1-7
コンビニの自動ドアの前で、俺は思わず立ち止まった。目の前で、信じられない光景が繰り広げられていたからだ。
松井の体が、まるで水彩画が水に溶けていくように揺らめいている。透明だった彼女の輪郭が、ゆっくりと、しかし確実に色を取り戻していく。最初は薄っすらとした影のようだったものが、次第に実体を持ち始める。銀青色の髪が風に揺れ、青い瞳に光が宿る。まるで、存在そのものが再構築されているかのようだった。
なんだこれ...映画の特殊効果みたいだ。でも、これは現実に起きてることなんだよな...
「おい、今の見た?」
俺は思わず声を上げた。自分でも動揺しているのがわかる。
彼女はきょとんとした表情で俺を見つめている。
「何が?」
「君の体、さっきまで透明だったのに、今普通に戻ってる」
「え?本当に?」
松井は慌てて自分の手を見下ろし、それから腕、体と確認していく。その動作があまりにも真剣で、俺は思わず息を呑んだ。
「自分じゃ分からないの?」
「全然...普通にしてたつもりだけど」
「ていうか、さっきも一瞬透明になってたぞ。店の明かりが当たった瞬間とか」
俺は必死に説明しようとしたが、自分でも混乱していた。人が透明になるなんて、どう説明すればいいんだ?
「ねえ、椎名...変なこと聞くけど」
彼女の表情が急に真剣になった。青い瞳が、まっすぐ俺を見つめている。
「なに?」
「なんで他の人は私を完全に無視してるのに、あんたは『透明な私』が見えるの?」
その質問に、俺は答えに詰まった。確かに奇妙だ。店員たちは松井の存在自体を認識していないようだったのに、俺だけは彼女が透明になる瞬間を目撃している。
「俺にもわからない...もしかして、何か超能力みたいな仕組みがあるのかも」
自分で言っててアホらしいと思う。超能力なんて、中二病かよ...でも他にどう説明すればいいんだ?
「はぁ?超能力?」
彼女は明らかに呆れた表情を浮かべた。眉をひそめて、俺を見る目が「正気?」と言っている。
「いや、だって他に説明がつかないだろ?」
「まあ、確かに普通じゃないけど...超能力はちょっと...」
「じゃあ君はどう説明する?」
「うーん...集団催眠とか?」
「それこそオカルトじゃないか」
「超能力よりはマシでしょ」
こんな不毛な議論をしていても仕方ない。俺たちは顔を見合わせて、同時にため息をついた。
「とりあえず、中に入ろう」
俺がドアに手をかけた瞬間—
「ピンポーン」
自動ドアが開き、店内の明るい照明が俺たちを包んだ。そして、その瞬間—
「え?松井?」
シフト交代で入ってきたらしい20代後半の女性店員が、松井を見て大きく目を見開いた。彼女の名札には「渡辺」と書かれている。
「あんた、さっき帰ったんじゃなかったの?なんでまた来てるの?」
「え...?」
俺と松井は顔を見合わせた。つい数時間前まで完全に無視されていた松井が、今度は普通に認識されている。しかも「帰った」という認識になっている。
これ、マジでヤバくない?記憶が改ざんされてる?それとも...
「だって、30分前に『体調悪いから早退する』って言って帰ったじゃない。私、『お大事に』って言ったのよ?」
「私、そんなこと言ってない...ていうか、渡辺さんと話してない」
「松井、大丈夫?なんか様子が変よ。熱でもあるの?」
渡辺店員は心配そうに松井の額に手を伸ばそうとした。松井は反射的に後ずさりする。
「ちょっと待って...私、本当に帰ってない。ずっと店にいたのに...」
「あの...」
俺は見ていられなくなって割って入った。松井の表情がどんどん暗くなっていく。このままだと、彼女が感情的になってしまうかもしれない。
「僕、彼女の友達なんです。買い物に来たら、たまたま松井も一緒について来てくれて」
俺は必死に取り繕いながら、手で松井に「落ち着いて」と合図を送る。頼む、気づいてくれ...
