(27) ミルザと世界樹を助けよう!
俺は目を閉じた。
二度と後悔しない生き方をする。そのために、この絶望的な状況で全員が納得する道を見つけなければならない。だが、その答えは、どこにあるのか……。
俺は、彼女たちの顔を順に見渡した。とくに、ベリシア目に映るかすかな悲しみが胸に突き刺さる。彼女は、自らの「忠義」と、俺が掲げる「誰も犠牲にしない道」の間で葛藤しているようだった。その表情を見て、改めてミルザを救い出すことを誓う。それが、世界樹、そして彼女ら救うための唯一の道だと確信していた。
「――皆の気持ちはわかる。だが、俺にも譲れないものがある」
そう言って、深く息を吸い込む。ゆっくりと話し始めた。
「確かに、今のままではアノンを討つのは難しい。奴は世界樹の生命力と、妖精女王ミルザの力を取り込み、イグラン=エレオス内でほぼ全能の存在となっている。あの圧倒的な力を正面から打ち破るのは、無謀に等しい」
カルナス、ミルティナス、リィゼルも頷いていた。アノンの力がいかに絶望的かを、全員が理解している。
「だが、勝機がないわけではない」
視線が再び集中する。
「以前、魔王国で反乱を起こした元部下の四天王ダルヴァンを討伐した時のことだ。奴は魔王国の回廊の力を取り込み、俺の魔力回線を断って追い詰めてきた。俺の魔力は封じられ、動きも制限された」
ベリシアが小さく息を呑む。あの時、ダルヴァンは無敵とも思える存在だった。だが、俺にはその力の根源を見抜くことができた。
「ダルヴァンは回廊の力を利用していたが、回線が断たれれば、ただの魔族に過ぎなかった。結果、討伐できた」
カルナスたちの顔を見渡す。言葉の意図を測りかねているようだ。
「今回のアノンも同じだ。奴が全能となっているのは、ミルザの力を通して世界樹と繋がっているからだ」
ミルティのまなざしが驚きに見開かれる。精霊学に通じる彼女なら、この意味を理解できるはずだ。知性の光が目の奥に宿っていた。
「つまり、アノンからミルザを救い出せば、奴の力の根源を断てる。全能の力は失われ、勝機が生まれる」
カルナスとミルティの顔に希望の色が差す。カルナスの精悍な顔に理解の兆しが現れた。
「しかし……どうやってミルザ様を引き離すのですか? アノンは半幽体としてミルザ様と融合している。無理に引き離せば、ミルザ様も……」
リィゼルが苦しげに問いかけた。その不安は正当だ。女王の魂を傷つければ、世界樹全体に影響が及ぶ可能性がある。
「確かに、それが最大の問題だ。だが方法はある。アノンはミルザの孤独な感情に囚われている。そこを突けば……」
目を閉じて思案する。引き締まった顔立ちが、集中によってさらに研ぎ澄まされる。眉間には深い皺が刻まれていたが、そこには確かな意志の光があった。
「アノンは『秩序なき進化』の思想を持ちながらも、ミルザの感情に影響を受けている。その隙を突く」
目を開ける。深紅の目が一点を見据えた。
「ミルザは完全に自我を失ったわけではない。意識に語りかけ、アノンとの精神的な繋がりを断てれば……」
「それは……精霊の力を扱える私なら……」
リィゼルが呟く。その翠の瞳に希望の光が灯る。「真巫聴」の力で世界の異変を感じ取れる彼女なら可能だ。
「そうだ。リィゼルの『真巫聴』ならミルザの意識に干渉できるかもしれない。そして、ラズの神聖魔法と暗黒魔法。アノンのような半霊体には通常魔法は通じないが、神聖魔法なら有効なはずだ」
ラズの赤い目が力強く頷く。
「わたくしの、できることなら、何なりと」
迷いのない声だった。
「カルナス、ミルティ。お前たちはリィゼルを護衛しつつ、アノンの攻撃から皆を守ってくれ。とくにミルティの結界術が重要になる。そしてカルナス、お前の剣技で黒根の使徒を止めてくれ」
カルナスは頷いた。迷いは消え、意志がそのまま表情に現れている。
「……承知した。ゼルヴァ陛下」
「ベリシア。お前は後方支援と結界を。精神攻撃に備えてくれ。もし何かあれば、指揮を引き継ぎ、撤退を判断してくれ――おそらく、その時は世界樹を燃やすことになるだろう」
