・私は私の仕事をする
また目を腫らしていたら専務が気にするから。涙が乾いてから眞子は事務所に戻った。
恐る恐るエレベーターから通路に出たが、誰もいなかった。
他のスタッフが勤しんでいる事務室を覗いても、徹也はいなかった。
麗奈もいないから、やはり二人でセラピストを探しに出掛けたのだろう。
買ったおやつを持って、在庫管理の応接室へ戻る。
「遅くなりました。申し訳ありません……」
十分もかけず帰ってこられるところを、十五分もかけて帰ってきてしまった。
「いいよ。俺のお遣いに行ってくれていたんだから」
専務のそばに、からあげの袋とコーヒーを置いた。そして。バームクーヘンも。
買ってきた中身を確かめた専務が笑う。
「コンビニのバームクーヘンで良かったのに……。俺の好きな菓子店まで行って買ってきてくれたんだ……」
そこまで行けば、気持ちが落ち着けると思ったから……だった。でも眞子は言えず。
「……眞子さん。気持ちの整理ついた?」
眞子も自分の席に座り、ストールを外しながらこっくりと頷いた。
「黙って見ていて、なんだか見えてきました」
「そうか……」
それだけ言うと、専務は眞子が買ってきたコーヒーを飲み始める。
辺りにコーヒーの香りが漂った。
「はじめようか、続きを」
「はい」
それ以上はなにも言わず、そっとしてくれる専務。
だから眞子も、いままでどおり。そっと笑って、商品を専務と一緒に眺めた。
その夕方。眞子が化粧室から出ようとした通路の角で、麗奈と徹也を見かけてしまう。
「ええ、古郡さん。帰られるのですか」
「ごめん。明日早い内に帰らないと、午後は静岡の担当ショップでディスプレイがあるんだ。またなにか困ることがあれば、すぐ連絡して」
「でも。明日も依頼できるショップ巡り……」
「明日から俺がいなくても頑張れる?」
「そんな……」
「そうしてくれないと困る」
徹也がきっぱり言い放った。その声がもう優しくない、なにか責めるような冷えた声。麗奈の声がそこで聞こえなくなった。
二人の気配がなくなったので、眞子はそっと専務の部屋に戻った。
「専務、いいですか」
決めた商品の値段をエクセルにまとめている専務が『なに?』と眼鏡の顔で見上げる。
「後藤さんのことなんですが……」
麗奈の困り果てた顔が目に焼き付いてしまって……。
でも、それだけで専務が顔をしかめた。
「後藤さんのこと? 古郡君がこっちに来たけれどなんの成果もなくて、ほったらかしにして横浜に帰ってしまう。後藤さんひとりでは絶対に出来ない。だから助けてあげてください?」
「後藤さんは、もともとカンナ副社長のメインアシスタントになりたかったんです。慣れていなくて当然です。なのに。あんなに振りまわされて――」
「それは眞子さんも一緒だっただろ。カンナにめちゃくちゃ怒鳴られて、密かに泣いていたのを俺は知っている。この子、明日、やめちゃうんじゃないだろうか――と何度も思っていたよ。でも、その女の子はぐっと歯を食いしばって、どうすれば仕事がやりやすくなるのか工夫をして、カンナの絶対的なアシスタントになっただろ。事務所の古株のスタッフもよくわかってるよ。あれだけのことを乗り越えたからこそ、カンナ副社長のアシスタントは眞子さんしかいないねと」
知らなかった。何年も前、専務とあまり接触もなかった頃から、そんなふうに見ていてくれていただなんて。
「ここで後藤さんを助けるのは簡単なこと。それにあの子も、あの仕事を望んでアシスタントに就いたんだ。出来ないなら出来ないでカンナに怒鳴られてフォローをしてもらうべきだし、出来るなら出来るで三日内になんとかする。黙って見ている、わかったな」
最後の『わかったな』――という声が低く響いた。毅然とした上司の声に、眞子はびくりと固まる。
「わかりました。そっとしておきます」
ごもっともすぎて、もうなにも言えなくなった。
「それにさあ。あとで助けるだなんて考えた私がバカだった! と怒ることが起きるんじゃないかなあ」
それどんなふうに起きるの? と、眞子はまた先が見えているような眼鏡専務のとぼけた顔に首を傾げるだけ。
―◆・◆・◆・◆・◆―
数日後。専務の予言どおりのことが起きた。
今日も中休みは、専務と私のコーヒーとおやつの買い出し。
通路を歩いていると、久しぶりにきらきらとした微笑みを浮かべる麗奈が出てきた。
「また専務と一緒におやつですかー。最近、すっかりあちらの方になっちゃいましたね」
はあ。なんかいいことがあったんだなと、眞子は眉をひそめる。
「急いでるんだけれど」
「専務となにしているんですか。社長とカンナ副社長から許可がでたなにかを企画しているらしいですね。私達はいつ教えて頂けるんですか」
「そちらのイベントが落ち着いたらね。社長が発表してくれるんじゃないの」
こちらも社長後押しの企画を持っているとわかって、麗奈の表情が悔しそうに歪んだ。
「そうですかー。楽しみですー。私もやっとアロマのハンドマッサージの依頼が取りつけられそうなお店がいくつかあったんです。もう、あと三日と言われて間に合わないかなーと思ったけれど、なんとかなっちゃいました」
ええ、そうなんだ。麗奈、やっと見つけられたんだ! 眞子はびっくりした。なんだやったじゃない! と。
「すごいじゃない! よかった~。これで古郡さんもほっとされたんじゃないの」
「ええ、すんごい褒めて頂きました。やっぱり後藤さんに任せて良かったよーって」
うふふ――と本当に嬉しそうだった。
「これでようやっと、カンナ副社長のアシスタントとして固定してもらえそうです。今度、古郡さんがご褒美に食事にと誘ってくれたんです」
ああ、そうなの。眞子はシラッとした。
前ならここで泣きたくなるほどに心を痛めていたし、麗奈にイライラしていたところ。
ただ、この言い方だけはカチンとするけれど……。
専務は『助けようとして、あとでまた怒るようなことされるんじゃない』と言っていたことは当たっていたけれど、もうなんだかぜんぜん平気!!
