・Kiss ピンチ!
午後も専務と品選びの検討をする。
「このストールカーディガンは、手織りなんですよね。お値段が高かったのも手を出しにくかった要因だと思います」
「手織りの風合いと、素晴らしい職人技のものなんだけれどな。確かに柄が個性的だ」
「ですがシンプルな春夏のインナーとパンツの上に、さらっと羽織るだけで、とてもお洒落な大人の女性になれます。ただこのカーディガンが主役にならないとだめなんですよね。つまり、着回しがしにくい一着ということです」
「では。だいぶ下がるけれど、このプライスでどうだろう」
「低めに見積もって、社長に検討していただいたらいかがでしょう。安すぎると言えば、もう少し高めにして。高めにしてもお客様が買いやすいように――」
「うん、そうしよう」
この商品がいいね――と倉庫から持ち出してきたものを、直に確認し、値を決める作業にも移った。
いま、眞子はこの仕事にやり甲斐を感じている。ずっと副社長と一緒に横浜に出張したり、横浜ブランドのメーカーと直結した仕事はとても華やかだったから離れがたかったけれど。
でも専務とのこの仕事は、ひさしぶりにお客様の顔が見える。それを楽しみにして励んでいる。
それに……。眞子は顔をつきあわせて、一緒に商品を眺めている専務を見つめた。
仕事の時はとても男っぽい眼差し。仕事から離れるとかわいいおぼっちゃまになって、眞子の気遣いにちゃっかり甘えてくれる。
そんな専務と一緒にいるのが当たり前になってきた。
企画が通ってからは、一緒に倉庫へ行くのも、池田店長のセレブな住宅街のブティックに話し合いに行くのも、一緒に出掛ける機会が増えた。
外で専務がよく知っているお店でランチを取ったり、休憩であたたかいカフェでひと息ついたり。専務が連れて行ってくれたお店はどこもおいしい。
そんな時の専務は、やっぱりおおらかで、ちゃっかりおぼっちゃまのラブリーなお兄さんで。でも、仕事の時はきりっと凛々しく、眞子の前を颯爽と歩いて守ってくれる上司。
仕事も、一緒にいることも、いまの眞子には心を満たしてくれる日々。
もう哀しくなんかない。このままで……いい……。そう思っている。
―◆・◆・◆・◆・◆―
午後の中休みに、眞子がコーヒーとおやつを買いに行くのも恒例になってきた。
「専務、行ってきます。今日のおやつはなにがいいですか」
「からあげー」
それ、おやつですか?? と笑いながら、近くにある唐揚げ専門店のことだろうと『買ってきますね』と出て行く。
下に降りるエレベーターを待つ。扉が開いてひとり乗り込むと、後ろからひとりの男性が飛び乗ってきた。
「本田さん」
黒いスーツ姿の徹也だった。
彼がすぐにエレベーターの扉を閉めてしまう。
「ふ、古郡さん。お疲れ様……です」
「本田さん、頼みがあるんだ」
ものすごい切羽詰まった様子で、エレベーター奥にある壁に追いつめられるようにして、眞子に詰め寄ってきた。こちらも背が高いから、上から真顔で見下ろされるとその気迫に気圧される。
「本田さん、アロマのショップを知らないか。どこかいいところがあったら教えて欲しい」
眞子は彼を見上げ……。目を逸らした。哀しい気持ちで。
「心当たりがありません。ごめんなさい」
「いや! 本田さんのことだから、俺にアロマのハンドマッサージの話をしてくれた時には確信を持って準備をしてくれていたはずなんだ」
そのとおりだった。だが眞子はここで初めて、徹也に腹立たしさを覚えていた。
「ですが。そのお仕事、古郡さんは後藤さんと成功させるとおっしゃっていたではないですか。私が手を出してはまた副社長に叱られます」
エレベーターの鉄壁、眞子の両耳の側で『バン!』と大きな音が響いたので、驚き肩をすくめた。
「本田さん。俺、間違っていた。どうして本田さんを手放してしまったんだろうと」
徹也の両手が壁につかれていて、眞子は彼の腕に囲まれてしまう。
眞子の目の前に、彼の顔が近づいてくる。あんなに憧れていた綺麗な目が、じっと眞子を見つめている。
「教えて。本田さん。教えてくれたら、俺……。本田さんと一緒に……」
彼の手が眞子の顎を掴みあげた。男らしい唇が迫ってくることに気が付いて、眞子はやっと彼を突き飛ばそうとハッとして……。
「古郡君、なにしてんの」
徹也を突き飛ばそうとする前に、どうしてかエレベーターの扉が開いて、そこに専務が立っていた。
おじいちゃん眼鏡に不精ヒゲ、髪の毛もぼさっとして、いつもの地味なシャツに着古したニットと綿パンツ姿の。
「し、篠宮専務」
「眞子さん。言い忘れたことがあったから、追いかけてきたんだ。ちょっとこっちにおいで」
いつものちゃっかりしたおぼっちゃん笑顔で専務が、徹也に迫られていた眞子に手招きをする。
もう眞子は涙が滲んでしまい、徹也の腕をすりぬけ、専務へと駆けていた。
専務はすかさず眞子の腕を掴み、背中に隠した。
「眞子さん。からあげの他に、バームクーヘンね」
本当にそれが言いたくて? 階段で駆け下りて一番下のビルエントランスまで来てくれたの?
