(14) 我々は、同じ場所を回っているのでは?
やがて、巨大な広間に達した。
「世界樹内部の遺跡」──その言葉が、リィゼルリアの口からこぼれる。
かつてここは精霊たちの聖域であり、重要な儀式が行われていたという。しかし今ではその面影はなく、荒廃した空間が広がっている。床にはひび割れが走り、壁面には不気味な模様が浮かんでいる。空気はさらに重くなり、腐敗した臭気が鼻をついた。
「……これは」
目の前の光景に息を呑む。空間が揺らめき、視界が定まらない。熱気に揺らぐ陽炎のように遠くの景色が歪み、その歪んだ空間からは、どす黒い瘴気がじわじわと溢れ出していた。それはただの淀んだ空気ではなく、触れたものを蝕み、精神を汚染しそうに、邪悪な気配を孕んでいる。
「精霊の腐敗……ここまで酷いとは」
リィゼルリアが蒼白な顔で呟いた。彼女の光がわずかに震えている。ミルティナスは杖を地面に突き立て、何かを計測し始めた。険しい表情のまま、額には薄っすらと汗が滲んでいる。
「この瘴気、ただの淀んだ魔力ではありません。強い悪意が混ざっています」
ベリシアがあたりを見回していた。わずかに眉をしかめている。魔族である彼女ですら、嫌悪を覚えるほどなのだろう。
崩れた祭壇の跡、黒ずんだ染みの残る床、そして朽ちた壁画の上に浮かび上がる不浄な文様──神聖だった空間がここまで堕ちてしまうとは、一体何があったのか。
「……進むしかないな」
静かにそう言葉を紡ぐ。この場で立ち止まっても何も変わらない。異変の原因を突き止め、腐敗を止める。それが長老たちとの約束であり、この世界を守るための第一歩だった。
カルナアロスが無言で剣を抜く。左目の紋様が強く輝き、何か危険な存在を感じ取っているのだろう。ラズもまた、いつでも魔獣を召喚できる構えで臨戦態勢に入る。
「陛下、わたくしが先導いたします。この先の空間は、さらに歪みが激しく」
空間魔法に長けたベリシアが一歩前に出る。銀髪が、周囲の淡い光を受けて妖しく煌めいた。
「頼む」
信頼を込めて頷く。
俺たちはそれぞれの警戒を最大限に高め、瘴気に満ちた遺跡の奥へと歩みを進めた。おぞましい気配は、底なし沼のように、じわじわと俺たちを飲み込もうとしている。腰に下げた聖剣エクス=ルミナが、かすかに唸りを上げた。
『ゼルヴァ……この瘴気は尋常ではない。気を抜くな』
その声が心に響く。ああ、わかっている。
天井や壁に見えるはずの木目は、ねじれ、歪み、不規則なうねりを見せていた。まるで世界樹自身が苦痛に喘いでいるのか、構造が崩壊している。本来の生命力あふれる緑や茶色の色彩は失われ、全体的に灰色がかり、黒ずみ、病的な紫や薄暗い赤みを帯びていた。精霊の光が満ちていたはずの場所は、今は暗闇に閉ざされている。わずかに差し込む光や、魔物が放つ不吉な光が、その異常さを際立たせていた。
瘴気が満ちる道を、慎重に進んでいく。空間の歪みはますます激しさを増し、五感が惑わされる奇妙な感覚に包まれていく。
俺は少し違和感を感じ、先を歩くカルナアロスに声をかけた。
「……カルナアロス殿。我々は、同じ場所を回っているのでは?」
ふと問いかけると、カルナアロスの表情に、かすかな焦りの色が滲んでいた。
「その可能性は考えていました。――陛下、これをご覧ください」
彼が壁を指差す。そこには、聖樹騎士団が探索時に使う独特の目印が刻まれていた。真新しい傷。
「これは……一時間ほど前に通った場所の印です」
「やはり……」
言葉を発すると、カルナアロスは静かに頷いた。
「リィゼルリア様、精霊力が乱されています。この空間にいる精霊が、私たちの感覚を惑わせている可能性が」
ミルティナスが額の汗を拭いながら告げる。精霊と交信する力を持つエルフにとって、精霊力の乱れは致命的だ。
その声にリィゼルリアは頷くと、軽く呪文を唱えた。
通路の先に鬼火のような揺らぎが現れる。
「ウィルオーウィスプ……! 彼らは、心を惑わせ、方向感覚を狂わせる性質を持っています」
リィゼルリアが顔を顰めて呟いた。悔しさと、そしてわずかな恐怖がその表情に混ざっていた。精霊に愛されるエルフが、その精霊に惑わされている──なんとも皮肉な状況だ。
その直後、足元が大きく揺れた。
「くっ!」
体勢を崩し、ベリシアを抱き寄せる。ラズに手を伸ばした。次の瞬間、足元に大きな亀裂が走り、重力に引かれ一層下へと落下していった。
「きゃあっ!」
ベリシアの短い悲鳴が響く。ラズと手が重なる。彼女は素早く身を翻し、背中の黒鷲の翼をはためかせ空中の一点で体勢を立て直す。
カルナアロスは、体勢を立て直して、衝撃に身構える。ミルティナスも杖を握りしめたまま落下した
ラズもさすがに三人の重量は支えられない。徐々に下降する。
落下した先は、薄暗い洞窟のみたいな空間だった。天井からは、水滴がぽたぽたと滴る音が聞こえる。足元の前には、巨大な泉が広がっていた。不気味なほど淀んだ水面に、差し込むわずかな光が、その奥に潜む闇を際立たせている。
「大丈夫か!」
カルナアロスがリィゼルリアを抱え起こしながら、声を上げた。
「ああ」
見た限り、他のメンバーも大きな怪我はなさそうだ。
と、気配に全員が視線を一点に向けた。
泉の中央に、人影が見えた。長い黒髪を水中に漂わせ、透き通る白い肌をした女性の姿。だが、そのまなざしには狂気と憎悪が渦巻き、顔には忌まわしい文様が浮かび上がっていた。




