表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/18

2-3

図書室への道のりは、いつもより長く感じられた。廊下の窓から差し込む夕方の光が、床に長い影を作っている。俺たち四人の足音だけが、静まり返った校舎に響いていた。


「ここだ」


青木が図書室の重い扉を指差した。扉の向こうから、かすかに本のにおいが漂ってくる。古い紙とインクの混じった、どこか懐かしい香りだ。


俺は深呼吸をして、ドアノブに手をかけた。


ガチャ。


室は思ったより広く、天井まで届きそうな本棚が整然と並んでいた。夕日が大きな窓から差し込み、空気中の埃を金色に輝かせている。


「橘さん!」


柏木が小声で呼びかけたが、返事はなかった。俺たちは手分けして探し始めた。青木は入り口近くの新着図書コーナーを、柏木は文学関係の棚を、俺は奥の方の資料室周辺を調べることにした。


本棚の間を歩きながら、俺は橘の姿を探した。彼女の茶色いショートボブ、いつも持ち歩いている文庫本、そして知的な雰囲気...どこかにいるはずだ。


「橘さん...」


声を押し殺して呼びかけるが、応答はない。本棚の陰を一つ一つ確認していく。世界史のコーナー、日本文学のコーナー、理系の参考書が並ぶ棚...どこにも橘の姿はなかった。


ふと、窓際の読書スペースに目をやった。そこには誰かが座っていた形跡があった。机の上には開かれたままのノートと、キャップのはまっていないペンが置かれている。


俺は近づいて、ノートを覗き込んだ。そこには几帳面な文字で、何かのメモが書かれていた。しかし、内容は判読できない。まるで文字がぼやけているような...いや、これは俺の目の問題じゃない。文字自体が薄れているんだ。


「何か見つけた?」


青木が俺の隣にやってきた。


「これ、橘のノートかもしれない」


「でも、何も読めないな」


青木も眉をひそめてノートを見つめる。柏木も寄ってきて、不安そうな表情を浮かべた。


「これって...橘さんの存在が薄れているから、彼女の持ち物も...?」


その可能性は高い。人の存在が薄れれば、その人に関連するものも影響を受けるのかもしれない。俺たちは図書室の隅々まで探したが、橘の姿はどこにもなかった。司書カウンターの裏も、個人学習用のブースも、全て確認した。


「いない...」


柏木の声には落胆が滲んでいた。青木が腕組みをして考え込む。


「もしかして、もう帰ったのか?」


「いや、文学部の部員は図書室にいるって言ってた」


俺は時計を見た。まだ5時過ぎ。図書室が閉まるまでには時間がある。その時、ふと思いついた。


「図書室の管理員に聞いてみよう」


青木が頷いた。


「そうだな。橘が文学部なら、よく図書室を使ってるはずだ」


柏木も同意する。


「管理員さんなら、今日見かけたかどうか分かるかもしれません」


俺たちは司書カウンターに向かった。カウンターの奥では、白髪混じりの女性司書が本の整理をしていた。眼鏡の奥の目は優しそうだが、どこか厳格な雰囲気も漂わせている。


「すみません」


俺が声をかけると、司書は顔を上げた。


「はい、何か?」


「文学部の橘沙也加さんを探しているんですが、今日見かけませんでしたか?」


司書は首を傾げた。その表情から、すぐに分かった。


「橘...沙也加さん?」


やはり、覚えていない。


「ごめんなさい、その名前に心当たりがないわ」


青木が俺の肩を小さく叩いた。


「やっぱりか...」


柏木も不安そうな表情を浮かべている。


「文学部の生徒さんはよく来るけれど...橘さんという名前は聞いたことがないわね」


俺は深呼吸をした。また、俺の「能力」を使う時が来たようだ。でも、さっきの文学部での失敗を思い出す。もし今回も失敗したら...


