第1章 幽明と遺愛
◇◇◇第1章 幽明と遺愛◇◇◇
境内に溢れる蝉の鳴き声のシャワーの中、葬儀は滞りなく進行していた。
眠気を誘う単調な読経と相俟って不快指数はかなりの高さに達しているが、安曇緋奈は一時たりとも正座を崩すことなく遺影に視線を送り続けていた。
年の頃は二十代後半、栗色の髪をアップに纏め、今は青黒く隈の浮いた薄化粧ながら華やかな顔を、斜め上に僅かに傾けて座っている。
シャープに鍛えられた長身を黒の細いワンピースに包み、ふっくらとした唇を前歯で噛み締めている彼女は、業界で最近注目を浴び始めた劇団「DAYDREAM」の主役級舞台女優である。
本名の代わりに記帳した「雛宮明日見」は、十年以上も慣れ親しんだ芸名だ。
遺影の男性、葵慎太郎は、三十五歳という若さで世を去った医師であった。
彼女と、六歳年上の棺の中の男とが昨年から恋愛関係にあったことは、慎太郎自身が嬉しそうにその事実を友人たちに話して回ったこともあり、参列者の皆が知るところだった。
のみならず、彼の死の遠因が他ならぬ彼女にあるということもまた、その場の全員が解っていた。
女優としての緋奈には、十八歳で芸歴をスタートさせてからそれなりの数の固定ファンがついていたが、最近になって常軌を逸した行動に出る男が現れた。
その男、水無瀬雅人は、劇団の稽古場を覗きに来たり、緋奈の出演する舞台を密かにビデオにおさめるだけでなく、稽古から帰る彼女の後をつけたり盗撮したり、どこかで手に入れたのであろう緋奈の携帯の番号に再三電話をかけたりなど、ファンとして許される領域を超えた振舞に及んでいた。
緋奈は警察への連絡を真剣に考え始めていたが、夏の公演が終わるまではと先延ばしにしていた。
そして、東京の気温が八月としては過去最高を記録した八月十七日、惨劇は起こった。
渋谷の劇場での公演を観に来ていた慎太郎が、終幕後に緋奈のいる楽屋に花束を届けに来たのが、午後八時を少し回った頃だった。
緋奈たちと別れ、一般の客の波に遅れて慎太郎が劇場を後にしたのが九時ちょうどで、本来なら彼は車ですぐの三軒茶屋のマンションへと帰宅するはずだった。
しかし彼は翌日の朝、胸から包丁を生やした遺体となって、池袋に程近い安アパートの一室で発見された。
その日の明け方、たまたまゴミ出しに部屋を出た隣人が、その部屋のドアを開けっ放しで逃げて行った男の姿を目撃し、それが何度か挨拶を交わした隣の部屋の主であると知っていたために、警察はその男、水無瀬雅人を直ちに重要参考人扱いで捜し始めた。
そして、被害者と交際していた女性に水無瀬がストーカー行為を繰り返していた事実が明らかになるまでには、半日もかからなかった。
ストーカー対象の恋人への歪んだ嫉妬が殺意へと変貌したのは、誰の目にも明らかだった。
事件から一週間後、ようやく慎太郎の遺体は司法解剖から戻って来た。
死亡推定時刻は十七日の深夜から十八日の未明にかけて、致命傷はやはり心臓部への包丁の一突きで、ほぼ即死ということだった。
凶器の出刃包丁の柄には、水無瀬雅人の右手の指紋がべったりと残っていた。
全国に指名手配された水無瀬雅人は、依然として捕まっていない。
少ない親戚を早くに亡くしていた慎太郎の葬儀は、同僚や友人が共同で執り行うことになった。
「・・・明日見さん、大丈夫なんすかね?」
最後列に正座を崩して座っている、好青年然とした絹のような黒髪の男が、無精髭で大柄な中年の男性に問い掛ける。
「気丈な子だよな・・・あの日からろくに食べても眠ってもないってのに、泣きもせずああやってしっかりしてて。女優だから多少はコントロールもできるんだろうが・・・」
若い男は夏樹貴矢、もう片方は時任真。共にDAYDREAMの主力俳優である。
慎太郎とは、何度か楽屋の入り口で顔を合わせた程度の面識しかない二人だったが、友人の緋奈を気遣って、半ば無理やりに葬儀に同席していたのだった。
――――「気丈」。
真の表現は、半ば正しく半ば間違っていた。
彼女を崩れさせずにいたのは、悲しみと向き合おうとする意志ではなく、悲しみを上回り噴き出す強い憎しみだった。
黒枠の写真の中の恋人を真っ直ぐにみつめた、彼女の瞳に灯る炎の正体を、まだこの時は誰も知らずにいた。
慎太郎が殺害された五日後、つまり葬儀の二日前、緋奈の携帯にかかってきた一本の電話が、総ての始まりだった。
“ストーカー猟奇殺人・美人女優を巡る男たちの確執!”などとワイドショーが騒ぎ立てている最中なので、マスコミからの無神経な電話取材や悪戯電話を防ぐ為に、固定電話はジャックを抜いたままにしてあった。
発信元は非通知と表示されているが、携帯にかかってくるのは少なくとも自分の交際範囲内の人間の電話だろう。
逃亡中の水無瀬が自分に連絡を取ろうとするとは思えなかったし、そもそもそう考えるだけで吐き気が襲ってきそうだった。
「はい・・・」
「安曇緋奈さんですね?」
聞き覚えのない男の声だった。
「水無瀬雅人の居場所を知りたくはないですか?」
