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(19) 虐げられた私たちのために力を貸してください

 黒エルフの巨腕に囚われたミルザは、なす術もなく、深い闇へと引きずり込まれていった。

 彼女を連れ去った黒エルフたちは、世界樹の根が複雑に絡み合う通路を、迷うことなく進んでいく。

 目的地は、エルフたちが「汚れたもの」と蔑み、二度と足を踏み入れなかった場所――世界樹の地下に隠された黒エルフの研究都市、「黒環サーヴァ」である。

 サーヴァの入り口は、巨大な根が織りなす迷宮の中に巧妙に隠されていた。そこは、腐敗した魔力が最も濃く滞留する場所であり、通常の生命体にとっては一歩たりとも踏み入れがたい領域だ。黒エルフたちは、その濁った空気を意にも介さず、慣れた足取りで進んでいく。

 都市の内部は、光がほとんど届かない深淵の回廊が続いていた。天井や壁からは、得体の知れない黒い液体が滴り落ち、地面は常に湿気を帯び、不気味な苔が張り付いている。わずかに発光する菌類が、青白い光で足元を照らしていた。空気は重く、鼻腔を刺激する腐敗臭と、金属が焦げ付くような異臭が混じり合っている。

 ミルザは怯えきった表情で、黒エルフの腕の中で震えていた。彼女のプラチナブロンドの髪は、その光の乏しい空間でも、かすかな輝きを保っている。透明感のある空色の眼差しは、恐怖に大きく見開かれ、潤んでいた。

「いや……離して……ベリシア……!」

 幼く、か細い声が、この薄暗い空間に虚しく響き渡る。

 やがて一行は、都市の中心へと到達した。そこは、これまで以上に禍々しい魔力が渦巻く場所だった。巨大な空間の中央には、黒曜石のような光沢を放つ祭壇が鎮座している。その祭壇からは、世界樹の脈動とは異なる、不吉な鼓動が伝わってくる。周囲には、見たこともない機械装置や、精霊を封じ込めた培養槽が林立しており、漏れ出す精霊たちの呻きが、ミルザの耳に直接届いた。

「ひっ……!」

 ミルザは身を縮こまらせる。繊細な心は、精霊たちの苦しみに深く共鳴し、その痛みをまるで自分のことのように感じ取っていた。

 祭壇の前には、一人の男が立っていた。

 闇色のローブを纏い、その実体は曖昧で朧げ。

 輪郭は不明瞭で、赤く光る眼光だけが存在を示している。

 奈落の遺民〈ヘル=アルダ〉の主、アノン=グラーティア。

「よく連れてきました。ご苦労さまです」

 冷徹で非情な、しかし丁寧な口調で、ミルザを連れてきた黒エルフの幹部たちに告げる。そこに感情の揺らぎはなかった。

 黒エルフの男、レイストル=グラウは無機質に頭を下げ、女の黒エルフ、ルミリアズ=ヴルムは冷たい笑みを浮かべ、紫色の目を不気味に光らせる。

「ご指示の通り、白エルフどもが妖精女王の封印を解きました。後は手筈通りです」

「はい。まったく、私たちが何年かかっても解けぬ封印が、魔族ごときの助力で……」

 そう言いかけて、途中で興味が無くなった様子でアノンはふたたびレイストルに顔を向けた。

「まあよいでしょう。――さっそく、次の仕事にかかるとしましょう」

 アノンはふわりと祭壇の上に浮かび上がり、ミルザへと手を伸ばした。

 半霊体化した指先が、幼い頬に触れる。凍てつく冷たさだろう、途端にミルザの体が硬直する。彼女は、アノンの歪んだ魔力と、それに宿る負の感情を、本能的な恐怖として感じ取っていた。

「ミルザよ、孤独を悲しむことはありません」

 慈愛を装った――情感の欠けた声で、彼女に語りかける。

「長きにわたり、この薄暗い根の底で、一人きりで世界樹を護ってきたのでしょう。その孤独は、さぞ深かったと思います。だが、もう良いでしょう。私とともに居ましょう」

 その語りかけは、ミルザの心の奥底にある「寂しさ」という弱点を的確に突いていた。彼女の純粋な心を、弄ぶように優しい言葉を重ねていく。

「幾千の時を一人で過ごし、忘れられ、望まぬ神格を与えられ――自らの中で幾度も死に、蘇り。自らを閉ざし――ミルザ、それも終わりにしよう」

 甘く聞こえる声は、祭壇の捻じ曲げられた精霊や魔法装置の力で、ミルザの心に闇のように沁みわたっていく。

「いや……寂しいのは……でも」

「虐げられた私たちのために力を貸してください」

 低く響く声が、空間全体を震わせる。同時にアノンの体から放たれた闇色の魔力が、ミルザへと流れ込んでいった。

 ――これは、「同化の呪法」。

 アノンの魔力とミルザの生命力が強制的に結びついていく。プラチナブロンドの髪が、わずかに黒ずみ始め、澄んだ目元には赤みが差す。

「いや……いや、なの……」

 か細い声で抵抗しようとするも、世界樹から吸い上げ捻じ曲げられたアノンの圧倒的な魔力の前では、あまりにも無力だった。彼女の体が、アノンの半霊体とわずかに重なって見える。

「私が提唱する『秩序なき進化』こそが、この世界に真の救済をもたらす唯一の道。停滞し、腐敗する生命の循環は、もはや意味をなしません」

 その声音には、狂信的な信念が宿っていた。

「エルフどもに虐げられてきた奈落の遺民〈ヘル=アルダ〉の主として、私は妖精女王と一体となり、この世界樹イグラン=エレオスを支配します。その根を直接侵食し、生命の法則を書き換えましょう」

 言葉に呼応するように、祭壇の周囲に生い茂る根が黒く染まり、脈動を始めた。根からは黒い液体が噴き出し、周囲の空間を腐食させていく。

 世界を思いのままに作り変えること。そこに生命の尊厳などない。すべてはアノンの思想を実現するための「道具」に過ぎない。

 ミルザを通じて世界樹の力を吸収し始めたアノンは、その存在をさらに増大させていく。イグラン=エレオスの内部で、彼はまさに全知全能に近い存在となっていた。世界樹の根が意のままに蠢き、空間そのものが彼の魔力で歪んでいく。

「これで、全ての生命体系は、我らの法則のもとに再構築されます。我ら黒エルフのための新たな世界が、始まります」

 冷酷な笑みが、朧げな顔に浮かぶ。

 ミルザの意識は、絶望の淵へと沈んでいった。世界樹の苦しみが何倍にもなって押し寄せ、同時にアノンの歪んだ思想が、純粋な心に毒のように染み込んでいく。

 その目に、かすかな金色と銀色の光が瞬いたかと思えば、それすら闇の魔力に飲み込まれていく。世界樹イグラン=エレオスは、その心臓を歪んだ存在に奪われつつあった。

 彼は世界樹そのものと一体化し、絶対的な支配者となろうとしていた。

 ――果たして、誰が、この奈落の主を止められるというのか。

 黒環サーヴァは、アノンの歪んだ野望を秘め、世界樹の深淵で静かに、しかし確実に、世界を侵食し続けていた。

 

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