「そう。じゃあ、どんなお店のセラピストさんが来られるのか、私も楽しみにしているね。私もハンドマッサージ大好きなんだ」
何気なく自然に出た言葉だったのに、麗奈が急に嫌な顔をした。でも一瞬……。
「そ、そうなんですか。じゃあ、これで」
珍しく麗奈からさっと退いていった。いつもの彼女ではない気がした。
「はあ、今日の専務のおやつは、マカロンね。意外と甘党……」
北の都心に事務所があるせいか、この北国で名が知れた銘菓も、いま流行っているスイーツもすぐ手に入っちゃうので、なんでも食べちゃう専務。
お店もすぐそこにあるから、毎日あれやこれ。……時々、専務とのお茶タイムが『女子会かな』と錯覚してしまうほど。あるいは、気の良いお爺ちゃんと茶飲み友達になったような奇妙な気分になることもある。
―◆・◆・◆・◆・◆―
私は私の仕事を。そう専務と一緒に!
もうあっちの仕事は関係ない。あちらはあちらで頑張って!
そんな清々しい気持ちで、眞子は今日も夜のうちに降り積もった雪を踏みしめつつ、元気に出勤。
「今日は、あるところに行きたいので、眞子さんにもついてきて欲しい」
出勤するなり、また専務がきらっとお洒落に変身していた。
あれ。今日は横浜のメーカーから誰も来ないし? お得意様がご来店の予定ならでかけないし?
どうしたのだろうと思った。
「予約してあるから、ついてきて」
専務がかっこいいメンズコートをジャケットの上に羽織った。
きちんとしているけれど、今日はちょっと砕けたカジュアルスタイル。ジャケットはジャガード織りのニットジャケット、青いチェックのシャツに、ニット織りの黒いネクタイ。黒スラックスに、キャメルのサイドゴアブーツという洒落っ気だった。そして眼鏡はまた黒縁のお洒落眼鏡になっている。
「行こうか。地下鉄で行くよ」
言われるまま、眞子はコートも脱がずにそのまま外出することになった。
大通り駅から地下鉄に乗って、郊外へ向かう。
専務の手には住所を記したメモ。黒いマフラーで口元を覆っている専務が番地を確認するためにきょろきょろ。
眞子は降りたことがある駅だったので見覚えがある景色だった。
そこで行く道がわからない専務が唐突に聞いた。
「眞子さん。『エッセンシャル六花』というお店、どっち?」
眞子は目を見開いて驚く。
「専務、どうしてそのお店!!」
専務がけろっと答える。
「カンナに交渉してこいって頼まれたんだよ。これって眞子さんがピックアップしていた店の一つだよね?」
さらに驚き、眞子はしばらく言葉を失う。カンナ副社長に交渉を任された――という部分で絶句している。どうしてこんなことになっているのかわからない??
「そうやって驚くと思って黙っていたんだけれど。わかんないから道を教えてくれ。俺、方向音痴なんだよ」
方向音痴って問題じゃなくって!
「どうして専務が交渉のお仕事を引き受けちゃっているんですか。それに後藤さんがお店を見つけたと言っていましたよ。こんなことしなくても……」
「だってさ。後藤さんが三日の期限に決められなかったからだろ。古郡君も同じく。中止の言い渡しをしなかったのは、眞子さんがこのリストを準備してくれていてまだやりようがあるから。ただ、カンナは後藤さんには『私にいくつか宛があるからその店に頼もう』とだけ言っているらしい。そのカンナの宛というのが、眞子さんのこのリストね」
もう眞子は言葉がでない。それに既にこの巻き込まれちゃった感……。せっかくあの仕事ときっっぱりすっきり切り離して、新しい道を進んでいると噛みしめていたのに。
「カンナも知り合いのエステに最後にはお願いしようと準備はしていたみたいだけれど、眞子さんが見つけたこのお店が気になるから、確認をしてなおかつ良ければ交渉して欲しいと――」
眞子は茫然とした。じゃあ、麗奈のあの言葉……。
専務もわかってしまったのかシラッした冷めた目つきで言った。
「眞子さんに見栄でも張ったのかな。あの仕事を取られたくなくて……。まだちょっと全てを切り回すには経験が少ないよな……仕方がない」
眞子がなにも教えないので、白銀の路上で専務は白い息を吐きながら仕方なく番地を探している。
「こちらですよ、専務」
反対方向へ歩いていく専務を呼び止める。眞子からすすんで歩いた。
「眞子さんの名前で予約したから」
ちゃっかり専務がちゃっかりした顔で眞子の背に追いついてきた。
「やめてくださいよ、もう~。男の人の声で予約したんですか」
「うん。上司ですと正直に伝えている」
「もう~。六花さん、不思議に思っているでしょうね」
眞子も白い息になる溜め息を吐いた。




