1-3
朝日が窓から差し込み、カーテンの隙間から明るい光が部屋に入り込んでくる。ゆっくりと目を開けた俺は、昨夜のあの子とのやり取りを思い出していた。少しだけ眠れたものの、相変わらず浅い眠りだった。枕元の時計は6時30分を指している。一日の始まりだ。
「はぁ...」
大きく伸びをすると、背筋がポキリと鳴る。体を起こし、窓辺に立ってカーテンを開ける。外は春の晴れた朝。桜が少しずつ咲き始め、淡いピンク色が街を彩っていた。しかし、その美しさも心に染み入ってこない。ただの風景、ただの日常でしかなかった。
顔を洗い、歯を磨き、制服に着替える。昨日と同じ流れ、明日も同じ流れ。鏡に映る自分の顔には、依然として黒い隈がくっきりと浮かび上がっている。昨夜少し眠れたとはいえ、長年の不眠症はそう簡単に治るものではない。
「今日も始まるか...」
簡素な朝食―トーストと目玉焼き―を作り、黙々と食べる。窓の外では、早起きの人々が忙しなく行き交い、新しい一日を始めていた。彼らと同じように、俺も日常を繰り返す。ただ、心の中には何かが欠けているような、どこか空虚な感覚がいつもある。
食事を終え、カバンを肩にかける。部屋を出る前に、両親の遺影に向かって「行ってきます」と小さく呟く。返事がないことは分かっているが、これが俺の日課だった。
アパートを出て、いつもと同じ通学路を歩き始める。朝の空気は冷たいが、春の温かさも少しずつ感じられる。通学路沿いの桜並木は、まだつぼみが多いが、一部は淡いピンク色の花を咲かせ始めていた。
「キレイだな...」
心からそう思えないのに、口から出る言葉。自分でも、自分の感情が薄れていることに気づいている。
通学路の途中、いつものようにコンビニに寄る。昼食用のパンとジュースを買うつもりだった。しかし、レジに向かう途中、ふと店の外に目をやると、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
長い紫色の髪を持つ女子生徒。制服姿で、小さな身体。その背中から感じられる何か...見覚えがあるような、ないような。彼女は俺に気づかず、人混みの中に消えていった。
「あの子...どこかで...」
頭の中で記憶を探るが、思い出せない。夢の中で見た誰かのようにも思えるが、はっきりとした記憶は浮かんでこない。しかし、心の中に不思議な引っかかりを感じる。
「気のせいかな...」
首を振り、コンビニでの買い物を済ませ、学校へと向かう。
校門に着くと、いつもの警備員のおじさんが立っていた。
「おう、椎名。今日はどうだ、眠れたか?」
「おはようございます...まあ、少しは」
「そうか、よかった。顔色も少し良さそうだな」
「...そうですか」
校舎に入り、靴を履き替え、教室へと向かう。まだ早い時間だったが、既に数人のクラスメイトが来ていた。自分の席に着き、カバンを置く。しばらくして青木が教室に入ってきた。
「よう、椎名。今日は顔色いいな」
「そう?みんなそう言うけど」
青木は意味深な笑みを浮かべる。
「さあ?何のことかな?」
青木は自分の席に着きながら、俺を振り返る。
「それで、あの子とは何か進展あった?」
「何もないよ。話したのは昨日が初めてだし」
「へえ、なのに随分気にしてるみたいだけどな」
「気にしてないよ...」
「なんだよ、つまんねえな。せっかくお前に女の子の話題ができたと思ったのに」
「茶化すなよ...」
そんな他愛もない会話をしていると、徐々に教室が生徒たちで埋まっていった。チャイムが鳴る少し前、佐々木先生が教室に入ってきた。普段より少し緊張した面持ちで、教壇に立つ。
「みなさん、おはようございます。着席してください」
先生の声に、教室内の私語が徐々に収まっていく。
「今日は特別なお知らせがあります。皆さんのクラスに、新しい仲間が加わります」
その言葉に、教室内がざわつき始めた。「転校生?」「男子?女子?」という声が聞こえる。
「松井さん、どうぞ入ってきてください」
教室のドアが開き、一人の生徒が入ってきた。
銀がかった水色の短い髪、鮮やかな青い瞳、耳に複数のピアス。そして、無表情で冷たい目つき。間違いなく、昨日上の階で会った少女―松井夕音だった。
「松井夕音です。よろしく」
短い自己紹介と冷たい態度に、クラスメイトたちは戸惑いながらも興味津々といった様子だった。特に男子たちは、その独特な雰囲気と美しさに目を奪われていた。
しかし、俺は単純に驚いていた。まさかあの少女が転校してくるなんて。しかも、同じクラスに。これは偶然なのか、それとも...?
