1-4
翌朝、いつものように重い身体を起こし、身支度を整える。昨夜は松井との音楽談義で少し遅くなったが、それでもやはり眠れず、結局3時間程度の睡眠時間だった。鏡に映る自分の顔は、さらに疲れ切ったように見える。
今日も一日が始まるか...
カバンを肩にかけ、玄関のドアを開けた瞬間—
「わっ!」
目の前に立っていたのは、松井夕音だった。彼女も階段を降りてきたところで、お互いに驚いて立ち尽くす。
二人とも言葉が出ず、玄関前でしばらく見つめ合う。松井の顔をよく見ると、俺と同じように疲れ切った様子が見える。目の下には薄っすらと隈ができている。
「...あんた、全然寝てないでしょ」
彼女が先に口を開いた。その言葉に、俺は苦笑いする。
「君だって同じじゃないか」
「べ、別に普通に寝たよ」
「その隈は何だよ」
「...知らない」
彼女は少し頬を膨らませ、そっぽを向く。その仕草が妙に可愛らしく見えて、俺は思わず小さく笑ってしまった。
「一緒に学校行く?」
「...まあ、方向同じだし」
「そうだな」
こうして、偶然にも二人で学校に向かうことになった。しかし、歩き始めてからは微妙な沈黙が続く。松井は俺から一歩後ろを歩き、時折チラリとこちらを見るが、目が合うとすぐにそらしてしまう。
「そういえば...」
沈黙を破るために、俺は話しかけた。
「なんで深夜にベースの練習してるんだ?」
「昼間は学校だし、夕方からはバイトがあるから...練習できるの夜だけなんだ」
「そっか。大変だな」
「まあね」
俺はさらに聞こうとしたが、今度は松井から質問が返ってきた。
「あんたこそ、なんでそんなに眠れないの?」
「それは...」
俺は少し迷った。両親のことを話すべきかどうか。でも、まだそんなに親しくない彼女に重い話をするのもためらわれる。
「最近、なんの理由もなく全然眠れないんだ」
「理由もなく?」
「ああ。布団に入っても、頭が冴えちゃって...」
「ふーん」
「松井も眠れない?」
「私はそんなことない。練習が終わったらすぐ寝るし」
そう言いながらも、彼女の顔にある隈が物語っている。明らかに十分な睡眠を取れていない様子だ。俺は心の中で苦笑いした。
学校の校門前に着くと、青木が待っていた。俺たちを見るなり、彼は眉を上げて驚いた表情を見せる。
「おいおい、椎名...まさかもう仲直りしたのか?」
「仲直りって...」
「だって昨日は騒音の苦情で険悪だったんだろ?それが今日はもう一緒に登校かよ」
青木は意味深な笑みを浮かべながら、俺と松井を交互に見る。
「しかも二人とも顔色悪いし...まさか昨夜は...」
「違うよ!」
俺は慌てて否定する。松井は青木のことなど気にもせず、そのまま校舎へと向かってしまった。
「へぇ...転校生、愛想ないな」
「元々そういう性格なんだろ」
「まあ、お前には合ってるかもな。似た者同士だし」
「何それ」
「根暗同士って意味だよ」
教室に着くと、俺はいつものように窓際の席に座る。カバンから音楽プレーヤーとイヤホンを取り出し、『Ever Night』のプレイリストを再生する。片方のイヤホンを耳に装着し、もう片方を装着しようとした瞬間—
ひょいっ
「え?」
背後から伸びてきた手が、俺の持っていたイヤホンをつかんだ。振り返ると、松井が俺のイヤホンを自分の耳に入れているところだった。
「Ever Nightでしょ?」
「え、あ、うん...でも」
え、ちょっと待て...何この状況!?
俺の頭の中が完全にパニック状態になる。まさか松井がこんなに大胆な行動に出るとは思わなかった。イヤホンを共有するなんて、普通したことないし...というか、これって結構親密な行為じゃないのか?
なんで彼女は平気な顔してるんだ?俺だけ動揺してるのか?
「あ、この曲好き...」
彼女は目を閉じて音楽に聞き入り始める。その表情は昨夜と同じように、とても穏やかで美しい。いつもの冷たい態度とは打って変わって、心の底から音楽を楽しんでいる様子だ。
やばい...なんかドキドキしてきた...