青木が小声で囁いた。


「大丈夫か?さっきみたいに、効かない可能性もあるぞ」


確かにその通りだ。でも、やってみないと分からない。


「これも能力のテストだと思えばいい」


俺は司書に一歩近づいた。


「失礼ですが、もう少し近くで話してもいいですか?」


「え?どうして?」


確かに怪しいよな...いきなり近づきたいなんて。


「あの、大切な友達のことなんです。お願いします」


司書の表情が少し和らいだ。


「そう...分かったわ」


彼女はカウンターから出てきて、俺たちの近くに立った。俺は司書の目をまっすぐ見つめた。できるだけ真剣に、集中して。


「橘沙也加さん。茶髪のショートボブで、いつも文庫本を持っていて、文学にとても詳しい女の子です」


司書は眉間にしわを寄せて、必死に思い出そうとしている。


「橘...沙也加...」


額に手を当てて、目を閉じる。まるで頭の奥深くに潜っていくような表情だ。俺は心の中で祈った。頼む、思い出してくれ...


司書の表情が変わり始めた。苦しそうだった顔が、少しずつ驚きに変わっていく。


「あ...」


来た!


「橘さん...そうよ、橘沙也加さん!」


青木と柏木が安堵の息を漏らした。


「どうして忘れていたのかしら...確かに、よく来る生徒さんよ」


俺は内心でガッツポーズをした。今回は成功だ。


「今日、橘さんを見ませんでしたか?」


司書は記憶を辿るように、視線を宙に泳がせた。


「ええ、確かに今日も来ていたわ。午後の早い時間だったかしら...」


「どのあたりにいましたか?」


「日本史の資料コーナーで、何か熱心に調べ物をしていたわ。新選組関連の本を何冊も机に広げて...」


新選組...それは俺たちの芸術祭の作品テーマだ。


「それで、今はどこに?」


司書の表情が曇った。


「それが...急に慌てた様子で席を立って、そのまま出て行ってしまったの」


「慌てた様子?」


「ええ。まるで何か重要なことを思い出したような...ああ、そうそう、出て行く時に『間に合うかな』って呟いていたような気がするわ」


間に合う?何に?


「何時頃でしたか?」


「3時過ぎだったと思うわ。ちょうど午後の休憩時間が終わった頃」


3時過ぎ...それは俺たちが文学部を訪ねた時間とほぼ同じだ。


「ありがとうございました」


俺たちは司書に礼を言って、図書室を後にした。廊下に出ると、青木が口を開いた。


「3時過ぎに慌てて出て行った...何かに気づいたんだな」


「でも、どこに行ったんでしょう」


俺も考え込んだ。橘は何に「間に合う」必要があったのか?


「とりあえず、学校の中を探してみよう」


「そうだな。まだ校内にいる可能性もある」


俺たちは手分けして校舎を探すことにした。青木は1階と2階、柏木は3階と4階、俺は屋上と体育館周辺を担当することになった。


「30分後に昇降口で集合」


「分かった」


俺は階段を駆け上がって屋上へ向かった。さっき昼休みに来た時と同じルートだ。屋上のドアを開けると、オレンジ色の夕日が目に飛び込んできた。


「橘!」


声を張り上げて呼んでみたが、返事はない。屋上には誰もいなかった。風だけが吹き抜けていく。俺は屋上を一周してから、体育館へ向かった。


体育館では部活動が行われていた。バスケ部の練習の音が響いている。俺は体育館の周りを歩き回り、更衣室の前や、器具庫の陰も確認した。しかし、橘の姿はどこにもなかった。


時間になって昇降口に戻ると、青木と柏木も同じような表情をしていた。


「ダメだった」


「私も...」


結局、学校中を探しても橘は見つからなかった。


「もう学校にはいないのかもしれない」


「じゃあ、どうする?」


俺は時計を見た。もう5時半を過ぎている。


「松井の店に行こう。もしかしたら、橘も俺たちと同じことを考えて...」


「そうですね。みんなで集まろうとするかもしれません」


「よし、行こう」


俺たちは学校を出て、松井が働いているコンビニへ向かった。夕方の商店街は、仕事帰りの人々で賑わっていた。俺たちは人波を縫うように歩いていく。


コンビニが見えてきた時、俺は立ち止まった。


「あれ...」


ガラス張りの店内が見える。レジには確かに松井の姿があった。そして—


「橘だ!」


「本当だ!」


「よかった...」


橘は確かにそこにいた。松井のすぐ隣に立って、何かを観察しているような様子だ。手にはいつものノートを持っている。でも、何かがおかしい。松井は橘の存在に全く気づいていないようだった。まるでそこに誰もいないかのように、普通にレジ打ちをしている。