松井の視線が教室を巡り、やがて俺と目が合った。彼女の目が一瞬大きく開き、明らかに驚きの色が浮かぶ。しかし、すぐに冷たい表情に戻り、少し鼻で笑ったように見えた。
「松井さんは首都高校から転入してきました。皆さん、仲良くしてあげてください」
佐々木先生は教室を見回し、空いている席を探す。そして、俺の背筋が凍るような言葉が発せられた。
「椎名くんの後ろの席が空いていますね。松井さん、そちらに座ってください」
運命の悪戯としか思えない。昨夜会ったばかりの少女が、まさか俺の真後ろに座ることになるなんて。
「...はい」
彼女はゆっくりと俺の横を通り、後ろの席に向かう。通り過ぎる際、わずかに視線が絡んだが、彼女はすぐに目をそらした。後ろから彼女が席に着く気配がする。妙な緊張感が全身を駆け巡った。
青木がこちらを見て、驚いた表情を浮かべている。
「おい、お前...あの子知ってるのか?」
小声で尋ねてくる。
「...ああ、昨日話した子だ」
「マジで!? あの子がお前の上の階に住んでるって言ってた子?」
「うん、驚いたよ」
「何かあったの?二人の間に」
松井に聞こえないよう小声で答える。
「昨夜、ベースの音がうるさくて、文句を言いに行っただけだよ」
「へぇ...でも、あの子なんか敵意むき出しじゃない?」
「そうかな...」
「まあ、真夜中に文句言われたら、そりゃ嫌われるよな」
青木はそう言って、少し同情するような目で俺を見た。
「気にするな、たまたまだよ」
「お前、運命の出会いとか信じないタイプだもんな」
「そんなの、あるわけないだろ」
授業が始まり、いつもの日課に戻る。しかし、背後に松井がいる感覚が妙に気になって仕方がない。彼女の存在が、重力のように俺の意識を引っ張る。
数学の授業中、ふと後ろを振り返ってみると、松井は無表情で窓の外を見つめていた。しかし、その右手の指がリズミカルに机を叩いていることに気づく。昨夜見たのと同じ、ベースの弦を押さえるような動き。彼女は音楽を頭の中で鳴らしているのだろうか。
松井と目が合うと、彼女は一瞬驚いたように見えたが、すぐに眉をひそめた。
「何?」
口の形だけでそう言う彼女に、俺は慌てて前を向き直した。妙に気恥ずかしい。
そんな状態で、午前の授業があっという間に過ぎていった。教科書のページをめくり、ノートを取る動作も機械的だ。頭の中では、松井のことや、朝見かけた紫髪の少女のことが巡っていた。
昼休みになり、青木がいつものようにパンを買いに行ってくれる。
「いつものでいいか?」
「ああ、頼む」
「転校生には何かおごらないのか?挨拶代わりに」
「なんでだよ...」
「まあ、冗談だよ。じゃ、行ってくる」
青木が教室を出て行くと、俺は机に突っ伏し、少しでも休もうと目を閉じる。しかし、後ろの席の気配が気になって、なかなか落ち着けない。
松井も教室を出たようだ。新しい環境に慣れようと、学校内を探索しているのかもしれない。転校初日で、まだ友達もいないだろうに。
そんなことを考えていると、肩を叩かれた気がした。
「すみません、椎名くん?」
その声は小さく、控えめだった。目を開けると、茶色の短髪の女子生徒が立っている。クラスでは見たことがあるが、話したことはない。確か...田中だったか?
「...はい?」
「あの、突然ごめんなさい。田中里奈です」
「実は、お願いがあって...」
田中の背後には、もう一人の女子生徒が立っていた。長い紫色の髪に、紫色の瞳。そして、髪に小さな十字のヘアピンをつけている。朝、通学路で見かけた後ろ姿の女子生徒だ。彼女は俺の方をちらりと見るが、すぐに目をそらし、床を見つめる。
「この子、柏木ゆかりちゃんなんだけど」
田中が説明を始める。
「先週先生が言ってた芸術祭のことで...」
芸術祭。そういえば、先週の終わりに佐々木先生が、年に一度の芸術祭について話していた。「共鳴」というテーマで、二人一組のペアで作品を作るという。それが何か関係しているのだろうか。
「芸術祭?何かあったの?」
「実は、ゆかりちゃんにパートナーが見つからなくて...」
「パートナー?」
「芸術祭は二人一組でしょ?ゆかりちゃん、美術部なんだけど、佐々木先生が『是非出てほしい』って言ってて...」
柏木さんはまだ俺を見ようとせず、手の指を絡ませながら落ち着きなく立っている。明らかに緊張している様子だ。細い体が微かに震えているようにも見える。
「でも、なんで僕に?」
「ゆかりちゃん、クラスの皆に聞いたんだけど、みんな既にペア決まっちゃってて...」
「まだほとんどの人が決まってないと思うけど」
「あはは...バレちゃった?実は、ゆかりちゃんすごく人見知りで、自分から頼むのが難しくて...」
田中の言葉に、柏木さんの顔が赤くなっていくのが見えた。彼女は完全に地面を見つめたまま、小さく震えている。緊張しているのが伝わってくる。
「それでも、なんで僕なの?」
「椎名くん、いつも静かだし、ゆかりちゃんも静かだから、気が合うかなって...」
「それだけの理由?」
青木が戻ってきて、状況を見て首を傾げる。
「何かあったのか?」
「あ、青木くん。実は芸術祭のパートナーを探してて...」
青木を見て、田中の表情が一瞬硬くなる。
「でも、青木くんは...」
「なんだよ、その顔は」
「い、いえ!そういうわけじゃなくて...」
田中は困ったように言葉を探す。
「柏木ちゃん、ちょっと人見知りだから、青木くんみたいな...その...」