俺は自分の心臓の音が聞こえそうになって、慌てて胸に手を当てる。こんな感覚、いつ以来だろう。中学の時に好きだった先輩のこと以来かもしれない。
「おいおい...」
青木の声で我に返る。彼は口をぽかんと開けて、俺たちを見つめていた。
「いいなぁ...青春だなぁ...」
青木の視線が痛い...でも、イヤホンを取り上げるのもなんか変だし...
俺は困ったような表情で青木に肩をすくめてみせる。でも心の奥では、このままでいいような気もしていた。松井の髪の香りが微かに漂ってきて、それがまた俺の心を揺さぶる。
「あの...」
「シーッ」
彼女は目を閉じたまま、人差し指を口元に当てる。その仕草があまりにも自然で、俺は何も言えなくなってしまった。
参ったな...完全に松井のペースだ
「俺、完全に空気だよ...一人ぼっちの朝だよ...」
青木、ごめん...でも、これ...なんか良い感じだな
松井は相変わらず目を閉じて、完全に音楽の世界に入り込んでいる。時々、リズムに合わせて軽く体を揺らしたりしている。その様子がとても可愛らしくて、俺はつい見とれてしまう。
彼女のこんな一面、他の誰も知らないんだろうな...なんか特別な気分だ
曲が『Silent Echo』に変わると、松井は小さく口ずさみ始める。
「ん〜ん〜♪」
え、歌ってる...しかも上手い
俺も思わず一緒にハミングしてしまう。不思議なことに、二人の息がぴったりと合っている。まるで何年も一緒に音楽を聞いているかのように。
「ん〜ん〜♪」
「もういいよ...俺は教科書でも読んでるよ...」
しばらくすると、松井がゆっくりと目を開けた。
「いい音質...やっぱり生音とは違うのね」
「そう?ちょっと古い機械だけど」
「でも低音がちゃんと出てる。ベースラインがよく聞こえる」
音楽の話をしてる時の松井、本当に生き生きしてるな...
俺は松井の横顔を見つめながら、昨夜のことを思い出す。あの時も、こんな風に音楽について熱く語っていた。その落差が、かえって彼女の魅力を際立たせている。
こうして、授業の始まりを告げるチャイムが鳴るまで、二人で音楽を共有し続けた。最後に松井がイヤホンを外して俺に返す時、指先が軽く触れ合った。その瞬間、俺の心臓が一瞬跳ね上がった。
「ありがと」
「あ、うん...」
1時間目は歴史の授業だった。先生が黒板に年表を書きながら、幕末の政治情勢について説明している。しかし、慢性的な睡眠不足の俺にとって、午前中の授業は苦行でしかない。
「では、薩摩藩と長州藩が手を組んだ薩長同盟について説明しますが...」
先生の声が遠くから聞こえてくるようで、だんだんと意識が遠のいていく。目蓋が重くなり、さっきの松井とのドキドキも手伝って、俺の集中力は完全に消失していた。
やばい...眠い...でもさっきのことが頭から離れない...
気がつくと俺は机に突っ伏していた。
また、あの夢だった。
雨の夜の国道。フロントガラスを叩く激しい雨音。ワイパーが必死に雨を掻き分けているが、視界は相変わらず悪い。対向車線から近づいてくる大型トラックのヘッドライト。あの時と同じ、眩しい光。
母さんの悲鳴が鼓膜を突き刺す。父さんのハンドルを握る手が震えている。俺は後部座席から、二人の緊張している背中を見つめている。
「危ない!」
母さんの叫び声。父さんがハンドルを切る。しかし、路面は濡れていた。タイヤがスリップする音。車体が制御を失う感覚。そして—
衝撃。
金属の軋む音。ガラスの砕ける音。すべてがスローモーションで進行する。
俺はシートから投げ出され、冷たい雨の中に倒れている。目の前には形を失った車の残骸。黒い煙が立ち上っている。
そして、雨の向こうから現れる少女の姿。
今回は以前よりもはっきりと見える。長い黒髪が雨に濡れている。制服を着ているが、その輪郭がぼんやりとしている。
「椎名くん...」
少女が俺の名前を呼ぶ。その声は優しく、どこか懐かしい。
「忘れないで...私のこと...」
彼女は俺に向かって手を伸ばしてくる。俺も手を伸ばそうとするが、距離が縮まらない。彼女の姿がどんどん透明になっていく。
「待って!君は誰だ?」
俺が叫んだ瞬間—
「椎名!」
突然の大きな声で、俺は飛び起きた。クラス全員の視線が俺に集中している。先生が恐ろしい顔でこちらを睨んでいた。
「いい加減にしなさい!授業中に居眠りなんて...では、薩長同盟の仲介者について答えなさい」
「え...あ、その...」
えええええ!!!やべぇ、完全に寝てた!薩長同盟って何だっけ!?仲介者って誰だよ!?
