2-7
朝食を終えた俺は、皿を片付けながら心の中で葛藤していた。
あのこと……聞いた方がいいのか?でも、聞いたらまた怒られるかもしれない……。
でも、このままモヤモヤしたままじゃ、今後の関係にも影響しそうだ。
俺は深呼吸をして、意を決した。
「あの……松井」
「……何?」
彼女の声は相変わらず冷たい。でも、さっきよりは少し和らいだ気がする。
「その……朝のこと、なんだけど」
松井の顔が見る見るうちに赤くなっていく。目は明らかに泳いでいる。
「!」
「な、何のこと?」
「いや、だから……洗面所で……」
「知らない!何も知らない!」
彼女は必死に首を振りながら、視線をあちこちに向ける。窓の外、天井、テーブルの上……どこを見ても俺と目を合わせようとしない。
「おいおい、何があったんだよ」
青木がニヤニヤしながら口を挟む。
「いや、別に……」
「松井さん、そんなに恥ずかしがらなくても」
橘が優しく松井の肩に手を置いた。
「誤解は早く解いた方がいいよ」
「でも……」
松井は俯いたまま、小さな声で何かを呟いている。聞き取れないが、相当恥ずかしがっているようだ。
「ね?」
橘の優しい促しに、松井はようやく顔を上げた。まだ頬は赤いままだが、観念したような表情をしている。
「……実は」
全員が松井に注目する。彼女は深呼吸をしてから、ゆっくりと話し始めた。
「私……寝起きがすごく悪いの」
「寝起きが悪い?」
「うん……朝起きた時、いつも頭がぼーっとして、何も覚えてなくて」
そういえば、確かに前回コンビニで朝起きた時も、松井はぼんやりしていた気がする。俺に甘えてきたのも、寝ぼけてたからか……。
「今朝も、目が覚めた時、完全に記憶が飛んでて……」
「ああ、それで」
「どこで寝たのか、昨夜何があったのか、全然思い出せなかった」
「それは大変ね」
「それで……すごくトイレに行きたくて……」
ああ、そういうことか。生理的欲求には勝てないよな。
「この辺のアパートって、どこも同じような間取りでしょ?だから、自分の家だと思い込んじゃって……」
「なるほどな」
「だから、ドアも鍵もかけなかったの!自分の家なら当然でしょ?」
確かに、自分の家でトイレのドアに鍵をかける人は少ないだろう。
「なるほど……じゃあ、これは俺が悪いわけじゃ……」
「え?」
しまった、余計なことを……。
「いや、でも!普通ノックくらいするでしょ!」
「自分の家でノックなんてしないだろ」
「で、でも!人がいるかもしれないじゃない!」
「一人暮らしなのに?」
「そ、それは……泥棒とか!」
「泥棒がトイレ使ってるの?」
「使うかもしれないじゃない!」
「どんな礼儀正しい泥棒だよ」
「確かに、トイレ借りる泥棒って……」
青木と橘のツッコミに、松井は顔を真っ赤にして俯いた。
「うぅ……」
完全に自爆している。屁理屈を重ねれば重ねるほど、墓穴を掘っているのが分かる。
「と、とにかく!椎名が悪い!」
「え?なんで?」
「だって……その……朝から女の子を困らせるなんて!」
「わざとじゃないって」
「う……」
松井が言葉に詰まる。
「まあまあ、もういいじゃない。お互い様ってことで」
橘がなだめた、その時だった。
コンコン。
玄関のドアをノックする音が響いた。
「誰だろう?」
全員が顔を見合わせる。この時間に訪ねてくる人なんて……。
コンコンコン。
ノックの音が続く。なんだか切羽詰まったような、焦りを含んだノックだ。
俺は立ち上がって、玄関に向かった。ドアスコープから覗くと――紫色の髪の毛。涙でぐしゃぐしゃになった顔。
「柏木!?」
俺は慌ててドアを開けた。
そこには、目を真っ赤に腫らした柏木が立っていた。涙が頬を伝い続けている。
「し、椎名さぁん……」
彼女は俺の姿を見た瞬間――
「うわあああああん!!」
いきなり大声で泣き始めた。
「ちょ、ちょっと!」
「こわかったよぉぉぉ!誰も私のこと見えなくてぇぇぇ!」
彼女は子供のように、声を上げて泣いている。
「お父さんもぉ……お母さんもぉ……『誰?』って言うのぉぉぉ!」
「と、とりあえず中に入って」
俺は泣きじゃくる柏木を部屋に引き入れた。
リビングに入ると、みんなが驚いた表情で立ち上がった。
「柏木さん!」
橘の声に、柏木は顔を上げた。そして――
「橘さぁぁぁん!!」
バッ!