俺たちは急いで店内に入った。


カランカラン。


自動ドアの音に、松井が顔を上げた。


「あ、みんな!どうしたの?」


彼女の視線は俺たち三人だけを捉えている。すぐ隣にいる橘には、全く気づいていない。


「どうして松井さん、橘さんに気づかないの?」


青木が推測を口にした。


「距離の問題じゃないか?椎名の能力は、椎名自身がそばにいないと効果がない」


なるほど、それは十分あり得る。俺たちは松井に近づいた。橘も俺たちに気づいたようで、顔を上げた。その表情は、少し困ったような、でもどこか研究者のような真剣さを帯びていた。


「松井」


俺が声をかけると、松井は首を傾げた。


「どうしたの?みんなで来るなんて珍しいね」


彼女は本当に橘が見えていない。目の前にいるのに。俺は橘と目を合わせた。彼女の瞳には、確かに意識の光が宿っている。でも、どこか諦めたような色も見える。


俺は橘に小さく頷いてから、松井に言った。


「松井、ちょっと横を見てみて」


「横?」


彼女が首を回した瞬間—


「うわあああ!!」


大きな声を上げて、後ろに飛び退った。


「た、橘!?いつからそこに!?」


橘はいたずらっぽく微笑んだ。


「ふふん、実はずーっといたんだよ」


「嘘でしょ!?全然気づかなかった!」


「それだけじゃないよ。松井さんがお客さんいない時にこっそり何してたか、全部記録してあるから」


「え!?」


橘はノートをひらひらと振った。


「えーっと、4時23分、『あー疲れた』って言いながら背伸び。4時31分、スマホでSNSチェック。4時45分、『まだ1時間もある...』ってため息」


「ちょ、ちょっと!」


「4時52分、レジの下に隠してあるお菓子をこっそり一口—」


「わー!わー!もういい!分かった!」


青木が笑いをこらえている。柏木も口元に手を当てて、くすくすと笑っていた。


「ひどい...ストーカーじゃん」


「違うよ。これは貴重な観察記録。『透明人間に観察される店員の行動パターン』っていう論文が書けるかも」


「そんな論文いらない!」


この軽快なやり取りで、さっきまでの重い雰囲気が少し和らいだ。でも、これで一つ重要なことが確認できた。俺の能力は、俺がそばにいないと持続しない。離れると、また忘れられてしまう。


