ニーナ
僕は猫。この家で飼われている。
名前はトラ。性別はオス。
ママは僕に新しいおもちゃを買ってきてくれた。
前のおもちゃはもうボロボロになって捨てられたから。
ママは値札をハサミで切り取ってから、僕に渡してくれた。
僕はなんだか嬉しくなって、おもちゃをくわえた。
そんな僕を見てママは「気に入ってくれてよかったわ」と、優しく微笑んだ。
おもちゃはネズミの姿をしている。
体は灰色の毛が生えていて、プラスチックの鼻先はピンク。
申し訳程度につけられた手は小さくて可愛い。
「ねぇ猫さん、あなたのお名前は?」
僕は目を大きく見開いた。おもちゃが話せるなんて知らなかったから。
「僕はトラ。君の名前は?」
「私の名前はまだないわ。つけてもらえるかしら」
おもちゃのネズミには赤いリボンがついている。
だから僕は、この子は女の子なんだと思った。
「女の子だからニーナはどう?」
「まぁ、とっても素敵な名前ね。気に入ったわ。ありがとう」
ニーナと名付けられたおもちゃのネズミは、とても嬉しそうだった。
僕たちは毎日一緒に過ごした。毎日遊んだ。
遊び終わったあと、僕はニーナを舐める。
これはありがとうの気持ちなんだ。
彼女はくすぐったいと言って笑った。
そのたびに彼女についている毛は少しずつなくなっていく。
ある夜のこと。
僕はいつものように彼女を抱きしめながら眠っている。
「そろそろお別れかもしれないわね」
その声があまりにも小さかったから、僕は聞き逃さないように耳をピンと立てた。
「どうしてそんな悲しいことを言うの?」
「悲しいことじゃないわ。だってだからこそ、私たちは出会えたのよ」
カーテンが閉められたまっ暗な部屋。
僕は夜行性だから暗くてもよく見えるけれど、ニーナはどうだろう。
もしかしたら何も見えていなくて、怖がっているかもしれない。
怖くなったから、そんな悲しいことをつい口にしてしまったのかもしれない。
僕はそう思うと、胸がいっぱいになった。
そして僕の手と同じ大きさのニーナを、なくさないように両腕で包みこんだ。
ニーナは僕に体を預けた。僕は鼻先でニーナの匂いをかいだ。
僕を安心させてくれるニーナ。
隠れるのが上手なニーナ。
悲しいことを口にするニーナ。
彼女の匂いが、なによりも好きだった。
「あなたは鳥さんになりたいと願ったことはあるかしら?」
「あるよ。僕は自由に空を飛んでみたいんだ」
「でも鳥さんも、猫さんになりたいと願ったことがあると思うわ」
「なんで? だって鳥さんは僕に出来ないことができるんだよ」
「鳥さんは空を飛べても、あなたのように地面を走ったり、私を両腕で抱きしめることは出来ないの」
それを聞いて、僕は急に自分の体が愛しくなった。
生まれて初めて、この両腕があってよかったと思えた。
「誰にでも役目というものがあるわ。鳥さんは空を飛ぶことが役目。あなたはママやパパを幸せにすることが役目」
「じゃあ……、ニーナの役目は……?」
聞きたくなかった。きっと彼女はまた悲しいことを口にする。
彼女は太陽の下ではいつも楽しい顔をしてくれていた。
一度だって、その顔が悲しみで染まることはなかった。
だから彼女は、今の自分の顔を見せたくなかったんだと思う。
でも僕の目は暗闇の中でもよく見えるから。
彼女が悲しんでいる顔を初めて見た。
ニーナが僕のために秘密にしていたことを知ってしまった。
「私の役目はもう終わりなの。きっともうすぐ新しいおもちゃが来るわ」
僕はそのことを理解できた。ニーナが初めてじゃなかったから。
「ママがね、言ってたのよ。もうボロボロだから買い換えないとねって」
「そんな……。ひどいよ」
「ママを責めないであげて。ママはいつだって、あなたの幸せを考えているわ」
このときばかりは、ママと同じ人間になりたいと願った。
言葉が通じたら、ニーナは捨てられずにすむ。
