2-6
朝の光が瞼を優しく撫でる。ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が目に入った。
あれ?俺の部屋……?
体を起こそうとして、全身に心地よい脱力感が広がっているのに気づく。まるで雲の上で眠っていたかのような、深い安らぎが体中に残っている。
また、この感覚か……本当に気持ちいい。これで三日連続だ。
慢性的な不眠症に悩まされてきた俺にとって、この爽快な目覚めは奇跡に近い。体が軽い。頭もすっきりしている。まるで生まれ変わったような感覚だ。
でも、待てよ……なんで俺、家にいるんだ?
昨日の夜はコンビニで……そうだ、青木と松井と一緒に……
記憶を辿ろうとするが、深夜二時以降の記憶がぼんやりとしている。確か急激な眠気に襲われて、そして……
そこから先が思い出せない。まるで記憶に霧がかかったように、何も浮かんでこない。
まさか、また同じパターンか……。急に眠くなって、気がついたら朝。しかも今回は家のベッドで目覚めてる。
誰が俺を運んでくれたんだ?青木か?それとも……
その時、隣から聞こえてきた音に俺は凍りついた。
「ぐぅぅぅ……すぴー……」
いびき?
恐る恐る横を見ると――息を呑んだ。
そこには、俺のすぐ隣で大の字になって寝ている青木の姿があった。
しかも、距離が近い。近すぎる。顔と顔の距離が三十センチもない。
うわああああ!!
俺は反射的に叫びそうになったが、なんとか声を押し殺した。
な、な、な、なんで青木が俺のベッドで寝てるんだ!?しかもこんなに密着して!
心臓が早鐘を打つ。これは一体どういう状況だ?なぜ男二人が同じベッドで……。
いや、落ち着け。きっと何か理由があるはずだ。青木だって好きでこんな状況になったわけじゃないだろう。たぶん。きっと。そうであってくれ。
「むにゃむにゃ……松井さん……」
青木が寝言を言った。松井さん?なんで松井の名前が……。
まさか、昨夜何か重要なことがあったのか?でも思い出せない。
俺は時計を見た。朝の八時半。学校はとっくに始まっている時間だ。
……って、今日土曜日か。よかった、遅刻じゃない。
でも、なんで俺たち家にいるんだ?誰が運んでくれたんだ?
青木の寝顔を見る。よだれを垂らしながら、幸せそうに眠っている。
こいつ、完全に爆睡してるな……。昨夜遅くまで起きてたのか?
青木を起こすべきか迷ったが、きっと昨夜は大変だったんだろう。もう少し寝かせてあげよう。
そっとベッドから抜け出そうとする。できるだけ音を立てないように、慎重に体を動かす。
よし、なんとか青木を起こさずに……。
ギシッ。
ベッドが小さく音を立てた。
「んん……?」
青木が少し身じろぎする。やばい、起きちゃうか?
俺は息を止めて、青木の様子を見守る。
「すぴー……」
よかった、まだ寝てる。本当に疲れてるんだな。
俺は忍者のような動きでベッドから降り、そっと部屋を出た。
ふぅ……なんとか脱出成功。でも、なんで俺こんなにドキドキしてるんだ?別に悪いことしてるわけじゃないのに。
廊下を歩いて、リビングに向かう。とりあえず、顔でも洗おう。
リビングは静かだった。誰もいない。松井は帰ったのか?
俺は洗面所に向かった。ドアノブに手をかけて、ガチャッと開けると――目の前の光景に思考が停止した。
そこには、便座に座っている松井の姿があった。
銀青色の髪が朝日を受けてきらきらと輝いている。そして、彼女の青い瞳が、驚愕に見開かれていた。
時間が止まったような一瞬。
俺の脳が状況を理解するのに、コンマ数秒かかった。
松井が……トイレに……座って……。
やばい!これはやばい!見ちゃいけないものを見る前に――
「きゃああああああ!!」
松井の絶叫が家中に響き渡った。
次の瞬間、彼女の手に握られていたトイレットペーパーのロールが、俺の顔面に向かって飛んできた。
ゴンッ!