その穏やかで優しげな口調に、ぞくり、と緋奈の背筋に悪寒が走った。
「・・・悪戯はやめて。あいつなら警察が捜して・・・」
「日本の警察はアテになりませんよ。僕は水無瀬が現在どこにいるかを貴女に教えることができます。もし貴女が、それを望むのならね」
緋奈の言葉が終わらない内に、男は畳み掛けるように続けた。
「・・・どこにいるっていうのよ、じゃあ」
「僕の目の前です」
緋奈の顔から血の気が引いた。
「なん・・・ですって・・・?」
「あ、僕、こう見えてもちょっとした探偵業みたいなことを本職にしてましてね。『こう見えても』って、まあ顔は見えないですけど・・・怪しい者じゃないですよ。貴女の恋人の葵さんが殺害された事件、僕なりに興味を持って勝手に調査してたら、なんと水無瀬くんの身柄をゲットしてしまいまして」
朗らかに言って、くすくすと男は笑う。
「さすが僕!ってことで、とりあえず当て身をくらわせて縛り上げて、貴女の携帯の番号を聞き出したってわけです。ほら、何か喋って下さいよ、水無瀬さん」
数秒の沈黙の後、ごそごそと衣擦れの音が聞こえた。
「殺したのは俺じゃない!!信じてくれ!!」
その声は、以前に何度も電話で聞かされた水無瀬のものに間違いなかった。
太り気味の身体に乗った丸い顔と、粘着質な光を帯びた瞳を思い出し、緋奈は息を詰まらせた。
「あーはいはい、大きな声を出さないように。安曇さん、僕の言う事を信じて頂けましたか?」
前半は水無瀬に、後半は緋奈に向けられた言葉だった。
「本当に・・・あいつが、そこに?」
「ええ。こんな嘘を言うことで、僕に何かメリットがありますか?」
男の理性的な話し方は、人に信頼感を抱かせる力を持っているように思えた。
「では・・・単刀直入に言いますね。水無瀬雅人の身柄を、購入したくないですか?」
「身柄を・・・購入?」
「買った後で警察に突き出すのも良し、あるいはご自身で恋人の仇をとるも良し、お好きになさればよろしいということです。もし買って頂けないのなら、少しだけ逃走資金を与えてもう一度野に放ちますよ。そうなったら、見付けるのは難しいように思います」
――――これは、「誘拐」なの?
混乱した緋奈に、男は話し続ける。
「値段はジャスト五百万円です。お互いに後ろ暗いことをするわけですから、僕から秘密が漏れることは絶対にありません。取引の際には僕も素顔をさらしますし、殺害に及ばれた場合には僕も教唆犯になりますから一蓮托生です。双方が沈黙を守ることで、復讐は完璧なものになります」
「そんな、突然言われても・・・」
「勿論、猶予期間は差し上げますよ。こちらも色々と準備がありますしね」
耳に伝わる息遣いから、男が薄く笑ったのが想像できた。
「三日以内に、ご自宅のマンションのベランダに、ピンクと水色の布を並べて干して下さい。シーツでもタオルでも、外から見えれば何でも構いません。それが、取引に応じるという合図です。商談に応じて頂けないなら、僕のことはさっぱりと忘れて下さい」
男の口調はいかにも明晰そうな響きを帯びていて、緋奈にはそれが余計に不気味だった。
「いいですね、三日以内ですよ。詳細をお話できるのを、楽しみにお待ちしています」
緋奈の返事を待たずに、電話はぷつりと切られた。
濃紺の闇に侵食されるリビングで、姉妹は無言で向かい合って座っていた。
緋奈は、仕事から帰った朱音に先程の電話の内容を総て話し、両親の遺産を使わせて欲しいと頼んだのだった。
「私、慎太郎を殺したあいつが、たかが数年の懲役で許されて出てくるなんて納得できない・・・。慎太郎がそんなこと望んでないのは解ってるけど、それでも、あいつを・・・水無瀬を、この手で殺してやりたい・・・」
途切れ途切れの姉の言葉に、朱音は泣きそうな顔で反駁した。
「お姉ちゃん、そんなことしたら、お姉ちゃんまで人殺しになっちゃうよ。その男が本当にあいつを捕まえたなら、警察に引き渡して、ちゃんと罪を償わせるべきだと私は思う。そうでなきゃ、お金は使わせられない」
数十秒の沈黙の後、緋奈は静かに頷いた。
「解った。それでもいい。でもとにかく、あいつを逃がさせはしたくないの」
それを聞いて、朱音は安堵したように小さく溜息を吐いた。
「身代金、か。私たち、そんな危険そうな男と取引なんて、できるのかな・・・」
「このマンションのローンの分を引いた遺産の残りを全額使ったとして・・・それでも五十万くらいは足りないと思う。どこからか借りてこないといけないけど、サラ金とかは嫌だし、劇団の人からも無理だし・・・」
朱音は暫く思案した後、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「・・・頼んでみられそうな人なら、心当たりがある。すごく頭のいい人だし、冷静だし、秘密も守ってくれそう。だってその人は、」
朱音の脳裏に浮かんでいる女性は、何の動揺もせず話を聞いてくれそうな唯一の人間だった。
「法律事務所の、『所長』なんだから」




