今生の最高傑作を『元』婚約者様へ
嬉々として、劇の内容の善し悪しを語るその顔が、好きだった。
話しているうちに身振りが大きくなり、目を輝かせて舞台上の演者を語るユリウス。その横顔を見るたびに、アルーシャは微笑ましく思ったものだ。
自分と同じように劇を愛し、作品の解釈について熱く語れる婚約者に巡り会えた――そう信じていた頃は、確かに幸せだった。
……ただ、この一年で、だいぶ変わってしまった。
劇の流行も、そして、彼自身の心のありようも。
今の流行りは、甘くて軽い恋愛一辺倒。
悪役令嬢や悪女を断罪して、可憐なヒロインと王子が添い遂げる――そんな劇ばかりが上演されている。
確かに人気は高い。若者の間では「劇は難しいもの」という先入観を壊したとも言われている。だが、アルーシャから見ればそれは、浅く、軽く、そして現実を見ない夢物語にすぎなかった。
観劇とは、本来、虚構のなかに現実の苦味を見いだすもの。
だからこそ面白い。だからこそ、心を打つ。
――なのに。
現実でそれを真似てどうするのだ、と、アルーシャは息をひそめた。
目の前で高らかに声を上げる婚約者を見つめながら。
「頭の硬いアルーシャにはわからないだろうが、これこそが真実の愛!
俺はイミットを新たに婚約者に据え、悪女であるお前を、断罪するのだ!!」
……言った。
夜会の中央に響くその声。ざわめきが瞬く間に波紋のように広がる。
誰もが息を呑み、音楽が止まった。
アルーシャはため息をかみ殺した。なんとまぁ、恥ずかしげもなく言えるものだ。
ここは王家主催の成人の祝いの場。
同年代の貴族たちが顔を揃え、礼節と誇りを胸に立ち振る舞うべき夜。
主役はもちろん、成人を迎えた彼ら全員――中でも、第三王子ヴァイスの成人を祝う晴れの場でもある。
貴族たちは皆それを理解しており、誰一人としてその空気を乱す者はいなかった。
……はずだったのに。
ユリウスだけは、違った。
彼はまるで舞台の主役であるかのように、傲然と立ち、両手を広げて言葉を続ける。
アルーシャは思わずこめかみを押さえた。
おそらく近いうちにとは感じていたが、それが今日とは思わないだろう。
「まあ、それはよろしいことで。しかし婚約を解消し、私を断罪ですか。穏やかではありませんね。では、一旦別室へ──」
「いや違う! 解消ではない、婚約破棄だ! それに別室だと!? 公衆の面前で言えないやましいことを、イミットにしようというのか!」
「……不都合ですわよ?」
「それはお前にとってだろう?!」
せっかく気遣ってあげたのに。
アルーシャは軽く目を閉じ、唇の端をわずかに吊り上げる。
恥をかかせまいとしたその意図すら、彼には伝わらなかったらしい。
本当に残念だ。
破棄が後にどう響くか、別室を示唆した意味を考えようともしないとは。
「ふん。証拠はイミットから聞いたものや、俺がその状況を見て判断したものだ。
──水を浴びせ、ドレスを破り、挙句の果てには背中を押して馬車に轢かせようとしたそうだな!」
会場のあちこちから、ひそひそとした声が漏れる。
アルーシャは、もうあの瞳を見せなくなった婚約者を悲しげに一瞥し、そして覚悟を決めた。
まるで劇の一幕を見ているかのように、人々は息を潜めて続きを待っていた。
「それが本当なら、私はとんだ悪女ですわね」
「そうだ! お前は悪女なのだ、アルーシャ!」
「……それが本当なら、と申し上げましたのよ」
静かな声だった。
けれどその瞬間、空気が凍った。
まるで舞台照明が一点に落ちたかのように、視線がアルーシャへと集まる。
彼女は真っ直ぐに立ち、まっすぐにユリウスを見つめた。
その目には怒りも動揺もない。ただ冷ややかな理性だけが宿っていた。
アルーシャはただの観劇好きな令嬢ではない。
恋愛劇が流行る前――もっと骨太な、政治劇や陰謀劇を好んで観ていた。
観客に考えさせ、感情を揺さぶる重厚な作品。
ユリウスもかつては同じ趣味を持ち、劇の解釈を夜更けまで語り合ったものだ。
だが今となっては、それも過去。
彼の口から出てくるのは、まるで安い恋愛劇の台詞ばかり。
アルーシャにとって、悪女が一方的に断罪される芝居など、美しくも感動的でもなかった。
なのでアルーシャは、劇とはどういうものか、再度ユリウスに問うことにした。
