1-6
放課後、俺と橘さんは約束通り松井を探しに向かった。まずは彼女がバイトをしているコンビニに向かうことにした。夕方の商店街は通勤・通学の人々で賑わっていて、俺たちも人の流れに混じって歩いた。
歩きながら、俺の頭の中では午後の出来事がぐるぐると回っていた。田中さんが柏木さんのことを完全に忘れてしまった瞬間の、あの困惑した表情。そして突然思い出した時の驚き。人の記憶がこんなにも曖昧で、不安定なものだったなんて。
もしかして俺も...誰かのことを忘れてしまってるのかもしれない。大切な人のことを。でも、忘れてしまったなら、それに気づくことすらできないだろう。考えれば考えるほど恐ろしくなってくる。
「椎名くん、大丈夫?さっきから黙り込んでるけど」
橘が歩きながら振り返る。彼女の茶色のショートボブが夕日に照らされて、温かい色合いに見える。
「ああ、ちょっと考え事してて」
「田中さんの件?」
「それもあるけど...なんか、この街全体がおかしくなってる気がするんだ」
「私もそう思う。偶然じゃ済まされないわよね」
俺たちは足を止め、お互いを見つめた。彼女の瞳には不安と、それと同時に何かを解明したいという好奇心が混じっているのが見えた。文学少女らしい、知的な輝きがある。
「それにしても、午後の田中さんの件、本当に不思議だったわね」
「ああ。人が記憶から消えるなんて...SF映画みたいだ」
実際、あの瞬間は映画を見ているような非現実感があった。田中さんの困惑した表情、柏木さんの絶望的な顔。そして俺自身も、何が起きているのか理解できずに立ち尽くしていた。
「でも現実に起きてるのよね。椎名くんも松井さんが透明になるのを見たって言ってたし」
俺は朝の出来事を思い出す。あの瞬間の衝撃は今でも鮮明に覚えている。松井の体が半透明になり、背景の建物が透けて見えた瞬間。あれは間違いなく現実だった。目を疑ったが、確かに見えたのだ。
でも、なぜ俺にだけ見えたんだろう?他の人には見えていないようだったが...もしかして俺も何かの影響を受けているのか?
そんな会話をしながらコンビニに到着した。午後6時頃の店内は、仕事帰りの人々で適度に賑わっていた。俺は入口のガラス越しに店内を覗き、松井の姿を探した。
「あ、いた」
レジカウンターに立つ松井の姿が見えた。しかし、彼女の様子が明らかにおかしかった。普段のクールで冷静な彼女とは明らかに違う、焦燥と困惑に満ちた表情をしている。
松井は另一人の男性店員に向かって何かを必死に話しかけているのだが、その店員は彼女を完全に無視していた。まるで松井が存在しないかのように。
俺と橘さんは店内に入り、状況をより詳しく観察した。
「おい、松田さん!聞いてよ!昨日のシフト表の件なんだけど!」
夕音の声が店内に響く。彼女の声は普段の落ち着いたトーンとは違い、明らかに動揺している。右手の指が無意識にリズムを刻んでいる。ベースを弾く時のクセだ。
しかし、松田と呼ばれた30代くらいの男性店員は彼女の声に全く反応せず、黙々と冷凍食品の補充を続けている。まるで松井の声が聞こえていないかのように。
「ちょっと!無視しないでよ!私がなんか悪いことした?」
夕音は声を荒げるが、店員の態度は変わらない。いや、変わらないというより、本当に彼女が見えていない、聞こえていないように見える。
店員の目線は松井の方を向いているはずなのに、まるで空気を見つめているかのような虚ろな表情だった。これは演技ではない。本当に彼女が認識できていないのだ。
俺の背筋に寒気が走った。これは間違いなく、午後の田中さんと柏木さんの件と同じパターンだ。
「松田さん、お疲れさまです!今日の売り上げ報告書、どこに置けばいいですか?」
夕音は話題を変えて、より具体的な業務の話を持ち出した。しかし、松田店員は相変わらず無反応だった。
「ねえ、聞いてるの?私、ここにいるよ?見えないの?」
松井の声が次第に震え始めた。普段の強気な彼女からは想像できないほど、弱々しい声だった。
「嘘でしょ...なんで...どうして急に...」
夕音は次第に声が小さくなり、やがて諦めたように肩を落とした。その表情は見ているこちらが辛くなるほど落ち込んでいた。いつも冷静でクールな彼女が、こんなにも動揺している姿を見るのは初めてだった。
彼女の銀青色の髪が顔にかかり、その表情を隠している。でも、肩の震えから、彼女がどれほど困惑し、恐怖しているかが伝わってきた。
俺の胸が締め付けられるような感覚があった。松井がこんなに辛そうにしているのを見ているのが辛い。助けてあげたいけど、どうすればいいのかわからない。
