1-5
夜が更けていく。いつものように俺は天井を見つめながら、眠れぬ時間を過ごしていた。しかし今夜は何かが違っていた。上の階からいつものベースの音が聞こえてこない。
「あ、そうか...松井は今夜、夜勤だったんだ」
思い出して納得する。彼女がコンビニで夜勤をしていることを、昨日の店員から聞いていた。それにしても、妙に静かな夜だ。ベースの音がないと、かえって寂しく感じる。
なんで俺、あの子のベースの音を期待してるんだろう...
自分の気持ちの変化に、少し驚く。つい数日前まで、うるさいと文句を言いに行ったのに。今では、その音が聞こえないと物足りなさを感じている。
時計を見ると、午前1時20分。相変わらず眠れない。布団の中で寝返りを打ちながら、今日一日のことを思い返す。松井とのイヤホン共有、歴史の授業での居眠り、カフェでの打ち合わせ...
そして、橘さんが話していた都市伝説のことを思い出した。
「深夜2時のコンビニで神秘の牛乳...」
ばかばかしい話だけど...でも、なんとなく気になる
時計を見ると1時30分。今から服を着替えて外に出れば、ちょうど2時頃にコンビニに着くだろう。
まあ、どうせ眠れないし...散歩がてら、見に行ってみるか
俺はベッドから起き上がり、スウェットパンツの上にパーカーを羽織った。財布とスマホをポケットに入れ、そっとアパートを出る。
外は静寂に包まれていた。街灯が薄暗い光を投げかけ、夜風が頬を涼しく撫でていく。歩きながら、俺は自分の行動を客観視していた。
俺、何やってんだろう...まさか都市伝説を確かめに行くなんて
コンビニに向かう道中、ふと人の気配を感じた。振り返ると、少し離れたところに一人の少女が歩いているのが見えた。長い黒髪が街灯の光に照らされ、制服を着ている。
こんな時間に制服?
その後ろ姿に、なぜか既視感を覚える。どこかで見たことがあるような...でも、誰だったか思い出せない。
少女は俺とは違う方向に歩いていき、やがて街角を曲がって見えなくなった。俺は首をひねりながら、コンビニに向かう。
変だな...なんで知ってるような気がするんだろう
コンビニの明かりが見えてくる。24時間営業の店は、深夜の街に温かい光を灯している。入り口のドアが自動で開き、「いらっしゃいませ」という機械音が響いた。
店内に入ると、予想通り松井の姿があった。しかし、彼女はレジにはおらず、冷飲料のコーナーの前に立って、じっと何かを見つめていた。
あれ?なんで松井があそこに...
彼女の様子が少し変だった。通常の店員の仕事をしているようには見えない。まるで、何かに見入っているような...
俺も冷飲料コーナーに向かう必要があった。神秘の牛乳というのがあるとすれば、そこにあるはずだ。松井に近づきながら、俺は軽い気持ちで声をかけた。
「よう、夜勤お疲れさま」
「え!?」
彼女は振り返り、その表情は驚きを通り越して、何か困惑しているようだった。
「あ、椎名...どうしてこんな時間に?」
「散歩がてら、飲み物でも買おうと思って」
まさか都市伝説を確かめに来たとは言えないな...
「そ、そう...」
彼女の視線が再び冷飲料の棚に向けられる。俺もその方向を見て、目を疑った。
牛乳のパックの一つが、微かに紫色の光を放っていたのだ。
「え...?」
俺は目を擦る。見間違いかと思ったが、確かにそこには普通とは違う牛乳があった。パッケージは普通の牛乳と同じだが、内容物が淡い紫色に光っている。
まさか...本当にあるのか?
「松井、これ...」
俺は彼女の腕を軽く突いた。松井はびくりと肩を震わせる。
「あ、あなたにも見えるの?」
「ああ...これが例の神秘の牛乳?」
「たぶん...さっきから見てるんだけど、どう見ても普通じゃない」
信じられない...都市伝説が本当だったなんて
俺は恐る恐る、その光る牛乳に手を伸ばす。触れた瞬間、微かな温かみを感じた。普通の冷蔵庫で冷やされた牛乳とは明らかに違う。
「君も不眠症で?」
「...まあ、そんなところかな」
「俺も。だから、物は試しにと思って...」
その時、コンビニの入り口にチャイムが鳴り響いた。深夜の客が入ってきたのだ。
「やばい!お客さん!」
彼女は慌てふためいて、俺に囁く。
「それ、隠して!普通の客に見られちゃダメ!」
「え?なんで?」
「いいから!」
俺は慌てて光る牛乳を手に取り、自分のバックパックの中に隠した。松井は急いでレジに向かい、いつもの店員の顔に戻る。
「いらっしゃいませ!」
客は中年の男性で、酒とつまみを買っていく。俺はそのやり取りを見ながら、バックパックの中の牛乳のことを考えていた。
なんで隠す必要があるんだ?そもそも、この牛乳って一体...
