序章
◇◇◇序章◇◇◇
私、安曇朱音が彼女と出会ったのは、薄いレモン色の日差しが目映い初夏の午後だった。
中堅国立大学の法学部を卒業し、格段の理由もなく証券会社に就職して一年が過ぎた頃、私は早くも辞表を提出していた。
眠れずに迎えた午前五時、淡いグリーンの便箋に形式ばった文面を筆ペンで書きつけながら、つくづく自分は適応力のない人間だと自嘲していたのを思い出す。
煩雑な人間関係、意味のない儀礼。そういったものの存在しない職場へと脱出したい。
そんな理由だけで、無味乾燥だが安定した生活をあっさりと捨て去れる自分が、密かに誇らしくもあり、しかしそれ以上に哀れだった。
再就職のあては全くなかったが、すぐに生活に困るということもなかった。
私の両親は、私が中学生の時に飛行機事故で他界していた。それ以来私の家族は、五歳離れた姉の緋奈だけになった。
かなりの額に上った遺産、航空会社からの賠償金、そして劇団で女優をしている姉の収入で、私たちはそれなりに裕福に暮らしていけた。
だから、辞表を提出したその日の昼下がりに一枚の求人ポスターが目に入ったのは、多分に偶然によるところが多かった。
それは雑居ビルの正面に乱雑に貼られていたが、落書きや風雨に汚れることもなく、グレイの壁を背景に端然とした白さを保っていた。
――――斑鳩法律事務所、事務員一名募集。年齢・性別・学歴不問。但し有能であること。
勤務時間・給与等詳細は面談にて。
所長:斑鳩藍司(弁護士) 連絡先:〇三-○○○○-××××――――。
それに目を走らせてから上を見ると、ビルの五階にその事務所の看板はあった。
都心の一等地を外れた場所の、しかも正直に言えばこんな「オンボロビル」に、弁護士が事務所を構えているのもおかしな話に思えた。
だが、私はふっとそのポスターに、正確を期すなら「但し有能であること」の文句に、理由のない好奇心を覚えていた。
このストレートな物言いが、妙に気に入ってしまったのだ。
もう誰かが内定しているかも知れないし、あるいは面接で落とされるかも知れない。
それでも行ってみるだけ行ってみようと、私はバッグから携帯を取り出してその番号を押した。
数分後、私はその事務所のソファに座っていた。
電話に出た気弱そうな男の声は、私の目の前の椅子に納まった、所長の斑鳩藍司のものだった。
若い。
それが彼に対する第一印象だった。
きちんと締めたネクタイを落ち着きなくいじりながら自己紹介をした彼の言葉によれば、大学時代に現役で司法試験に合格し、現在二十四歳だということだった。
柔和な、ともすれば頼りなく見える垂れ気味の目が、突然の訪問者である私を遠慮がちにみつめていた。
しかし、事務所の奥に据えられた豪奢な黒檀のデスクに座っていたのは、所長の彼ではなかった。
私がその場で簡単な質問――――卒業した大学と学部、資格、希望する月給など――――を彼から受けている間、濃緑色の法律書に頬杖をつき、気怠げにコーヒーをすすっていたのは、恐らく二十代に届いていないであろう「少女」だった。
ユニセクシャルな白のワイシャツを着崩し、胸元からシンプルなチョーカーを覗かせた彼女は、私がそれまで会った中で最も美しい、そして最も無表情な女性だった。
切れ長で怜悧な双眸、すっと通った鼻筋、固く引き結ばれた形の良い唇。
真っ直ぐなダークブラウンの髪は肩から胸元へ流れ落ち、陶器のような肌と鮮やかなコントラストを描いていた。
彼女の素性を訝しく思っていると、やがてその唇はゆっくりと言葉を紡いだ。
「この事務所の評判を聞いたことは?」
女性にしては低く、少し掠れ気味の涼しい声だった。
「いいえ・・・あの、下に貼ってあったポスターを見て、すぐにお電話したものですから・・・」
「それならば、まずは説明した方がいいな。ここが業界でどんな評価を受けているか」
少女は微苦笑すると、私の視線を真っ向から受け止めた。
彼女が日本人には珍しい程の赤い瞳をしているのに、私はその時初めて気付いた。
「まず、ここの本当の所長は彼じゃない。ここは去年まで『瑞代法律事務所』だった。その瑞代瞭祐って弁護士は・・・いや、元弁護士は、今はムショにぶち込まれてる。詐欺教唆で実刑をくらってね」
いきなりのヘヴィな話の展開に、私は戸惑いを隠せなかった。
「えっと・・・それでこちらの先生が、お仕事を引き継がれたわけですか?」
「正確には、違う。彼の承認を得て、瑞代から実質上の所長を頼まれたのは、あたしだ」
凛とした視線が、私の表情を観察するように動く。
「彼は確かに優秀だけど、実務には性格的に全く不向きでね。あたしは小さい頃から瑞代に預けられて育ったから、本当の現場ってものを知ってる。だからあたしが指揮を執って、瑞代が出所して顧問として戻るまで、ここを潰さないようにしないといけないってこと」
彼女は椅子から立ち上がり、その赤い瞳を私から微動だにせず傍へと歩いて来た。
華奢な身体から蟲惑的なオードトワレと薄い煙草の香が漂い、私はふと恐怖に似た感覚を覚えた。
彼女は私にクリーム色の名刺を差し出した。
「あたしは美鷺嗣月。最終学歴は匠啓学園高等部、対外的な肩書きは所長秘書」
ひんやりとした指が一瞬触れ、すぐに離れた。
高卒の・・・弁護士事務所所長?
