着いているようだったので、眞子もそっとそこに座らせてもらう。すぐ隣に、首元は崩れてしまったけれど、あのエキゾチックな柑橘の香りがする男性がいる。彼の体温が伝わりそうだった。
「こんな俺を見たんだから……。わかってしまったよな」
「……どこの場所になったのですか……」
専務が黙ってしまう。叔母のカンナ副社長が黙ってしまったように。
長い足をふっと組んでソファーの背もたれにぐったりと身体を沈めた専務が、天井を見つめて言った。
「いちばん奥だ。エスカレーターからも見えないところ。……化粧室に行く、道筋の……」
え! それを知った眞子も驚き、青ざめ、絶句した。
「ま、待ってください。私も販売員のときに、丸島屋のショップに配属されていた時期がありますけれど……。それってほとんどお客様が通らない場所ではないですか」
「そう。目的があってお客様が足を運ぶ、フォーマルブランドや、ドレスショップとおなじ区画だよ。ただしこれまでおなじ、壁並びの箱型の店のまま。でもいままでの一等地から転落だよ……」
「そんな……。あそこで、いままでフロアでトップの売り上げを打ち出してきたのに?」
さらに専務が残念そうに溜め息をついた。
「ライバルだった【東京リラ】と隣り合わせで、ずっとトップ争いをしてきたにはしてきたんだけれど……。【東京リラ】にうちがいままで構えていた場所を取られたんだ」
ミセスのトップブランドとして張り合ってきた【横浜シルビア】と【東京リラ】。横浜シルビアは大人が気さくに着られるものを重視されていたが、東京リラはセレブ夫人をまともにターゲットにしているブランドだった。
本当のおでかけ着は東京リラで、上等の日常着は横浜シルビアとして、どちらも奥様達のシーンに合わせてどちらの店頭にも似たような層が出入りしていた。その為、エスカレータを降りてすぐ目に付く壁面に、両ブランドが配置され売り上げを競って、または盛り上げてきたと言ってもいい。
「やられたよ。その【東京リラ】が、横浜シルビアとおなじ、もう少し軽めで着られる普段着の『セカンドブランド』を立ち上げたんだ。それが参入してくるのはわかっていたけれど、プライス設定が横浜シルビアでカーディガンが3万円なら、東京リラのセカンドブランドのカーディは19800円。2万円近いが、2万円を切って1万円台というロープライス設定なんだ。だから……。そのプライスの区画に置かれると思っていたんだけれど……」
「そのセカンドブランドと、メインの【東京リラ】が、肩を並べて、二店一緒に並べるために、横浜シルビアは追い出されたということなんですか」
専務が力無く頷き、ぐったりと項垂れた。
「ただし……。二店舗分の広さをくれた。いま箱で入っている現店舗より広くなるし、改装費も【東京リラ】よりだいぶ上乗せにしてくれた」
「なんですか、それ。土地とお金をあげるから、郊外に出て行けみたいなもんではないですか!」
さすがに眞子も憤った。エスカレーターから降りてくる時点で『あ。○○様が来られた』とわかるほどに、人通りが多く賑やかな場所だったことを知っているだけに!
「でも……。わかるんだ。俺も……。東京リラの先手を打った戦略は合っている。いまどき、カーディが三万なんて商品がバカみたいに売れる時代でもなくなったよ。でも、ブランドの質とコンセプトは落としたくない。メーカーでいちばんの【女王様】であるブランドの格を落とすわけにはいかない。だから……セカンドブランドを創設する。それを女王様の時代ではなくなった売り上げのフォローをするということなんだろう。そういう点では、東京リラはさすがなんだろう」
「だからって……。どうして私達が売っている横浜シルビアにそんな極端な配置換えを……」
「そのセカンドブランドとコンセプトが被ったからだろう」
「そのセカンドが、奥にオープンすればいいではないですか」
憤る眞子を見て、専務がふっと笑った。
「……眞子さんでも、そんなに怒るんだ……」
「怒りますよ! 酷すぎます!」
「眞子さんが怒ったら、俺、怒れなくなった、かも」
ついに専務が、眞子を見て笑った。いつもの愛嬌あるおぼっちゃんの笑顔。でも、黒い瞳が濡れている。
でも、専務はきちんと敗因を分析している。冷静に分析してきた。だからこそ、悔しくて持って行き場がなくて?
「ひとりで飲んでいたんですか」
「うん……。丸島屋のいつもの幹部さんや、他メーカーの営業さんと少しだけ付き合って。その帰りにひとりで……」
おつきあいもこなしてきたんだとわかった。どれだけ辛かったか……。きっと他のメーカー営業は『あの横浜シルビアが奥に押し込められた。信頼していた仕入れ先、篠宮のマグノリア、若い跡継ぎぼっちゃんに任せて落とされた』とほくそ笑んでいたことだろう。
特に東京リラの営業マンは勝ち誇っていたのではないだろうか。
「本来なら……。横浜シルビアの営業が話し合いに参加するはずだったんだけれど。いままでどおりに、篠宮に任せてくれたのにこのザマだ。やっぱり俺は『お祖父ちゃんとパパに助けてもらわなくちゃできないボンボン』ってわけ!」
アハハハハとけたたましい笑い声が、夜の部屋に響き渡る。でも……虚しそうな笑い声。
そんな専務が痛々しくて、でも、なにを言っても慰めにはならないだろうと、眞子は彼の隣から立ち上がる。
「休んでいてください」
そっとして、眞子はもとの仕事に戻った。
いつもデスク代わりにしている長机の後ろには、昭和時代のままの木のついたて。眞子が座ってしまえば、背後になるしついたてもあるので専務の姿は見えなくなる。
悔しそうな唸り声や溜め息がとぎれとぎれ聞こえてくる。でも眞子は無視するが如く、そのまま選んだ在庫商品のプライス管理の事務作業を続ける。
ひとりになりたいとここに来たはずなのに眞子がいた。ひとりになりたいなら、眞子を追い出すだろうに専務はなにもいわない。そして眞子も、帰ろうとは思わない。
あなたが私を追い出さないなら、ここにいたい――。そう眞子は思っていた。