「イミット嬢。今から嘘偽りなく、質問に答えていただけますね?」
「ええ、アルーシャ様。もちろんですわ」
イミットは、ユリウスに掴まれた腕をすっと振りほどいた。
彼は呆けた顔をして、イミットがアルーシャの隣へ行く姿を見つめている。
会場の誰もが息を呑む中、イミットはドレスの裾を優雅に持ち上げ、アルーシャの前へと歩み出た。
その所作には、恐れも怯えもない。むしろ、堂々とした決意が宿っている。
アルーシャは小さく頷いた。
その瞳の奥に「ありがとう」という光が宿る。
そして、遠くの方に見えた王子ヴァイスへと一礼する。
これから先、多少の騒ぎになるだろう。その前に、礼を尽くす。
――それが、貴族という生き物の最低限の美学だ。
王子は軽く顎を引き、興味深げにその場の成り行きを見守っている。
是、と。
どうやら、この劇の幕はまだ下りそうにない。
しん、と空気が張りつめた。
王家主催の夜会という華やかな場で、アルーシャの穏やかな声が再び響く。
その声音には怒りも嘆きもなく、ただ静かな誠実さと、長年培われた品位が宿っていた。
「まず、水を浴びせた件ですが、これは事実ですか?」
「いいえ。そのような事実はありません」
即答。イミットの声音には一片の迷いもない。
けれどその答えが出た瞬間、ユリウスの顔が見る見るうちに朱に染まる。
「う、うそだッ! あの夜、びしょ濡れになって俺のところに来たではないか!」
ああ、とアルーシャは小さく息を吐く。
まるで、可愛がっていた犬がまた靴を噛んでしまったときのような、どうしようもない呆れと諦めを含んだ溜息。
こんなことがなければ、愚かなままでも側に置いたのに。
アルーシャとて血と涙が通うただの人間なので、多少婚約者に情というものも湧く。
しかし、今この場ではおくびにも出さない。
演出上省かれるべきものだからだ。
「あれは、あなたが押しかけて来た、の間違いでしょう?」
イミットが桃色の髪を揺らし、その外見から想像もできない冷たい声を放つ。
これまでの鬱憤を晴らすように。
「私、ホテルの個室で入浴していましたのに、急に来客がと慌てて侍女に報告されたものですから、最低限の支度をすぐに整えようとしたのです。
最後に髪を乾かす前、扉の前の護衛の制止を聞かず個室に上がり込んだのは……。
──ユリウス様、あなたですよ」
どよめきが走る。
婚約者でもない未婚女性の部屋へ、しかも護衛の制止を無視して侵入するなど――致命的な不作法だ。好いた者同士であっても、未婚である以上絶対にそんなことはしない。
その時、イミットはさぞ驚いたことだろう。
その事実を、当の本人は今初めて知ったようだ。ユリウスの肩が不規則に震えている。
「ち、違っ……! 俺は、心配で……!」
「ちなみにその際、ユリウス様は酔っていらっしゃいましたね。
私がとった部屋で寝こけて、私はまた別の部屋を取らなければならなかったのです。迷惑極まりない所業でしたわ」
ひゅう、と誰かが口笛を鳴らした。
恐らく、彼女の線の張り方を讃えたのだろう。『間違いは起きていない』と暗に、しかし一部の隙間なく示したのだから。
同世代の令息令嬢たちの間から、くすくすと笑い声が漏れる。
この場に似つかわしくないほど軽やかな笑い。だが、その笑いが、ユリウスの顔を一層赤く染めた。
「さて、次はドレスを破ったことに関してですか?」
「ええ。これに関しては確かに、アルーシャ様にドレスは破られましたわね」
ふたりは目を合わせ、どこか懐かしげに笑う。
その一瞬のやりとりに、ぱっと顔を上げたユリウスは、勝ち誇ったように顎を上げた。
「ふん、やはりアルーシャは悪女━━」
「いいえ。私、とある素材のアレルギーがありますの。あの時は我が家の侍女のミスで、うっかり母のドレスを着てしまって……その時助けてくださったのが、アルーシャ様なのです」
空気が一転した。
その名の通り冷水を浴びせられたように、ユリウスの顔が硬直する。
イミットの言葉はまごうことなき真実。
彼女のアレルギー体質は、同年代の社交界ではよく知られた話だったのだ。
しかし、言葉に出さずとも配慮し合うのが貴族というものなので、半ば暗黙の了解となっていた。
「アルーシャ様はご自分の髪飾りでドレスを割き、かぶれた皮膚を水で流してくださいましたの」
