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アーシャの場合

何があろうと絶対婚約者や夫とくっつかない話。



アーシャは、今日中にやらなければならない仕事に思いを馳せていた。


「…ということを何人もが目撃している。貴女がそんな女性だったなんて、失望したよ」


婚約者である王太子が何か言っている。それに気付き、アーシャは漸く王太子へ意識を向けた。一週間前に頼んだ隣国への親書はどうしたのかと、それだけを思う。

そこに控えている、否、侍っているのは、学園で王太子が親しくしていた男爵令嬢。

大きな瞳を情けなくも潤ませ、はしたなくこちらを怯えた顔で見ている。

彼女へのアーシャの認識は、生徒会へ苦情が殺到していた種だな、というもの。余計な仕事を増やしやがって、という苛立ちもあった。

苦情の内容は何だったか。記憶を掻き分けるも、なかなか出てこない。首を傾げたアーシャに、王太子が悲しげな表情を作った。


「謝罪の一言も無いんだね。…このままだと、貴女との婚約は、考え直さなければならなくなる」


婚約を

考え直す

アーシャの思考が止まった。王太子の言葉とその意味を、何度も何度も頭の中で確かめる。

王太子が令嬢の肩を抱く。次いで、豪奢な飾りの付いた肩を竦めた。


「頭の良い君なら、どうすれば良いか、わかるだろう?」


アーシャはそれに、体に覚えさせた将来の皇后としての笑顔を浮かべた。ゆっくりと、丁寧に礼をする。


「御言葉、確かに賜りました」


アーシャは集まった生徒達へ体を向ける。同じように礼をし、全員へ視線をやりながら、令嬢らしからぬ大きな声で、皆に聞こえるよう言った。


「今この瞬間!私は、ただのアーシャとなりました!規約に則り、生徒会も抜けさせていただきます!」


大股で講堂の外へ出る。風が吹き、整えた髪を乱した。本来青ざめるべきことだが、アーシャは歯が見えるほどに笑い、胸に付けた生徒会員の印であるバッジを空へと放る。


「っあー!!! 自由だー!!!」


叫び、両腕を伸ばす。実家へ帰るため、待たせている馬車へと急いだ。

講堂に残されたのは、口を呆けさせた王太子と、青ざめる生徒会員と、好奇心を隠せない生徒達。

そして王太子に抱かれた令嬢が、恐怖の顔を一変、喜色を浮かべていた。




*********




「……な、何だ、これは……?」


王太子は目の前の書類を震える手で掴む。

それを見る生徒会員の目は、酷く冷たかった。

書記を勤める生徒が淡々と答える。


「アーシャ様が何度もご報告された筈です。『あの女生徒は、複数の男子生徒と密会している。愛妾には相応しくない』と」


報告しているのを確かに見ていたと、経理と調達を担当する生徒も言った。

王太子は目を見開きながら呟く。


「…あれは……私に嫉妬した、アーシャの作り話では、ないのか……?」


沈黙を貫いていた護衛が噴き出した。王太子が力無く見上げる。

そこには生徒会員と同じく冷えた目をした護衛が立っていた。自身を護る筈の者が向けるそれでは、どう考えてもない。


「アーシャ様が?貴方を?…生徒会の業務も、王太子の業務もアーシャ様に押し付けた身で、挙句愛されていると本気で思っていたのですか?」

「…だ、だが、…アーシャは、私の婚約者で、将来の皇后で」

「ええ。ですので、アーシャ様は耐えてらっしゃいました。お休みの時間もろくに取れない中で。…しかし、もう、貴方の婚約者ではない。当の貴方が、あの方を捨てたのですから」


護衛は兜をその場に捨てる。その行為は古いものの、忠心を捨てるという意味だと、誰もが知っていた。

生徒会員も、胸に輝く金の印を外し、机に置く。


「アーシャ様がいらっしゃったので、我々は生徒会を続けておりました」

「何度あの方に助けられたことか」

「貴方だけが残った生徒会など、何の価値も無い」

「せいぜいあの令嬢と、貴方の取り巻きと、楽しい学園生活を送ってください」


待て、という王太子の声に誰も応えない。

重厚な扉はあっという間に彼らの姿を消してしまった。



*********




「この…っ…馬鹿者が!!」


父が唾と共に罵声を浴びせてくる。

初めての経験に、王太子は目を見開いた。

感情に身を任せ、怒りに顔を赤くする父の横で、母たる皇后は顔色を変えていない。

しかし自分を見る目は生徒会の生徒達、護衛と同じで、酷く冷たかった。

王太子は恐る恐る父を見上げた。


「父上、誤解です。アーシャとは少し言い合いになっただけです」

「…貴様は私を馬鹿にしているのか?」


怒りを超え、低く平坦な声で父は言う。

その変化に冷たい汗が流れた。父は深いため息を吐き、椅子に凭れ掛かる。


「あの学園は、将来の社交界だ。将来の政治の場だ。全員が貴族と認められている以上、そのやり取りは全て漏らさず、記録されている。…少し考えれば、わかる筈だ。まさか、平民の学び舎と同じ気分でいたのか?」

「……き、聞いておりません……!」

「このっ……!」

「王」


母が声を発した。父以上に感情のわからないそれに、父の言葉が止まる。

王太子は期待に目を輝かせた。母はしかし、王太子へ目を向けない。ただ父だけを見ていた。


「最早この子に割く時間も感情も、無駄でございます。貴方には勿体無い。…第三妃の子。あの子ならアーシャと年も近いですし、分別もありますわ」


父は顔を覆い、ややあって母を見る。母の手を握ると、頭を下げた。


「すまぬ。お前の言葉通り、慣習に縛られず、最初から能力を見て決めるべきだった」


冷え冷えとした母の表情が、僅かに緩まる。父の手に自身の手を重ねた。


「この失態もまた、王家の礎となるでしょう。早速、第三妃と話してまいります」

「ああ。頼んだ」


母は腰を上げ、奥へと消えていく。それが生徒会員達の姿と重なり、王太子は手を伸ばした。

しかし母は、王太子を振り返ることもない。

茫然と立ち尽くす王太子に、父は言った。


「最後の親心だ。貴様の何が悪かったか、教えてやろう」

「それは…アーシャの言葉を聞かず、婚約破棄を告げ…しかも、仕事も、任せてしまっていたことです」

「違う。貴様の失態はただ一つ。己の判断で動いたことだ」


王太子は目を見開き、口を噤む。父はそれに構わず、続けた。


「お前は王太子。将来この国を背負う者。…お前の行動も、言動も、全て臣下や民の声を元に作られるべきものだ。しかしお前は、自分がそうしたいから、自分がそう信じているからという理由だけ。そんな目先の感情に動かされる王は、毒でしかない」


父が手を挙げる。控えていた護衛が近付くと、王太子の腕を掴んだ。


「勿体無いが、貴賓牢へ入れておけ。いざという時の種程度には使えるだろう」

「ろ、牢…!?父上、お待ちください!そんな…!」


父もまた、消えていく。誰もこちらを、自分を見ない。

一体何が悪かったのか。王太子は引きずられながら、自問自答する。

アーシャの話を聞かなかったことか。

アーシャ達の仕事を見ないふりしたことか。

あの令嬢に心揺れたことか。

令嬢と友達の言葉を、都合良く信じたことか。

あれこれと考えが浮かぶ。しかし最後には、否定したい父の言葉が全てを答えとなる。


「…アーシャ…」


王太子は呟く。

先の見えない現状に脱力しながら、思った。

自由になれて、羨ましい、と。




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