柏木は勢いよく橘に飛びついた。まるで迷子の子供が母親を見つけたような勢いで。
「わっ!」
「うえぇぇぇん!怖かったよぉぉぉ!」
柏木は橘の胸に顔を埋めて泣きじゃくる。
「よしよし、大丈夫だから」
橘は優しくその背中をさすっている。なんか、完全に子供扱いだな……。
「柏木って、意外と甘えん坊なんだな」
「ギャップがすごい」
青木と松井が小声で囁き合う。
「だってぇ……だってぇ……」
「うんうん、辛かったね」
しばらく橘に甘えていた柏木だが、ようやく落ち着いてきたようだ。
橘から離れて、みんなの顔を見回す。その目はまだ潤んでいるが、少し冷静さを取り戻している。
「す、すみません……取り乱して……」
「いや、気にしなくていいよ」
「そりゃ怖いよな、誰にも見えなくなるなんて」
「私も経験あるから、気持ちは分かる」
柏木は震える手でハンカチを取り出し、涙を拭いた。
「で、今朝どうなったか教えてくれる?」
「はい……」
彼女は深呼吸をしてから、今朝の出来事を話し始めた。
「朝、いつも通り起きて、リビングに行ったら……お父さんが私を見て、『君は誰?なんでうちにいるの?』って……」
「それは……」
「お母さんも同じで……『不審者よ!警察呼ぶわよ!』って……」
「きついな……」
「私、必死に説明したんです。娘だって、柏木ゆかりだって……でも……」
「信じてもらえなかった?」
「『うちに娘なんていない』って……」
「辛い……」
松井が小さく呟く。
「その時、急に思い出したんです」
「思い出した?」
「前にも同じことがあったって。それに……橘さんのことも思い出しました」
「私のこと?」
「はい。昨日まで忘れてたのに、急に全部思い出して……」
これは興味深い。透明化すると、同じ境遇の人のことを思い出すのか?
「なるほど、共感覚みたいなものか」
「それで、スマホを見たら、青木さんからのメッセージが残ってて」
「やっぱり送っといて正解だったな」
青木が得意げに胸を張る。
「本当に助かりました。住所がなかったら、どうしていいか……」
「それで、ここまで来たのか」
「はい。でも……最初、電車に乗ろうとしたんです」
「あー……」
「でも、改札が通れなくて……駅員さんに聞こうとしても、完全に無視されて……」
「それはきついな」
「他の人にも道を聞こうとしたんですけど……誰も気づいてくれなかった?」
「はい……何人にも声をかけたんですけど……『すみません』って言っても、『道を教えてください』って言っても……みんな素通りで……」
その様子を想像すると、胸が痛む。必死に助けを求めても、誰にも届かない……。
そして、柏木の表情が急に変わった。
「でも……これでいいのかもしれません……」
「おい、どうした?」
彼女の目からハイライトが消えていた。
「だって、私……人と話すの苦手だし……」
「柏木さん?」
「いつも、嫌われるんじゃないかって怖くて……でも、透明なら……誰も私のこと嫌いになれないでしょ?」
「ちょっと、何言ってるの」
「存在しないんだから……嫌われようがない……」
「おい!それ完全に壊れてるだろ!」
「柏木さん、しっかりして!」
「ふふ……楽になりました……」
俺は柏木の両肩を掴んで、軽く揺さぶった。
「柏木!目を覚ませ!」
「え?あ……」
彼女の目に光が戻ってきた。
「私……今何を……」
「やっと正気に戻ったか」
「もう、変なこと言わないでよ」
「す、すみません……なんか変なスイッチが……」
「ストレスで壊れかけてたのね」
橘が苦笑する。まったく、心配させやがって……。
俺は深呼吸をしてから、昨夜の出来事を柏木に説明し始めた。神秘の牛乳のこと、俺と松井が眠ってしまったこと、青木が頑張って運んでくれたこと、そして橘が元に戻ったこと。
柏木は真剣な表情で聞いていた。
「そうだったんですね……」
「うん。それで、今みんなで作戦会議をしようとしてたところ」
「分かりました」
俺は立ち上がった。
「じゃあ、みんな揃ったし、本格的に作戦会議を始めよう」
「ちょっと待て」
青木が俺を制する。
「何だ?」
「その前に、決めなきゃいけないことがある」
「何を?」
「俺たちの団体名だ」
は?団体名?