「うぐっ!」
見事に額に直撃。俺の視界が一瞬ブラックアウトする。
震える声が、俺の鼓膜を叩いた。
「へ、へ、変態ああああああ!!」
彼女の声は震えていて、今にも泣きそうだ。
俺は慌てて後ずさりしようとしたが、トイレットペーパーの衝撃でバランスを崩し――
ドサッ。
廊下に倒れ込んだ。
意識が遠のいていく中、最後に聞こえたのは松井の半泣きの声だった。
「最低……最悪……死んじゃえ……」
そして、俺の意識は再び闇に包まれた。
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「う……ん……」
再び意識が戻ってきた。今度も天井を見上げている。
あれ?また寝てた?
体を起こすと、自分がベッドに寝かされていることに気づいた。さっきまで隣にいた青木の姿はない。
頭がズキズキする。額を触ると、小さなたんこぶができていた。
あ……そうだ。洗面所で……松井が……。
俺の顔が一気に熱くなった。
やばい、最悪だ。見てはいけないものを……いや、正確には見る前だったけど、それでも最悪の状況だ。
どうしよう……どう謝ればいいんだ……。「ごめん、わざとじゃないんだ」って言っても信じてもらえるか?
いや、そもそもノックしなかった俺が悪い。でも、自分の家でノックなんて普通しないし……。
でも松井がいるの知ってたら……いや、知らなかったし……。
ああ、頭がぐるぐるする。これは詰んだ。完全に詰んだ。
俺は恐る恐る立ち上がり、部屋のドアを開けた。
廊下には誰もいない。そっと歩いて、リビングを覗く。
そこには――青木がソファに座って、スマホをいじっていた。そして、その向かいの椅子には、松井が座っている。
俺と目が合った瞬間、松井の表情が一変した。
まるでゴミを見るような、いや、ゴミ以下の何かを見るような目。その視線が痛い。物理的に痛い。まるでレーザービームみたいだ。
「お、起きたか」
青木が俺に気づいて声をかけてきた。
「あ、ああ……」
俺は恐る恐るリビングに入った。松井の視線を避けるように、できるだけ離れた場所に立つ。
「あの……さっきは……」
「何のことかしら」
氷のような声が俺の言葉を遮る。いや、絶対覚えてるでしょ……その目が物語ってる……。
「いや、その……洗面所で……」
「洗面所?何かあったかしら」
さらに冷たく言い放たれる。絶対覚えてる!忘れたふりしてるだけだ!
「本当にごめん!わざとじゃないんだ!」
俺は必死に謝った。土下座する勢いで頭を下げる。
「何の話?」
「だから、さっき……」
「さっき?さっき何?」
この白々しい態度……。でも、きっと触れて欲しくないんだろう。
そんな俺たちの様子を見て、青木がニヤニヤしながら口を挟んできた。
「なんだなんだ、何かあったのか?」
「いや、何も……」
「でも椎名の額、たんこぶできてるぞ」
くそ、バレバレじゃないか。
「これは……転んだだけだ」
「転んだ?どこで?」
「廊下で」
「廊下で転んで、額にたんこぶ?」
「そ、そうだ」
我ながら苦しい言い訳だ……。
その時、別の方向から笑い声が聞こえてきた。
「ふふふ……あははは!」
俺は声の方を向いて――固まった。
そこには、橘沙也加が立っていた。手にはフライ返しを持って、エプロンをつけている。
「橘!?」
なんで橘がここに!?しかもエプロン姿で!?