俺の頭の中が完全にパニック状態になる。歴史の知識なんて、もともと乏しいのに、しかも居眠りしてたから何も分からない。
助けて!誰か助けて!青木!
必死に青木の方を見る。彼なら何か教えてくれるはずだ。しかし、青木は遠くを見つめて完全にぼーっとしていた。
おい、青木!!!お前も聞いてないのかよ!!!
俺の絶望的な視線に気づかず、青木はそのまま放心状態を続けている。
松井は!?松井なら何か知ってるかも!
振り返って背後の松井を見ると—
彼女も完全に眠りこけていた。机に頭を乗せて、小さく寝息を立てている。
うそだろ...まさかの全滅...
絶望感が俺を襲う。クラス中の視線が俺に注がれている。先生の表情はますます怖くなっていく。
「まったく...青木!君も起きなさい」
先生が青木の名前を呼ぶ。青木は慌てて顔を上げる。
「はい!え、何ですか?えーっと...」
青木も完全に状況を把握していない。パニックになってきょろきょろと周りを見回している。
「薩長同盟について聞いているんです!」
「さっちょう...どうめい...?」
青木、役に立たねぇ...
「松井さんも起きなさい。三人とも一体何をしているんですか」
先生が松井を起こす。松井はゆっくりと顔を上げ、まだ半分眠ったような状態で先生を見つめる。
「...はい?」
「薩長同盟の仲介者は誰ですか?」
「...え?さっちょう?」
ダメだ...松井も全然分かってない...
俺たち三人は完全に詰んでいた。誰も答えられず、教室は気まずい沈黙に包まれる。
「全く...では、柏木さん、分かりますか?」
先生が諦めたようにため息をつき、柏木さんに質問を振る。
柏木さん...頼む!何か知ってて!
俺は心の中で必死に祈る。柏木さんは小さく立ち上がり、緊張した声で答える。
「あ、あの...坂本龍馬...ですか?」
「正解です!ありがとう、柏木さん」
先生は満足そうに頷いた。
柏木さん、神!!!
俺は心底ほっとして、小さく振り返り、柏木さんに感謝の意を込めて軽く頭を下げる。彼女は顔を真っ赤にして、すぐに下を向いてしまった。
助かった...まじで柏木さんのおかげだ
授業は続いたが、俺はもう居眠りする勇気はなかった。先生の視線が時々こちらに向けられ、まだ警戒されているのが分かる。
今度から気をつけよう...
