・さよなら、片想い(2)
「申し訳ありません。今夜は用事があります」
変な嘘をついているようで、眞子の心音はばくばく早くなっている。
そんな眞子を知って知らずか。微笑みをみせていた専務の視線が、急に険しくなった。でもそれも一瞬。すぐに今度はいつもの、調子の良いにっこり笑顔になる。
「そっか。残念。いつも頑張ってくれているから、ご馳走したかったんだけれどな」
「ありがとうございます。またの機会にお誘いただけると嬉しいです」
でも。専務はあの、なにか企んでいるようなにっこりのまま。黙ってなにも言わなくなる。
だが、事務所が入っているビルが見えてくると、ふと専務が呟いた。
「本田さん。心配だな」
「え?」
「いや。……なにかあったら、」
そこまで言いかけ、専務が言葉を濁した。また社長である父親とそっくりのクールな眼差しになっている。
「なんでもない。本田さんは本田さんだね」
なにか。諭されているような上司の眼差し。そこで専務はふいっと眞子から目線を逸らし、それっきりなにも喋らなくなってしまった。
ふたりで在庫整理専用部屋になった応接室に戻り、眞子は荷物をもって帰ろうとする。
逆に専務はジャケットを脱いで、シャツのカフスボタンを緩めると椅子に座ってしまった。しかもノートパソコンを開けて電源をいれてしまう。
「お疲れ様、本田さん。俺はもう少しやっていくよ。そろそろ親父に企画書を出したいしね。あ、取り置きしたコート、ショップの店長に預けてあるから時間がある時に精算に行って」
「わかりました。お先に……、失礼します」
そんな一人でやるのかな――と、眞子は少しだけ申し訳なくなってきた。
「どうした。用事があるんだろう。ほんとうに今日はもういいよ」
眼鏡の専務が少しだけ怖い顔になった。わざとそうして眞子を帰らせようとしているのかも、……そう感じるようになるだなんて。
お言葉に甘え、眞子は事務所を出る。時計を見ると、先に食事会に出掛けていった徹也がそろそろ抜け出して、指定したカフェに来る時間になっていた。
事務所ビルを出て、眞子の足もカフェへ向かう。
交差点三つ向こう。賑やかな北の繁華街。その街角。交差点の角店。地下にあるカフェ。洋楽の趣味が偏っているマスターの小さなお店。でも静か。
信号待ち、向こうにカフェへと降りていく階段口が見えている。また小雪がちらついていた。眞子が着ているキャメル色のハーフコートにちらちら落ちてくる。
「あ、古郡さん……」
横断歩道の向こう、コートを羽織ったグレースーツの男性が地下のカフェへと降りていったところ。
麗奈が後をついてきていないか、眞子はしばらく様子を窺ってしまう。その間に、横断できるようになったけれど、眞子は用心してやり過ごしてしまった。
また信号待ち。麗奈はついてきていない……。徹也がうまく宥めたのだろうか。
もうすぐ横断ができる。渡って、あの地下を降りれば、ひさしぶりに徹也とふたりきり。またゆっくり話ができる。信号が変わり、横断の音が小雪の空に響き渡る。
なぜか。眞子の足がそこから進まなくなった……。
「……私、もう」
人々が横断歩道を行き交う中。眞子はうつむいて立ちつくしたまま。
もう、まったく嬉しくない。いつもあんなに舞い上がっていたときめきが……ない。ということに眞子は気が付いてしまう。どうして。なぜ? 前ならすっとんで行っていたはず。きらきらした気持ちで彼のもとへ駆けていたはず。
なのに。足が動かない。行く気が失せている。
赤信号になってしまった。眞子は……踵を返し、カフェに背を向ける。
自分でびっくりしている。でも、横断歩道で信号待ちをしている間、眞子の脳裏に次々と浮かんできたのは、カンナ副社長のアシスタントを降格された頃、徹也とふたりでバーに行ったのに、忘れた傘を取りに行けばそこに彼と麗奈がいたこと。その後、噛みしめた苦い気持ち。
『わかっている。彼が私によくしてくれるのは仕事のためだと』、『わかっている。彼には結婚を考えているモデルの恋人がいて、眞子のことは女として一度として見ていなかったこと』も。
ただただ、素敵な彼をそばにしていることだけを自分が頑張っているご褒美にして、勝手に彼をダシにして頑張ってきただけ。彼が誘ってくれたのはきっと『また仕事の話』。それならば……。
会ってはだめだ!
いま眞子は専務のアシスタント。公表できない仕事を一緒にしている。いま徹也と話せることはなにもない。
アシスタントを降格されたことは、眞子自身納得している。麗奈の甘えた提案がきっかけだったとしても、自分のなにが悪かったのか、カンナ副社長がなにを眞子に言いたかったのかもわかってきた。
どんなに徹也が『副社長のアシスタントに戻れるようになにか考えよう』と言ってくれても、いちばんの近道は、カンナ副社長の意向に添った仕事をこなせばいいだけ。徹也と話すことなどなにもない。
彼との仕事は終わったんだ。
ようやっと噛みしめ、眞子はそっと来た道を戻る。




