君に捧ぐ言葉
今、三年C組で行われた光景を見たら、誰もがたまげるであろう。
犬が二匹それも牙を剥き、闘争本能を顕にした“獣”が、一人の女子生徒に食らいつこうと飛び掛った。
しかし一匹が横っ腹を蹴られるみたいに大きく吹っ飛び、もう一匹はやや遅れて真上に弾け飛んだ。
女子生徒は肩幅よりやや狭い自然体で構えている。
右手の指が忙しく曲げられ、拳をつくったかと思えば崩し平手に。また拳をつくり半開きに戻す。
大きく吹き飛ばされた犬は動かない。
もう一匹はリフティングでもされているみたいに宙で跳ね、次第にその勢いが弱くなっていき地面に落ち着いた。
柳真央美が超能力を使用し、余裕を持って犬を昏倒させたのである。
「ふう――」
彼女はこれを念打と呼ぶ。
距離や方向や角度、これらを定めて念じる。
すると定めた場所に定めた向きで押す力が働く。
いわば見えない打撃だ。
能力が発現してから今日まで、彼女は正面七方位、各百回の念打を欠かした事がない。
最早、自身の肉体で殴る蹴るを行うより、その精度は上である。
「流石に実戦ともなると疲れるわね」
その額には汗の粒が見える。
しかし、表情は余裕に満ちていた。
――さて。
彼女が歩き出した。
その足取りは完全に向かう先を定めている。
教室を出て左折、廊下を道なりに進む。
そこは自分が上がってきた下り階段、それから上り階段がある。
柳は上へ向かった。
階段を上がりきった柳の目の前には、金属製の開き戸がある。
ノブを時計周りに回し開くと、ギギギという金属の擦れる音と共に屋上へと出た。
淵は全て背の高い柵で覆われている。
直に風に当たれる開放感で生徒の間で人気の場所だ。
彼女も休み時間にはよく訪れる。
場の中心付近に据えられたベンチに座り読書をしたな、と。
日常を少し懐かしみながら左右へゆっくり頭を向ける。
――あれは。
ベンチを見て思った。用心しながら近づく。
「いらっしゃい」
ベンチに座っている佐藤拓巳が手を上げていた。
「やっぱりここに居たのね」
言いながら柳は右手五指の第一関節を軽く動かす。
佐藤との距離は五メートル弱。一撃で昏倒させる事は出来なくても、その体格を考慮するなら、十分有効打を叩き込める。
彼女が相手の出方を探っていると佐藤は顔の前で手を翳し、ちょっと待ったというジェスチャーをしてきた。
柳は目を細める。
「まさか、あんたがくるなんて思わなかったよ」
佐藤は鼻を鳴らし少し嬉しそうだ。
「犬をけしかけて、思わなかった、というのは随分ね」
「いや、まあ僕的には山田をぶち殺したかったんだけど、あんたとやるのは、なんかこう――」
「なに」
柳は眉を寄せた。佐藤が言わんとしている事を今一測りかねる。
「いや、僕も遂にここまできたのかと思ってね」
「どういう意味?」
「あんた、俺が東栄でどういう生徒だったか知ってる?」
「さあ」
「1年生で学年1の虐められっ子さ。この意味わかる?」
柳が黙っていると佐藤は続けた。
「最下級生って時点で校内じゃ権力が一番低いのさ。そして、その一番権力のない世界で最も下の存在って事だよ」
「そう」
柳は内心で感慨を覚えた。
一番下の存在。
それはつまり、自分と同じ――。
「柳真央美先輩。あんたは俺の事なんて、知らなかっただろうけど、俺はあんたの事知ってましたよ。俺と対極の存在ですし。美麗なルックスとスタイル、学年トップの学力、とても高校生とは思えない独特な雰囲気、存在感……あんたを見かける度に、何で自分とこうも違うんだろうって思ってましたよ。でも妬みとかは無かった。何故だと思います?」
柳の表情は相変わらす平静のままだ。
しかし心臓はドクンと波打っていた。