昼休みになると、田中さんが柏木さんと一緒にやってきた。
「椎名くん、お疲れさま!」
「お疲れさま」
「実は今日も用事があって...ごめんね、またゆかりちゃんにお任せしちゃって」
「大丈夫だよ」
「すみません...」
「今日はもう少し具体的に話し合ってね。明日もしかしたら私も参加できるかも」
田中さんはそう言い残して去っていった。俺は机に突っ伏し、少しでも仮眠を取ろうとする。
「あの...」
背中をつつかれる感覚に、俺は顔を上げた。松井が立っていた。
「昼休みに来てた子、柏木って子でしょ?」
「うん、そうだけど」
「芸術祭のパートナーって聞いたけど、何をするの?」
「絵を描くんだ。彼女、美術部なんだよ」
「へぇ...上手いの?」
「それが...実はすごい上手いんだ。『紫苑』って知ってる?」
「え!?『紫苑』って、あの?」
「そう、あのネットで有名な紫苑だよ」
「マジで!? あの子が紫苑なの!?」
松井の目が輝く。彼女も二次元文化に詳しいとは、また一つ共通点が見つかった。
「俺も驚いたよ。見た目からは想像できないだろ?」
「すごい...私もファンなんだ。あの色遣いとか構図とか...」
「そうなんだ。今度の芸術祭、見に来てよ」
「まあ...機会があれば」
俺はふと思いついて、彼女に提案してみた。
「今日の放課後、打ち合わせをするんだけど、一緒に来ない?」
「私、バイトがあるから...」
「そっか、そうだったね」
「また今度、機会があれば」
放課後、俺は柏木さんと待ち合わせをしていた喫茶店に向かった。しかし、教室で彼女を探したとき、既に姿はなかった。仕方なく、一人で店に向かう。
店に入ると、昨日と同じ窓際の席で柏木さんが座っていた。しかし、彼女の向かいには見知らぬ女性がいた。明るい茶髪をショートボブにした、活発そうな印象の少女だ。
「あ、椎名さん」
柏木さんが俺に気づいて手を振る。俺が席に近づくと、その女性が立ち上がった。
「あなたが椎名晓くんね!初めまして、橘沙也加です」
「あ、初めまして...」
「私、文学部の部員なの。今回、柏木さんの作品制作をお手伝いさせてもらうことになったの」
「え?手伝いって...」
「あの...作品にもう少しストーリー性を持たせたいって思って...それで、里奈ちゃんが橘さんを紹介してくれたんです」
「さっき柏木さんから聞いたわ。椎名くんがパートナーなのね」
俺は少し戸惑いながら席に座る。テーブルの上を見ると、柏木さんの前には昨日と同じトリプルエスプレッソが置かれていた。
「また同じもの頼んだの?」
「あ...その...」
「あら、昨日も同じもの頼んだの?」
「うん、でも全然飲めなくて苦労してたよ」
「あー、わかる。柏木さんって意外と見栄っ張りなのよね」
「そ、そんなことないです!」
「でも今日は私が一緒だから、無理しなくていいのよ?」
俺は苦笑いしながら、ウェイトレスを呼んでカフェラテを追加注文した。
「それで、何か進展は?」
「実は...柏木さん、さっきから『ちょっと考えさせて』って言ったきり...」
「それで?」
「それで終わり。私たち、もう30分近くこうやって座ってるのよ」
俺は柏木さんを見る。彼女は真剣な表情で何かを考え込んでいるが、やはり口を開く様子はない。
「柏木さん、何か思いついた?」
「あ、はい...その...」
彼女は少し迷いながらも、ようやく話し始めた。
「歴史的な人物を描いて...それに物語性を持たせたいなって思うんです」
「歴史的人物?」
「それいいじゃない!具体的にはどんな?」
俺は歴史にあまり興味がないので、橘さんに視線を向ける。彼女は目を輝かせて身を乗り出した。
「その前に、今回の芸術祭のテーマって何だっけ?」
「え?昨日会ったのに、まさかテーマも聞いてないの?」
「昨日は...その...別の話で盛り上がっちゃって...」
「あー、なるほど。テーマは『共鳴』よ。二人の作品が響き合う、みたいな意味合いかな」
「共鳴か...」
「それで、私たちなりに解釈して、『物語への共鳴』っていう形で進めたいんです」
「なるほど。それで歴史人物なのか」
「漫画形式はダメなのよね?」
「一枚絵じゃないとダメみたいです」
「じゃあ、どうやって物語性を出す?」
ここから、三人でアイデア出しが始まった。
「背景に物語の場面を描き込むとか?」
「それいいね。でも、どんな人物を描く?」