「おはよう、椎名くん。やっと起きたね」
「え?あ、おはよう……って、なんで橘がここに?」
「それは後で説明するよ。とりあえず、朝ごはん食べる?」
彼女はにこにこと笑いながら、フライ返しでキッチンの方を指差した。
「朝ごはん?」
「トーストと目玉焼き。簡単なものだけど」
俺の頭は完全に混乱していた。なぜ橘が俺の家で朝食を作っているのか。なぜエプロンをつけているのか。そもそもなぜここにいるのか。
「とりあえず座れよ。話はそれからだ」
青木に促され、俺は言われるままに座った。ただし、松井からはできるだけ離れた位置に。
橘がトーストと目玉焼きを運んできてくれた。見た目は普通だが、なぜか妙に美味しそうに見える。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう……」
なんか、この状況シュールすぎない?俺の家で橘が朝食を作って、青木と松井がいて……。
まるで共同生活してるみたいじゃないか。
俺は混乱しながらも、トーストを一口食べた。
「……美味い」
「本当?よかった」
橘が嬉しそうに微笑む。
「俺たちはもう食べたから、ゆっくり食べていいぞ」
みんな俺を待ってたのか……。申し訳ない気持ちになる。
俺は朝食を食べながら、恐る恐る口を開いた。
「あの……そろそろ説明してもらえる?」
「そうだな」
青木が頷く。
「昨日の夜、俺また寝ちゃったんだよな?」
「覚えてる?二時頃に急に眠くなったこと」
「ああ、それは覚えてる。でもその後は……」
俺はちらりと松井を見た。彼女はまだ不機嫌そうな顔をしているが、少し表情が和らいだ気がする。
「……私も寝た」
松井が小さく呟いた。
やっぱりか。二人とも同じタイミングで眠ってしまったんだ。
「お前らな、俺の耳引っ張っといて、結局寝やがって」
「え?」
「あんなに痛い思いさせといて、二時になったら死んだように寝ちゃうんだもん。起こそうとしても全然起きないし」
そうか、青木は起きてたのか。観察役、ちゃんと務めてくれたんだな。
「悪かった」
「しかもな、どうやって家まで運ぶか、めっちゃ悩んだんだぞ」
「運ぶ?」
「だって、コンビニで寝たままにしとくわけにもいかないだろ?」
確かにその通りだ。でも、どうやって……。
「特に松井な。女の子だから触るのも気を使うし、かといって放置もできないし」
「……面倒かけたね」
松井が少し申し訳なさそうに言う。
「いや、まあ、それはいいんだけど」
青木は手を振って答えた。俺は改めて青木に感謝した。こいつ、本当にいい奴だな。
「それで、どうやって運んだんだ?」
「それがな、面白い話があるんだよ」
青木がニヤリと笑う。面白い話?なんか嫌な予感がする……。
「なあ橘、説明してやってくれ」
「うん、実はね……」
彼女は椅子に座り直して、昨夜の出来事を話し始めた。
「まず、私がなんでここにいるか、から話すね」
「ああ、それが一番の謎だ」
「昨日、私も透明化してて、家に帰れなかったの」
やっぱり……予想通りだ。
「それで、どうしようかなって考えてたら、椎名くんたちがコンビニにいるって思い出して」
「なるほど、それで来たのか」
「そう。でも、着いた時にはもう君たち寝てたけどね」
まあ、そうだろうな……。
「俺は起きてたぞ」
「うん、青木くんは起きてた。それで色々話したんだけど……実は、重要な発見があったの」
「発見?」
橘は身を乗り出して、声を潜めた。
「紫色の光を見たの」
「紫色の光?」
まさか……神秘の牛乳の?
「二時ちょうどに、コンビニの一階で紫色の光が一瞬現れた。でも……青木くんも店員さんも、全く気づいてなかった」
「俺は本当に何も見てない」
青木が補足する。つまり、透明化してる人にしか見えない光?
「それって……」
「たぶん、あの光が神秘の牛乳の正体。牛乳は単なる入れ物で、本質は紫色の光なんじゃないかって」
なるほど……確かに理にかなってる。でも、まだ疑問が残る。
「じゃあ、なんで俺と松井は眠っちゃったんだ?」
「それは……まだ分からない。でも、何か関係があるはずよ」
俺は別の質問をした。
「そういえば、今朝の状況は?」
急に全員の表情が変わった。特に松井が心配そうな顔をしている。
どうした?何か悪いことでも……。
「スマホ見てみろ。特にLINE」
青木に言われるままにスマホを取り出し、LINEを開いた。
最初は何も気づかなかった。でも、よく見ると……。
「あ!」
橘沙也加の連絡先が表示されている。昨日まで消えていたはずなのに。
「橘の透明化、治ったのか!?」
俺は興奮して顔を上げた。
「そうみたい。今朝起きたら、普通に戻ってた」
「よかった……本当によかった」
「家族も、私が友達の家に泊まったって記憶が埋め込まれてたみたい。特に怪しまれることもなく」
記憶の改ざん……この現象、本当に不思議だ。
「でも、それなら万事解決じゃ……」
俺はLINEの友達リストをスクロールしていて、気づいた。
「あれ?」
「気づいたか」
「柏木の連絡先が……ない」
そうだ。柏木由香里の名前が、どこにもない。
「今度は柏木さんの番みたい」
「私たちは椎名くんと一緒にいたから、柏木さんのこと覚えてるけど……」
「連絡先が消えたってことは……」
「透明化が始まったってことだ」
青木が結論づけた。まさか、昨日の一瞬の透明化と関係が?