彼の話はこれ以上聞かない方がいい。
きっとこいつは核心に迫っている。
そんな胸騒ぎにも似た不安が柳を襲った。
佐藤がケヒっと不気味に笑った。
この笑みを見て柳は確信した。
彼は知っている。
本当は声に出して叫びたい、心の声を。
「わかりません?」 佐藤は頭を傾けた。
――わかってる。
柳は内心で呟く。
「あんたは俺と同じで孤独だ。そして普通になりたいって思ってる」
柳は固唾を呑んだ。
まるで走馬灯のように昔の記憶が蘇る。
中央区にいた時から特別だと言われ扱われた。
期待には何が何でも応えようと頑張った。
最初はそれで褒められるのが嬉しかったからだ。
次第にその頑張りを見せないように頑張った。
またそれを見せないように頑張って、また頑張って、頑張った。
結果、彼女は自分でも気付かぬうちに“特別”を演じられる様になっていた。
しかし周りの目は次第に好意から好奇へ、好奇から畏怖へ、変わっていった。
彼女はいつの間にか孤独になっていた。
そんな折、東区へ引っ越す事になった。
彼女は転機が来たと思った。
見知らぬ土地で見知らぬ人になら素の自分を出せるのではないか、と。
しかし長年演じ続け、もはや『柳真央美』を構成する重要なファクターとなっていた“特別”は、自力だけでそうそう変えられるものではなかった。
素の自分を出せない。
出し方がわからない。
転校初日に声をかけられた時も、先生に褒められた時も、告白された時も、本当は嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
だが彼女から出た言葉は『ええ』『そう』『あっそう』
ダメだ。こんな状態で接したら相手を傷つけてしまう。
逸そ、遠ざけよう……一人で居ればいい。
そうすれば誰も傷つく事はないのだから。
彼女は泣いている。
美麗の顔を崩さずに。
泣いている。
心の中で。
泣いている。
いつも独りで。
「そうね」
柳は佐藤から視線を外し、目を伏せた。
「でしょ? そういう意味じゃ俺とあんたはこの学校で普通とは違う。つまり“特別”な存在なんだよ」
佐藤はまたケヒっと笑う。それから言葉を続ける。
「現状は超能力まであって、もはや何が普通かなんて分からないけど。俺達が“超能力者が当たり前”に変えてやるよ。俺はあんたを気に入っているんだ。だから傍観でもしててくれないかな? 俺達が望む学園になれば、あんたも今よりは普通になれると思うぜ? 悪くない話だろ?」
柳は、また心臓が大きく鳴った気がした。
自分に危害を加えないうえに望みを叶えてくれると言うのだから、悪いどころかいい話ですらある。
彼女は目を閉じた。
――答えは初めから決まっているの。
目を開けた柳は佐藤を見据えた。
「私は、この超能力に感謝してる。少なくとも超能力がキッカケで山田くん、鈴置さん、関谷くんと繋がる事ができたんだから――」
佐藤の表情が一気に冷たくなった。
「超能力しか共通がない。そんな絆でいいの? そんなもん直ぐ切れちゃうんじゃない?」
柳は右手で胸を押さえた。
――ええ、そうね。そうかもしれない。でも……
「私にはそれだけで十分。貴方たちを止めたいという意思の元、三人とも行動を共してくれてる。ここへ来て裏切るなんて出来ない。それをするくらいなら一生一人で構わない」
これを聞き佐藤は大きく頭を降った。
「あーあ、うちのクラスじゃあんたの事、氷の女王なんて言う奴もいたんだけど――なに、なんか熱いじゃん。俺さ、そういうの……すっげぇ嫌いなの! うぜぇんだよっ!!」
佐藤の怒気を受けて柳は構えた。当然、格闘技等の構えではない。
自身の能力を最大限に発揮する為の集中である。
――打てる!
