(8)行こう。世界樹イグラン=エレオスへ
その言葉に、リィゼルリアの顔に安堵の色が広がった。
ベリシアは、驚きとわずかな不安を帯びた表情で見上げていた。もう三度目だ。俺の性格を彼女はお見通しだろう。
「陛下……もしかして……?」
「ああ。ただし、一人では行かせられない。俺と、そうだな……もう一人の同行を前提とする」
これで、魔王国とエルフの新たな協力体制が始まる。世界樹の枯渇という、この世界の命運を賭けた冒険が幕を開けるのだ。
遥か彼方にある世界樹の森の方角を、静かに見据えた。
ベリシアの同行が決まり、世界樹への旅立ちの準備が急ピッチで進められていた。魔王国の宰相が、エルフというこれまで敵対してきた種族と行動を共にする――この事実は、城内に少なからず動揺を与えたが、世界樹の危機という未曽有の事態を前にして、誰もがその決断の重みを理解していた。
二度と後悔しない生き方をすると決めている。無益な争いを避けるためにも、この旅は避けられない。
旅の準備はベリシアとエルメラに任せ、俺は執務室で改めて地図を広げていた。魔王城から世界樹イグラン=エレオスまでの道のり。かなりの長旅になることは明白だ。途中で何が起こるか分からない。最悪の事態も想定しておかねばならないだろう。
その時、執務室の扉がノックされ、ラゼルアール=ゾルグ――ラズが入ってきた。白いケープを纏い、赤みがかった黒髪の彼女は、いつも落ち着いた雰囲気を纏っている。しかし、その黒目がちな紅の眼差しには、どこか不安げな色が揺らいでいた。
正直なところ、彼女の執務レベルの優秀さもさることながら、図らずも魔王になっていたためか、保有魔力量は俺に匹敵する。また、魔獣と心を交わし、その身に魔獣たちをに封じる力は唯一無二のもの。
先般の事変後、彼女は魔王国で預かることとなった。とはいえ、人材不足のこの国では遊ばせておくわけにもいかない。
仕事と居場所を与えることで、沈んだ心が少しでも癒えるなら、それに越したことはない。
「ラズ。今回の旅に同行してもらいたい」
俺の言葉に、驚きが彼女の顔に広がる。不安は完全には消えていない。
「ですが、陛下……わたくしに、そのような大役が務まるかどうか……」
わずかに自信なさげに呟いた。普段の彼女からは想像もつかない弱気な姿に、少し意外な気持ちになる。
「今回は、エルフたちとの難しい交渉があるかもしれない。俺の至らぬ点を補ってほしい。それに――君の優しさと、護るために戦う覚悟を、誰よりも信頼している」
まっすぐに視線を送る。心を言葉に乗せることで、信頼し合える仲間として共に困難を乗り越えたいと願っていた。
「君を頼りにしている」
ラズはゆっくりと瞬きをし、不安の色が徐々に晴れていき、確かな決意がその瞳に宿っていく。
「……はい、陛下。このラゼルアール、陛下の御期待に添えるよう、全力を尽くします」
深々と頭を下げる彼女の姿に、確かな絆を感じた。これで、世界樹への旅の同行者は、俺、ベリシア、ラズの三人となった。
出発当日。黒曜の要衝の庭には、エルフたちの馬車が停まっていた。リィゼルリア、カルナアロス、ミルティナスの三人が、馬車の点検をしている。
「魔王陛下。宰相ベリシア殿、ラゼルアール殿。準備が整いました」
リィゼルリアがこちらへ歩み寄ってくる。少し疲れた様子だったが、その表情には世界樹への使命感が宿っていた。
「ああ」
そう答えたその時だった。
空から突如として巨大な影が舞い降りてきた。ゴォォォ……と唸る風切り音と共に、庭の地面が揺れる。エルフたちは目を見開き、現れたのは巨大な翼を持つ生物――ワイバーンだった。
一頭だけではない。二頭、三頭と次々に空から舞い降り、庭のあちこちに着地していく。その迫力に、圧倒されそうになる。
エルフたちは武器に手をかけ、警戒態勢を取る。カルナアロスはすでに剣を半ば抜いていた。
「ワイバーンだと……!? なぜこんな場所に……」
カルナアロスが驚きと警戒の声を上げた。
「ご安心ください、カルナアロス殿。これは、わたくしが呼びました。我が魔獣軍の精鋭たちでございます」
ラズが一歩前に出る。その顔には、もはや不安の影はなかった。魔王の忠実なる部下として、自らの役割を果たす意志が宿っている。
ミルティナスは目を丸くし、ワイバーンを見上げていた。
俺は苦笑を浮かべる。ラズが呼んだワイバーンたちか。確かに、馬車よりもはるかに速く、かつ安全だろう。エルフたちが驚いている様子も、どこか微笑ましかった。
「なるほど。ラズ、気が利くじゃないか」
そう言うと、ラズは嬉しそうに微笑む。
「はい。馬車での移動では、あまりにも時間がかかりすぎると判断いたしました。それに、道中には危険もございます。ワイバーンの機動力であれば、より迅速かつ安全にイグラン=エレオスへ辿り着けるかと」
理にかなっている。何より、彼女が自信を取り戻してくれたことが嬉しい。
リィゼルリアはワイバーンを見上げ、複雑な表情を浮かべていた。魔族が召喚した魔獣に乗り、聖なる世界樹へ向かう――聖樹を守る者として、受け入れがたい想いもあるのだろう。
とはいえ、エルフ側は三人のみ。他の者たちは徒歩になる。
だが、彼女は聡明な最高巫女であり、調和を願う心を持っている。
「……分かりました。これならば、確かに迅速に移動できます。カルナアロス隊長、ミルティナス。準備を」
カルナアロスは不承不承といった様子で頷いた。不信感は拭えていないが、命令には従うようだ。
ミルティナスは好奇心を隠さず、ワイバーンに近づいていく。すっかり夢中になっていた。
ベリシアに視線を送る。少し緊張した面持ちだったが、しっかりと頷いてくれた。銀髪が風に揺れている。
「では、行こう。世界樹イグラン=エレオスへ」
一頭のワイバーンに近づき、背に乗る。ベリシアとラズも、慣れた様子でそれぞれのワイバーンに跨った。
エルフの三人も最初は戸惑っていたが、カルナアロスがリィゼルリアを助け、ミルティナスは自力で乗り込むなど、なんとか騎乗を果たした。
ワイバーンたちが一斉に翼を広げ、大地を蹴って宙へと舞い上がる。ゴォォォ……と轟く風音が響き、魔王城が見る間に小さくなっていく。
冷たい風が頬を撫でる。眼下には広がる緑の平原。遥か前方には地平線と山々、そして果てしない空。
この風景は、まだ見ぬ世界樹へと続いている。