「まだそれ言ってるの?昨日『芸術祭グループ』って決めたじゃない」
「あれはただのカモフラージュだろ。俺たちには正式な名前が必要だ」
「そんなに形式にこだわる?」
「当然だ!正義の味方には、カッコいい名前が必要なんだ!」
正義の味方って……何と戦ってるつもりだよ。
「別に必要ないと思うけど……」
「私も……普通に『芸術祭グループ』でいいと思います」
「お前ら、ロマンが分かってない!」
そして青木は、次々と名前を提案し始めた。
「『透明殲滅騎士団』!」
「……」
全員の冷たい視線が突き刺さる。
「じゃあ『光と闇の調停者』!」
「中二病?」
「『運命に抗う者たち』!」
「なんか恥ずかしい……」
「『真実を掴む五人の戦士』!」
「五人の戦士って……」
「じゃあせめて『ミステリー・ファイブ』!」
「却下」
「即答かよ!」
青木がガックリと肩を落とす。
「じゃあ、私から提案していい?」
橘が手を挙げた。
「どうぞ」
「『黄昏の探求者』はどう?」
お、意外とセンスいいな。
「お!いいじゃん!でも……俺の要素も入れたい」
「まだ言ってる……」
「じゃあ……『黄昏の探求者~透明なる謎を追って~』」
「サブタイトル付き!いいね!」
なんか長くなったけど、まあいいか。
「じゃあ、それで決定」
「おー!」
なんだかんだで、みんな楽しそうだ。
「そして団長は椎名な」
「え?なんで俺?」
「だって、特殊能力持ってるの椎名だけじゃん」
「リーダーには相応しいと思う」
「私も賛成です」
「いや、でも……」
俺は団長なんて柄じゃない。
「他に暇そうなの、椎名くらいでしょ」
ひどい言い方……でも事実だ。
「みんな部活とかバイトとかあるし」
「まあ、消去法で椎名しかいないな」
消去法かよ……。
「ちぇっ、女の子に囲まれて団長か。羨ましいな」
「変な意味で言ってない?」
「言ってない!純粋に羨ましいだけ!」
まあ、みんながそう言うなら……。
「分かった。団長引き受ける」
「よろしく、団長!」
なんか照れくさい……。
青木はカバンからタブレットを取り出した。
「よし、形式的な問題は解決した。じゃあ、本題に入ろう。俺が記録係をやる」
みんなが頷く。
「まず、この件には超自然的な要素があることは確認済みだな?」
「うん」「はい」「そうね」
「じゃあ、今まで分かってる超自然要素を整理しよう」
俺は冗談のつもりで言った。
「俺の不眠症も超自然要素?」
「それは違うだろ……」
「待って。それ、関係あるかも」
松井が急に真剣な顔をした。
「え?」
「だって、椎名と私、二人とも神秘の牛乳の影響で熟睡できたでしょ?しかも、影響を受けたのは特定の人だけ。椎名、私、柏木さん……」
「全員、夜型だ!」
青木が気づく。
「確かに、みんな遅くまで起きてる」
これは重要な共通点かもしれない。
「そういえば、橘も夜更かしするの?」
「……はい」
橘が少し恥ずかしそうに頷く。
「私は……小説を読むのが好きで。それと……夜空を眺めるのが好きなんです」
夜空……?そこで俺は重要なことに気づいた。
「待てよ……星野は天文部だ」
「!」
「つまり……橘と星野は知り合いだった可能性が高い」
「たぶん……でも、はっきりとは思い出せない」
「星野茧……重要人物の可能性大」
青木はすぐにタブレットに記録した。
「どうして重要人物?」
「だって、みんな忘れてるんだぜ?椎名の能力でも思い出せない。普通じゃ考えられない。何か特別な理由があるはずだ」
そこで俺は思い出した。
「そうだ、これ見てくれ」
俺はスマホを取り出し、あの謎のメッセージを見せた。
『君は、覚えているかい?』
『時間がない』
「こ、これって……」
「もしかして……星野さんが送ったんじゃ……」
俺も同じことを考えていた。
「もし星野が本当に重要人物なら、可能性は高い」
「ところで、返信とか試した?」
青木が重要なことを聞いてきた。
「え?」
「このメッセージに返信したかって聞いてるんだよ」
「いや、してない」
「なんで試さないの?」
「そうですよ。返信機能があるなら……」
言われてみれば、その通りだ。なんで今まで思いつかなかったんだろう。