「私、幸せだった。ここの家族になれて、私の人生は幸せだったの」
ニーナは微笑んでいた。目を薄く細めて、僕を諭すようにそう言った。
それなのに今度は僕が悲しい顔になってしまった。
彼女の優しい作り笑いが、温かかったから。
「僕が遊ばなかったらよかったのかな?」
「そんなことないわ。トラさんと遊ぶ毎日が私の宝物だったの。それを忘れないで」
「でも、僕が君を舐めたりしたから……君はボロボロになってしまった」
「そのことを後悔しないで。だって私、あなたに舐めてもらうのが好きだったのよ。愛されていることが分かるから」
ニーナは自分の毛が取れてしまった部分を見つめる。
「私……今の自分が好きよ。ほら、あなたと過ごした証がこんなにたくさん。私の一番の自慢なの。たくさん愛してくれてありがとう」
僕は鳥さんになりたいと思った。人間にもなりたいと思った。
でも僕はやっぱり猫に生まれてよかった。
僕はニーナと出会えたから。ニーナと毎日を過ごせたから。
この暗闇の中でも、ニーナの微笑みを見れたから。
「愛しているわ、ずっと」
「僕もだよ」
「おやすみなさい」
夢の中で、僕はニーナと遊んでいた。
くわえて運んで、僕のとっておきの場所に招待する。
素敵なところね、と君はいう。
そんな君が好きだった。
次の日、僕の腕の中からニーナは消えていた。
僕は飛び起きた。そしてニーナが隠れていそうな場所を探した。
ベッドの下。椅子の下。テレビの裏側。
どこにもニーナの姿はなかった。
「ニーナ、どこに隠れているの? 出てきて」
僕は彼女の名前を必死に呼んだ。
喉が痛い。こんなに大きな声は出したことがない。
「ニーナ、ニーナ、どこにいるの?」
そんな僕の声を聞いたのはママだった。
「まぁ、どうしたの。そんなに鳴いて」
「ママ、ママ、ニーナがいないんだ。どこにいったかしらない?」
人間のママに言葉は通じない。
だからママは困った顔をした。
ママは僕を抱っこしてあやした。
「大丈夫、大丈夫だからね」
僕は部屋中を見回した。するとゴミ箱の中に赤いリボンがちらりと見えた。
僕は飛び降りた。そしてゴミ箱をひっくり返した。
これがいけないことだとは知っていたけど、どうしてもニーナに会いたかった。
ゴミ箱の中から、ニーナが出てきた。
「あぁ……。よかった」
彼女は僕の方を見た。とても複雑な顔をしている。
「さよならを言いたくないの。言ってしまったら、もう会えない気がするでしょう? でも言わなかったら、また会える気がするでしょう? だから、何も言わないで。何も言わないで見送ってほしいの。私ってわがままかしら……」
「分かった。さよならは言わないよ」
僕はニーナをくわえて、その場所を離れた。
そしてとっておきの場所でニーナと寄り添う。
ひっくり返ったゴミ箱を片付けたママが僕のところへ来た。
怒られると思ったけれど、ママの声は優しかった。
「トラちゃん、ごめんね。そんなにその子がお気に入りだなんて、気づかなかったわ。ゴミ箱をひっくり返したことなんて一度もなかったもんね」
ママは僕の頭を撫でた。
「もう捨てないから安心してね」
それを聞いて僕はゴロゴロと低く喉を鳴らした。
それからずっとニーナは僕といる。
灰色の毛はもうほとんどない。
「今とても幸せよ」
僕が舐めるとニーナはそう言った。
「私、一つだけ勘違いしていたことがあるの。聞いてもらえるかしら」
彼女は小さな目を愛情たっぷりに細めて、僕の目をまっすぐに見つめている。
「本当の私の役目は、あなたとずっと一緒に幸せでいることだったの」
おかしなことに、僕は嬉しいのに涙が出そうになった。
でも猫だから、そういうときに涙はでない。
だから僕は猫でよかったと思った。
他の誰でもないニーナと出会えた猫でよかった。
僕はもう一度彼女を優しく舐めた。
すると彼女は
「くすぐったいわ」
と嬉しそうに笑った。