客が去ると、松井は再び俺のところにやってきた。
「で、その牛乳どうなった?」
「バックパックに入れたよ」
俺はバックパックを開けて中を確認した。しかし—
「え?」
何もなかった。確かに牛乳を入れたはずなのに、バックパックの中には財布とスマホしかない。
「嘘だろ...確かに入れたのに」
「え?ないの?」
「ない...ていうか、跡形もない」
「まさか飲んだの?」
「いや、飲んでない!パックも開けてないし、そもそもバックパックも開けてない!」
俺は慌てて弁解する。本当に何もしていないのだ。ただバックパックに入れただけで、それ以来触っていない。
「でも...消えるなんて...」
「俺も分からない。本当に入れたのに...」
二人とも、この不可解な現象に戸惑っていた。光る牛乳の存在自体が不思議だったのに、今度は消えてしまった。
一体何なんだ、この牛乳は...
「もしかして、あの牛乳って...」
「何?」
「飲まなくても、近くにあるだけで効果があるとか?」
「そんなことあるのかな...」
その時、再びコンビニのチャイムが鳴った。今度は若いカップルが入ってきた。
「また客...後で話そう」
「ああ、分かった」
俺は適当にペットボトルのお茶を買い、コンビニを後にした。帰り道、頭の中はモヤモヤでいっぱいだった。
あの牛乳は一体何だったんだ?本当に消えたのか?それとも、最初から幻覚だったのか?
アパートに戻ると、俺はスマホを取り出してLINEを開いた。松井にメッセージを送る。
「お疲れさま。さっきの牛乳の件、君はどう思う?」
しばらくして返信が来た。
「よく分からない。気がついたら棚にあったし、あんたが隠したら消えちゃったし...なんか変だよね」
「消える牛乳なんて聞いたことないよ」
「私も。でも確かに存在してた。あんたも見たでしょ?」
「ああ、確かに見た。光ってたよな」
「うん。紫色に」
やり取りしているうちに、不思議な眠気が襲ってきた。いつもなら朝まで眠れないのに、今夜は違う。まぶたが重くなり、意識がぼんやりしてくる。
あれ?なんか眠い...もしかして、あの牛乳の効果?
俺は慌ててLINEで松井に返事を打とうとしたが、指がうまく動かない。
「眠くなってきた...もしかして効果あるのかも」とだけ送信し、スマホを枕元に置いた。
久しぶりに自然な眠気を感じながら、俺は目を閉じた。
今夜の夢は、いつもと違っていた。
俺は紫色の光に包まれた空間に立っていた。周りは霧がかかったようにぼんやりしているが、どこか暖かく、安らかな感覚があった。
遠くに人影が見える。近づこうとするが、足が思うように動かない。その人影は振り返り、俺の方を見つめている。
「椎名くん...」
聞き慣れた声だった。それは学生会で会った星野繭の声のように思えた。しかし、夢の中の彼女ははっきりと見えない。
「君は...誰だ?」
俺は声をかけるが、彼女の返事は聞こえない。口を動かしているのが分かるが、音が届かない。
彼女は何かを伝えようとしている。重要なことを。でも、それが何なのか分からない。
手を伸ばそうとするが、距離が縮まらない。もどかしさを感じながら、夢の中の俺は立ち尽くしていた。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、俺は自然に目を覚ました。珍しく、アラームが鳴る前に起きた。時計を見ると朝の6時。昨夜眠ったのが2時半頃だから、約3時間半の睡眠だ。
3時間半も眠れたのか...ここ最近では最高記録だ
体の調子も悪くない。久しぶりに、すっきりとした目覚めを経験した。
やっぱりあの牛乳の効果なのかな?