と柳が思った時だった。何か大きいものが背にぶつかって来た。
その衝撃で彼女は前方に数メートル飛び、前のめりに倒れた。
両膝からは出血し、手首に鈍い痛みが走った。
顔を上げた彼女の前方数メートルの所に、超のつく大型犬がお座りをしている。
――でかい。
そう、初見は誰もが思うはずだ。
「この犬、知ってます?」
犬の後ろで佐藤はニヤニヤと余裕の笑みを見せながら言った。
柳は訝しげな目を佐藤へ。それから犬へ向ける。
テレビ番組や本などで見たような覚えはあるが、実物を見るのは彼女も初めてだった。
パッと見は白く、長く硬い針金状の粗毛に覆われている。
体高七、八十センチ以上、身長は二メートル近くという超大型犬。
アイルランド原産、アイリッシュ・ウルフハウンド。
額から長い毛が垂れ下がり、どこか気のいいお爺さんを連想させる。
確かに大きいが顔だけ見れば怖さは感じない。
しかし、これは間違いである。
当然、普通の犬なら種類を問わずそうそう人を襲う事はない。
しかし、今は佐藤の能力下に置かれている。
そして、この犬の名前ウルフハウンドは伊達ではない。
狼より速く走れ、犬の中で唯一“単独で狼に勝てる犬”と言われているのだ。
嘘か誠かアイルランドから狼が絶滅したのは、この犬が原因という説すらある。
野良にいたのか、元々飼っていたのか、能力発現に合わせて購入したのか、定かでないが犬を操るという能力を考えれば、これほど頼りになるボディーガードはいないだろう。
「どう? すごいっしょ? 俺の秘密兵器。俺を虐めてた主犯格は、こいつでズタボロにしてやったんだぜ! ぶっちゃけあんたと戦う気あんまないからね。さくっと終わらせて、他の三人をボロ雑巾にしに行きたいんだよね」
佐藤はベンチから立ち上がり、血走った目で柳に告げた。
「特に、山田の奴は生き地獄を味あわせた後、こいつに尻を犯させてから殺してやる」
その場面を想像しているのか佐藤は嬉しそうに語った。
柳の脳裏にもその場面の映像が浮かんだ。
途端、胸の奥底から久しい感情が込み上げて来た。
怒りだ。
“特別”を演じる事で孤独になったかわりに、イライラさせられるという事もなくなった。
――久しぶりだ。
柳は思った。
自分以外に怒りを感じるのは本当にいつ以来だろうか。
「させない!」
普段の、抑揚の少ない彼女の声とは別人の様である。
「何を?」
佐藤は血走った目を半開きにして挑発する様に言ってきた。
もう、言葉なんていらない。
柳は押し黙った。
次第に怒りとは違う感情が湧いてきた。
――三人を……山田くん、鈴置さん、関谷くんを守りたい。他の生徒達、先生達も守ってあげたい。
怒りと平静の狭間から愛が生まれた。
何かを感じ取ったのか佐藤も気を張った。
暫しの膠着――手の内の探り合い。
――しくじった。
柳が内心で呟いた。
佐藤の事を甘く見ていた。その能力も。
自分の力なら念打で直ぐにかたがつく。
間違いだった。仕掛けられない。
――そもそも彼を倒せば操作は解けるのか。
まず思った疑問だった。
解けない場合、佐藤から倒すのは絶対にダメだ。
二打目を打つよりも犬の方が速い、とこの戦法を消去した。
頭の中で凡ゆる状況を想定、消去していく。
――犬を先に。だけど距離が遠い。
相手が人間なら、と柳は思った。一撃で昏倒させなければ二打目は相手の方が迅い。
――仮に、二打目を先に当てれば此方が勝つか……いや、ダメだ。
彼女は自身を叱咤し考えを改める。
『仮』という考えが既にダメだ。
相手の一撃――牙を備えた咀嚼は、何処に当たっても自分に致命傷を負わせる力があるだろう、と。
――考えるの。
柳は夥しい汗をかいていた。
それは向き合っているこの状況、其のものが不利だったからだ。
犬との距離は一、二メートル。
柳は改めて思う。
――大きい。本当に。
普通に生きていれば、まず出くわす事のないサイズの獣だ。
そこに監視はなく檻もない。
獣のプレッシャーは彼女に筋緊張を起こさせ体力を奪い、精神を疲労させる。
――何か、何かないか。もっと、近ければ。
柳は目を瞬かせた。
瞬間的に、念打とは別に行っていた練習を思い出しからだ。
それそのものは全くと言っていい程モノにならなかった。
これを使う事は無いだろう、と彼女は思っていた。
これを使う状況にならない様に立ち振舞う。