「どうしよう……柏木に連絡取れない」
「大丈夫。昨日の夜、ちゃんと対策しといた」
「対策?」
「青木くんが機転を利かせて、LINEで椎名くんの住所を送ったの」
「『もし連絡取れなくなったら、この住所に来て』ってな」
さすが青木!そんなこと思いつきもしなかった。
「じゃあ、柏木は今こっちに向かってる?」
「たぶん……でも、連絡先が消えたのが一時間前だから……」
「寝坊してる可能性もある」
「でも、もしもう出発してるなら、そろそろ着いてもいい時間じゃ……」
「透明化してたら、電車乗れないでしょ」
あ……そうか。
「改札通れないし、切符も買えない」
「つまり、徒歩で来るしかない」
なんてこった……。柏木の家からここまで、歩いたら一時間以上かかるぞ。
「かわいそうに……」
「でも大丈夫。柏木さんは強い子だから」
橘は前向きだが、心配なものは心配だ。
俺は朝食を食べ終えて、皿を片付けようとした。
「ところで、昨日の夜の話、もう少し詳しく聞かせてくれる?」
「ああ、それがな……」
青木は思い出し笑いをしながら、昨夜の出来事を語り始めた。
(青木透の回想)
はぁ……マジかよ。
俺は階段を降りながら、心の中で盛大にため息をついた。
せっかく眠気我慢して起きてたのに、肝心の二人が爆睡かよ。しかも、起こそうとしても全然起きない。耳引っ張っても無反応。
これじゃ観察も何もあったもんじゃない。
まあ、でも仕方ない。とりあえず、一階の様子でも見てくるか。もしかしたら、光る牛乳があるかもしれないしな。
一階に降りると、店員が暇そうにレジに座っていた。客は俺以外にいない。
冷蔵庫の牛乳コーナーを確認するが、光ってる気配は全くなし。
つまんねーな……。
その時、入り口の方に人影が見えた。
ん?こんな時間に客か?
よく見ると……橘沙也加だった。
は?なんで橘がここに?
しかも、何か変だ。店の中に入ってこないで、入り口付近でじっと立っている。
「よう、橘」
「わっ!青木くん!?」
「なんでここにいるんだ?」
「それは……ちょっと複雑で」
「ねえ、今何か見えた?」
「何かって?」
「紫色の光」
「いや、見てないけど」
「やっぱり……」
「やっぱりって何だよ」
「たぶん、光る牛乳と関係がある」
「で、なんでここに立ってるんだ?」
「実は……家に帰れなくて」
ああ、そういうことか。透明化して、家族に認識されなくなったのか。
「それで、俺たちを探しに?」
「うん。でも、誰から聞いたか思い出せなくて……」
「椎名の能力でも思い出せない?」
「それが不思議なの。普通なら思い出せるはずなのに」
「だから、もしかしたら……紫色の光が重要なんじゃないかって」
なるほど、牛乳じゃなくて光の方が本体ってことか。
その時、ふと気づいた。店員が変な目で俺を見ている。
あ、そうか……。橘は透明化してるから、店員には見えない。つまり、俺が一人で喋ってるように見えるのか。
やべぇ、完全に危ない奴じゃん。
店員の表情が徐々に警戒モードに変わっていく。
「あ……ごめん、変に見えるよね」
「ちょっと場所変えよう」
俺は慌てて店員に向かって、電話のジェスチャーをした。
「あー、もしもし?」
「……」
やばい、全然信じてない。
「え?今?今コンビニだよ。うん、二階で友達が寝ちゃってて」
「もっと自然に」
橘が小声でアドバイスしてくるが、それに反応したら余計怪しい!
「お客様……大丈夫ですか?」
「え?あ、はい!大丈夫です!ちょっと電話中で……」
俺は必死に手を振ったが、手に何も持ってないことに気づく。スマホ!
慌ててポケットからスマホを取り出す。
「あ、ごめん!イヤホンで話してたから!」
「でも……イヤホンも……」
くそ!イヤホンもつけてない!