俺はバックパックを確認したが、やはり牛乳はない。本当に消えてしまったようだ。
身支度を整え、いつものように玄関を出ると—
「あ、椎名」
松井が階段を降りてくるところだった。彼女も俺と同じで、いつもより元気そうに見える。特に目の下の隈が薄くなっているのが印象的だった。
「おはよう。眠れた?」
「うん、久しぶりによく眠れた。あんたは?」
「俺も。3時間半も眠れたの、何ヶ月ぶりだろう」
「やっぱりあの牛乳の効果なのかな?」
「たぶんそうだと思う。でも、なんで消えちゃったんだろう」
「分からない。でも確かに効果はあったみたい」
二人で並んで学校に向かう。昨日の朝よりも、お互いリラックスしている様子だった。
「話は変わるけど...」
「今日、放課後空いてる?私、今日は白班に戻ったから、もし時間があれば、昨日の牛乳のことでも話そうか」
放課後...そうだ、柏木さんとの打ち合わせがあったんだ
「あ、ごめん。今日は芸術祭の打ち合わせがあって...」
松井の表情が一瞬暗くなった。
「そう...まあ、仕方ないね」
「また今度、時間のある時に...」
「別にいいよ」
急に彼女の態度が冷たくなり、気まずい雰囲気が流れる。俺は何か言おうとしたが、その時松井のスマホが鳴った。
着信音が響き、松井は画面を確認する。その瞬間、彼女の顔が青ざめた。
「え...?」
「どうした?」
「あ、あの...急用ができた。先に行ってて」
「え?でも...」
「ごめん!」
彼女は電話に出ながら、俺とは反対方向に走り去ってしまった。その時、最も奇妙な現象が起こった。
朝日が松井の体を斜めから照らした瞬間、俺は信じられない光景を目にした。松井の体が—まるでステンドグラスを通した光のように—半透明になったのだ。
最初は目を疑った。陽炎か何かの錯覚だと思った。しかし、確かに彼女の向こう側の景色が、ぼんやりと透けて見えた。背景の建物の輪郭が、彼女の体を通して見えたのだ。
え...今の何?
俺は立ち尽くして、走り去る松井の後ろ姿を見つめた。しかし、彼女が陰に入ると、再び普通の体に見える。
幻覚か?それとも...
俺は慌てて目を擦る。寝不足の影響で幻覚を見たのだろうか。でも、あまりにもはっきりと見えた。松井の体が透明になり、背景が透けて見えた瞬間を。
そんなことあるわけない...きっと目の疲れだ
自分に言い聞かせながら、俺は学校に向かった。しかし、胸の奥に不安な感情が渦巻いていた。
学校に着くと、教室はまだ生徒たちで賑わっていなかった。いつもより少し早く登校したせいか、数人の生徒が散らばっているだけだった。松井の姿はまだ見当たらない。
あれ?松井まだ来てないのか...あんなに慌てて走り去ったのに。
席に着くと、青木が驚いた顔で俺を見つめていた。
「おい、椎名...お前、顔色良くないか?」
「え?そうか?」
「ああ、いつもの死人面よりマシになってる。黒クマも薄くなってるし...やっと眠れるようになったのか?」
青木の言葉に、俺は思わず鏡代わりにスマホの画面に自分の顔を映してみた。
マジだ...ちょっと隈薄くなってる。あの牛乳、ガチで効いたのか?
確かに、いつもより目の下の隈が薄くなっている。あの神秘の牛乳の効果は本物だったのか。
「まあ...少しはね」
「何か良い方法でも見つけたのか?」
俺は神秘の牛乳のことを話すべきか迷った。
こんな話、誰も信じないよな...「深夜2時に光る牛乳見つけたんだ〜」なんて言ったら、頭おかしいって思われるだけだろ。それに、これって松井との秘密みたいなもんだし...
「いや、別に...たまたま昨日はよく眠れただけかも」
「へぇ〜?なんか隠してる感じだな」
「気のせいだよ」
嘘つくの下手すぎだろ、俺...顔に出てるじゃん。
「まぁいいや。とにかく、その調子で死人面を卒業してくれよ」
俺がノートを取り出していると、教室のドアが勢いよく開いた。顔を上げると、松井が息を切らせながら入ってきた。彼女の制服は少し乱れていて、髪も風で散らかっている。明らかに慌てて走ってきた様子だった。
「はぁ...はぁ...」
松井は俺と目が合うと、少し表情を硬くした。それから自分の席に向かい、カバンを置く。
どうしたんだろ?さっきの電話、誰からだったんだ?