これって...完全に柏木さんと田中さんの件と同じじゃないか?人が忘れられる、認識されなくなる現象。でも松井の場合、職場で起きている分、より深刻かもしれない。
俺と橘は顔を見合わせた。明らかに異常な状況だ。他の客たちは普通に買い物をしているが、この異常事態に気づいている様子はない。まるで俺たちだけが、この奇妙な現象を目撃しているかのように。
「松井ちゃん...」
橘が小声で呟く。彼女の表情も心配そうだった。
俺たちがコンビニに入ると、入口のチャイムが「ピンポーン」と鳴った。松井は振り返り、俺たちの姿を見つけると驚いた表情を浮かべた。
「椎名?橘さんも...どうして昼間に?約束は夜だったでしょ?」
彼女の声には安堵の色が混じっていた。自分を認識してくれる人がいるという安心感だろう。
「ああ、実は午後にも変なことが起きて...急いで相談したくて」
俺は松井の表情を見ながら答えた。彼女の青い瞳には、不安と混乱が渦巻いている。いつものクールな彼女はどこにもいない。
「変なこと?」
「それより、さっきの店員との...大丈夫?」
「あ、見てた?恥ずかしいところを...」
彼女は困ったように頭を掻く。その仕草がいつもより幼く見える。強がっているが、内心は相当動揺しているのがわかる。
その時、俺はふと気づいた。俺たちが松井と普通に会話しているのに、店内の他の客や店員は全く気に留めていない。まるで松井だけでなく、俺たちの会話も聞こえていないかのように。
これは異常だ。普通なら、店員同士が話していれば、他の店員も気にするはずだ。でも松田店員は相変わらず作業を続けているし、他の客も普通に買い物をしている。
「あの...俺たち、普通に話してるけど、他の人たちは...」
俺は周りを見回しながら言った。
「気づいた?そうなの。今日の午後からずっとこんな感じ」
彼女の声には諦めにも似た響きがあった。
「まさか...」
「最初は店長が私のことを忘れてるだけかと思ったの。昨日まで普通に話してたのに、急に『君は誰?』って言われて...」
松井の説明に、俺の心臓が早鐘を打った。これは完全に柏木さんのケースと同じだ。
「でも、だんだん他の人にも無視されるようになって...まるで私が存在しないみたい」
夕音の手が小刻みに震えている。いつもベースを弾く時のように動いているが、今は不安を紛らわせるための無意識の動作のようだった。
俺はどう声をかけていいかわからなかった。慰めの言葉も、薄っぺらく聞こえてしまいそうで。でも、黙っているのも辛い。
「松井、俺たちにも聞かせて欲しいことがあるんだ。実は午後、似たような現象が...」
「私の話はあとで聞くから、まず椎名くんたちの話を聞かせて」
夕音は身を乗り出した。他の人の状況を聞くことで、自分の置かれた状況を客観視しようとしているのかもしれない。
俺と橘さんは、午後に起きた田中さんの件について詳しく説明した。柏木さんが親友から忘れられ、完全に認識されなくなったこと。でも途中で思い出したこと。そして田中さん自体も記憶が曖昧になっていたこと。
「田中さんっていうのは、柏木さんの一番の親友だったんだ。でも急に、柏木さんのことを全く覚えていなかった」
「『誰、その子?』って言われた時の柏木さんの表情が...本当に辛そうだった」
「でも不思議なことに、私たちが必死に説明したら、突然思い出したの。まるでスイッチが入ったみたいに」
松井は俺たちの話を真剣な表情で聞いていた。
「つまり、人が記憶から消える現象が起きてるってこと?」
夕音は目を見開いた。
「ああ。そして今朝、君の体が透明になって見えたのも関係してると思う」
「透明に...?私が?」
夕音の声が震える。
「朝日が当たった瞬間、君の向こう側の建物が見えたんだ。最初は目の錯覚かと思ったけど、確かに透けていた」
俺はその時の衝撃を思い出した。松井の体が半透明になり、背景が透けて見えた瞬間の驚き。あの時は信じられなかったが、今なら理解できる。彼女の存在が薄れ始めていたのだ。
「まるでファンタジー小説みたい...」
夕音は自分の手を見つめながら呟いた。その手は確かに存在している。でも、もしかしたら俺たち以外には見えていないのかもしれない。
「でも現実に起きてる。君の今の状況も含めて」
その時、奥から别の店員が現れた。松井と同年代くらいの男性で、制服を着ている。名札には「田中」と書かれている。彼は商品を補充しながら松井の近くを通りかかった時—
ドン!