「Bluetoothって言って!」
「Bl……Bluetooth!最新のBluetoothイヤホンなんです!」
俺は自分の耳を指差した。何もついてないけど。
「見えませんけど……」
「そ、それが最新技術なんです!透明なんです!」
「それはさすがに……」
橘が呆れている。店員の表情が「この人ヤバい」から「この人本当にヤバい」に変わった。
「い、いや違うんです!本当に電話してるんです!ほら!」
俺は慌ててスマホを操作して、適当な番号に電話をかけた。
『お客様のおかけになった番号は、現在使われておりません』
機械音声が大音量で流れる。最悪だ。
「あの……」
「ち、違うんです!これは……友達が番号変えたみたいで!」
「もうやめて……」
橘が顔を覆っている。
「あ!そうだ!実は俺、新人YouTuberで!」
「は?」
「そう!『深夜のコンビニで一人芝居チャレンジ』っていう動画撮ってて!」
「それは無理があるでしょ……」
「カメラは?」
「カメラは……ほら、最近のは小型で……ピンマイクカメラ!これも透明!」
「透明づくしですね……」
やばい、完全に頭おかしい人だと思われてる。
「もう諦めて逃げよう」
「あの、本当なんです!チャンネル名は……えーっと……『透明大好き青木チャンネル』!」
「なんでそんな名前に……」
店員はもう完全に引いている。今にも警察を呼ばれそうな雰囲気だ。
その時、救世主が現れた。
「すみませーん、お弁当どこですか?」
「あ、はい!こちらです!」
店員が新しい客の対応に向かった。今だ!
「今のうちに上に戻ろう」
「そうね……これ以上は無理」
俺たちはそそくさと二階への階段を上った。
「透明大好き青木チャンネルって……」
「うるさい!必死だったんだよ!」
「でも透明イヤホンは斬新だったわ」
「もう忘れてくれ……」
二階に戻ると、相変わらず椎名と松井は爆睡していた。
「もう二度と一人で透明人間と話さない……」
「お疲れさま」
「ねえ、柏木さんは大丈夫?」
「今のところは。でも……昨日、一瞬透明になったって椎名が言ってた」
「そう……やっぱり。たぶん、今日か明日、柏木さんも完全に透明化する」
「マジかよ……じゃあ、対策しないと」
「そうね。連絡先が消える前に」
俺はスマホを取り出して、柏木にLINEを送った。
『もし明日、連絡が取れなくなったら、この住所に来て』
そして椎名の住所を送信。既読はすぐについた。
柏木:『え?どういうことですか?』
『詳しくは明日説明する。とにかく、この住所は覚えといて』
柏木:『分かりました……でも、心配です』
『大丈夫、俺たちがついてる』
我ながら、キザなセリフだな。
「優しいね」
「別に……当然のことだろ」
照れくさい。
「ところで、この二人どうする?」
「家まで運ぶしかないか」
「でも、どうやって?」
それが問題だ。
「タクシー?」
「私、今の状態で出来るかな……?」
あ、そうか……。橘が物を持っても、俺以外には見えないのか。
「じゃあ、俺一人で二人運ぶの?」
「ごめん……」
「まあ、やるしかないか」
「待って!私も手伝う!」
「え?でもお前、透明じゃ……」
「大丈夫!松井さんは私が運ぶから!」
「おい、本気か?透明なのに物持ったら……」
「任せて!女の子は女の子が運ぶのが一番よ」
そう言って、橘は松井を背負い始めた。
仕方ない、俺も椎名を背負う。
「うぉ……重っ」
椎名のやつ、見た目より重い。
なんとか椎名を背負って、階段を降りる。隣では、松井が空中を漂っているような奇妙な光景が展開されている。
案の定、一階に降りた瞬間――
「!?」
店員の顔が見る見るうちに青ざめていく。
「あ……あの……お客様……」
「はい?」
「そ、その……女の子が……浮いて……」
「あ」
やっちまった!