「ああ、そうなの。でも松井、さっき確かに...」
「松井、体調悪いなら無理しない方がいいよ」
俺はわざとらしく松井の方を向いて言った。
「そうよ。顔色も悪いし...本当に大丈夫?」
松井は俺の意図を理解してくれたようで、深呼吸してから答えた。
「あ、はい...ちょっと気分転換に外の空気吸ってきただけです。もう大丈夫です」
でも、その笑顔は明らかに無理をしている。口元は笑っているが、目は全然笑っていない。
これ、相当きついよな...自分の記憶と他人の記憶が食い違うなんて、頭おかしくなりそう。
「じゃあ、ちょっと店内見てきますね」
俺はそう言って、松井の腕を軽く引いた。
「行こう」
「松井、何かあったらすぐ言ってね。今日は無理しないで」
「はい...ありがとうございます」
松井は力なく答えて、俺について来た。
店の奥に向かいながら、松井が小声で話しかけてきた。
「ありがとう...助かった」
「気にするな。俺も混乱してる」
「でも、これどういうことなの?私が勝手に早退したことになってる」
「記憶の改ざん...いや、もしかしたら向こうにとってはそれが『事実』なのかも」
なんか、だんだんSFっぽくなってきたな...パラレルワールドとか、そういう話?いや、考えすぎか。
冷飲料コーナーに着くと、俺たちは昨夜と同じ場所を確認した。蛍光灯の白い光に照らされた商品棚には、普通の牛乳やジュースが整然と並んでいる。光る牛乳の姿はどこにもなかった。
「まだ何もないな」
「時間が早いのかも。昨日は2時頃だったし」
彼女は棚の前でしゃがみ込み、一番下の段まで丁寧に確認している。
「そんなに必死に探さなくても...」
「だって、見落としたくないじゃん。もしかしたら、場所が変わってるかもしれないし」
確かに一理ある。神秘の牛乳なんて非常識な存在だ。いつも同じ場所に現れるとは限らない。
時計を見ると、まだ0時15分。あと1時間45分もある。
「本当に2時間もここで待つの?」
「なに?帰りたいの?」
「いや、そういうわけじゃないけど...」
「どうせあんたも眠れないんでしょ?ちょうど時間潰しになるじゃない」
グサッときた。確かにその通りだ。家に帰っても、また天井を見つめる時間が始まるだけ。
でも、コンビニで2時間って...何すればいいんだよ。雑誌コーナーに行ったって、立ち読みできる量には限界があるし。
「休憩スペースに行こう」
松井の提案で、俺たちは店内の小さな休憩コーナーに移動した。「イートインスペース」と書かれた看板の下に、4人掛けのテーブルが2つ並んでいる。深夜ということもあって、他に客はいない。
俺たちは窓際の席に座った。外の暗闇と、店内の明るさのコントラストが印象的だ。
「はぁ...疲れた」
「大丈夫か?」
「精神的にね。自分が透明になってるなんて、実感ないし」
彼女は両手で顔を覆い、そのまましばらく動かなかった。銀青色の髪が、手の隙間からこぼれている。
こんな弱々しい松井、初めて見るな...いつもは強気でクールなのに。
しばらくして、松井が顔を上げた。
「そういえば、都市伝説の話って誰から聞いたの?」
話題を変えようとしているのかもしれない。俺も付き合うことにした。
「ああ、それは橘が教えてくれたんだ」
「橘さんは誰から?」
「星野って人から聞いたらしい」
「星野?誰それ」
「学生会長だよ。でも...」
俺は言葉を濁した。どう説明すればいいのか迷う。
「でも?なんか言いにくそうね」
「奇妙な現象があるんだ」
「どんな?」
彼女の青い瞳に、好奇心の光が宿った。俺は深呼吸して、ゆっくりと説明を始めた。
「星野も、君や柏木さんと同じように...人から忘れられてるみたいなんだ」
「え?どういうこと?」
「正確に言うと、俺の目には透明に近い状態で見えてる。そして橘も、星野のことを思い出せなくなった」
「つまり...橘さんの記憶から星野さんが消えた?」
「そう。前日まで『星野から聞いた』って言ってたのに、今日になって急に『誰から聞いたか思い出せない』って」
これって偶然じゃないよな...パターンが同じすぎる。
「それって、私や柏木さんと全く同じパターンじゃない」
「だろ?だから気になってるんだ」
「その星野って人、どんな人なの?詳しく教えて」
「一度しか会ったことないから、詳しくは知らない」