「なるほどな。俺は怖いってか」
青木はため息をつき、俺に向き直る。
「まあ、俺よりお前の方が話しやすいだろうな」
「それに、お前、最近暇そうだし、いいんじゃないか?何か新しいことするのも」
「暇じゃないよ...」
「お願い、椎名くん!ゆかりちゃん本当に絵が上手いんだよ。先生も期待してるし...」
俺は柏木さんの方を見る。彼女はまだ俺と目を合わせられず、小さく身を縮こませている。確かに、かなりの人見知りのようだ。田中が言うように、絵が上手いのかもしれない。
「でも、僕絵なんて全然わからないし...」
「大丈夫!ゆかりちゃんが描くから、椎名くんはアイデアとか出すだけでいいの」
俺は悩む。正直なところ、面倒だというのが第一印象だ。しかし、柏木さんが困っているのも事実。そして青木の言う通り、最近の俺には特にすることもない。同じ日々の繰り返しから少し外れることは、悪くないかもしれない。
「新しい転校生に頼むのも考えたんだけど...」
「松井さん?」
田中は松井の方を頭で指し示した。
「彼女、ああいうタイプだから美術とか興味ないかなって...あと、ちょっと怖いし」
松井は確かに近寄りがたい雰囲気を醸し出している。クラスメイトたちも、まだ距離を取っている様子だ。
しばらく考えた末、俺は決断した。
「...わかった。やってみる」
「本当!? やったー!ゆかりちゃん、良かったね!」
彼女は柏木さんの肩を優しく叩く。柏木さんはやっと顔を上げ、俺の方を見る。彼女の紫色の瞳は、潤んでいるようにも見える。
「あ、あの...よ、よろしくお願いします...」
か細い声で、やっと自己紹介のような言葉を発した。
「ああ、よろしく。椎名晓だ」
「し、知ってます...」
当然だろう、同じクラスなのだから。それでも、彼女の緊張した様子に、少し気まずさを感じる。
青木が俺の肩を叩き、意地悪そうに笑う。
「お前、モテ期きたんじゃないか?昨日は上の階の子、今日は美少女画家か」
「うるさいな...単に助けるだけだよ」
「ありがとう、椎名くん!じゃあ、申請書は私が取ってくるから、放課後にでも提出してね」
「申請書?」
「うん、芸術祭の参加申込書だよ。来月の第二週だけど、作品の準備には結構時間かかるし、企画書も提出しないといけないから、実質一ヶ月もないんだよね。私、今から申込書取ってくるね」
田中は柏木さんの背中を軽く押して、「頑張ってね」と言い残して教室を出て行った。残された俺と柏木さんは、どちらも何を話していいかわからないような気まずい沈黙が流れる。
「...俺、邪魔かな?」
「いや、別に」
「あの...本当にいいんですか?」
やっと彼女から話しかけてきた。声は小さく、まだ床を見つめたままだが。
「ああ。大したことは出来ないと思うけど」
「私、人と一緒に何かするの...あまり得意じゃなくて...」
「俺もだよ。だから、お互い無理しなくていいんじゃないかな」
その言葉に、柏木さんは少し驚いたような表情を見せた。やっと俺の顔を見る。
「椎名さんも...人見知りなんですか?」
「まあ、そんな感じかな」
「お前らソウルメイトじゃん」
「黙れよ...」
柏木さんはそれを聞いて、小さく微笑んだ。その表情を見たのは初めてだった。緊張しながらも、優しい笑顔だ。
「じゃあ、明日にでも詳しく話そうか?今日は...」
「お前、昼飯まだだろ」
ちょうどその時、青木が買ってきたパンを思い出した。
「そうだった。先に食べるよ」
「あ、ごめんなさい!邪魔しました...あの...」
「気にしないで。パン買ってきてもらっただけだから」
「じゃあ...また」
彼女は小さく頭を下げ、教室の隅にある自分の席へと戻っていった。その後ろ姿を見ていると、朝見かけた姿がフラッシュバックする。やはり彼女だったのだろうか。
「へぇ、意外と話せるじゃないか」
青木がパンを差し出しながら感心したように言う。俺はそれを受け取り、「いつものありがとう」と礼を言う。
「なあ、あの子何描くの?芸術祭で」
「さあ...まだ聞いてないよ」
「お前、本当に大丈夫か?あの子、めちゃくちゃ人見知りっぽいぞ」
「俺も人と話すの得意じゃないからな」
「似た者同士ってことか。まあ、上手くいくといいな」
「ありがとう」
パンを食べ終え、午後の授業が始まる。しかし、今日はなかなか集中できない。背後の松井の存在と、柏木さんとの芸術祭のことが気になって仕方ない。特に、朝見かけた紫髪の少女が柏木さんだったという事実が、妙に引っかかる。偶然にしては、出来すぎている気がした。
授業が終わり、下校時間となる。青木は部活があるからと先に帰り、俺は芸術祭の申請書を提出するため、学生会室に向かうことにした。田中さんが休み時間に持ってきた申請書を、カバンから取り出す。
柏木さんの方を見ると、彼女は既に席を立ち、田中さんと小さな声で話している。俺の方をちらりと見たが、すぐに目をそらした。
「柏木さん、申請書出してくるよ」
「あ、はい...ありがとうございます」
松井も既に席を立ち、教室を出ようとしていた。彼女とはまだ一言も話していない。なぜか、気まずい雰囲気を感じる。
学生会室に向かう廊下を歩いていると、頭上の蛍光灯がちらつき、影が揺れる。窓の外では、部活動に向かう生徒たちが元気よく走っている。俺とは違う世界のようだ。
学生会室の前まで来ると、ドアがわずかに開いていた。中から女性の声が聞こえる。
「...順調に進んでいますね。あとは準備委員会の方で...」