彼は松井に軽くぶつかった。
「あ、ごめ...」
その瞬間、店員の表情が一変した。まるで突然松井の存在に気づいたかのように。目を大きく見開き、驚愕の表情を浮かべた。
「え?え?松井さん!?いつの間にここに!さっきから探してたんですよ!どこに行ってたんですか?」
「え...?私、ずっとここにいたけど...」
「いや、レジにもバックヤードにもいなくて、てっきり早退したのかと思って...店長も『松井はどこだ?』って探してたんですよ」
田中店員は本当に困惑している様子だった。汗を拭きながら、松井を見つめている。
俺と橘は顔を見合わせた。これは完全に田中さんのケースと同じパターンだ。物理的な接触をきっかけに、突然存在を認識する。
「30分くらい前から、急にいなくなったと思って...まさか透明人間になってたんですか?」
田中店員は冗談めかして言ったが、その言葉に俺たちはぞっとした。冗談のつもりだろうが、それが真実に近いのだから。
「私...消えてたの?」
「消えてたっていうか...気がついたらいなくて。でも今はちゃんと見えますよ」
「大丈夫ですか?顔色悪いですよ。体調不良で朦朧としてたとか?」
その時、橘さんが機転を利かせた。このままでは会話が続いて、より複雑な状況になってしまう。
「あ、すみません!お会計お願いします!」
彼女は手近な商品を掴み、レジに向かった。ガムを一つ。小さな商品だが、状況を打開するには十分だった。
「あ、はい!いらっしゃいませ!」
田中店員は慌てて接客モードに戻り、橘の会計を始めた。その隙に、俺たちは松井と視線を交わした。
「今は仕事中だから...あとで詳しく話そう」
彼女の声は小さいが、確かに安堵の色が混じっていた。少なくとも一人の店員には認識されている。それだけでも心の支えになるのだろう。
「わかった。いつ頃?」
「深夜になるかも...12時過ぎくらい?」
「深夜?」
「まさか本当にあの都市伝説と関係が...」
俺と松井は目を合わせ、頷いた。もう隠しても仕方がない。状況は俺たちが思っている以上に深刻なのだから。
「そう...あの牛乳の件と関係してる可能性が高い」
俺の言葉に、橘の表情が一変した。
「嘘...本当にあるの?神秘の牛乳って」
「あるよ。俺たち、昨夜見たから」
俺は松井を見た。彼女も頷いている。
「光ってたんだ。紫色に。そして、飲まなくても効果があった」
橘は信じられないといった表情を浮かべた。そして何かを思い出そうとするように額に手を当てる。
「あの都市伝説...誰から聞いたんだっけ...」
彼女の表情が歪んでいく。必死に思い出そうとしているが、上手くいかないようだ。
「確か、天文部の星野さんからって言ってたよね?」
俺もその名前は覚えている。でも、顔がぼんやりとしていて、はっきりと思い出せない。
「そう、星野...星野...」
橘の表情が更に歪む。
「おかしい...思い出せない。確かに誰かから聞いたのに...顔も名前も...ぼんやりしてて...」
またか...