実は、俺の中には星野に関する曖昧な記憶がある。どこかで会ったような、知っているような感覚。長い黒髪に、澄んだ瞳。優しい微笑み。でも、それ以上は思い出せない。
なんか、もっと深い関係があったような気がするんだけど...思い出せない。モヤモヤする。
「見た目は?」
「えっと...長い黒髪で、背は低めかな。優しそうな雰囲気の人だった」
「ふーん。で、その人も透明化してるわけね」
「たぶん。俺には薄っすらと見えたけど、他の人にはどうなのか...」
「待って、あんた、私たち以外にも透明な人が見えるの?」
その質問に、俺も驚いた。そういえば、そうだ。
「そうみたいだな...なんでだろう」
「もしかして、あんたには特殊な『目』があるとか?」
「またオカルトか」
「でも、他に説明つく?普通の人には見えないものが、あんたには見える」
確かに、理屈は通っている。でも、そんな特別な力なんて、俺にあるわけない。
「それより、この透明化現象について考えようよ」
俺は話題を変えた。
「そうね...何か共通点があるはずよね」
俺たちは顔を突き合わせて推理を始めた。テーブルの上に肘をついて、真剣な表情で考える。
「松井と柏木さん、何か似たところある?」
「はぁ?私とあの大人しそうな子が?」
彼女の反応があまりにも素直で、俺は思わず笑ってしまった。
「いや、性格じゃなくて...」
ここから、俺たちの迷推理が始まった。
「外見的な共通点は...髪が長い?」
「私、短いじゃん。これのどこが長いのよ」
彼女は自分の銀青色のショートヘアを指差した。
「じゃあ...目の色?」
「私青で、柏木さん紫でしょ?全然違うわ」
「女子高生?」
「それ、クラスの女子全員当てはまるでしょ。もっと具体的なのない?」
俺の推理はことごとく撃墜されていく。
「じゃあ...芸術的才能がある?」
「まあ、私はベース弾けるし、柏木さんは絵が上手いけど...」
「お、それいいかも」
「でもそれだと、芸術系の生徒全員が透明になっちゃうでしょ?」
また振り出しに戻った。
「音楽が好き?」
「あ、それはあるかも!柏木さんもアニソンとか聞くんでしょ?」
「Ever Night好きかどうかは知らないけど」
「でも、音楽好きな人なんていくらでもいるしなぁ...」
俺たちの推理はどんどん迷走していった。
「甘いものが好き?」
「知らないよ、柏木さんの好物なんて」
「あ、そういえば昨日カフェでエスプレッソ頼んで苦しんでたな」
「え、なにそれ」
俺は昨日の柏木さんのエピソードを話した。大人ぶってトリプルエスプレッソを頼んで、苦すぎて涙目になった話。
「ぷっ...なにそれ、可愛い」
「だろ?めっちゃ必死に飲んでた」
「想像したら笑える...でも、それって共通点じゃないよね」
「確かに」
笑いが収まると、俺たちはまた真剣な顔に戻った。
「夜更かし癖がある?」
「それ、あんたじゃない?」
「俺だけじゃないかもしれない」
「まあ、私も夜中にベース弾いてるし...」
「柏木さんも絵を描くのは夜中かもしれない」
「でも、それも決定的じゃないよね」
こんなんじゃダメだ...もっと本質的な共通点があるはずなのに。表面的なことばかり見てても、答えは出ない。
諧謔めいた推理が一段落したところで、俺たちは真剣に考え始めた。
その時、ふと思い出した。
「そういえば、今朝のこと覚えてる?」
「朝?」
「君が急に電話を受けて、走って行った時」
その瞬間、松井の表情が固まった。さっきまでの和やかな雰囲気が一変する。
「...それが?」
彼女の声が急に硬くなった。
「実は、君が透明になったのを最初に見たのは、あの電話の後だったんだ」
そうだ...全てはあそこから始まった。松井が電話を受けて動揺した直後、朝日を浴びた彼女の体が透けて見えた。あの衝撃は今でも鮮明に覚えている。
松井は俯いて、長い沈黙が流れた。彼女の指が無意識にテーブルを叩いている。トントン、トントンと、一定のリズムで。ベースを弾く時のクセだ。でも今は、明らかに動揺を隠すための動作だった。
気まずい...触れちゃいけない話題だったか?でも、これは重要な手がかりかもしれない。
しばらくして、松井が顔を上げた。その表情は、いつもの強気なものではなく、どこか脆さを感じさせる。
「...これ、重要なの?」
「分からない。でも、何か関係があるかもしれない」
また沈黙。俺も慎重に言葉を選んだ。彼女を追い詰めたくはない。でも、真実に近づくためには...