「どうしたんだよ、そんなに慌てて」
松井の席に近づいて声をかける。彼女は周りを見回してから、小さな声で答えた。
「別に...ちょっと私用があっただけ」
「そうか...」
なんか素っ気ないな...聞かないほうがいいのかな。でもさっきのあれが気になって仕方ない。
「あのさ、さっき...」
「何?」
「君の体が一瞬...透明になったように見えたんだけど」
「は?何言ってるの?」
「いや、朝日が当たった瞬間、君の体が透けて見えたんだ。向こう側の建物が見えたくらい」
「そんなことあるわけないでしょ。寝不足で幻覚見てるんじゃない?」
「そうかな...」
でも、あれは幻覚っていうにはリアルすぎたよな...はっきり向こう側の建物見えたし。何が起きてるんだよ、マジで...
「私は普通だよ。何も感じなかったし」
彼女の反応を見る限り、本人は全く気づいていないようだ。やはり俺の目の疲れか何かだろうか。それとも...
「おいおい、お前ら何の話してるんだ?」
いつの間にか青木が近づいてきていた。彼は松井の顔をじっと見て、驚いた表情を浮かべる。
「おい、転校生も顔色良くなってるぞ!お前らどうしたんだ?もしかして一緒に...」
「違うよ!」
め、めっちゃ勘違いされてる!なんでそうなるんだよ!
慌てて否定する俺に、青木は意味深な笑みを浮かべた。
「なんだよ、急に慌てて。怪しいなぁ」
「...」
松井は青木の言葉には反応せず、教科書を机に出し始めた。朝のHRが始まる直前、彼女は俺の方を振り向き、小声で話しかけてきた。
「ねぇ、今日の放課後無理なら...夜また行かない?」
「え?」
「あの牛乳のこと、もっと調べたいじゃない?今日の深夜2時、また同じコンビニで」
「でも、昨日みたいに眠くなったらどうする?」
というか、夜2時からどうやって帰るんだよ...俺らいい年した高校生なのに、深夜徘徊か?不良かよ...でも確かに気になるんだよな、あの牛乳。
「あんた、本当に眠れると思う?一晩だけでそんな簡単に治るなら、苦労してないよ」
確かにその通りだ。一度だけ効果があったからといって、不眠症が完全に治るとは思えない。
「わかった。じゃあ今夜2時に、昨日と同じコンビニで」
「うん。約束だよ」
なんかドキドキするな...夜中に女の子と密会するなんて、まるで秘密の恋人みたいじゃん。って何考えてんだよ俺!こいつとそんなわけないだろ!
授業が始まり、いつもの日常が流れていく。しかし、今日は気分が違った。心も体も少し軽く感じる。それは単に久しぶりに眠れたからなのか、それとも...松井との秘密の約束があるからなのか。
昼休みになると、いつもなら机に突っ伏して仮眠を取るところだが、今日はそんな気分にならなかった。むしろ、何か食べたいという健全な空腹感を覚えた。
こんなの久しぶりだな...ちゃんとお腹空いてるって感覚。おかしいな、たった一晩まともに眠れただけなのに。
そんな時、教室のドアが開き、柏木さんと橘さんが入ってきた。
「こんにちは、椎名くん!」
「やあ、こんにちは」
「あ、椎名さん...顔色、いいですね」
「そう?みんなそう言うね」
もうそれ聞き飽きたよ...そんなに死人面だったのかよ...
「本当だわ。昨日よりずっと元気そう。何かあったの?」
「別に...たまたまかな」
嘘つくの下手すぎだろ、俺...
「ふーん?」
彼女は俺の顔をじっと見つめると、何か思い出したように目を見開いた。
「そういえば、昨日話した神秘の牛乳...もしかして」
「え?いや、そんな...」
やばっ!なんでバレた!?そんな顔してないよな!?
「行ったでしょ?昨日の深夜に!」
「い、行ってないよ!」
めっちゃ怪しい否定の仕方かよ!自分でも分かってるわ!
急いで否定するが、私の顔は明らかに動揺していた。その時、後ろから松井の声が聞こえた。
「何の話?」
「あ、いや...ただの都市伝説の話」
松井も来た!これはまずい...二人揃って怪しすぎるだろ...