俺の背筋に寒気が走った。橘も記憶に異常が起きている。これで三人目だ。田中さん、そして今度は橘。
「橘、大丈夫?」
俺は彼女の肩に手を置いた。彼女の体が小刻みに震えているのがわかる。
「お客様、他に何かご入用でしょうか?」
田中店員が声をかけてきた。俺たちは慌てて店を出ることにした。これ以上ここにいると、松井の仕事に迷惑をかけてしまう。
「また後で連絡する。LINE見てて」
「ああ、気をつけて」
俺は松井の青い瞳を見つめた。不安と混乱に満ちているが、それでも負けまいとする強い意志が見える。
コンビニを出ると、橘は頭を抱えていた。
「おかしいよ...確かに聞いたはずなのに、全然思い出せない」
「俺も...星野さんという名前は覚えてるけど、顔がぼんやりしてる」
俺も同じような感覚だった。確かに知っている名前なのに、具体的な記憶が曖昧になっている。まるで霧の中にあるかのように。
これは偶然じゃない。明らかに何らかの力が働いている。俺たちの記憶を操作するような、得体の知れない力が。
「橘、ちょっと落ち着いて話そう。近くに公園があったはずだ」
俺は周りを見回した。確か、この辺りには小さな公園があったはずだ。
「うん...そうね。このままじゃ頭がおかしくなりそう」
彼女の声は震えていた。普段の明るい彼女からは想像できないほど、動揺している。
俺たちは歩いて5分ほどの小さな公園に向かった。「桜ヶ丘公園」と書かれた小さな看板が見える。夕暮れ時の公園は人も少なく、ベンチに座って落ち着いて話すことができそうだった。
公園には小さな池があり、その周りにベンチが配置されている。桜の木がいくつか植えられていて、春になればきれいに咲くのだろう。今は葉桜だが、新緑が美しい。
俺たちは池を望むベンチに座った。橘は深く息を吸い、少し落ち着きを取り戻そうとしている。
「それで...どう思う?これらの現象について」
俺は静かに尋ねた。夕日が池の水面に反射して、オレンジ色の光が揺らめいている。
「人が消える、記憶から消される...まるでホラー小説みたい」
「現実に起きてることだけどね」
「でもパターンがあるのよね。完全に消えるわけじゃなくて、一時的に認識されなくなる」
橘の分析力は流石だった。文学部だけあって、物事を客観的に見る能力がある。
「そう。田中さんも途中で柏木さんのことを思い出したし、松井も店員にぶつかられた瞬間に認識された」
「つまり、何かのきっかけで『存在』が復活する?」
俺たちは様々な可能性について話し合った。でも、どれも推測の域を出ない。科学的な説明がつかない現象ばかりだ。
「呪い説はどう?」
俺は半分冗談で言った。でも、他に説明がつかない。
「呪い?椎名くん、オカルト信じるタイプだったの?」
「いや、でも他に説明がつかないだろ」
確かに、普通に考えれば馬鹿げた話だ。でも現実に起きていることを否定することはできない。俺の目で見た松井の透明化。田中さんの記憶異常。そして今の橘の状況。
「確かに...でも誰が、なぜ?動機がわからない」
「それがわからない。そもそも神秘の牛乳って何だったんだろう」
俺はあの夜のことを思い出した。コンビニの冷蔵庫で紫色に光っていた牛乳。触れた瞬間の温かみ。そして、バックパックに入れた途端に消えてしまったこと。
「あ!もしかして薬物説は?何かの実験とか」
「実験?」
「ほら、よくSF小説にあるじゃない。秘密組織が住民を実験台にするっていう...新薬の効果を試すために、知らない間に薬物を摂取させるの」
「この田舎町で?」
俺は周りを見回した。確かにこの街は小さいし、人口も少ない。実験を行うには都合がいいかもしれない。
「そう考えると筋が通るのよ。牛乳に何かの薬物を混入させて、住民の認知能力や記憶に影響を与える実験」
「でも俺たち、牛乳飲んでないぞ」
「それが不思議なのよね...」
「確かに現実味ないわね。でも他に説明がつく?」
俺たちは次々といろんな説を考えては否定するを繰り返した。時間が経つにつれて、会話は徐々に軽くなっていく。
「宇宙人説は?」
今度は橘から提案があった。
「それなら透明化も説明つくかも!宇宙人の技術で、人間の存在を希薄化させる実験とか」
「でも宇宙人が牛乳に細工する理由が...」
「牛乳好きの宇宙人かもしれないじゃない!」
橘は手を叩いて笑った。その笑い声が公園に響く。
「アホか」
俺も思わず笑ってしまった。こんな深刻な状況なのに、橘と話していると不思議と心が軽くなる。彼女の明るさが、俺の暗い気持ちを和らげてくれる。
「じゃあ次は...超能力説」
「誰かが超能力で人の認知を操っているとか」