これ、聞いちゃいけないことなのか?家族とか、プライベートなことかもしれない。でも...
「誰からの電話だったかは聞かない。でも...」
俺は一度言葉を切って、彼女の反応を見た。松井は黙って俺を見つめている。
「もし差し支えなければ、どんな内容だったか...いや、それも聞かない」
「どっちなのよ」
「すまん。整理できてない」
長い間があいて、松井がようやく口を開いた。
「これは...今回の件とは関係ない。保証する」
彼女の声は固かった。これ以上は聞くな、という意志が伝わってくる。でも、俺は諦めきれなかった。
「具体的な内容は聞かない。でも...」
俺は慎重に言葉を選んだ。
「電話を受けた後、どんな気持ちだった?」
「気持ち?」
彼女は「気持ち」という言葉に戸惑ったようだった。まるで、そんなことを聞かれるとは思っていなかったかのように。
そして急に笑い出した。でも、その笑い声には苦さが混じっている。
「なに、それ。そんなこと聞いて意味あるの?」
「心理状態が関係してるかもしれない」
「何それ、心理カウンセラーにでもなったつもり?」
でも俺の真剣な表情を見て、彼女の笑顔が消えた。青い瞳が、じっと俺を見つめる。
「...辛かった、かな」
その一言に、たくさんの感情が込められているのを感じた。
辛かった...その感情が引き金になった可能性がある。強い負の感情が、存在を希薄にする?
俺の頭の中で、何かがつながり始めた。でも、まだ確信は持てない。
「柏木さんも、何か電話を受けたりした?」
「いや、少なくとも学校では見てない」
「そうか...」
「でも、朝は元気なさそうだった。田中さんと一緒にいたけど、なんか上の空って感じで」
新しい情報だ。柏木さんも何か悩みを抱えていた可能性がある。
その時、俺は思いついてスマートフォンを取り出した。
「ちょっと確認したいことがある」
「何するの?」
「Pixiv開いて」
俺はアプリを起動した。見慣れたトップページが表示される。
待てよ...もし柏木さんが人々から忘れられているなら、ネット上の存在はどうなってるんだ?
「どうしたの?」
松井がさらに身を乗り出してくる。彼女の髪の香りがふわりと漂ってきて、一瞬ドキッとした。
集中しろ、俺...今はそんな場合じゃない。
「『紫苑』を検索してみる」
「あ!そうか、ネット上の存在は...」
彼女も同じことに気づいたようだ。
俺は震える指で「紫苑」と入力し、検索ボタンを押した。
loading...
画面に表示されるのを待つ数秒間が、妙に長く感じられた。
そして—
「該当するユーザーが見つかりません」
画面に表示された文字を見て、俺たちは凍りついた。
「嘘だろ...」
「紫苑が...消えてる?」
そんなはずはない。紫苑は人気イラストレーターだ。俺もフォローしていたし、定期的に素晴らしい作品を投稿していた。フォロワーは5万人を超えていたはずだ。
「もう一回検索してみる」
俺は必死に文字を打ち直した。もしかしたら、打ち間違えたのかもしれない。
「紫苑」「しおん」「Shion」「紫苑」
どんな表記で検索しても、結果は同じだった。
「待って、これおかしいよ!昨日まで普通にあったのに!」
「他のサイトも確認してみよう」
俺たちは必死になって、あらゆるSNSで「紫苑」を検索した。
Twitter—「該当するアカウントが見つかりません」
Instagram—「結果なし」
Deviantart—「No results found」
「私のブックマークも確認する!」
彼女は自分のスマホを取り出し、ブラウザを開いた。
「あった!紫苑のPixivページ、ブックマークしてる!」
希望を持ってタップしたが—
「ページが見つかりません」
「嘘...ブックマークからも消えてる」
どこにも、紫苑という名前のイラストレーターは存在しなかった。まるで最初から存在しなかったかのように、きれいさっぱり消えている。
これって...マジでヤバくない?人の存在が現実からもネットからも消えるなんて...