俺は改めて橘を見た。彼女は相変わらず明るく振る舞っているが、その笑顔の奥に疲れが見える気がした。きっと、誰にも認識されない時間は、想像以上に辛かったはずだ。


松井が店長に声をかけた。


「店長、すみません。ちょっと急用ができて...」


「大丈夫?顔色良くないけど」


確かに、松井の顔は少し青ざめていた。橘の突然の出現にまだ動揺しているのかもしれない。


「まあ、今日は早めに上がっていいよ。お大事に」


「ありがとうございます」


松井は急いで着替えに行った。その間、俺たちは店の外で待つことにした。


「で、これからどうする?」


「近くのカフェに行こう。ゆっくり話せる場所がいい」


「あ、この前行ったところですね」


「うん、あそこなら落ち着いて話せる」


数分後、松井が私服に着替えて出てきた。俺たちは商店街を歩いて、例のカフェへ向かった。夕方のカフェは比較的空いていて、俺たちは奥の席に座ることができた。


注文を済ませてから、俺たちは橘に向き直った。


「で、どういうことなんだ?」


橘は大きく伸びをしてから、いつもの明るい笑顔を浮かべた。


「実はね、今日の朝は普通だったんだ。でも、お昼頃かな?急に周りの反応がおかしくなって」


「おかしくなった?」


「うん。最初は無視されてるのかと思ったけど、違った。本当に見えてないみたいだった」


彼女は天井を見上げて、記憶を辿るような仕草をした。


「正確な時間は...うーん、12時半頃かな。原因は全く分からない」


松井が身を乗り出した。


「でも、それならどうして私たちに連絡しなかったの?同じクラスなんだから、すぐ会えたでしょ?」


橘の表情が少し曇った。でも、すぐにいつもの笑顔に戻る。


「実はね、一つ確かめたいことがあったんだ」


「確かめたいこと?」


「昨日から思ってたんだけど、椎名くんには何か特別な力があるんじゃないかって」


俺は少し驚いた。昨日の時点で気づいていたのか。


「だから、今日の昼休み、みんなが屋上で話してる時、実は廊下で聞いてたんだ」


「なんだそれ、スパイかよ」


「仕方ないじゃない。直接聞いても信じてもらえないかもしれないし」


確かに、いきなり「君には特殊能力があるよね?」なんて聞かれても困る。


「......でも、一人であんな状況で......怖くなかったんですか?誰にも姿が見えなくて、その…孤独感は......」


橘の笑顔が固まった。


「......怖くなかったって言ったら、嘘になるわね。正直…みんなが私のことを『認識』してくれるって確信するまで、私自身、次の瞬間に消えてしまうんじゃないかって、不安で仕方がなかった。…でも、あそこで泣きついて迷惑をかけても、何も解決しないじゃない?それなら、少しでも役に立つことをしようって、思っただけよ」


「それで確信した。椎名くんには、忘れられた人を思い出させる力がある」


柏木が不思議そうに尋ねた。


「でも、それが分かったなら、どうしてその後も合流しなかったんですか?」


橘の目が少し泳いだ。一瞬だけ、何か別の感情が顔を覗かせたような気がした。


「もう一つ確かめたかったことがあって」


「それは?」


橘は俺の目をまっすぐ見つめた。


「椎名くんの能力の限界」


「ああ、それで私のところに...」


「そう。柏木さんの話が気になってた。家に帰ったら家族に忘れられてたって」


柏木の表情が曇る。あの夜のことを思い出しているのだろう。


「それに、松井さんの店での出来事も。椎名くんが帰った後、また忘れられたんでしょ?」


「うん...」


「だから、椎名くんから離れたらどうなるか、確認したかった」


なるほど、理にかなっている。橘の研究者気質が、こんな状況でも実験精神を発揮させたのか。でも一人で透明化の恐怖と向き合っていた彼女のことを思うと、胸が締め付けられる。


「案の定、最初は松井さんも私のこと覚えてた。でも、店に入った瞬間、完全に見えなくなった」


「やっぱり距離の問題か...なあ、そいえば、松井のこと見つけてたんなら、普通に声かければよかったじゃないか。理屈は分かったけど、一人でいるのは怖くなかったのか?俺なら絶対無理だぜ」


「これは必要な『対照実験』よ。椎名くんの『能力』に距離制限があるのかどうか、確認したかったの。それに私自身も未知の『変数』だから、直接介入したら観測データに影響が出ちゃうかもしれないでしょ?……科学よ、科学」