ノックをしようとした時、ドアが完全に開き、一人の女生徒が出てきた。
長い黒髪に、澄んだ瞳。背は低めだが、凛とした立ち姿の少女だ。彼女は腕に書類を抱え、少し急いでいる様子。
「あ、すみません」
俺は道を開けようとする。少女は一瞬立ち止まり、俺の顔をじっと見る。その瞳には何か特別な光が宿っているようだった。
「椎名...くん?」
彼女は俺の名前を口にした。声は優しく、どこか懐かしいような響きがある。
「え?」
どうして俺の名前を知っているのだろう。見覚えはあるような、ないような...。もしかして、クラスメイトだろうか?いや、違う気がする。
少女は微笑む。
「学生会の星野茧です。椎名くんですよね?」
星野...その名前に、何か引っかかるものを感じる。夢の中で聞いたような...。
「あ、はい。椎名晓です」
「どうしたの?何か用事?」
星野は優しく尋ねる。彼女は何か特別なオーラを纏っているように見える。学生会の腕章をつけているので、おそらく役員なのだろう。
「芸術祭の申請書を出しに来たんです」
「まあ、それなら中へどうぞ」
星野はドアを広げる。中には数人の生徒が忙しそうに作業している。
「申請書は、あちらの箱に入れてください」
星野さんが指さした先に、「芸術祭申込書」と書かれた箱が置いてある。俺はそこに向かい、書類を入れる。
「ありがとうございます」
振り返ると、星野さんはまだこちらを見ていた。
「椎名くんは、誰とペアなの?」
「柏木ゆかりさんです」
「柏木さん...美術部の子ね。素晴らしい選択よ」
星野は嬉しそうな表情を見せる。
「椎名くん、頑張ってね。楽しみにしているわ」
彼女の言葉には、単なる学生会役員の励まし以上の何かがあるように感じられた。まるで、俺のことをずっと前から知っているかのような...。
「はい...」
星野さんは軽く会釈し、「それじゃあ」と言って廊下の先へと歩いていった。星野...その名前がどこかで聞いたような気がして仕方ない。でも、思い出せない。
申請書を提出し、学生会室を出る。廊下で少し立ち止まり、考える。
「どうして彼女は俺の名前を知っていたんだろう?」
「あ、学生会だから、生徒の名前は把握してるのかな...」
そう思うと納得できた。しかし、それでも何か引っかかる違和感が残る。星野さんの瞳に宿る光、その優しい微笑み、どこか懐かしさを感じる声色...。
教室に戻ると、柏木さんはまだ田中さんと話していた。俺が近づくと、二人は会話を止めた。
「申請書、出してきたよ」
「あ、ありがとうございます...」
「ありがとう、椎名くん!これで無事参加決定だね」
「これからどうする?」
田中はちょっと困った表情を浮かべた。
「実は...私、今から別の用事があって...」
「え?里奈ちゃん...」
「大丈夫だよ、ゆかりちゃん。椎名くんと二人で話し合えば?」
「え?」
「で、でも...」
「せっかくだし、今日から計画立てた方がいいよ。芸術祭まで時間ないし」
柏木さんは明らかに緊張した様子で、田中の袖を引っ張っている。しかし、田中は優しく、しかし確固とした態度で柏木さんの手を離した。
「大丈夫、椎名くん優しいから。ね?」
「え?ああ...うん」
「じゃあ、私行くね。明日また詳しく聞かせてね!」
そう言って、田中は手を振りながら教室を出ていった。残された俺と柏木さんは、再び気まずい沈黙に包まれる。
「あの...どうする?」
「え、えっと...」
「何か話し合う場所あるといいけど...」
「あの...学校の近くに、カフェがあるんですけど...」
「カフェか、いいね。行ってみようか」
「はい...」
二人で教室を出て、学校の出口へと向かう。しかし、柏木さんは俺からかなり距離を取って歩いていて、まるで見知らぬ人と偶然同じ方向に歩いているかのようだ。
校門を出て、通りに出る。柏木さんは俺の2メートルほど後ろを歩いている。
「あの...もう少し近くを歩いた方がいいんじゃない?話しづらいよ」
「あ、すみません...」
彼女は少し近づくが、それでも一定の距離を保っている。俺は何か話題を振ろうとするが、彼女の緊張している様子に、どう接していいか迷ってしまう。
「美術部なんだって?」
「は、はい...」
「何を描くのが好き?」
「いろいろ...」
これ以上の会話は続かなかった。彼女は質問に最小限の言葉で答えるだけで、それ以上は黙ってしまう。何度か話しかけようとしたが、柏木さんは目を合わせず、うつむいたまま歩き続けるだけだった。
やがて、小さなカフェに到着した。落ち着いた雰囲気の店内に入ると、ウェイトレスが笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
「はい」
窓際の席に案内され、二人で向かい合って座る。メニューを手に取り、何を注文するか考える。
「何にする?」
「え、えっと...」
ウェイトレスがやってきて、注文を取る準備をしている。
「僕はカプチーノで」
「えっと...」
柏木さんはメニューを見つめながら、何を選ぶべきか迷っているようだ。突然、彼女はスマートフォンを取り出し、何かを検索し始めた。俺は少し驚いたが、黙って見守る。
しばらくして、彼女は顔を上げた。
「エスプレッソを...トリプルで」
「え?」
意外な注文に、思わず声が出た。エスプレッソのトリプルといえば、かなり苦いはずだ。彼女はそんなに濃いコーヒーが好きなのだろうか?
