・専務さん、無理難題
いつも損する巡り合わせ。
眞子もそれについてはもうなにも言う気になれない。
そのつもりはないのに、頼まれる。頼られたら断りきれない性分。もう次からは、そんな空気を感じ取ったらそっと避けよう、さりげなく。そう思うのにできない。幾度も『避ける』ことにトライしたけれど駄目だった。
二十五歳の時。もうこれが私なんだ――と、受け入れられるようになった。
もう三十路が見えてきた。だからどうした、やってやればいいじゃない。嫌だと思う自分が負けているんだと思うようになった。
いま二十七歳、自分のことは後回しで、仕事にどっぷり。彼氏ナシ、五年目突入。
情けは人のためならず。
それって。ほんとうかな。
でも今は、それで成り立つ仕事をしている。
地元のアパレル会社『マグノリア』。
篠宮ファミリーが一族経営するそこに、眞子は大学卒業後、ずっと勤めている。
今日も街中にある事務所でデスクワーク中――。
デスクで、メーカーから発送されてくるパッキン数と、送られてくる商品の品番データーをパソコンで照会中。
これから店頭に出すものが、きちんと季節に合っていて、いま送ってもらって売れるのか売れないのかも確認中。一歩間違えると『売れ時』を逃す。見逃したら、魔女のような副社長から盛大な雷を落とされるから、ここ最後のチェックはいつも気が抜けない。
――この商品を外して、こっちの商品に入れ替えよう。
洋服を売るというのは、気候とも連動している。
これから一週間、半月の天気予報をチェックするのだって常識。
新聞の天気欄ともにらめっこ。『本当にこの気候なんだよね?』。そう思いながら、商品のシーズン性も確認。特に今の季節、夏が終わって秋になるため、朝晩の気温差が激しい。衣替えを控えていて、着るものも端境期。薄手ものと厚手ものが混在し、商品ラインが読みにくい時期。
それだけ気を張っているのに。眞子が座っているデスクの引き出し、足下でうごめく黒い影が。
(本田さん、本田さん)
ひそひそとした声が眞子の足下から――。
そこによつんばいになって隠れている男がいる。もうその声を聞いただけで、眞子は席を立ち逃げたくなった。
なのに、その人が眞子のスカートの裾をしっかり握りしめていて離れることを許してくれない。眞子も観念し、にっこり笑顔だけなんとか整える。
「せ、専務。なにしているんですか」
この人が眞子のところに来ると、ろくなことがない……。
彼が眞子のデスクから、ちらっと顔を出して、右左、何かに怯えるようにして周りを確認する。眞子と二人きりだとわかると、彼がいきなり手を合わせて眞子を拝んだ。
「お願い。俺の発注もかけておいて」
「え? な、なにをですか」
またどんな無茶をお願いされるのか。この専務にはいつも無茶を押し付けられる。
でも……と、眞子は気を取り直して、ひとまず聞いてみることにした。
「なにを発注されたいのですか?」
「オーセンティックのカシミア、赤いシンプルニットと黒いカーディ、これ発注しておいて」
はあ? オーセンティックのカシミア!? 眞子は目を丸くした。
なんという高額商品を。しかも、その商品は他とは別格!
「専務。オーセンはプロパ商品とは別物。だから『オーセンティック』なんですよ」
そんなこと、この道の先輩でこの家の跡取りとして勤しんできた専務にはわかりきっていることなのに、眞子は反論せずにいられず。ついつい当たり前のことを言い返していた。
「顧客から個別で承る完全前注文制で生産する特別なものですよ。しかもオーセンティックの特別販売会は六月に実施して、メーカー受注はとっくに締め切って、もう生産も終えて、これから各店頭に発送される時期ですよ」
「だからだよー、本田さん」
専務が床ににちいさく座り込んだまま、にんまり笑った。少しも悪びれていない。
「そもそも……」
といいながら、専務が眞子が持っていたマウスを奪ってしまう。
「完全個別注文だからって、きっちりその枚数だけ生産しているわけではないでしょ。メーカーさんだって『ある程度の余裕、保険』は作っているだろうし、それから、高価な商品だからね。店頭の華やかな展示販売、巧みな販売員の言葉にその時はいい気分で注文しちゃっても後で正気になって注文したことに後悔する客が必ずいる。全国のどこかで絶対にキャンセルが出ているはず。そろそろ返品されている時期。だから、絶対にどこかで余っているはずだから」
専務自ら、その商品の受注番号を探し当てた。
「赤、1。黒、3でしておいて」
「黒のカシミアカーディガンを、3も!?」
オーセンティックとは『本格的、正真正銘、本物』という意味で、特別に注文するカシミアの高額商品注文販売のことを、このメーカーではそう呼んでいる。
店頭でカシミアの展示販売をする。完全オーダー制。素材も高級で、セーターは5万円~10万円。カーディガンなんか20万円は当たり前! それを決まった顧客から注文もないのに、どこかにあまっているだろうから『3つ』注文しろ?
「だだだ、だめですっ。副社長に怒られますよ」
「カンナに? 怒られるのは俺だから」
恐ろしい魔女みたいな副社長を呼び捨てにして、恐れる様子もない。
そんな思い切ったことが出来るのは、専務が社長の息子で、カンナ副社長の甥っ子だから……。
「大丈夫。俺、売るあてがあるの。注文しておいて、あとで泣く客がでてくる予感があんの。絶対だよ。じゃね」
そうしてサササと身をかがめて、専務は行ってしまった。
え、ええ。えー!?
出来ない、出来ない。そんなこと、絶対に協力できない!
ひとり、眞子は首を振る。