「超能力者がこの街にいるってこと?」
「案外身近にいたりして」
橘は俺を見つめて微笑んだ。
「椎名くんとか」
「俺が?」
「だって、松井さんの透明化を最初に気づいたのは椎名くんでしょ?」
確かにそうだ。朝、松井が透明になったのを見たのは俺だけだった。他の人は気づいていないようだった。
「もしかして椎名くん、特殊な能力があるとか?」
橘は興味深そうに俺を見つめる。その瞳には好奇心が輝いている。
「そんなわけないだろ。俺は普通の人間だよ」
でも、確かに最近変なことが多い。夢に出てくる謎の少女。聞き覚えがあるのに思い出せない名前。もしかして俺も何かに巻き込まれているのだろうか。
「謎の美少年って設定、素敵じゃない?」
橘はいたずらっぽく笑いながら言う。
「美少年って...」
俺は少し照れてしまった。女の子にそんなことを言われるのは初めてかもしれない。
「でも椎名くん、結構いろんなこと知ってるのね」
橘の表情が真面目になった。
「え?」
「さっきから、私が挙げた小説やSFの話、全部わかってるじゃない。見た目によらず文学少年だったりする?」
橘の指摘に、俺は少し驚いた。確かに、彼女が話す作品の多くを俺は知っている。
「そんなことないよ。普通に本は読むけど」
「謙遜しちゃって。私、本好きな人って好きなの」
え?今なんて?
俺の心臓が一瞬跳ねた。橘の言葉に、何か特別な意味があるような気がした。
「あの...」
「椎名くんと話してると楽しいわ。こんな不思議な状況だけど」
夕日が橘の顔を照らし、彼女の茶色の髪が金色に輝いて見える。その笑顔がとても美しくて、俺はしばらく見とれてしまった。
「俺も...橘と話してると、なんか心が軽くなる」
素直な気持ちを口にした。橘の存在が、この異常事態の中で俺の支えになっている。
「ありがとう」
橘の頬が少し赤くなった。
気がつくと、俺たちは結構長い間話していた。空は既にオレンジ色から紫色へと変わり、星がちらほらと見え始めている。街灯が点灯し、公園は幻想的な雰囲気に包まれていた。
「もうこんな時間か...」
俺は時計を確認した。既に7時を回っている。
「本当ね。あっという間だった」
「そろそろ帰ろうか」
立ち上がろうとした時、橘が振り返った。
「椎名くん、今夜松井さんと会うんでしょ?」
「ああ」
「気をつけてね。何が起きるかわからないから」
彼女の心配そうな表情に、俺の胸が温かくなった。
「橘も来る?」
「そうねぇ...」
橘は少し考え込んだ。
「でも私、夜中に外出するのはちょっと...家族にも心配かけるし」
「そうか。なら無理しなくていいよ」
俺は彼女の判断を尊重した。確かに、深夜に女の子が外出するのは危険だ。
「ありがとう。でも何かあったらすぐ連絡して。心配だから」
「わかった」
橘の優しさに、俺は改めて感謝の気持ちを抱いた。こんな状況でも、俺のことを心配してくれる人がいる。それだけで心強い。
公園を出て、俺たちはそれぞれの帰り道に向かった。別れ道で、橘が振り返る。
「今度は普通の時にまた話しましょう!読書の話とか、もっとゆっくりと」
「ああ、ぜひ」
俺も心から同意した。今日の会話はとても楽しかった。橘の博識さと明るさに、俺は魅力を感じていた。
「じゃあ、また明日学校で」
「気をつけて帰ってね」
橘の後ろ姿を見送りながら、俺は複雑な気持ちだった。こんな異常事態の中で出会った彼女。でも一緒にいると、不思議と心が落ち着く。彼女の笑顔を思い出すだけで、胸が温かくなる。
もしかして俺、橘のことを...いや、まだそんなことを考える状況じゃない。まずはこの異常事態を解決しないと。
でも、確かに彼女への気持ちが芽生え始めているのを感じていた。
家に帰ると、いつものように静かなアパートの部屋が俺を迎えた。
「ただいま」
両親の遺影に向かって呟く。今日はいつもより多くのことが起きた一日だった。松井の職場での異常事態。橘の記憶異常。そして、彼女との楽しい会話。
夕食を簡単に済ませ、シャワーを浴びてから、ベッドに横になった。時計は夜の10時を指している。松井との約束まで、あと2時間。
その間、俺は今日のことを振り返っていた。特に、橘との会話。彼女の笑顔、知的な話し方、そして俺を心配してくれる優しさ。
俺、本当に橘のことが気になってる。でもこの状況で恋愛感情なんて...不謹慎かもしれない。でも、心は素直だ。彼女といると楽しいし、もっと話していたいと思う。
その時、スマートフォンが鳴った。LINEの通知だ。
送信者は「橘」となっている。
あれ?橘、いつ俺のLINE知ったんだ?