「待って、Googleのキャッシュは?」
俺は最後の望みをかけて、Googleで「紫苑 イラストレーター」と検索した。
いくつかの検索結果が表示される。しかし—
「このページは既に削除されています」
「404 Not Found」
「お探しのページは見つかりませんでした」
全て、同じ結果だった。
「これって...柏木さんの存在が、ネット上からも完全に消されてるってこと?」
「そうとしか考えられない」
俺の背筋に寒気が走った。もし人の存在が完全に消えるとしたら、その人は一体どうなってしまうのだろう。
記憶から消え、ネットから消え、最後は...現実からも消える?それって、死ぬのと同じじゃないか。
「やばい、柏木さんに連絡しないと!」
俺はパニックになり、スマートフォンの連絡先を開こうとした。彼女の身に何かあったのかもしれない。いてもたってもいられなかった。しかし、その手を松井がそっと制した。
「待って。今、何時だと思ってるの?」
彼女に言われて時計を見ると、時刻は深夜1時を回っていた。
「…こんな時間に電話したら、ただの非常識なやつだ」
「でしょ。それに、なんて言ってあげるの?『君のネット人格が消滅したけど、大丈夫?』って?彼女を無駄に怖がらせるだけだよ」
「…それもそうだけど。でも、心配じゃないのか?」
「心配に決まってる。でも、だからこそ今は冷静にならないと。私たちにできることは、明日の朝一番で彼女に会って、直接話すこと。そして、今夜のうちに、この現象について少しでも手がかりを見つけること」
彼女の瞳は真剣だった。普段のクールな態度の奥にある、仲間を思う気持ちが伝わってくる。俺はゆっくりと頷き、スマートフォンをテーブルに置いた。
「…わかった。明日、学校で話そう」
「紫苑は柏木さんのもう一つの顔だった」
「大切なアイデンティティよね...それが消えるなんて」
「5万人のフォロワーも、全員忘れてるってことか」
「あ、でも待って」
「どうした?」
「私たち、まだ覚えてるよね?紫苑のこと」
確かに...俺たちの記憶からは消えていない。
「そうだな。作品の内容も覚えてる」
「あの青と紫のグラデーションの使い方とか、独特だったよね」
「キャラクターの表情も生き生きしてた」
俺たちは、存在しないはずの紫苑の作品について語り合った。不思議なことに、記憶は鮮明に残っている。
その時、松井が重要なことに気づいた。
「でも、おかしくない?」
「何が?」
「みんなが柏木さんのことを忘れてるのに、なんで私たちは覚えてるの?」
その質問に、俺も考え込んだ。確かに奇妙だ。田中さんは親友のことを忘れ、店員は松井のことを認識できなくなり、ネット上からは紫苑が消えた。でも、俺と松井は全て覚えている。
これには何か理由があるはずだ。俺たちだけが特別?それとも...
「俺も分からない。でも...」
俺は少し迷ってから、自分の推測を口にした。
「たぶん、俺と関係があると思う」
「は?冗談でしょ」
彼女の反応は予想通りだった。
「いや、真面目な話だ」
俺は身を乗り出して、真剣に説明を始めた。
「考えてみて。田中さんも、君の職場の店員も、俺が近づいた途端に相手のことを思い出した」
「...!」
彼女の表情が変わった。何かに気づいたようだ。
「君も今日2回経験してるはずだ。俺が現れた瞬間、急に認識されるようになった」
最初は偶然だと思ってた。でも、こう何度も同じパターンが続くと、偶然では済まされない。
「確かに...あんたが来る前は、誰も私のこと見えてなかった」
「最初は店で完全に無視されてた」
「でも、あんたが来た途端、急に店員に見えるようになった」
「それも2回」
松井は考え込むように顎に手を当てた。彼女の青い瞳が、何かを分析するように動いている。
「1回目は田中店員。物理的にぶつかった時」
「2回目は今の渡辺さん。俺と一緒に入店した時」
「でも、それってただの偶然かもしれない」
「偶然にしては出来すぎてる」
俺は指を折りながら数えた。
「田中さんが柏木さんを思い出したのも、俺が介入した後。君が認識されるようになったのも、俺が現れた後。これが全部偶然?」
「...確かに、偶然にしては多すぎるわね」
彼女も完全には否定できないようだった。