わからないけれど、専務は分厚いレンズの眼鏡の顔でも、徹也をじっと見つめている。でも睨んではいない落ち着きがある。それどころか、ニヤッと不敵な笑みを徹也に見せる。
「古郡君、前も言ったよね。本田さんはもうカンナの部下じゃない。僕の部下。イベントのことで困ることがあるなら、カンナに相談するのが筋だよね。本田さんに相談するにしても、僕を通すのが筋だね。それとも、手に余っている? いままでは横浜にいるだけで、本田さんが全てフォローをして準備を完璧にしてくれていた。それがなくなって困ってるとか?」
図星だったのか、徹也がぐっと顔を歪めた。
「いいえ。ただ……、本田さんとふたりきりになりたかっただけですよ。ずっと話せていないので。デートの誘いなら仕事とは関係がないですし、専務さんにも関係がないですよね」
そうだよね、本田さん。徹也はまだ眞子のことを信じているようにして、眞子をずっとときめかせてきた魅惑的な微笑みを見せてくれる。
でも、彼はデートの誘いなんてはっきりしていない。眞子に肉体的に迫ってきたけれど、その前に彼が欲しかったのは、『眞子が持っている仕事に役立つ情報』。
「だってさ、眞子さん。デートのお誘いだよ。それは上司の俺でも止められない」
眞子の目の前に立ちはだかってくれていた専務が、すっと退いてしまう。
眞子はまた、徹也と向きあう形になった。
「本田さん。久しぶりに一緒に食事に行こう」
徹也からの誘い。彼の口から、仕事じゃないデートの誘いと公言しての。
「いえ、行きません。私、他にやりたいことがあります」
徹也の顔を見て、眞子ははっきりと断った。
「お困りのことは、専務が言うように、副社長と相談してください」
一礼をして、眞子は徹也から背を向ける。
「専務、行ってきます」
すこし吹雪いている中、眞子はビルの外に出た。
急ぎ足で、いつものコーヒーショップを目指す。路地を曲がったところで振り返る。徹也が追いかけてこなかったのでホッとした。
でも、いまになって涙が流れ落ちる。
あんな徹也、見たくなかった。ずっとずっと憧れて、あんなにきらきらした気持ちで仕事をしてきたのに。
待ち望んでいたデートのお誘いが、あんなやり方で、あんな怖い顔でのお誘いなんて……。
でもきっと。これが、徹也の中にある眞子の価値。そういう誘いで充分の、簡単に丸め込める男慣れしていない女……。強引に押し切ればいうことを聞いてくれる。『便利な女』!
それに。専務が来てくれなかったら……。もう立ち直れないことされていたかもしれない。たとえキスぐらいのことでも……。
「う、うう……。専務……」
そこにいないのに。眞子は泣いて、溢れる涙をストールで拭った。
熱い涙は吹雪ですぐに冷めてしまう。とても冷たい涙に変わってしまう。
もしかして。これが、専務とカンナ副社長が、黙ってみて眞子に気が付いて欲しかったこと?