「嗣月さんは私よりずっと有能ですよ。彼女がいればこの事務所は安泰です」
斑鳩がのんびりとした声音で口を挟んだ。
「それに、直観像記憶能力があるんですよ、嗣月さんには。大学時代に私が苦労して覚えた量なんてあっという間に追い抜かれてしまってね。彼女の下で働けて、私は満足しています」
斑鳩の言葉には、女神を崇める者の熱意にも似た、憧れと畏敬の念が込められていた。
「そんなものは大した能力じゃない・・・それより、安曇さん?」
「はいっ」
不意に声を掛けられ、思わず素っ頓狂な返答をしてしまった。
「貴女は学歴の点から見れば、この仕事に耐えうる知能を持っていると推測できる」
真珠のような歯が垣間見え、私はそれが彼女の微笑なのだと気付くのに数秒を要した。
「一週間の試験採用の後、問題がなければ本採用だ。給料は貴女の希望に添おう。ただ・・・」
欧米人がよくやるように、両の肩を小さく竦めて彼女は続けた。
「貴女が、十九歳の小娘の指示を受けて働きたくないと言うなら、それは仕方が無いけど。実際、今まで面接に来た人間の大半が、それが不満で自分から帰って行ったから」
「そんなことは・・・ないです」
思わず答えたこの瞬間から、私はあっさり斑鳩法律事務所のスタッフとなった。
私の主な仕事は、彼女が口述する書類を文書化することと、事務所の片づけだった。
嗣月は仕事の書類を床に撒き散らす癖があり、それを拾って内容ごとにファイルするのがまず一苦労だった。
「あたしの頭の中には総て記憶されている。紙なんて単なる媒体だろう?一度読んだら不必要だ」
その台詞は全く誇張ではないのだが、それでも事務所に来る客には、床一面に散らばる書類は明らかに悪印象を与えるだろう。
なんと、私が来るまでは、「所長」の斑鳩がこの役目を果たしていたらしかった。
美鷺嗣月の変人ぶりは、一緒に時間を過ごす内に徐々に明らかになってきた。
彼女の居室は事務所の奥の一室にあるのだが、昼過ぎにならないとそこから絶対に出てこない。
正午を幾らか回った頃に、普段にも増して青白い顔でふらふらと「出勤」し、無言で泥のように濃いコーヒーを煎れる。
そして派手派手しいポップスをヘッドフォンで聴きながら、私に向かって口述筆記させる文書を喋り、同時に自分は全く別の書類にペンを走らせたりしているのだ。
その総てが、マルチタスクのコンピュータを思わせる精確さで淀みなく進行する様は、正しく壮観である。
嗣月は食事を余り摂りたがらない。
コンビニ食が日常らしく、昼にシリアルを流し込み、後はミネラルウォータやコーヒーのみという日もしばしばだ。
ある日、とうとう見かねた私がミニキッチンで夜食を作ったところ、嗣月は目を見開いた。
「凄いな・・・あたしには無い能力だ。この点に関しては尊敬する」
思わず私は声を上げて笑ってしまった。
私が作ったのは、ただの肉じゃがだったからだ。
この傑出した才能を生んだ両親はどんな人物なのか、気になって嗣月に訊いてみたことがある。
「父親は画家をやってる。母親は通訳。二人とも滅多に日本にいない。今は・・・父親はヨーロッパのどこか、母親は多分アメリカの東海岸」
「どうして、瑞代先生のところに預けられたんですか?」
突っ込んで質問をするのが憚られるような雰囲気だったが、敢えて尋ねた。
「・・・あの人たちのキャリアにとって負担になるから、それに瑞代自身が引き取りたいと言ったから。養女じゃなく、後継者としてだけどね」
「瑞代先生は、ご結婚なさっていないんですか?」
ふっ、と嗣月は皮肉っぽく笑った。
「あの人は、一つところで大人しくしていられる性格じゃないんだよ。実際もてるし。一度、あたしが高校生の時に、あたしの学校の理事に口説き落とされて渋々結婚したけど、一ヶ月も保たなかった。ワーカホリックな上に、束縛されると妻でも容赦なく無視するからね」
「それはまた・・・」
そう言うしかなかった。
彼女を取り巻く大人たちの精神の「歪み」は、嗣月にどんな影響を与えたのだろう。
一人娘を他人に預けて帰って来ない生みの親、家庭などはなから気にかけない破滅型の育ての親、彼女の下で安穏と傀儡に甘んじる「所長」。
普通の女の子なら、何らかの形で負の影響を受けているはずだ。
嗣月は、そんな私の思いを見透かしたように、さらりと付け加えた。
「あたしは、あの人たちの生き方を肯定しているけど。娘なんかの為に彼らが仕事を放り投げたら、その方があたしにとっては嫌だからな。潔い人たちだと思う」
そして、この一風変わった事務所にも慣れてきた、八月の下旬。
私の人生を根底から変えた、あの事件が起こった。
私がこれから書き残すこの物語は、私の大切な人の墓標であり、美鷺嗣月という人間が、この時代のこの地上に存在していたという事実の記録である。
暑く湿った日本の夏を背景に、冷たく淡白な女性が事件を紐解いていく、そんなコントラストを描きたくて書き始めました。執筆ペースは遅いですが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。