「好きなの?エスプレッソ」
「あ、はい...」
ウェイトレスが注文を書き留め、厨房へと下がる。二人だけになり、再び沈黙が流れる。柏木さんは依然として俺の目を見ることができず、テーブルの上に置いた自分の手を見つめている。
「じゃあ、芸術祭のことだけど...」
沈黙を破ろうと声をかけたその瞬間、柏木さんも口を開いた。
「あの、芸術祭のことですけど...」
二人同時に話し始め、また気まずい沈黙が戻ってくる。
「あ、先に言って」
「い、いえ、椎名さんからどうぞ...」
「いや、柏木さんが先に...」
また沈黙。幸い、その時ウェイトレスが飲み物を持ってきてくれた。カプチーノと、エスプレッソトリプル。緊張を紛らわすために、俺はカプチーノを一口飲む。ミルクの泡の優しい甘さが広がる。
柏木さんもエスプレッソに手を伸ばし、小さなカップを持ち上げる。一口飲んだ瞬間、彼女の表情が変わった。明らかに苦すぎるという顔だ。しかし、彼女は何も言わず、カップを置いた。
「美味しい?」
「は、はい...」
しかし、その表情は明らかに違っていた。もう一度エスプレッソに挑戦するため、彼女は再びカップを手に取る。今度は大きめに一口飲んだようで、その反応はさらに激しかった。彼女の顔が歪み、目が潤んでいるようにも見える。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です...」
三度目の挑戦で、とうとう我慢できなくなったのか、彼女はくしゃみをし、目から涙があふれ出た。
「本当に好きなの?エスプレッソ」
「...いえ」
小さな声で、彼女は事実を認めた。
「じゃあ、なんで注文したの?」
「その...カフェに来たら、こういうの注文すると...大人っぽく見えるかなって...」
「え?」
「スマホで『カフェで大人な注文』って検索したら...出てきて...」
思わず笑いそうになるのを、必死に堪える。彼女の素直な告白と、真っ赤になった顔が妙に可愛らしく見えた。
「そんなことしなくていいんだよ。好きなものを頼めばいいんだから」
「はい...でも、初めて来たので...何がいいか...」
「じゃあ、他のもの頼もうか?ミルクたっぷりのやつとか」
「本当ですか...?」
「もちろん」
ウェイトレスを呼び、カフェラテを追加で注文する。柏木さんはほっとしたように息をついた。
「ところで、本当は何が好きなの?コーヒーじゃなくて」
「甘いものが...好きです」
「そうなんだ。次からは無理しないで、好きなものを頼んでいいからね」
「はい...ありがとうございます」
少しずつだが、彼女の緊張がほぐれてきているのを感じる。エスプレッソの一件で、妙に打ち解けた感覚があった。
カフェラテが届き、柏木さんは恥ずかしそうにそれを受け取った。一口飲むと、彼女の表情が和らぐ。
「美味しい...」
「こっちの方が好きです...」
「だろうね。トリプルエスプレッソは僕でも飲めないよ」
「恥ずかしいです...」
少し打ち解けたところで、本題に入ることにした。
「それで、芸術祭のことなんだけど、具体的にどんなことをするの?」
「実は...私も詳しいことはよく分からなくて...」
「え?先生の説明あったじゃない?」
「あの時...緊張して、全然聞いてなかったんです。先生に『ぜひ出てほしい』って言われて、その言葉だけで頭がいっぱいになって...それに、私、人前で発表するの苦手で、そのことばかり考えてて...」
「そうなんだ...」
「私、本当は参加するつもりなかったんです。でも、先生に言われて...断れなくて...」
彼女の性格からして、断れないのも納得できる。あまりにも人見知りで、自己主張ができないタイプだ。
「佐々木先生には、断りづらいよね」
「はい...それに、田中さんも手伝ってくれると言ってたのに...」
「急に用事ができたんだろうね」
「でも...どうして椎名さんは、手伝ってくれるんですか?私みたいな人のために...」
素直な疑問だ。確かに、なぜ俺が引き受けたのか、自分でもよく分からない。
「うーん...特に理由はないかな。暇だし、何か新しいことをするのも悪くないかなと思って」
「そんな...気軽に?」
「ああ。別に大した理由じゃないよ」
彼女は明らかに驚いた表情を浮かべた。おそらく、俺も断りづらさから引き受けたと思っていたのだろう。
「私...てっきり椎名さんも断れなくて...」
「いや、そういうわけじゃないよ。単純に、手伝えることがあるなら手伝おうかなって」
「そんな...」
彼女は感情を隠すように、カフェラテに口をつける。
「それで、柏木さんはどんな絵を描くの?芸術祭で出すような」
「あの...見せるのは恥ずかしいんですけど...」
「見せてもらわないと、どう協力していいか分からないよ」
「でも...」
「悪く言わないから」
「...わかりました」
彼女はおずおずとカバンから小さなスケッチブックを取り出した。開いた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
そこには、鮮やかな色彩と大胆な構図で描かれた絵が広がっていた。アニメ風のキャラクターだが、どこか現実感のある表情と動き。背景には細かいディテールが施され、一枚一枚に物語が込められているようだった。
「すごい...これ、柏木さんが描いたの?」
「はい...」
「どこかで見たことあるような...」
「え?」
そう、この絵柄は見覚えがある。俺はスマホを取り出し、あるサイトを確認してみた。
「もしかして...『紫苑』って名前では描いてない?」
「えっ!?」