「やっぱり日本の歴史人物がいいかな...」
「織田信長とか?」
「ちょっとメジャーすぎない?」
「じゃあ明智光秀は?」
「で、でも私、戦国時代よく知らなくて...」
「他の時代は?」
「江戸末期とか?新選組とか」
「新選組いいんじゃない?ドラマチックだし」
「新選組...」
「土方歳三とか沖田総司とか、有名だし物語性もある」
「土方歳三って、あの副長の?」
「そう!『鬼の副長』って呼ばれてたけど、実は美意識が高くて、写真も残ってるし...」
「土方さん...確かに絵になりそうです」
「じゃあ、土方歳三で決まり?」
こうして、三人の意見が一致し、作品のテーマが決まった。
都市伝説と夜勤の謎
時間は既に夕方近くになっていた。三人でLINEを交換し、今後の連絡手段を確保する。
「ゆかりちゃん、お疲れさま!」
田中さんが現れ、柏木さんを迎えに来た。
「それじゃあ、また明日詳しく話そう」
「はい、ありがとうございました」
「椎名くん、どっち方面?」
「駅の方だけど」
「私も!一緒に帰りましょう」
こうして、橘さんと一緒に帰路につくことになった。
「椎名くんって、部活はしてないの?」
「ああ、特に興味のある部活がなくて」
「あ、カメラ持ってるじゃない。写真部とかは?」
「昔から写真は撮ってるけど、部活にまでは...」
「そっか。でも、今回の芸術祭で何か変わるかもしれないわよ?」
歩きながら、橘さんは俺の顔をじっと見る。
「椎名くん、すごく目の下にクマができてるけど、大丈夫?まるで何日も眠ってないみたい」
「ああ...実は慢性的な不眠症で」
「不眠症?大変ね。原因とかあるの?」
「よく分からないんだ。医者にも行ったけど...」
「そういえば...」
彼女は何かを思い出したような表情を見せた。
「深夜2時にコンビニに行くと、神秘的な牛乳が買えるっていう話、知ってる?」
「神秘的な牛乳?」
「その牛乳を飲むと、ぐっすり眠れるっていう都市伝説よ」
「そんなの信じるの?」
「私も半信半疑だけど、面白い話でしょ?」
「誰から聞いたの?」
「確か...天文部の星野繭さんだったかな」
星野...その名前を聞いて、俺の胸に不思議な違和感が広がった。どこかで聞いたことがあるような...でも、思い出せない。
「それじゃあ、私はこっちだから。また明日ね!」
「うん、お疲れさま」
一人になった俺は、家に向かいながら無意識に近所のコンビニを見た。しかし、松井の姿は見えない。まあ、まだ夕方だから当然だろう。
家に着いてからも、なんとなく気になって、夕食用の弁当を買いにコンビニに立ち寄った。店内を見回すが、やはり松井はいない。
「すみません」
レジの男性店員に声をかける。
「昨日働いていた女性の店員さんは、今日はいないんですか?」
「ああ、松井さんのことですね。今日は午後からシフト変更して、夜勤に回ってもらいました」
「夜勤?」
「本人の希望なんです。急に夜勤に変わりたいって言い出して」
「そうなんですか...」
明日も学校があるのに、なぜ夜勤を希望したのだろう。何か事情があるのかもしれないが、まだそこまで親しくない俺が詮索するのも変だろう。
「ありがとうございました」
弁当を買って、アパートに戻る。部屋に入り、「ただいま」と両親の写真に向かって呟く。
今日は一日の中でいろいろなことがあった。松井との登校、イヤホンの共有、授業中の居眠り、カフェでの打ち合わせ、新しく知り合った橘...そして、星野繭という名前。
「星野...」
その名前を口にすると、胸の奥に不思議な感覚が湧き上がる。まるで遠い記憶の奥底に眠る何かが、ゆっくりと目を覚まそうとしているような...でも、やはり思い出せない。
弁当を温め、一人で夕食を取る。外は既に暗くなり始めていて、街灯がぽつりぽつりと点灯し始めた。窓の外を見ると、コンビニの明かりが見える。松井は今頃、あそこで働いているのだろうか。
食事を終え、シャワーを浴びて、ベッドに横になる。枕元のスマホを見ると、松井からのメッセージは来ていない。当然だろう、まだそんなに親しいわけでもないし。
天井を見つめながら、今日のことを振り返る。特に、朝の出来事。松井がイヤホンを共有してくれた時の、あの心臓の高鳴り。橘の話した都市伝説、神秘的な牛乳...そんなもの、本当にあるわけないだろう。でも、不思議と気になってしまう。