橘は松井と俺を交互に見て、意味深な笑みを浮かべた。
「二人とも顔色良くなってるし、これは明らかに...」
やばい!バレてる!でも別にヤバイことしたわけじゃないんだけどな...でもなんか後ろめたいし...あの牛乳、実はまずいもんだったりして...
「気のせいだって!」
「そうだよ、気のせい!私なんか全然変わってないし!」
あからさますぎるって!二人で慌てまくって逆に怪しいじゃん!
俺と松井の慌てぶりを見て、橘さんはますます確信を深めている様子だった。
「...」
ボロボロだよ、このやりとり...まるで悪いことしたみたいな感じになってるし...
橘が俺たちを詰問する中、柏木さんだけは少し心ここにあらずといった様子で、窓の外を見つめていた。
そういえば、いつも柏木さんと一緒にいる田中さんの姿が見えない。不思議に思って、柏木さんに尋ねた。
「あの、田中さんは?いつも一緒じゃなかったっけ?」
「え?あ、はい...でも今日は...」
「何かあったの?」
「いえ...その...」
彼女は何か言いにくそうにしている。強く追求するのも良くないだろうと思い、その話題は一旦置いておくことにした。
あまり詮索するのもよくないよな...まだそんなに親しくないし。
「そうか。まあ、無理に言わなくていいよ」
「ゆかりちゃん、大丈夫?何か心配事?」
「い、いえ!大丈夫です」
その時、青木が戻ってきた。手にはいつものように焼きそばパンが二つ。
「おい、椎名。お前、寝てないぞ?」
「ああ、なんか今日は眠くないんだ」
「マジか!世紀の奇跡じゃないか!」
そんな大げさなこと言うなよ...まあ、確かに珍しいけどさ。
青木の大げさな反応に、みんなが笑った。その中で、松井の視線が柏木さんに向けられているのに気づいた。彼女は何か言いたそうな表情をしている。
「あの...柏木さんって...」
「は、はい?」
「もしかして、ネットで『紫苑』って名前で活動してる人?」
柏木の顔が見る見る赤くなっていく。
「え!?ど、どうして知ってるんですか!?」
「やっぱり!私、ファンなんです!あの色使いとか構図とか、本当に素敵で...」
「あ、ありがとうございます...でも、完全にバレてますね...」
松井もオタクだったのか...意外な共通点増えてきたな。てか、まさか柏木さんのファンだったとは。世間は狭いっていうか...
「芸術祭ではどんな作品を出すんですか?」
松井の質問に、柏木さんは少し表情が明るくなり、二人の間で作品の話が始まった。
「椎名くん」
「なに?」
「あなた、昨日本当に深夜のコンビニに行ったでしょ?」
「え?いや、だから...」
またこの話かよ!しつこいな!...でも否定する自信ないわ...
「顔色が良くなってるし、松井さんと何か秘密の会話してたし...まるで共犯者みたい」
「共犯者ってなんだよ...」
犯罪者扱いかよ!そんな悪いことしてないって...まあ、確かに深夜に外出てたけど...
「それに、昨日私が話した神秘の牛乳の話、明らかに気になってたじゃない」
「そんなことないよ...」
もう諦めよう...嘘つくの下手すぎるし...
俺が必死に否定していると、柏木さんのスマホが鳴った。彼女はメッセージを確認すると、少し困った表情を浮かべた。
「あの...椎名さん」
「どうしたの?」
柏木は少し迷った様子だったが、意を決したように言った。
「田中さんなんですけど...なぜか今日一日、私に話しかけてこないんです。むしろ...私のことを無視しているような...」
「え?田中さんが?」
なんだそれ?昨日までめっちゃ仲良かったのに?
「はい...メッセージを送っても、既読にはなるんですが、返信がなくて...」
これは奇妙な話だ。昨日まで仲良くしていた二人が、急に連絡が取れなくなるなんて。
「何か喧嘩でもしたの?」
「いいえ!昨日まで普通に話していたのに...」
「それは確かに変ね...」
「彼女に何かあったのかもしれないね。疲れてるとか...」
まあ、女の子の間の複雑な関係なんて、俺には分からないけどさ...でも確かに変だな。
「でも、それにしても...私のことを覚えていないみたいな感じなんです」
「覚えていない?」
柏木の言葉に、俺は何かひっかかるものを感じた。
まさか...松井の透明化も、田中さんのこの様子も...関係あるとか?ありえなくね?