「そして分かった、椎名くんの能力には、有効範囲があるみたい」


俺は今日の文学部での失敗を思い出した。あの時の無力感が、再び胸の奥で疼く。


「それだけじゃない。人数の制限もある」


「へえ、どういうこと?」


「文学部で試した時、3人のうち1人だけ思い出せなかった。部員AとBは思い出したけど、部員Cだけはどうしても無理だった」


まるで霧の中で手探りをしているような感覚だった。能力があるとはいえ、俺はまだその力を完全には理解していない。


「面白いね。距離と人数...他にも条件があるかもしれない」


松井が身を乗り出した。


「でも、変なことがあるんだよね」


「変なこと?」


「私も柏木さんも、今日は普通に過ごせた。透明にもならなかったし、忘れられることもなかった」


確かに今日は、昨日のような深刻な状況は起きていなかった。まるで嵐の前の静けさのように、不気味なほど平穏だった。


「そうなんです。朝からずっと、みんな普通に接してくれて...」


「私も気づいてた。松井さん、椎名くんから離れても、店の人たちはちゃんと認識してた」


青木が何かを思い出すような顔をした。


「でも、柏木は午後にまた透けて見えたって、椎名が言ってたよな」


「確かに見た。一瞬だけど、体が透明になってた」


あの時の光景が脳裏によみがえる。柏木の輪郭がぼやけて、まるで薄い霧のようになった瞬間。


「やっぱり、まだ治ってないんですね...」


「つまり、今の安定は一時的なものかもしれない」


重い沈黙がカフェに流れた。他の客の笑い声が、まるで別世界のもののように聞こえる。俺は、あの時の状況を思い出そうとした。柏木が透けて見えた時、確か田中さんが友達の話をしていた時だった。もしかして...


「柏木さん、あの時、田中さんが友達が多いって話をしてた時だよね?」


その瞬間,柏木の体がビクッと震えた。まるで電撃に打たれたような、激しい反応だった。


「え?た、田中さんが...友達が多いって...?」


彼女の声は裏返っていた。俺は何か禁忌に触れてしまったような気がした。


「そ、そんなこと...ありません...里奈ちゃんに友達がたくさんいるのは、いいことですから...」


その笑顔は痛々しいほど作り物だった。声も震えている。


「私...嬉しい、です...」


嘘だ。その言葉とは裏腹に、彼女の目には複雑な感情が渦巻いていた。嫉妬、寂しさ、そして自己嫌悪。俺は優しく、でも真っ直ぐに彼女を見つめた。


「嬉しいのは、本当だと思う。でも...少しだけ、寂しいって、思わなかったか?」


柏木の目が大きく見開かれた。まるで、心の奥底に隠していた本音を見透かされたような驚きの表情だった。その瞬間、俺は気づいた。松井と橘の表情も微妙に変わっている。二人とも何か思い当たることがあるようだ。青木だけが、その変化を鋭く観察していた。


柏木の肩が小刻みに震え始めた。必死に感情を押し殺そうとしているのが分かる。でも、もう限界だった。


「......っ!」


目に涙が溜まり始める。透明な雫が、彼女の下まぶたに光っていた。


「...私、最低です...」


ついに、堰を切ったように言葉が溢れ出した。長い間胸の奥に閉じ込めていた感情が、一気に噴き出すように。


「柏木さん...?」


「里奈ちゃんは、私のたった一人の...一番の友達なのに...」


涙が頬を伝い落ちる。一粒、また一粒と、透明な雫が彼女の頬を濡らしていく。


「おい、なんで泣いて...」


「里奈ちゃんにとっては、私は...たくさんいる友達の中の一人に過ぎないんだって...」


声が詰まる。でも、止まらない。長い間溜め込んでいた感情が、まるで決壊したダムの水のように溢れ続ける。


「ああ...そういうことか」


俺も今、理解した。柏木の透明化は、彼女の心の状態と関係している。自分の存在意義を疑った時、物理的にも透明になってしまうのかもしれない。


「そう思ったら、すごく...怖く、なって...」


彼女の小さな体が震えている。声にならない悲しみが、彼女を包み込んでいた。


「柏木さん...そんなこと思わないで」


「いつか、私なんていなくても、里奈ちゃんは寂しくないんじゃないかって...」


また嗚咽が漏れる。カフェの他の客が、ちらりとこちらを見たが、静かに見守ってくれている。


「そんなことないって!」


「私だけが、彼女に依存してるみたいで...すごく、自分が嫌に...なって...っ」


俺は柏木の気持ちが痛いほど分かった。大切な人との関係性に不安を感じる気持ち。相手にとって自分がどれほどの存在なのか分からない恐怖。


「友達を大切に思う気持ちは、全然悪いことじゃない」


橘が立ち上がって、柏木の隣に座り直し、優しく背中をさすった。


「そ、そうだよ!私なんて友達少ないから、一人一人すごく大事!」


「松井さん、それフォローになってない...」


「え!?あ、えっと...その...」


「だから、たくさん友達がいる人の気持ちは分からないけど...」


「あ、でも田中さんもきっと柏木さんのこと大切に思ってるよ!たぶん!」


松井の不器用な優しさに、柏木は涙混じりの小さな笑い声を漏らした。それは悲しみの中にも、温かさを感じさせる笑顔だった。


「ふふ...松井さん、ありがとう」


俺も柏木に声をかけた。


「柏木さんの気持ち、すごく分かる。大切な人との距離感って、難しいよな」


「はい...」


彼女は小さく頷いた。その頷きには、理解してもらえた安堵感が込められていた。その時、俺は青木の様子が気になった。彼は腕を組んで、何か深く考え込んでいる。まるで重要なパズルのピースを見つけたような表情だ。