でも、なんで俺なんだ?俺に何か特別な力があるっていうのか?そんなの、信じられない。
「じゃあ、あんたには何か特別な能力があるってこと?」
「それは分からない。でも、何か関係してるのは確かだと思う」
「へぇ、椎名くんは選ばれし者だったのね」
「茶化すなよ」
「でも、冗談じゃなく、あんたには他の人と違う何かがあるのかも」
彼女の言葉に、俺は複雑な気持ちになった。特別でありたいような、でも普通でいたいような。
時計を見ると、まだ1時前だった。神秘の牛乳が現れるまで、まだ1時間以上ある。
「時間、まだまだあるな」
「長いね...」
「何か他に話そうか?」
「イヤホン持ってる?」
「ああ」
俺はポケットからイヤホンを取り出した。
「じゃあ...また音楽でも聞いて時間潰そう」
彼女の提案に、俺は少し驚いた。今朝のことを思い出す。
そういえば、今朝も一緒に音楽聞いたんだよな...あの時のドキドキ、また味わえるのか。
「いいけど...また勝手に取らないでよ」
「何それ。せっかく提案してあげたのに」
「冗談だよ」
俺はイヤホンを差し出した。松井は少し照れくさそうに、それを受け取る。
「何聞く?」
「Ever Night」
「やっぱりか」
俺はプレイリストから『Ever Night』の新しいアルバムを選んだ。最初の曲は、静かなピアノのイントロから始まる『Moonlight Serenade』。
「この曲、好き...」
彼女は目を閉じて、音楽に身を委ねている。時々、リズムに合わせて体が小さく揺れる。
俺も目を閉じて、音楽に集中した。でも、隣に松井がいることが気になって、完全には集中できない。
彼女の存在を、すぐ隣に感じる。呼吸の音、かすかな香り、時々聞こえる小さなハミング。
これ、めっちゃドキドキする...朝より距離近いし。
『Moonlight Serenade』が終わり、次の曲『Echoes of Tomorrow』が始まる。アップテンポな曲で、ベースラインが印象的だ。
「あ、この曲のベース、最高なんだよね」
彼女は目を開けて、熱く語り始める。
「特にサビの部分?あの音の重なり方がさ...」
「そう!低音と高音の絡み合いが絶妙で...」
音楽の話をする松井は、本当に生き生きしている。さっきまでの不安そうな表情はどこかに消えて、純粋に音楽を楽しんでいる。
俺も釣られて、音楽談義に花を咲かせた。
「3曲目の『Silent Echo』も良いよな」
「私の一番好きな曲!」
「歌詞も深いし」
「『沈黙の中にこそ真実がある』ってフレーズ、すごく好き」
時間は、音楽と会話の中で過ぎていった。
気がつくと、もう1時半を回っていた。
「あと30分か」
「そろそろかな...」
俺たちは再び冷飲料コーナーに向かった。まだ、普通の商品しか並んでいない。
「まだ早いのかも」
「でも、目を離したくない」
彼女は棚の前に立ち、じっと商品を見つめている。まるで、いつ現れてもいいように。
俺も隣に立って、一緒に待った。
静かな店内に、冷蔵庫のモーター音だけが響いている。時々、自動ドアが開いて客が入ってくるが、すぐに去っていく。
深夜のコンビニは、どこか異世界のような雰囲気がある。
「ねえ」
「ん?」
「もし...もし私が完全に消えちゃったら、あんたは覚えててくれる?」
突然の質問に、俺は言葉を失った。
「そんなこと...」
「答えて」
彼女の青い瞳が、まっすぐ俺を見つめている。
「もちろん覚えてる。絶対に忘れない」
「...ありがと」
なんか、すごく大事なことを言われた気がする。でも、どう返していいかわからない。
そんな雰囲気の中、時計の針は2時に近づいていった。
あと5分...
俺は音楽プレーヤーを一時停止し、イヤホンを外した。集中しなければ。
でも、なぜか眠気が襲ってきた。
まずい...こんな大事な時に...
「椎名?」
松井の声が遠くから聞こえる。
でも、まぶたが重い。体に力が入らない。
昨日もこんな感じだった...急激な眠気...これも牛乳の影響?
「ちょっと、大丈夫?」
松井の心配そうな声を聞きながら、俺の意識は薄れていった。
ダメだ...起きてなきゃ...でも...
最後に見たのは、棚の奥でかすかに紫色の光が瞬いた気がした。
そして、俺は深い眠りに落ちていった。