彼女の反応で確信した。「紫苑」はネット上、特にpixivで人気のイラストレーターだ。独特の色使いと構図で、多くのフォロワーを持っている。
「やっぱり...」
「ど、どうして知ってるんですか!?」
「僕もそっち系のことは詳しいから」
「椎名さんが...?」
彼女の表情に「そんなふうには見えない」という言葉が読み取れる。
「外見で判断しないでよ。僕だって人並みにアニメとか見るし」
「どんなの好きなんですか?」
俺は少し照れながら、自分の好きな作品を挙げ始めた。すると、柏木さんの目が次第に輝きを増していくのが分かる。二人の会話は、急に弾み始めた。
「この前のあの作品の最終回、衝撃的だったよね」
「ええ!私も泣いちゃいました...あのシーン、何度見ても...」
「わかる。原作読んだ時も同じだったよ」
「原作も読んでるんですか?」
「もちろん。ラノベも漫画も好きだよ」
俺はさらにスマホを取り出し、保存してある写真を見せた。
「実はこの前、聖地巡礼してきたんだ」
「本当ですか!?」
スマホのギャラリーには、アニメの舞台となった場所の写真がいくつも保存されていた。アニメのシーンと全く同じアングルで撮影された風景写真。
「すごい...構図が完璧です」
「ありがとう。結構時間かけて撮ったんだ」
「他にも撮った場所あるんですか?」
「ああ、いろいろと」
会話が弾み、時間の経つのも忘れるほどだった。柏木さんの緊張は完全に解け、アニメや漫画、イラストの話になると饒舌に話す。普段の人見知りな姿からは想像できないほど生き生きとしていた。
「...でも、椎名さん、大丈夫ですか?」
「え?何が?」
「目の下のクマ...すごく疲れてるように見えます」
「ああ...不眠症なんだ。なかなか眠れなくて」
「不眠症...大変ですね」
「慣れたよ。でも、見た目で分かるほどなんだね」
「ごめんなさい...失礼でした」
「ううん、気にしないで。事実だから」
会話は続き、気がつけば外は暗くなり始めていた。時計を見ると、もう7時近い。
「こんな時間になってた...」
「本当だ...」
「結局、芸術祭のことは何も話せなかったね」
「でも、楽しかったです」
「うん、僕も」
「明日...もう少し具体的に話し合いましょうか?」
「そうだね。今日はこの辺で」
会計を済ませ、二人で店を出る。外は既に夜の闇が広がっていた。
「送っていこうか?」
「い、いえ、大丈夫です!家近いので...」
「そう?じゃあ、また明日」
「はい、ありがとうございました」
別れ際、彼女は小さく頭を下げ、小走りに去っていった。今日一日で、柏木ゆかりという少女について、かなり理解が深まった気がする。人見知りで口下手だが、好きなことについては熱く語れる。そして、驚くほどの才能を持っている。
「意外と面白い子だな...」
アパートに帰る途中、空腹に気づいた。今夜は料理する気力がない。昼寝をしなかったため眠気はないが、疲労感はある。コーヒーのカフェインのおかげか、頭はまだ冴えていた。
「コンビニで何か買って帰るか...」
家の近くのコンビニに入る。ドアが開くと、「いらっしゃいませ」という声が聞こえた。その声に聞き覚えがあり、レジの方を見ると—
銀青色の髪の少女、松井夕音が制服姿でレジに立っていた。彼女もまた、俺を見て明らかに驚いた表情を浮かべている。
「あ...」
「いらっしゃいませ...」
彼女は接客用の声を出そうとするが、明らかに不自然だ。目も合わせようとしない。俺も同様に気まずさを感じながら、軽く会釈した。
「どうも...」
松井はレジの後ろで固まったように立っている。職業柄、逃げることもできず、困惑している様子が伝わってくる。
「コンビニでバイトしてたんだ」
「...うん」
そう言いながらも、松井の表情は硬いままだ。彼女は明らかに気まずさを感じている。俺もどう接していいか分からず、黙って店内を見て回ることにした。
弁当コーナーに向かい、夕食を選ぶ。唐揚げ弁当と牛丼、どちらにしようか迷いながら、ふと背後に視線を感じる。振り返ると、松井が品出しをしながら、こちらをちらりと見ていた。目が合うと、彼女はすぐに目をそらした。
結局、唐揚げ弁当を選び、レジに向かう。松井は緊張した様子で商品をスキャンする。
「温めますか?」
「お願いします」
「少々お待ちください」
彼女は弁当を電子レンジに入れ、タイマーをセットする。沈黙が流れる。気まずい空気を破ろうと、何か言おうとした時—
「ピピピッ」
突然、俺のスマホが鳴り始めた。着信音は『Ever Night』の『One More Time』。慌ててポケットからスマホを取り出す。
「あ、すみません...」
俺が慌てて着信音を止めようとする間、松井の表情が一瞬変わったことには気づかなかった。しかし、レンジから弁当を取り出し、袋に入れる彼女の手が微かに震えているのには気づいた。
「...458円です」
小銭を出して支払い、袋を受け取る。その瞬間、松井の指が僅かに俺の手に触れた。彼女はすぐに手を引っ込める。
「どうも」
「ありがとうございました。また...お越しください」
明らかに業務マニュアル通りの言葉だが、どこか不自然さが残る。
店を出て、スマホを確認すると、青木からの着信だった。折り返し電話をかける。
「もしもし?」
「おう、椎名か。どうだった?あの子との話」
「今終わったところだよ」
「え?こんな時間まで?」
「うん、意外と話が弾んで...」
「おぉ、恋の予感?」
「違うよ。単に共通の趣味の話で」
「へぇ?どんな趣味?」
「アニメとか...」
「あの子、オタクだったのかよ!?見た目からは想像できないな」
「外見だけじゃ分からないよ」
「それで、芸術祭のことは決まったの?」
「あ...実は全然話せなかった」