「なあ、この話題はもうやめにしないか?」


「え?なんで?」


「柏木さんも辛いだろうし、今日はもう解散しよう」


意外な提案だった。いつもの青木なら、もっと深く追求するはずなのに。


「そうですね...もう遅いし」


「それより椎名、今夜うちに泊まりに来いよ」


「え?」


「あ、違った。俺がお前の家に泊まりに行く」


急な話だ。でも、青木の目を見て分かった。何か重要な話があるんだ。


「まあ、いいけど...何か話があるのか?」


「まあ、な」


「なんか怪しくない?」


「確かに、青木さん急に話を切り上げようとしてますよね」


「べ、別にそんなことないって!」


「私のせいで、みなさんに迷惑を...」


「謝ることないよ。誰にだって、そういう時はある」


「そうだよ。泣きたい時は泣けばいい」


しかし青木は突然真剣な表情になった。普段の軽薄さが完全に消えている。


「待て。一番重要なことを忘れてる」


「重要なこと?」


「明日と明後日は学校がない」


「あ...週末か」


「つまり、俺たちはバラバラに行動することになる」


俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。確かに、青木の言う通りだ。


「それって...」


「椎名の能力の範囲外に出る時間が長くなるってことだ」


「週末が、一番危ないかもしれない」


「ちっ...確かにそうだな」


俺は立ち上がった。誰かがリーダーシップを取らなければ、この不安な状況は悪化する一方だ。


「だから、明日の午後、必ず一度全員で集まる」


「そうだな。状況を確認するためだ」


「場所はここにしよう。いいな?」


「分かった」「はい」「うん」


俺たちは会計を済ませて、カフェを出た。外はもう暗くなり始めていた。商店街の明かりが、一つまた一つと灯り始めている。


「今日は、ごめんなさい...」


「謝ることないよ」


「あんた、週末一人で変なこと考えるなよ」


「え?」


「何かあったら、夜中でもいいから連絡しなさいよ。分かった?」


松井の言葉には、不器用ながらも本当の優しさが込められていた。


「う、うん...ありがとう、松井さん」


彼女の顔に、今日初めて本当の笑顔が浮かんだ。


「また明日ね」


「気をつけろよ」


それぞれの家の方向へ歩いていく。柏木の背中は小さく、夜の闇に少しずつ溶け込んでいく。残されたのは俺と青木、そして松井の三人。アパートが同じ方向だから、自然と三人の帰り道になる。


「で、何の話があるんだ?」


俺が尋ねると、青木は周りを気にするように声を潜めた。


「家に着いてから話す。ここじゃちょっと...」


その青木の真剣な表情を見て、隣を歩いていた松井がふと足を止めた。


「ふーん。私には聞かせられない話ってわけ?」


彼女の鋭い視線に、青木は少し気まずそうに目をそらす。


「いや、そういうわけじゃないけど...ちょっと男同士で整理したいっていうか」


松井は肩をすくめ、わざとらしくため息をついた。


「はいはい、お邪魔虫は退散しますよ。じゃあ、私は楽器屋にでも寄ってから帰るわ。ベースの弦、そろそろ交換しないとだし」


「あ、ああ。気をつけろよ」


「そっちこそ。じゃ、また後で」


松井はひらりと手を振り、俺たちとは別の方向、商店街の奥へと歩いて行った。その背中を見送りながら、俺は青木に向き直る。


残された俺と青木は、顔を見合わせた。そして、俺のアパートへと向かう。青木のただ事ではない表情から、きっと俺たちの状況を大きく変える重要な発見をしたのだろうという予感が、胸の中で渦巻いていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