「う、浮いてる!人が浮いてる!」
「え?何がですか?」
俺はとぼけようとしたが、店員の目は完全に松井(というか空中)に釘付けだった。
「だ、だって!その子、足が地面についてない!」
「やばい!」
橘は慌てて松井を背負ったまま、二階への階段を駆け上がっていった。店員から見たら、松井が急に空中を飛んで二階に消えたように見えただろう。
「ひぃぃぃ!」
まずい、このままじゃ警察呼ばれる!俺は咄嗟に叫んだ。
「うわあああ!店長!後ろ!」
「え!?」
もちろん、後ろには何もない。
「何も……」
「あれ?今確かに人影が……」
「店長は今日休みですけど……」
「そ、そうですか……じゃあ見間違いかな……」
店員はまだ不安そうにしていたが、さっきの浮遊現象よりも、店長の幽霊(?)の方が気になり始めたようだ。
「も、もしかして……この店……」
「いやー、最近疲れてるから、幻覚見ちゃったかも。じゃ、友達運ばないと」
店を出てから、俺は大きくため息をついた。
「危なかった……」
「ごめーん!」
「後で合流しよう!」
「うん!ここで待ってる!」
俺は椎名を背負って、アパートへ向かった。
椎名を部屋に運んで、ベッドに寝かせた後、再びコンビニに戻った。
店員はまだレジでガタガタ震えていた。
「すみません、もう一人……」
「あの!さっきの!女の子が浮いてたのは……」
「浮いてた?何の話ですか?」
俺は完全にとぼけることにした。
「私、疲れてるのかな……」
なんか罪悪感を感じるが、仕方ない。
二階に上がると、橘が松井を抱えて申し訳なさそうに座っていた。
「本当にごめん……完全に忘れてた」
「まあ、俺も気づかなかったし」
「透明でも、物を持ったら浮いて見えるのね……」
「当たり前だろ」
結局、今度は俺一人で松井を運ぶことになった。
「本当に一人で大丈夫?」
「もう仕方ない。お前はついてくるだけにしてくれ」
俺は松井をお姫様抱っこしようとしたが……ちょ、重……。失礼を承知で言うが、女の子ってもっと軽いもんだと思ってた。
結局、椎名と同じように背負うことにした。
でも、女の子を背負うのは……なんか変な感じ。松井の髪が顔にかかって、いい匂いがする。シャンプーの香りか?
って、こんなこと考えてる場合じゃない!
俺は必死に松井を背負って、階段を降りた。
「もう一人?」
「あー、彼女も……」
「大変ですね、若いのに」
若いのにって何だよ。
外に出ると、橘の声が聞こえた。
「大丈夫?息切れしてるよ」
「当たり前だ……女の子背負うなんて初めてだし」
「いい経験になったんじゃない?」
「全然よくない」
椎名のアパートまでの道のりが、異常に長く感じられた。
部屋に入って、松井をソファに寝かせようかと思ったが……ふと思い出した。
「なあ、橘。ちょっと隣の部屋使っていいか聞いてくる」
「隣の部屋?」
「ああ、ちょっと待ってて」
俺は椎名の部屋を見回し、引き出しの中からもう一つの鍵を見つけた。椎名には悪いが、今は緊急事態だ。
隣の部屋を開けると、きちんと整理されていて、ベッドもちゃんとある。
「空き部屋があったの?」
「ああ、ちょうどよかった。松井はここで寝かせよう」
「そうね、ソファよりベッドの方がいい」
松井をベッドに寝かせる。
「私、ここで松井さんを見てる」
「いいのか?」
「うん。女の子同士の方が安心でしょ?もし目が覚めた時」
「そうだな……じゃあ、頼む」
「任せて」
俺は椎名の部屋に戻った。さすがに疲れた……。
ソファで寝ようかと思ったが、体中が痛い。
「あー……もう限界……」
椎名を見る。ベッドの端っこなら……まあ、いいか。
結局、俺も椎名のベッドの端っこに転がり込んだ。
椎名のやつ、爆睡してて全然気づかない。まあ、こいつなら怒らないだろう……たぶん。
俺は疲労の波に飲み込まれて、すぐに眠りに落ちた。
(回想終了)
「――そんなわけで、お前らを運んだ」
俺は青木の話を聞いて、改めて感謝の気持ちでいっぱいになった。
「ありがとう……本当に」
「まあ、友達だしな」
青木が照れくさそうに言う。
「でも大変だったのよ。特に松井さんを運ぶ時」
「……ごめん」
松井が恥ずかしそうに俯く。
「いや、別に重かったとか言ってないから」
「重かったって思ったでしょ」
「思ってない!全然思ってない!」
青木が慌てて両手を振る。そのやり取りは、まるでいつもの日常のようで、俺は少しだけ安心した。