「はい...『誰?』って返信が来たんです」
「マジで?」
おいおい、冗談きついだろ...親友のこと忘れるとか...これはマジでおかしいって。
これは単なる疲れとは思えない。まるで...
その瞬間だった。
柏木さんの姿が、ぐにゃりと歪んだ。
「え…?」
まるで古いテレビの電波が乱れたみたいに、彼女の輪郭がノイズ混じりに揺らめく。淡い紫色の髪が、その向こうにあるカフェの壁紙と重なり合い、透けて見え始めた。
「柏木さん…?」
これは、今朝見た松井と同じ現象だ。間違いない。彼女の存在が、今、俺の目の前で希薄になっていく。恐怖が心臓を鷲掴みにする。
彼女自身は気づいていないようだった。ただ俯いて、自分の指先を見つめている。その指先さえ、徐々に透明度を増していく。
「しっかりしろ、柏木さん!」
俺は無意識に身を乗り出し、テーブル越しに彼女に手を伸ばそうとした。その声と行動に反応したのか、柏木さんはハッと顔を上げる。
すると、不思議なことが起きた。俺が彼女に近づこうとした分だけ、彼女の体の揺らぎが収まり、色が戻ってくる。透けていた指先が、再び血の通った肌色を取り戻していく。
「え、あの…椎名さん?」
彼女は俺の剣幕に驚いているようだった。俺はゆっくりと身を引く。彼女の体は、もう普通に見えた。
「…いや、なんでもない。少し、驚いただけだ」
幻覚なんかじゃない。今、確かに起きたことだ。
これは明らかに普通ではない状況だった……
午後の授業が始まり、生徒たちは席に着いた。授業中、俺は柏木さんの話について考えていた。田中さんが柏木さんのことを忘れてしまった...これはもしかして、松井の透明化現象と何か関係があるのだろうか。
俺の背筋に、冷たいものが走った。冗談であってほしい。でも、柏木さんの震える声と、絶望に染まった表情が、それが現実だと告げていた。
っていうか、昨日牛乳見てから、変なことばっかり起きてない?これって牛乳のせいとか...ないよな?だって牛乳飲んでないし...でも消えちゃったんだよな、あれ。マジでなんなんだ、あの牛乳...
授業が終わると、約束通り俺たちは芸術祭の打ち合わせのために集まることになった。柏木さんは少し考え込んだ後、こう言った。
「私、先に田中さんに会ってきます」
「大丈夫?一人で行って」
「でも...」
「私も一緒に行くわ。ゆかりちゃん一人じゃ心配だし」
俺も迷いながらも、柏木さんと橘さんを一人で行かせるのは心配だった。それに、自分の目で田中さんの様子を確かめてみたかった。
しょうがないか...付き合うか。第一、ちょっと気になるし。もし本当に忘れられてるなら...それって怖すぎるよな。
「俺も行くよ。三人の方が何かあっても安心だし」
「ありがとう、椎名くん!」
「椎名さん...」
こうして三人で、田中さんを探しに行くことになった。彼女はまだ教室にいるはずだった。
教室に戻ると、田中さんは数人の女子と話していた。私たちが近づくと、彼女は笑顔で振り向いた。
「あ、椎名くん、橘ちゃん。どうしたの?」
その瞬間、田中さんの視線は俺と橘だけに向けられ、柏木さんには全く気づいていないようだった。
え?マジで?
「里奈ちゃん...」
「え?誰か他にも来てるの?」
「えっ?」
うそだろ...本当に見えてない?こんな目の前にいるのに?
田中さんの言葉に、全員が凍りついた。彼女の目の前に柏木さんがいるのに、まるで見えていないかのような反応だった。
「田中さん、冗談でしょ?柏木さんがここにいるじゃないか」
「柏木...さん?」
まじかよ...冗談にしても度が過ぎてるし...でもこれ、演技じゃなさそうだな。
「ゆかりちゃんよ!ほら、ここに立ってるじゃない!」
田中さんは困惑した表情で、柏木さんがいる方向を見るが、焦点が合っていないようだった。
「柏木ゆかりさん!美術部の!あなたの親友でしょ?」
「美術部...?」
これは演技じゃない...マジでヤバくね?人が見えないとかナシでしょ...でも松井の時だって...