俺は首をかしげた。確か、今日一緒に行動したのは初めてだったはずだ。LINEを交換した覚えもない。
メッセージを開いてみる。
『お疲れさま!今日はありがとう。楽しかった♪』
可愛いスタンプと一緒に送られてきた。
『こちらこそ。話せて良かった』
俺は返信した。
しばらくして、また通知が来た。
『実は...今夜は参加できないかもしれません』
『え?どうして?』
『家の用事が急に入って...ごめんなさい』
『大丈夫。無理しないで』
俺は少し残念に思ったが、仕方がない。家族のことなら優先すべきだ。
『椎名くんと松井さんで調査してください。私も記憶を辿ってみます』
『わかった。また報告する』
『気をつけてくださいね』
最後に「頑張って」のスタンプが送られてきた。
橘、心配してくれてるんだな...
俺は少し温かい気持ちになった。こんな異常事態だけど、信頼できる仲間がいるのは心強い。
時計を見ると11時になっていた。そろそろ準備をしないと。
着替えを済ませ、財布とスマートフォンをポケットに入れる。部屋を出る前に、もう一度両親の写真に向かって頭を下げた。
「行ってきます。無事に帰れますように」
外に出ると、夜の空気が頬を撫でた。街は静まり返っていて、街灯の明かりだけが道を照らしている。
昨夜と同じように、コンビニに向かって歩き始めた。しかし、歩いていると妙な違和感を覚えた。まるで誰かに見られているような感覚。
振り返ってみるが、誰もいない。街灯の光が作る影が不気味に見える。気のせいかと思い、再び歩き始める。
でも、その感覚は消えなかった。むしろ強くなっている。足音も自分のもの以外に聞こえるような気がする。
まさか...俺も何かに巻き込まれてるのか?
不安になりながらも、俺は足を止めなかった。松井との約束がある。彼女を一人にするわけにはいかない。
歩きながら、俺は今日一日を振り返った。松井の職場での異常事態。彼女がどれほど困惑し、恐怖していたか。普段の強い彼女が、あんなにも弱々しく見えたのは初めてだった。
俺にできることは何だろう?この異常事態を解決することはできるのか?そもそも、原因は何なのか?
神秘の牛乳...あれが全ての始まりなのは間違いない。でも、なぜ存在するのか、誰が作ったのか、目的は何なのか。全てが謎だ。
コンビニの明かりが見えてきた時、俺のスマートフォンが鳴った。松井からのメッセージ。
『お疲れさま。12時に例の場所で』
『了解。今向かってる』
返信を送った。時刻は11時50分。約束の時間まであと10分。
コンビニに到着すると、店内を見回した。松井は確かにレジにいた。しかし、昼間と同じように、他の店員とは全く交流していない様子だった。まるで彼女だけが別の空間にいるかのように。
俺は店の外で待つことにした。夜の街は静かで、時折車が通り過ぎる音だけが聞こえる。
10分後、松井が店から出てきた。
「お疲れさま...」
彼女の表情は昼間よりもさらに疲れているように見えた。
「大丈夫?昼間の件もあったし...」
「慣れたよ。どうせ向こうも私が見えてないみたいだし」
彼女の声には諦めが混じっていた。でも、その奥に強い意志も感じられる。
「それって...」
「シフト交代の時、引き継ぎも何もなし。まるで私が最初からいなかったかのように」
これは深刻だ。松井の存在が職場からも消されている。生活に直接関わる問題だ。
「昨夜の牛乳の件、もう一度確認したい」
「私も。あれが原因かもしれない」
俺たちは昨夜と同じコースを辿り、冷飲料コーナーに向かった。時計はちょうど深夜0時を回ったところだった。
「2時まで、あと2時間...」
「今度は逃がさない」
俺たちは店内の隅で、その時を待つことにした。