「情けは人の為ならず。私も今後困ることがあるかもしれないもの。お互い様よ」
二人は、互いの視線を交わし、にっこりと微笑んだ。
それは無邪気にも見える、しかし裏に確かな信頼を宿した微笑だった。
イミットは聡明な令嬢だ。
ユリウスの執拗な接近をいち早く察知し、困っていると知らせてくれたのも彼女だった。
以来、アルーシャとは密かに情報を共有し続けてきた。
――だからこそ、すでに勝負はついていたのだ。
ユリウスがイミットに手を出した時点で、彼の運命は静かに、確実に詰んでいた。
「……それで、まだお話足りませんか? ユリウス様」
にっこりと微笑みながら、アルーシャは問いかける。
その笑みが、まるで、チェックをさしたクイーンのようで、誰も息を飲んだ。
「僕は、あと一つは聞きたいと思う。せっかくユリウス伯爵令息が例に出していたのだし」
しん。
静けさを破ったのは、第三王子ヴァイスの声だった。
柔らかく、けれど通る声。
彼がそう言うだけで、場の重心が一気に傾く。
「ヴァイス様がお望みであれば、仕方ありませんね」
アルーシャは軽く頭を下げ、また舞台の中心に立つ。
堂々たる姿。照明の代わりにシャンデリアの光が、彼女の金糸の髪を照らした。
――ここで幕を下ろすつもりだった。とでも言いたげに。
けれど、アルーシャはゆるりと口を開いた。
観客の心を掴み、次の瞬間へと引き留める。それこそが劇の真髄。
その呼吸を、まるで自然の流れのように織り込めるかどうか――そこが、彼女の腕の見せどころだった。
「最後に、馬車でイミット嬢を轢かせようとした、だったかしら?」
「それはアルーシャ様のことなのでは?」
「……あぁ、そういう事もありましたね」
静まり返った会場の中、アルーシャの声だけが澄んで響く。
「子供が轢かれそうになっていたのですもの。咄嗟に身を呈して庇いましたわ。
……これは、その時の傷です」
彼女が手袋を外すと、白い肌の上に、もう随分淡くなった紫の痕が残っていた。
誰もが息を呑む。
その右手が、どれほど痛みを伴っていたか。まるで骨が折れた後のような痕。
数週間ものあいだ、筆も持てず、食事すら不自由だった日々を想像するだけで胸が痛む。
「……それはもしや、ルミナス歌劇の帰りではなかったか?」
低く落ち着いた声が、静まり返った会場に響く。
その一言に、アルーシャの肩がびくりと震えた。
「ッ……ヴァイス様、お控えください。……どうか。私は王家のために――」
必死の訴えは、どこか震えていた。けれどヴァイスは、静かに首を振る。
「そうか……。あの時の少女は、君だったのか。
本当に、申し訳ないことをした。……すまない」
「そ、そんな……! おやめください、頭を上げてください!」
アルーシャは慌てて裾を握りしめた。
けれど、ヴァイスのまなざしは穏やかで、それでいてどこか痛みを孕んでいた。
――そう。
あの夜、アルーシャが馬車に弾かれた時、御者台に掲げられていたのは王家の紋章だった。
本来ならば王家に連絡することもできた。だがそれは王の威信に関わる。
単独事故として処理するほうが、貴族社会では穏当というもの。
実際、御者は一礼した後、何事もなかったように馬車を走らせた。
けれど、彼――ヴァイスだけは違ったのだ。
あのときから、誰かが密かに調べている気配があった。
医師の手配、通院先の配慮、そしていつの間にか届いていた薬草の包み。
あれらはすべて、彼の差配によるものだったのかもしれない。
「けれど……そうだな」
ヴァイスが、少しだけ笑みを浮かべる。
「アルーシャ嬢には、僕の誠意を見せなくては」
「いいえ、そんなこと――ヴァイス様のそのお心だけで、私は……」
言葉を継ぐ前に、場の空気が変わった。
さぁ――いよいよ幕引きだ。
ヴァイスが歩み寄る。
その姿は、まるで舞台の王のようで、同い年とは思えないほどの威厳を纏っていた。
そして、彼はアルーシャの前で片膝をつき、静かに見上げる。
その瞳は、義務の炎ではない。
後悔と決意、そして名もなき情が、揺らめく焔となって宿っていた。
そして――。
「アルーシャ嬢。僕と、婚約してほしい」
黄金の光が降り注ぐような光景だった。
歓声があがる。拍手。祝福。
ユリウスの世界だけが、静まり返る。
「ちょ、ちょっと待て! アルーシャ、俺との婚約は!?