安全に、確実に、というのが柳真央美の戦闘思考の前提だった。
だから今頃になって思い出したのだ。
彼女の中で行われていた消去法が終わった。
残ったのは練習したそれだけであった。
柳が大きく息を吐く。スタンスを広げ腰を落とす。
これを開始の合図とし、佐藤は
「殺れ!」 獣に命令した。
獣が覆いかぶさる様に彼女へ飛び掛った。
黒瞳に獣の腹が映る。だが彼女はその様を認識していない。その脳裏には『練習』の光景が浮かんでいた。
顎に右手を当て、体を念転させる勢いで真っ直ぐ拳を放つ――ストレートパンチ。
何度も振った。
時間があれば振った。
凄く、凄く不格好なパンチだった。
それでも振り続けた。
スポーツ科学の観点で言えば、なんの為にもならない練習だ。
素人が見よう見まねでパンチを振り続けているだけなのだから。
獣の吐息が柳の顔にかかった。
しかし、まだ認識出来ていない。
彼女は脳裏でパンチを振り続けている。
千、二千、三千。
猫殴りを繰り返す。
汗の量がその運動量を物語っている。
五千、六千、七千。
量だけならばアスリートを凌ぐだろう。
柳は脳裏に映る自分を見て思う。
――これでいいの。
牙が触れるというところで、柳は初めて迫る獣を認識した。
同時に、脳が恐怖心と防衛本能を全身に伝えようと命令を出す。
怖い、殺される、死ぬ――駆抜ける本能が体を支配する瞬間、何かがそれらを抜き去った。
それは彼女にほぼ無意識化の念打を打たせた。
遅れて尚、迅速に咀嚼を追越した念打は獣の腹を打った。
打たれた箇所は波打ち、獣は撥ねられたみたく飛んだ。
柳は宙の獣を認めた。
そして脳裏に“彼女”を浮べ想った。
――ありがとう。“特別”でいてくれて。
獣は佐藤を越して数メートルの所に落ちた。
彼は信じられない、といった顔で犬と柳を交互に見た。
佐藤の脳内では柳真央美の情報が交錯しているに違いない。
その能力を知っているはずが思わず口走る。
「あ、あ、ありえない! 人間が素手でコイツを倒すなんて――」
聞いた柳は胸に手を当てた。
――素手じゃない。
彼女は練習のなかで悟った。
最も力のでる至近距離こそ必勝の間合いだと。
――これは……。
しかし『普通』の女子高生が“必勝の一撃”を放つのは至難。
故に、彼女が行っていた練習は向きも、角度も、距離も。焦りも、怖気も、妥協もない――一切雑念のない攻撃イメージ、肉体的習慣を得る為の反復運動だった。
――見えないだけ。貴方にも
それは念であるが故に目視が出来ず。
――私にも。
無意識化であるため彼女にすら“見えない”砲である。
柳は佐藤に向かって歩み出た。その動きに合わせて彼は後退する。
「く、くるな! くるなよ!」
倒れている犬を追い越し、そのなりふり構わない後退は、屋上の淵を囲っている柵によって阻まれた。
柳は佐藤を見下ろす。その端正な顔から表情が消えた。
「あなたが言ったのよ。私は“特別”だって」
――皆を守る為なら。私は孤独を受け入れる。
佐藤は完全に怯え切った顔を両手で庇う様にして、柵に背を押し付ける。
そして、
「ごめんなさい」と弱々しくその場に尻餅をついた。
途端、柳はぐいっと左の袖を何かに引っ張られた。見ると彼女が倒したアイリッシュ・ウルフハウンドが、訴える目で袖を咥えていた。
襲ってこないところを見ると佐藤の能力は解けた様だ。
犬は袖を放すと遠吠えを一回した。
そして、その場に伏せる。あたかも命乞いの様に。
主人の命は助けてくれ、かわりに自分を。
柳には犬がそう言っている様な気がした。
彼女は犬へ向いてしゃがみ、その頭を撫でる。犬はハッハと舌を出す。
意外とダメージがないと分かって柳は安心した。
それから一息吐いて佐藤へ向き直る。
「この子に感謝する事ね。そして、二度とあの三人に手を出さないと誓いなさい」
柳は立ち上がり踵を返す。スカートがフワリと靡いた。遅れて黒髪も靡いた。
数歩歩いて佐藤へ向き直ると再度犬を見た。すると犬も柳を見た。彼女は小さく溜息をした。
――こうやって見ると、ホント御爺ちゃんみたいね。
柳は出入り口へ向き直り歩き出す。
三階へ戻るとA組の教室に入りテラスへ出る。
右手に螺旋状の非常階段を認め、そこを降りていく。
――ここから降りて、外から武道館裏口へ周る方が早いかしら?
彼女にしては珍しく確信のない選択だった。