柏木さんの表情が曇っていく。彼女は震える声で言った。
「里奈ちゃん...私だよ、ゆかり...」
「ごめん...知らない子みたい...」
この状況が現実とは思えなかった。昨日まで親友だった二人が、一人は相手を全く認識できなくなっている。これは単なる冗談や勘違いでは済まされないことだった。
「田中さん、よく見て。ほら、柏木さんがここにいるんだ」
俺は柏木さんの肩に手を置き、彼女を前に押し出した。田中さんは困惑したまま、その場所を見つめている。
「え?ええと...」
急に、田中さんの体が小さく震えた。彼女は目を大きく見開き、まるで初めて見るかのように柏木さんを見つめた。
「あれ?ゆかりちゃん!?いつからそこにいたの?」
「里奈ちゃん!私のこと、わかる?」
「もちろんよ。でも...なんで急にそんなこと聞くの?」
「田中さん、今まで柏木さんが見えなかったの?」
「え?そんなことないよ。ずっと見えてたわ...」
「いや、さっきまで『柏木さんって誰?』って言ってたじゃないか」
うわ、これマジでヤバい...思い出せないって...まるでホラー映画みたいじゃん...
「私が?そんなこと言ってない...」
場の空気が奇妙に凍りついた。田中さんは自分が柏木さんを認識できなかったことを全く覚えていない様子だった。
「里奈ちゃん、体調は大丈夫?今日はずっと私からのメッセージに返事がなくて...」
「ごめん...なんか今日はすごく頭がぼーっとして...あんまり記憶がはっきりしないの」
「記憶が?」
「変でしょ?なんか自然と忘れちゃうんだよね...ゆかりちゃんのこともなんで忘れてたんだろう...」
これは明らかに普通ではない状況だった。人が自然と忘れられていく...まるで存在が薄れていくかのように。
俺の頭の中で考えがぐるぐる回る。人が透けて見える...人が記憶から消える...これって現実なのか?それとも俺が何かの幻覚でも見てるのか?でもみんなも同じもの見てるし...一体この街で何が起きてるんだ?
「椎名さん、ありがとうございます。もし椎名さんが田中さんに言ってくれなかったら...」
「いや、気にしないで」
「ごめんね、みんな。私、今日は早く帰るわ。なんだか本当に疲れてて...」
「大丈夫?送っていこうか?」
「ううん、大丈夫。少し休めば元気になるから」
こうして田中さんは帰っていった。残された三人は、さっきの出来事について話し合いながら、予定通りカフェに向かった。
カフェに着いても、誰も田中さんの件について深く話す気分ではなかった。柏木さんは明らかに動揺しており、橘も何か考え込んでいるようだった。
重すぎるな、この雰囲気...なんか話題変えないと...
俺は何か話題を変えようと思い、昨夜のことを少しぼかして話すことにした。
「あのさ...最近、ちょっと不思議なことが起きてるんだ」
「不思議なこと?」
「ああ...例えば、人が透明になったり...記憶から消えたり...」
「透明に!?」
「朝、松井が一瞬透けて見えたんだ。背景が見えるくらいに」
言っちゃった...でも、もう隠しても仕方ないよな。これって全部関係あるかもしれないし。
「まさか!それで昨日の神秘の牛乳のことも...」
「それ以上は言えないんだ。松井と約束したから」
ちょっとかっこつけすぎかな?でも松井と約束したしな...
「そっか...でも、これって田中さんの件と関係あるのかな?」
「里奈ちゃん...大丈夫かな」
「田中さんの家に行ってみるのはどう?」
「そうですね...お見舞いに行こうと思います」
「そうか。あんたたち、かなり親しいんだね」
「はい、里奈ちゃんは私の一番の友達ですから」
「私も椎名くんと一緒に松井さんに会いに行くわ。もっと詳しく聞いてみたい」
「え?でも...」
うわ、急に話が大きくなってきたな...俺と松井の秘密のはずだったのに...まあ、橘なら信頼できそうだけど...
「この不思議な出来事、解明したいじゃない?」
確かにその通りだった。透明になる人、忘れられていく人...これらは何か関連があるのかもしれない。そして、その中心にあるのは「神秘の牛乳」なのかもしれない。
「わかった。じゃあ、一旦解散して、それぞれの用事を済ませよう」
こうして三人は別れることになった。柏木さんは田中さんの家へ、俺と橘は松井を探しに行くことにした。頭の中には次々と疑問が浮かんでくる。