「承知いたしました、陛下」
ベリシアは涙を堪えながらも力強く頷いた。
この作戦が上手くいくかは――いや、正直言うと分が悪すぎる賭けだ。
それでも、やれることはやろう。
「私どもエルフは、世界樹を護るという大いなる使命を背負いながら、いつしかその役割に高慢になっていたのかもしれません」
静かに、だがはっきりとした口調でリィゼルが言う。背中で揺れる銀の髪、そのまなざしには以前のような悲壮感だけでなく、決意の色が帯びていた。
「世界樹の異変に気づきながら、見て見ぬふりをしていた者もいたでしょう。あるいは、自分たちの力だけで何とかできると過信していた者もいたかもしれません。ですが、もうそれではいけないのです。変わらなければ」
その語り口には、自戒の念が込められている。彼女たちは、この事態を通じて学びを得ようとしていた。
「ええ、私も変わり始めています。カルナスも、ミルティも……あなた方魔族との出会いを通して、私たちは多くのことを知りました。世界は、私たちが考えていたよりもずっと広く、複雑で、そして……可能性に満ちているのだと」
リィゼルの言葉に、カルナスが小さく頷く。普段はぶっきらぼうな彼だが、その琥珀色の目からは、以前のような敵意は感じられない。ミルティナスも、知性の宿る視線で周囲を観察しながら、静かに同意を示す。彼女にとって、今回の出来事は前例のない学びの機会だ。
「行くぞ。ミルザと世界樹を助けよう!」
聖剣を掲げ、先頭に立つ。長い黒髪が静かに揺れ、深紅の目が闇の奥を見据えていた。
一歩踏み出せば、腐敗臭と金属の焼ける異臭が鼻を刺す。地面は粘液でぬめり、不定形な肉塊が蠢くのが見える。だが、俺たちの足取りは迷いなく、確かなものだった。希望が芽生え、心が一つになったからだ。
背後から、柔らかな声が届いた。
「陛下」
振り返ると、ベリシアがいた。冷静な表情に、微かな感情がにじんでいる。その銀髪は戦闘の余波でわずかに乱れていた。
「いつも陛下には驚かされますし、ご苦労をおかけしてばかりで申し訳ございません」
その声には皮肉など微塵もなく、純粋な敬意が込められていた。
「ですが、皆のことを考えてくださり、私たちを支えてくださいます。私はいつまでも、陛下の片腕としてお仕えいたします」
紫紺の双眸がまっすぐにこちらを見つめる。その奥に宿るのは、揺るがぬ信頼と秘めた想い。
「……ああ」
短く答えた。胸に温かなものが広がった。彼女の存在の大きさを、あらためて実感していた。
カルナスはリィゼルに肩を貸しながら後に続く。痛みに耐える表情の奥には、信頼の色が宿っていた。ミルティは周囲の魔力を探りつつ冷静に警戒を続ける。彼女の金髪が微かに光を放っていた。ラズは周囲を警戒しつつ帆を進める。そして、ベリシアは最後尾で進路を照らすように光の魔法を放つ。銀髪が幻想的に輝いていた。
壁に浮かぶ精霊たちの光が明滅し、苦しみの波動を発している。リィゼルにしか聞こえない悲鳴だが、その痛みは全員に伝わってくるようだった。世界樹はアノンの狂気に侵され、深く傷ついている。これを救うには、アノンを打ち砕き、ミルザを救い出すしかない。
『油断するな。奴は既に気づいている。空間の全てが、奴の感覚と繋がっていると考えろ』
聖剣エクス=ルミナの声が意識に響く。真剣な警告だった。
「ああ、分かってる」
短く返す。アノンがこちらに気づかないはずがない。先には罠や使徒が待ち受けているだろう。だが、もう戻れない。
俺たちは、世界樹の根の最奥、瘴気に満ちた奈落へと進んでいく。足元の粘液が潰れる感触は、まるで大樹が苦しみを吐き出すようだった。だが、心はもう揺るがない。
どんな困難が待とうとも、ミルザを救い、アノンを討つ。その決意を胸に、俺は奈落へと足を踏み入れた。
通路の奥から微かな振動が伝わる。それがアノンの鼓動か、根のうねりかはわからない。だが、何が来ようとも、俺たちは進む。