(8)地上界へ出発です
ひんやりとした朝の空気が肌を刺す。魔王城から馬をかけ、俺たちは魔王国ゾルディアの辺境、地上界への回廊の出口に立っていた。
頑強な砦と巨大な岩盤が剥き出しになった殺風景な場所だが、ここが魔界と地上界を分かつ境界線だ。
『黒曜石の要衝』
ここは、人間と魔物との戦争で、奪い合いの激戦になる地だ。
現在は魔王国の軍が駐留し、人間の姿はない。
空はまだ薄暗く、魔界の重苦しさが残っている。
この数日間の訓練は、正直地獄だった。バルドとベリシアから「まだまだ」だとコテンパンに言われ続けたが、なんとかギリギリ赤点を越えて旅立つ許可を得た。魔王としての力量は、自信を持って「上がった」とは言えないレベルだ。こんな俺が、これから人間の聖域へ行く。目標は、あわよくば勇者選別の妨害。それが無理でも、せめて勇者がどんな奴かを見届け、人間の情報を集める。訓練で痛感した力不足を補うため、そして、後悔しないために。
俺の隣にはベリシアが、少し前にはフィーユが立っている。俺たちは今、魔王でも宰相でも獣人でもない。これから人間世界で活動するための、冒険者に変装した姿だ。ベリシアが手渡した黒曜石の指輪――魔封の指輪――を俺は指にはめた。
「これを身につけている間は、魔力が半分に制限されますが、外観や外に漏れる魔力も人間と区別がつかなくなります。決して外さないでください」
ベリシアも同じ指輪をはめる。体内の力がスーッと落ち着くのが分かった。フィーユは、もともと小柄な猫系の獣人にしか見えないため、魔封の指輪は必要ないらしい。可愛らしい見た目だが、彼女は獅子の獣王族。その真の力は外見からは分からない。茶がかった赤髪のショートカットにピンと立った猫耳が、朝の光を受けて揺れている。顔には、期待と緊張が混じっている。
回廊の出口には、見送りの四天王たちと、数名のメイドたちがいた。バルド、ナクティス、ダルヴァン。俺の訓練で散々な目に遭ったらしいメイドたちの顔も見える。彼らの視線が、境界線に立つ俺たち三人に注がれる。
ベリシアは、見送りの皆に向き直った。その声は辺境の地に相応しい冷静さだ。
「皆様、留守中の政務はナクティス殿にお任せします。滞りなく執務を終えるように」
ナクティスは、げんなりとした顔で頷く。
「んー、分かったよー」
ベリシアは、ナクティスの反応を確認すると、さらにメイドたちに向かって、容赦ない一言を放った。
「特にナクティス殿の仕事が、日中に終わらぬようであれば、夜間も机に貼り付けなさい。これは、魔王陛下からの勅命であると承知してください」
「おいおい!」
思わず突っ込んだ。俺のせいにするな! ナクティスは「うわー!」と声を上げ、俺を睨んでいる。メイドたちは、一様に顔を引きつらせていた。ベリシアは俺の突っ込みにもナクティスの反応にも構わず、表情一つ変えない。あれは、ナクティスへの確信犯的な復讐だ。
バルドが、フィーユの肩に手を置いた。
「フィーユ、人間界での武者修行、励んでこい。多くのものを見て、感じてくるのだ。そして、陛下とベリシア殿に迷惑をかけぬよう、しっかりと務めを果たすのだぞ」
「はいっ! じいちゃん! 任せてくれ!」
フィーユは元気に返事をする。彼女の思惑は、自身の成長と、バルドの期待に応えることだろう。新しい世界への冒険に胸を躍らせているのが伝わってくる。
ダルヴァンは、ただ静かに立っていた。その紫の眼窩の光が、境界線に立つ俺たちをじっと見つめている。彼の思惑は読めない。何かを企んでいるのは間違いないが、それがこの旅とどう関わるのかは分からない。
「……お気をつけて」
ダルヴァンの声が聞こえたのは、それだけだった。短い、感情のない声。だが、その声にはどこか、全てを見通しているような、底知れない響きがあった。
「さあ、行こう」
俺、ベリシア、フィーユ。それぞれの思惑を胸に、俺たちは回廊の出口、地上界への境界線に立つ。向こうは、人間が支配する世界。こちらは、魔族が暮らす世界。魔王ゼルヴァの力は半分に制限される。ただの冒険者として、危険な旅に挑むことになる。
ベリシアが、俺に視線を送った。その瞳に不安の色が見えるが、同時に決意も宿っている。フィーユは、じいちゃんに手を振っている。
俺たちは一歩、地上界へと足を踏み出した。
朝の地上界の空気は、魔界の重苦しさとは全く違った。少し湿っていて、土の匂いが混じっている。
目の前には、朝日に照らされた、長く続く街道が伸びている。これから、人間たちの暮らす地上界を旅し、聖剣エルムを目指すのだ。それぞれの思惑を抱え、魔王ゼルヴァと宰相ベリシア、獣王の孫フィーユの、奇妙な旅が始まった。この先、何が待っているのか。不安と、そして僅かな希望を胸に、俺は歩き出した。