「じゃあ、今送ってみる」
俺は返信画面を開いた。
「何て送ればいい?」
すると、みんなが一斉に意見を言い始めた。
「『あなたは誰?』って聞く」
「いや、それじゃ素っ気なさすぎる」
「『何を覚えているか教えてください』は?」
「でも、回数制限とかあったら……」
「あ!そうだ!もし一回しか送れなかったら?」
「じゃあ、全部盛り込もう!『あなたは誰で、何を知っていて、何を伝えたいのか』」
「長すぎる」
「シンプルに『星野さんですか?』」
「でも、違ったらどうするんですか?」
みんなの意見がまとまらない。
これを三十分くらい繰り返した後、ようやく全員が納得する文面が完成した。
『私たちに何を伝えたいのですか?星野さん?』
「よし、これでいいな?」
「いいよ……」「もうそれで……」「早く送って……」
全員が疲れ果てている。俺は送信ボタンを押した。
……。
……。
……。
『送信できませんでした』
「はあ!?」
なんだそれ!三十分も議論したのに!
「マジかよ……」
「時間返して……」
「まあ、これで一つ分かったじゃない。このメッセージは、本当に超自然的なものだってこと」
青木はため息をつきながら、タブレットに記録した。
『星野茧……おそらく謎の送信者……連絡不可』
そして、大きく『要注意人物』と書き加えた。
「ところで、なぜ順番に透明化するのかしら」
「確かに変だよな。昨日は橘、今日は柏木」
「ってことは、明日は私?」
みんなが松井を見る。
「まあ、そうなるだろうね」
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないけど……しょうがない。前も透明化して、すごく嫌だったけど……」
松井がぼそっと呟く。
「もしかして、何か決まった順番があるのかも」
「私は違うと思う。柏木さんが今日透明化したのは、昨日の心理状態が原因じゃない?」
橘の分析に、柏木が少し落ち込む。
「そう……かもしれません」
「結局、なんで透明化するのか分からないな。まさか本当に、みんな夜更かしするからじゃないよな?」
青木が冗談めかして言う。
「でも、あながち的外れじゃないかも。だって、神秘の紫色の光も、俺たちを眠らせる効果があった」
「確かに……私たち二人とも、すごくよく眠れた」
「推測原因その1……睡眠不足」
青木はタブレットに書き込んだ。
「それと、もう一つの可能性も議論したよな。心理的な問題か」
その瞬間、松井と橘の表情が微妙に変わった。二人とも、何か言いたくないことがあるようだ。
重い空気を破って、俺は提案した。
「とりあえず、柏木から始めてみよう」
「私から?」
「うん。前に話した作戦、覚えてる?」
みんなで作戦の内容を説明する。芸術祭で優勝すること、それによって自信をつけること、そして田中さんへの依存から脱却すること。
「でも……私にできるでしょうか」
「大丈夫。みんなでサポートするから」
「それに、このままじゃダメでしょ」
「そうだな。何か変えないと」
柏木はしばらく迷っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。私も……変わりたいです」
その目には、確かな決意が宿っていた。
「現在の主要任務……芸術祭で優勝!」
青木が満足そうにタブレットに大きく書く。
「おー!」
俺たちの最初のミッションが、こうして決まった。
でも、心の奥では不安も渦巻いていた。本当にこれで上手くいくのか?透明化を防げるのか?そして、星野茧とは一体何者なのか?
謎は深まるばかりだ。でも、今はやれることをやるしかない。
「じゃあ、早速準備を始めましょう」
「何から始める?」
「まず、柏木の作品を確認しよう。現状を把握しないと」
「あ、でも……まだ全然できてなくて……」
「それでいいんだよ。だから俺たちが手伝う」
「一緒に頑張りましょう」
柏木の目に、また涙が浮かんだ。でも、今度は嬉しさの涙だった。
「みなさん……ありがとうございます」
「べ、別に……当然でしょ」
「松井さん、デレた?」
「デレてない!」