「お前ら何してたんだよ...」
「明日、改めて話し合うことにした」
「二回目のデートか。順調順調」
「デートじゃないって...」
電話を切り、アパートに向かう。部屋に入り、「ただいま」と小さく呟く。両親の写真に軽く頭を下げ、弁当を開ける。食べながら、今日一日を振り返る。柏木さんとの意外な共通点、そして松井とのコンビニでの再会。
「あいつ、俺の着信音に反応してたような...」
松井が『Ever Night』のファンだとしたら、それもまた偶然の一致だろうか。それとも...もっと何か意味があるのだろうか。考えながら弁当を食べ終え、シャワーを浴びて、ベッドに横になる。
アパートに戻り、シャワーを浴び、髪を乾かす。時計はすでに11時を指していた。窓の外は完全な闇に包まれ、街灯の明かりだけが小さく瞬いている。柏木さんとの意外な共通点、コンビニでの松井との再会...今日はいつもより多くの出来事があった一日だった。
「明日はちゃんと芸術祭のこと話さないとな...」
ベッドに横になり、天井を見つめる。不思議と心が落ち着かない。それは単なる不眠症のせいだけではなく、何か別の感情が胸の内を駆け巡っているようだった。スマホでニュースを見たり、SNSをチェックしたりするが、なかなか眠気は訪れない。
時計は深夜0時を回った。外は静寂に包まれ、時折遠くで車のエンジン音が聞こえるだけ。静かすぎて、自分の心臓の鼓動さえ聞こえるような気がする。
「はぁ...今夜も眠れそうにないな」
ため息をつき、目を閉じる。しかし、すぐに開いてしまう。そんな時、再び天井から微かな音が聞こえてきた。
「...またか」
上の階からかすかにリズミカルな音が漏れてくる。前回ほど大きくはないが、確かにそこにある。ベースの低い振動音。
「あいつ、また弾いてるな...」
音は前回より小さいが、それでも静寂の中では十分に聞こえる。最初は単純なリズムだったが、徐々に複雑になっていく。そして、何か聞き覚えのあるフレーズが混じり始めた。
「この音色は...」
耳を澄ませば澄ますほど、その旋律が頭の中で形を成していく。低音から高音への流れるような移行、そして独特のベースライン。どこかで聞いたことがある...いや、よく知っている曲だ。
「Ever Night...?」
思わず体を起こす。間違いない、上から聞こえる音は『Ever Night』の曲だ。特に俺の好きな『Silent Echo』のベースラインだ。
好奇心に駆られ、もう一度上階に行ってみることにした。ベッドから抜け出し、スウェットパンツの上にパーカーを羽織る。静かに部屋を出て、階段を上る。
階段の薄暗い灯りの下、201号室の前に立つ。ドアの向こうからは、確かにベースの音が聞こえてくる。今度は前回よりもっとクリアに聴こえる。ノックしようか迷いながらも、まずはその音をもっと聴きたいという衝動に駆られる。
ドアに耳を当て、目を閉じて聴き入る。その瞬間、世界が音楽だけになった。松井のベースの音色は、CDで聴くものとは違う、生の感情が込められている。原曲よりもやや遅いテンポだが、その分一音一音に魂が宿っているようだ。
「上手い...」
思わず呟いた瞬間、突然音が止んだ。
ガチャッ!
ドアが勢いよく開き、俺は顔面からドアに直撃された。
「痛っ!」
顔を押さえ、よろめきながら後ずさる。鼻をぶつけた痛みで目から涙が出てくる。
「え...?あんた!?」
「また来たの!?」
松井は驚きの表情で俺を見つめていた。彼女は黒いTシャツとショートパンツ姿で、首にはヘッドフォンをかけ、手にはまだベースを持っていた。
「いてて...」
鼻を押さえながら、俺は顔をしかめる。
「何やってんの!? まさか盗み聞き?ストーカー?」
「違う!ただ...音楽が聞こえてきたから...」
「またうるさいって言いに来たの?」
「違うんだ。聴きたかっただけ...」
「は?」
俺の言葉に、松井は一瞬戸惑った表情を見せる。彼女の部屋からは、まだかすかに音楽が流れていた。静かに、しかし確かに『Ever Night』の曲だ。
「それ、『Silent Echo』でしょ?Ever Nightの」
松井は明らかに驚いた様子で、俺を見つめる。
「知ってるの?」
「ああ、俺の一番好きな曲の一つだよ」
「マジで!?」
一瞬、彼女の瞳が輝いたように見えた。しかし、すぐに元の冷たい表情に戻ろうとする。
「へぇ...意外」
「意外って...」
「いや、別に...」
彼女は落ち着きなく右手の指を動かす。ベースを弾く時のクセだろうか。
「あの...入ってもいい?」
「は!?」
「いや、その曲もっと聴きたくて...あと、ベースの演奏も」
「でも...こんな時間に...」
「そうだね、悪かった。じゃあ...」
「...ちょっとだけなら」
予想外の返答に、俺は驚く。松井は少し躊躇いながらも、ドアを開け、俺を中に招き入れた。
部屋に入ると、簡素な家具の間に、音楽機材が並んでいる。アンプ、エフェクター、そして壁には大きなEver Nightのポスターが貼られていた。ベッドの近くに置かれた黒いベースギターが、部屋の主役のように見える。部屋の隅にはまだ開けられていない段ボール箱がいくつかあった。
「あの...まだ片付いてなくて」
確かに、引っ越したばかりの部屋らしい雰囲気だ。でも、音楽機材だけはしっかりセットアップされている。
「大丈夫だよ。俺の部屋も似たようなもんだし」
「で、なんで来たの?本当に」
「だから、音楽が聞こえて...」
「盗聴とかじゃなくて?」
「違うよ!ただEver Nightの曲が聞こえて、驚いただけ」
「あんた、本当に知ってるんだ...」
「もちろん。特に『Midnight Blue』のアルバム、最高だと思う」