まだ破棄してないだろ!!」
焦った声。しかし、それはこの場にそぐわない野次と同義だった。
「こんなことをしでかしたんだ。君の有責で破棄だよ、ユリウス伯爵令息」
「そうですわ、当たり前でしょう?
……あぁ、幸か不幸か、私の実家は文官を排出する家系でして。ほら今ここに、婚約破棄書をお持ちしていますの」
イミットが指先で一枚の書状を掲げる。白い紙がふわりと揺れた。
「ふむ、それは王族の判があれば履行できるものだったかな?」
「はい!」
ふと視線を向けると、イミットとヴァイスが顔を寄せ合い、くすくすと笑っていた。
その笑みは、まるで誰かを陥れる悪役たちのもののようで――思わずアルーシャは口元を押さえた。
……どうにも、あの二人の方がよほど悪役に見える。
けれど、それを口に出せば台無しだ。
劇というのは、観客に悟らせず、舞台の上で静かに描くものなのだから。
「……ユリウス様は、私の趣味をご存知ですか?」
おそらく、もう会うこともない婚約者へ。最後に問いかけた。
彼は助かったとばかりに彼女を見上げるが、そうではない。
「もちろんだ! 観劇だろう?」
「半分あたり、半分はずれです」
アルーシャはゆっくりと笑う。
その笑みは凛としていて、少しだけ、哀しげだった。
「私は劇を観て、その内容を語り合うのが好きなのです。
……ねぇユリウス様、今宵の劇はお楽しみいただけましたか?」
ざわめきの中、彼女の声だけが静かに響く。
まるで、舞台の幕が降りる合図のように。
「私の今生の最高傑作を、元、婚約者様へ――捧げましょう」
ヴァイスは静かに羽ペンを取り、淡い光の中で印章を押した。
紙面に刻まれた赤い紋章が、鮮やかに滲む。
――その瞬間、すべてが決まった。
王家の印が押された以上、この決定を覆すことなど誰にもできない。
空気が震える。
その音が、ユリウスの運命に幕を引く合図のように思えた。
ヴァイスが静かに手を差し伸べる。
その仕草はまるで、舞台の幕が下りた後に、共演者へ差し出す祝福のようだった。
アルーシャは微笑み、ためらいなくその手を取る。
指先が触れた瞬間、場の空気がふっと変わる。
観客たちは息をのんだまま、誰一人として声を上げなかった。
「……さぁアルーシャ嬢、行こうか」
「ええ。お待たせしました、ヴァイス様」
――もう、幕は降りたのだ。
二人はカーテンコールを待つことなく、光の差す方へと歩き出す。
劇場の煌めきを背に、彼らの足取りは確かに次の物語へと続いていた。
いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!
ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。
ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!
追記
11月8日:誤字訂正
報告ありがとうございます!
⬇️お時間ある方はこちらもどうぞ!異世界恋愛ざまぁ系です⬇️
【存外、伽藍堂だった婚約者様へ】
https://ncode.syosetu.com/n6252lh/