「わかる!あのアルバム神だよね!特にベースライン...」
松井は突然、いつもの冷たい態度が消え、興奮した様子で話し始める。彼女の瞳に情熱が宿り、手ぶりも大きくなる。
「そうそう、あのベースの響き方...」
「だよね!低音なのに、前に出てる感じ...しかも歌とぴったり合ってる...」
「俺もそれが好きなんだ!」
彼女は一瞬、自分の熱くなった態度に気づき、少し恥ずかしそうにする。しかし、すぐに話を続ける。
「好きな曲は?」
「『Whispers in the Dark』かな。あの静かなイントロから始まって、徐々に盛り上がっていくところが...」
「わかる!あれ最高...私は『Silent Echo』が一番好き」
「さっき弾いてたやつだね」
「うん...練習してたんだ」
「上手かったよ。本当に」
「そう...思う?」
「ああ。レコードと同じような...いや、もっと感情が入ってた気がする」
「そんなことないよ...まだまだだし」
会話が続く中で、次第に二人の間の緊張が解けていくのを感じる。松井のベッドの端に座り、彼女はその反対側に座った。音楽という共通の話題を見つけたことで、松井の表情も柔らかくなり、言葉も増えていく。
「あんた、楽器やるの?」
「いや、聴くだけ。でも写真は撮るよ」
「写真?」
「ああ、趣味程度だけど」
「へぇ...何の写真撮るの?」
「風景とか。あと、ライブに行った時のやつとか」
「Ever Nightのライブ行ったことあるの?」
「2回だけ。去年の武道館と、その前の...」
「去年の武道館行ったの!? すごい!チケット取れなかったんだよね...」
「運良く取れたんだ。本当に最高のライブだったよ」
「いいなぁ...私、まだ生で見たことないんだ」
「今度ツアーがあれば、一緒に行こうか」
言葉が出てから、自分でも驚いた。なぜそんなことを言ったのか。しかし、松井の反応はさらに驚くべきものだった。
「え...?」
彼女の顔が一瞬赤くなり、目をそらした。俺も自分の言葉に恥ずかしくなり、慌てて話題を変える。
「あの、ところでなんで深夜にベース弾いてるの?」
「あ...それは...」
松井は少し迷いながら答える。
「昼間は学校だし、夕方はバイトがあるから...練習できるの夜だけなんだ」
「そっか...」
「できるだけ小さな音で弾いてるつもりなんだけど...」
「今日は昨日より全然小さかったよ。でも...」
「でも?」
「俺、不眠症だから、小さな音でも気になっちゃうんだ」
「そうなんだ...ごめん」
「いや、気にしないで。むしろ、良い音楽が聴けてラッキーだったよ」
「...ばか」
会話はさらに続き、Ever Nightのメンバーや、好きな楽曲について熱く語り合った。松井は音楽の話になると本当に表情豊かになり、目が輝いて見える。学校での冷たい態度からは想像もつかない、生き生きとした一面だ。
「ベース始めたきっかけは?」
「中学の時かな...Ever Nightの曲を聴いて、あのベースラインに惚れて...それで、親にせがんで買ってもらったんだ」
「独学なの?」
「うん、独学。首都高みたいな場所じゃ、息が詰まるだけだからね。これくらいしか、やることなかったんだ」
「そうだったんだ。だから転校してきたのか」
松井は少し考えるような表情を見せた後、頷く。
「うん。親の仕事の都合で引っ越すことになって...」
こうして話しているうちに、時間はどんどん過ぎていった。気がつけば、時計は午前2時を指していた。
「こんな時間になってた...」
「本当だ...」
二人とも、話に夢中になっていて時間の経過に気づかなかった。そして、ふと気づくと、いつの間にか距離が近づいていた。膝と膝がほとんど触れそうなほどの近さで座っている。
松井は顔を赤らめ、少し後ろに下がる。俺も同様に、慌てて距離を取った。
「あの...もう遅いし、帰るよ」
「そ、そうだね...明日も学校あるし」
急に気まずくなり、二人とも元の硬い表情に戻ってしまった。
「あのさ...なんで毎晩こんな時間にベース弾いてるの?」
質問しかけた瞬間、松井は立ち上がり、ドアの方へ歩き始めた。
「もう遅いから...おやすみ」
「あ、うん...おやすみ」
突然の態度の変化に戸惑いながらも、部屋を出る。ドアが閉まる音を背に、階段を降りて自分の部屋へと戻った。
部屋に入り、ベッドに横になる。不思議と今夜は少し眠気を感じた。松井との会話が心地よかったからだろうか。それとも単純に疲れただけか。
「あの子...いったい何者なんだろう」
学校での冷たい態度と、音楽について話す時の熱意ある様子。まるで別人のようなギャップに、俺は混乱していた。しかし、そのギャップが妙に魅力的に感じられるのも事実だった。
ふと、スマートフォンが振動する。LINEの通知だ。画面を見ると、友達追加のリクエストが来ていた。プロフィール写真はないが、名前は「夕音」となっている。
「え...?」
驚きながらも、すぐに承認する。すると、メッセージが届いた。
「クラスの連絡網から探した。椎名晓で合ってる?」
「うん、合ってる」
俺はクラスのグループLINEでは「晓」というニックネームを使っていたはずだが、彼女はどうやって見つけたのだろう。
「今日はごめん。あと...ありがと」
短いが、彼女らしいメッセージ。
「こちらこそ。楽しかった」
しばらくして返信が来る。
「よろしく」
「よろしく」
スマホを置く。窓の外は深い闇だが、心の中には不思議な明るさが広がっていた。初めて、この街に来てから、誰かと心から会話を楽しんだ気がする。松井の笑顔、音楽に対する情熱、そして彼女のベースの音色...全てが鮮明に記憶に残っている。